偶然の赤い糸

 和仁が玄関の引き戸を引くと、室内に明かりがついた。三和土から上がったところは木の床で、飴色にてらてらと光った。玄関から正面まっすぐ奥に廊下が走り、左右にふすまが見えた。
「……お邪魔します」
 玄関には木下駄が一つ、青い和傘が一つ置かれただけで、ほかに一切のものがなく、玄関右手の棚、壁、床にもなんの飾りもない。殺風景な家だった。
「……僕は君の感情は読み取れないけど、考えていることはわかるよ。さびしい家だと思ってるよね?」
「そんなことないですけど……」
 こんなに広い家で一人過ごすのはこわくないのだろうか。
 和仁が戸を閉めた。雨音が遠ざかる。と同時に、二人きりだという実感が体を迫り上がった。
「あの……ご家族は?」
「いるよ。いや、ここにはいないけど。永遠の命だから、日光で生きる鬼は。だけど、僕は、母に鬼にしてもらったから、きょうだいから恨まれていて、没交渉だよ」
「……ご結婚は?」
「四百年前に一度。同じ族の鬼と」
「……別れたんですか?」
「うん。二十年くらいだから、あっという間。でも、ずっと同じ人と結婚し続けているあやかしの方が少数派だから、別に珍しくもないんだけど」
「それなら、またあやかしと結婚したらいいんじゃ、」
 言いかけて、あわてて口をつぐんだ。また怒らせたくなかった。
「……まあ、上がってよ」
 和仁は右手手前のふすまを開けた。二十畳くらいの広い座敷だった。床の間には、掛け軸がかけられていた。大きな黒い机が部屋の中央に置かれ、座布団が敷かれていた。
「……座って。夕飯食べた?」
「あ……食べてないけど、大丈夫なので」
 夕飯のことなんて頭から飛んでいた。今も、緊張からか、お腹は空いていない。
 私が座ると、和仁も机を挟んで正面に座った。
「……わかった。……なあ、そんなに史誠がいい? あいつだって実質結婚していたようなものなのに」
「……それについてはまだ消化しきれていないですけど」
「ふーん。だけどさ、過去は過去としても、現在進行形だったら、どう?」
「え? どういう意味?」
 和仁が、手で軽く机の正面をたたいた。正面全体が淡く光り、それから徐々になにかが――映像が、机をスクリーンにして浮かび上がった。
「……なにこれ?」
 史誠くんがいた。その隣には、赤い振袖を着たきれいな女性が座っている。黒髪をアップにして、つまみ細工のかんざしが揺れている。目はぱっちりと二重で、鼻が高い。
「今日は、インフルエンサーのさくらちゃんと一緒にお送りするでー。よろしくお願いします」
さくら。その名前だけで、めまいがした。
「よろしくお願いします、さくらですっ! 実は私、隼人さんと地元が一緒で、この着物、成人式の時のなんですけどー、これも隼人さんのご実家の呉服屋さんで仕立てていただいたものなんですよー。ね」
「はは、そうなんですよねー。やっぱり振袖は華やかでいいですよね。さくらちゃんはふだんどんな時に着物を着ますか?」
 ――仕事だ。そう、仕事。女性と接することはもちろんある。私だって男性と接することもある。だけど――。
「気合いを入れたい時が多いですねーそれと、目上の方と会う時は、着物がいいかなって思います。あ、だけど、ふだんのお出かけでも着ます。友達とカフェ行く時とか。華やかさがちがうじゃないですか。それと、着物と帯と小物で、無限にコーデが組めちゃうのも好きでー人とかぶらないし!」
 二人は楽しげに話し続ける。最後になって、
「じゃあ、記念撮影しよっかー?」
と、史誠くんが言った。
「わーい! ぜひ!」
 二人が肩を寄せ合って、自撮りする。
「デート風撮ってもいいですかー?」
 さくらが尋ねた。
「うん」
 さくらが史誠くんの腕に手をからめた。
 見ていられなくなって目を逸らすけど、声は聞こえる。私にとっては、暴力的な声。
 不意に、声が途切れた。映像も消えて、机は単なる黒い机に戻っていた。
 芸能の仕事をしている人と一緒にいようとするなら、これくらい、ふつうのことかもしれない。だけど、心臓がばくばく鳴っていた。
 和仁が目を細めた。
「さくらちゃん、名前が一緒なんだよね」
「知っています」
 噛みつくように言ってしまった。和仁は口をつぐんだが、すぐに
「目元も似てるし、この子もずっと黒髪で通しているみたいだよ」
と続けた。
 私はスマホを取り出して、調べようと思って――そうだ、スマホで史誠くんに連絡すればよかったんだ、と思いついた。が、圏外だ。それに。私は画面を消した。こんな映像を見てしまって、史誠くんとまともに話せる気がしない。
広平(ひろひら)さくら。二十六歳。十代の頃は読者モデルをしていて、今はインフルエンサーとモデルをしている。インスタのフォロワーは二十万人。熱愛報道はこれまでなし」
「……ほくろは? 条件は満たすの?」
「さあ。どうだか」
 条件を満たしていたら、和仁はこのさくらに行くだろう、と思った。だから、たぶん条件は満たしていない。――いや。わからない。すでに行って断られて、私に来たのかも。私の方が御しやすいと思って。それか、二人を同時にキープしているのかもしれない。
 どちらにしろ、写真や動画でほくろを確認しなければ。
 雨音が強くなった。室内がひんやりと感じられた。
 静かだった。体と思考が分離したみたいに、体の感覚がなくて、思考だけがぼんやりとただよった。
 史誠くんを信じると言いきれないのは、私がまだ本気で好きじゃないからだろうか。だけど、本気で好きだとしても、相手をそこまで信用できるものか……。わからない、付き合ったことないし。
「僕は今誰もいないよ」
 和仁が私を見ていた。
「僕は仕事も地味な靴職人で、表に出る仕事じゃない。日がな制作して、人に会うのは仕事のやり取りと買い物くらいだ。君を不安にさせることはない」
 沁みた。だけど、ちがう。私はそれを史誠くんに言ってほしかった。
 なんだか、どっと疲れが出た。
「……ねえ、私、明日も仕事なんだけど……」
 解放してほしい。
「仕事好きじゃないじゃん。てか、あんまいい会社じゃなくない? 辞めなよ。あの先輩とか特にどうかと思うよ」
 ぎょっとした。
「……職場、知ってるの?」
「うん。史誠がお披露目したのをうわさで知って、君を探したんだ」
 気分が悪くなる。ずっと前から監視されていたんだろうか。
「なかなか隙がなくってさあ、大変だった。やっと今夜、史誠の守護が弱まって、助かった」
「守護?」
「うん。史誠が君につけてた守護の魔力。なにかものにつけているはずだけど」
「ものにつけてるって、魔力を?」
「うん、守護の魔力を。たいてい小物だよね、僕は前に指輪に込めたことがあるよ」
 なにも聞いていない……と、体の中を冷たいものが転がり落ちた。聞いてはいない、だけど、帯留めを――水晶のシクラメンを――。今日、身に着けていない。いつもポーチに入れて持ち歩いていたのに……そんな……!
「――え、知らなかったの? うわ、言わなきゃよかった」
「……いいから、仕事行かなきゃ困るの。無断欠勤はだめだから。たがら、一回家に帰らせて」
 早くアパートに帰って、あの帯留めを身に着けなければ。
「えー僕が生計立てるから辞めなよ」
「いや、だから……」
「……そんなに仕事好きだったの? じゃあ、ここから通ったらいいよ。僕、毎日送るよ」
「……それはありがたいけど、仕事用のバッグとか服とか取りに一回は帰らないと」
「あーまじで?」
 和仁が考える顔になった。これはいけるかもしれない。
「うん」
 勢いごんだ。
「今日だって仕事用のボールペンの替え芯買いに行こうとしてたの。明日から仕事だから。そのボールペンじゃないと、仕事ができない」
「……わかったよ」
 和仁が頭をかいた。
「そんなに仕事好きだとは予想外だったけど。明日の朝、家に寄ってから行こう。その代わり、これからはうちで寝泊まりしてよ。行き帰り、送るから」
「……うん」
 家に寄って帯留めを身に着けたら、こちらのものだ。二度とこの家には来ない。
 だけど。私の心の底には冷たい霧のようなものがうっすら漂いはじめ、徐々に心全体をおおいつつあった。史誠くんを好きだと、信じていると、はっきり言えないくせに、史誠くんの守護に頼ろうとするの? それって人としてどうなんだろう。
「隣の部屋で寝たらいいよ。お風呂はどうする? 沸かすよ」
「明日の朝、アパートでシャワー浴びる」
「了解」
 隣の部屋も座敷で、先ほどの部屋よりは狭いが、十五畳ほどはあった。布団が一組すでに敷かれていた。床の間には掛け軸がかけられ、菖蒲の花が大きな白磁の花器に生けられている。ここは殺風景でないのだな――。
 私の視線に気付いたのか、和仁が早口で言った。
「花、きれいかなと思って」
「え?」
「いや、だから、花があったらいいかなと思って用意したんだって。……朝、何時に出る? 君のアパートまで三十分……もはかからないか。二十分ちょっとかな」
「……五時半くらい」
「わかった。朝ご飯、なに食べる?」
「家帰ってパンかなにか食べる」
「ん。わかったよ。じゃあな。なにかあったら呼んで」
「……うん」
 静かにふすまが閉められる。
 私は花に近付いた。よい香りが立った。花びらも葉もぴんとみずみずしく新鮮なもののようだった。
 わざわざ用意してくれたんだろうか。私のために? 一瞬ほだされそうになって、いやいや、と思い直す。たったこんなことで心を許しかけるなんて、我ながらちょろすぎる。
 スマホを取り出す。圏外のままだ。「史誠くん」と試しに口に出すけれど、現れない。
 明日は勝負だから、体を休めなければ。眠るつもりはなかったが、布団に横になる。陽だまりの匂いがした。肌触りがよく、ふわふわと心地よい。これ、干してくれたのかな――。
「るりさん」
 いつの間にか、目の前に史誠くんがいた。
「今、どこにおるん。無事なん? よかった、顔見れて」
「史誠くん」
 泣きそうになる。だけど、伸ばした手は宙を切った。触れられない。夢だ、とわかったとたん、意識が現実に戻りかけ目覚めそうになった。
「待って。覚めたらあかん。夢やないとるりさんに近付けんねん。なにがあったん。なんか嫌な予感がしてん、感情がぜんぜん読み取れんから。魔力マックスにしても、るりさんのおるところに行けんねん。こんなことふつうないねん。誰かあやかしがからんでんやな」
「……私が帯留めをアパートに置いたまま外に出ちゃったから……」
「俺がちゃんと言ってなかったんが悪かった」
 史誠くんが顔をゆがめた。
「それで、誰が」
「日光で生きる族の、麻紙家の和仁って人に連れてこられて、今、山奥の家でいる」
「和仁? ……るりさん、なんちゃされてないよな?」
「なにを?」
 史誠くんのその怯えに、私は嫌なことしか考えられなくなった。
「せやから……キスとか」
「してないよ!」
 思わず大きな声で叫んでいた。怒りが弾けた。
「してないけど、その心配ってなんで? 私が和仁の運命の人になったら、自分が人間になれないからじゃないの?! キスじゃなくたって、襲われたかもって心配してくれないの? キスだって無理やりされるかもしれないんだよ?」
 史誠くんがたじろいだのがわかった。
「ごめん。そういう意味で言うたんちゃう、キスって言うたんは、例というか、例えばで言うただけで、るりさんが心配やって、そんな、自分が人間になるためやとかそんなんちゃうねん……」
「だけど、さくらとかいう、千年前と同じ名前の女と仲よくしてたじゃん」
 史誠くんがぎょっとしたように私を見た。
「なんで名前……和仁?」
「ううん」
「せやったら……。ああ、ええわ、そうやなくて……とにかく、仕事やねん。名前やって偶然やし、そんなん言われたって」
「運命の人なんじゃないの?」
「さくらちゃんが? いや、ちゃうよ」
 名前を呼んだのに、余計かっとなった。
「だって、私だけが史誠くんの運命の人じゃないし、私も史誠君以外の運命の人にもなれるんでしょ?」
「誰からそんなこと。和仁が吹き込んだ?」
「誰でもいいじゃない。事実なんだよね? それに、史誠くんは知らないと思うけど、私が史誠くんを好きでキスするだけじゃ人間になれないみたいだよ。史誠くんも私を好きじゃないと」
「どういう意味?」
「両想いでキスしないと、人間になれないって。最新の事例から見てそうだって宗佑さんが言ってた」
 言ってから、あ。名前を出してしまった。と思った。
「宗佑に会ったん?」
「うん。会いに来た。叔母さん、諒さんも来たし」
「嫌なこと言われんかった?」
 なにも言うものかと思っていても、見つめられるとすべて正直に話してしまう。
「……諒さんは応援してくれた。宗佑さんは、別れてほしいって。権力争いの関係があるからって。くわしいことは教えてくれなかったけど」
「ああ……」
 史誠くんはすべて諒解したようにうなずいた。
「宗佑より、叔母に気を付けて。叔母は、人間や、人間とあやかしの間に生まれた人や、あやかしの家に人間として生まれた人を差別するねん」
「そうなの?」
 ショックだ。そんな人には見えなかった。
「せや。それで、叔母は家長と族長の地位を狙ってんねん。魔力は強いから、俺の次に選ばれる公算が高い。俺を人間にして、自分が長になって、排他主義を進める気や。せやけど、叔母の考えに賛成の人もおるねん。――せやから、信じたらあかん」
「……うん」
 ひどい人だ。だけど、これを聞いてしまったら、ますます史誠くんを人間にできなくなる。史誠くんのためというより、そういった考えに対抗するために。
「それで、るりさん、和仁はなんて言ってん? これからどうするって」
「この家に住んで、ここから仕事に通ったらいいって。送り迎えするからって。明日は朝、一回アパートに寄ることになったけど」
「……るりさんを無理やり自分の運命の人にするつもりやな。ほんま最悪やな。――アパートに寄った時、俺のあげた帯留め取れる? 身に着けたら、俺が守れる。るりさんの意志に反して、あやかしに連れていかれることはないし、名前を呼んだら俺が駆けつける。――二度と和仁の家には行かせん。……るりさんが望むなら、仕方ないけど……」
「そのことなんだけど……」
「なに?」
「帯留め、使っていいの?」
「うん。え、逆になんで?」
 史誠くんが目を見開く。
「だって、ほかの女とのこと疑ってるし、まだ好きだって堂々と言えないし、信じきれていないし、これからどうなるかわからないのに、こんな時だけ史誠くんを頼るのってどうかと思う……」
 史誠くんがやわらかく笑った。胸を貫かれる。――好きだ。好きでたまらなくて、その気持ちがあふれそうになる。
「俺がええって言ってるんやから、ええねん。……ごめんな、俺が最初からちゃんと言っておいたらよかったねん。それに、もっと強い魔力にしておいたらよかった。ほかのあやかしは一切寄せつけんように。せやけど、そこまでするんは、るりさんを縛るかなと思うてん。るりさんがそうしてほしいならそうするけど。……まあ、ぜんぶ言い訳になってまうわな」
「……ありがとう」
「明日、俺、るりさんのアパートでおるから。待っとる」
 史誠くんの手が、私のほおに近付いた。触れられた感覚はない。史誠くんもそうだろう。だけど、その仕草一つが、泣きそうなくらいうれしかった。
 史誠くんがすっとかき消えた。私はまぶたを上げた。見慣れぬ天井が私を見下ろしている。私はそっと目を閉じた。おだやかな気持ちになっていた。

 スマホで時刻を確認し、起き上がった。顔を洗いたい。ふすまを開けて、廊下に出る。どこが洗面所だろう。
 向かいのふすまが勢いよく開いて、心臓が一瞬縮んだ。
「よく眠れた?」
 和仁は、昨日とちがう着物を着ていた。
「……まあまあかな。あの、洗面所ってどこにある?」
「ああ、案内する」
 廊下を奥に進んだ。
「ここ」
「ありがとう」
 清潔そうな白い洗面台で、すぐ横にすりガラスの小窓があった。雨は降っていないようだ。
 和仁は去った、と思うと、白いタオルを持って現れた。
「これ使って」
「……ありがとう」
 ふんわりとして、ホテルのタオルみたいだ。
 顔を洗ってタオルで拭いたら、気分までさっぱりした。同時に、ひどくお腹が空いているのを自覚した。だけど、すぐに気を引き締めた。鏡に映る顔は、緊張している。和仁を出し抜いて、帯留めを手にしなければならない。それに、その時、史誠くんと和仁の間で、悶着が起きなければいいけれど……。
 私はトイレも借りて、部屋に戻った。後少しで五時半だ。
「いい?」
 ふすまの向こうから、和仁に声をかけられた。
「うん」
 私はショルダーバッグを引っ掛けて、ふすまを開けた。
「これ、あげる」
「?」
 突然、左手首が重くなった。見れば、金色の細いバングルがはまっていた。特に装飾はなく、シンプルで、なめらかだった。
「なにこれ、こんなのもらえない」
 手首の余裕はほんの少しだけで、外せない。手が汗ですべる。
「日光を集めて作ったおまもり。強いやつだよ。それで、僕が守護できる。僕以外のあやかしと魔力を遠ざける。ほかのあやかしは一切君に近付けないし、魔力のかかったもの――例えば、ほかのあやかしのおまもり――に、君は触れられないし、身に着けることもできない。人間も遠ざけたいけど、そうしたら日常生活に支障が出るから。悪意のある人間だけ弾くのはできないし」
 体が芯から冷えた。
「なんでこんなことするの」
 声がかすれた。こわくてたまらなくなる。この人はなんなんだろう。
「じゃないと、史誠のところに行っちゃうじゃん」
「勝手につけないで。外してよ」
「僕のこと好きになったら」
「そんなの脅迫じゃない!」
「そんなつもりじゃないよ。僕と史誠となにがちがうの。たまたま史誠が先に君を見つけただけだよ。それに、史誠より僕の方が大事にする。一生」
 どうして。花を飾ってくれたのも、肌触りのよい布団を用意してくれたのも、タオルを渡してくれたのも、ぜんぶこの人だ。同じ人が、私を縛ろうとする。
「だいたい、史誠は甘いんだよ。ほかのあやかしが近付けるようにして。もちろん、勝手に連れ去れないようにはしていたみたいだけど、るりさんが騙される可能性だってあるのに。そもそも、おまもりのこと、るりさん、知ってた? それで、守るって言える?」
「史誠くんは甘くない。私の意志を尊重してくれただけ」
「そうかなあ」
 すっとぼけるように、和仁はのんびり言った。その横顔、くちびるが痙攣するようにかすかに震えているのを認めて、私は言葉を呑み込んだ。
 仮に史誠くんと出会っていなくても、あなたと生きていく気はない。本音だけど、直接ぶつけるにはきつい言葉だ。
 それに、和仁の言うとおり、順番が反対だったら、和仁を好きになったかもしれない。だけど、それはもしもの話だ。現実は、先に偶然史誠くんに会って、そして恋した――。
 史誠くんの言葉がよみがえった。――偶然のなんがいかんねん――。今、やっと、理解する。運命だとか、定められていただとか、そういうふうである必要はない。偶然つながった赤い糸。いつか切れるかもしれない。遠ざかるかもしれない。それでも、偶然出会って恋をした――。それは、とても貴重なものだ。
「行こう」
 和仁が言った。私はためらったが、うなずいた。そうするほかなかった。外に出ると、霧が出ていた。空気が澄んでいる。鳥の声がした。
 左手首を、バングルごと掴まれる。体がこわばった。
「いい?」
「うん」
 史誠くんに触れられた時みたいに、どきどきしない。むしろ嫌悪感がある。
 体が浮く。霧に包まれた山が見える。山裾から海に至るまで、建物がびっしり広がっている。
 飛んでいく。
 和仁が黙っているから、私も黙っていた。
 アパートには瞬く間に着いた。ドアの前、外廊下に降りる。鍵を開けながら、史誠くんは着ているだろうか、だけど、このバングルがあるから近付けないだろう、と思って、一瞬手が止まった。息が詰まる。
「どうかした?」
「……ううん」
 ドアを開ける。昨日出かけたままの状態だ。史誠くんは――いない。ベランダを思わず見たけど、ベランダにも人影はない。史誠くんが約束を破るとは思わない。バングルの魔力が効いている。
「僕は外でいるよ」
「……うん」
 急いでバッグの中、ポーチを取り出し――取り出せない。バッグの中に接着されているかのように動かない。ひどく重い。バッグも、持ち上げられない。和仁の魔力……? ポーチのチャックを開ける。赤い巾着袋はきちんとある。巾着袋の口に手をかけた瞬間、
「っ……!」
 指に電流のような痛みが走った。小さく火傷のような痕が指先についた。巾着袋越しに触れると、確かに硬い感触がある。
ほかのあやかしの魔力に触れようとしたら、火傷してしまうということ?
「……史誠くん。ごめん」
 帯留めをそのままにして、支度をはじめた。何度も手が止まって、何度も帯留めを取り出そうとした。だけど、そのたびに鋭い痛みが走る。
 私がいつも身に着けていたら、こんなことにならなかったのに。後悔が胸をおおった。
 はっとして、あわててスマホを取り出した。LINEやSNSだったら、連絡できるかもしれない。
「え?」
 LINEの友だちリストに史誠くんはいなかった。数度往復しても見当たらない。トーク画面もなくなっている。SNSのアカウントも、検索しても出てこない。検索サイトに着物男子隼人と打ち込んでも、「着物男子隼人に一致する情報は見つかりませんでした」と表示される。
 こんなところまで、和仁の魔力は及ぶのか。絶望が体の底から湧き上がる。
 これからどうなってしまうのだろう。二度と史誠くんに会えないまま、和仁とあの家で暮らすのか。ほかのあやかしは私には近付けない、ということは、人間なら近付けるのだろうか。人間となら恋できる? いや、和仁はそれを許さないだろうし、史誠くんとこのまま別れるなんて。
 帯留めを入れたポーチは、置いていかざるをえない。支度を終えて、外に出ると、外廊下から下を見下ろしていた和仁が振り返って、小さく微笑んだ。
「送っていくよ」
「……いいよ。電車で行くから。目立ったら、あなたも困ると思うし」
「……それはそうだけど。……まあ、いっか。帰りは迎えに行くよ」
「……そう」
 一人で歩き出したら、一気に肩の力が抜けた。やっと解放された――真の意味ではないけど。左手首のバングルが重い。私は誰のものでもないのに、和仁のものだと主張されているようだ。
 職場で忙しくしていると、気持ちが切り替わった。すべきことがあるというのは大きい。
「あれ、それなに、バングル? めっちゃきれいじゃん」
 電話を置いたとたん、町田先輩に話しかけられて、びくりとする。
「あ……ありがとうございます」
「ゴールド? え、めっちゃ高そう」
 軽く触れられた、と思ったら、
「痛っ!」
 大声に、フロアが静まった。私は一瞬なにが起きたのかわからなかった。先輩は手を押さえている。
「めちゃくちゃ痛いんだけど、静電気? うわ、火傷みたいになってる。なんなの」
 先輩の指が赤く爛れたようになっていた。
「冷やさないと」
 誰かが言った。先輩は走ってフロアを出た。
「なにごと?」
 席を外していた課長が戻ってきて、フロアの静けさに戸惑った顔をした。
「……町田さんが火傷をしたみたいで」
 藤松先輩が答えた。
「火傷? なに、コーヒーかなんかで?」
「そこはよくわからないです」
「そう、まあ、みんなは仕事戻って。町田さんに確認するから」
 手が震えた。みなに視線を投げられる。私が近くにいたから。私がなにかをしたのだと思っている。きらめくバングル。火傷させるんだ。私が帯留めを触ろうとした時も、火傷をした。
 しばらくして、町田先輩が戻ってきた。
「町田さん、火傷したって聞いたけど、大丈夫?」
 課長が席から大きな声で言った。それで、ほかの人たちが顔を上げた。
「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」
 しおらしい声。私は席を立てずにいた。先輩はゆっくり歩いて、私の席に近付いてくる。それを幾人もの目が追っていた。お腹の底が冷たく、痛くなった。
 先輩がすぐそばで立ち止まった。
「ねえ、それ、ほんとになんなの」
 低い声でささやかれる。視線はバングルに注がれていた。
「……バングルです」
 冷や汗が出た。
「……ふうん」
 先輩は自席に戻っていった。手汗がとめどなく出た。――ちょっと待って。背筋が冷えた。町田先輩は、人間のはずだ。それなのに、火傷したってことは、あやかしだけでなく、バングルに触れようとした人間を攻撃するということ? 人間を遠ざけるのはできないって言っていたのに――。バングルに触れようとした人間のみ、攻撃するのか。身震いが起きた。おまもり、と和仁は言った。確かにそうかもしれない。だけど、これでは……。
 先輩があやかしだという可能性もあるが……。
 昼休み、スマホが震えた。見ると、高校の同窓会の日程や会場案内、出欠確認のLINEだ。
 同窓会のことなんて頭から飛んでいた。指が出欠確認のアンケート画面の上で止まる。りんちゃんへの義理を考えたら、行った方がいいだろう。だけど、あれほど浦くんに会いたい、と焦がれていた気持ちが、今は思い出せない。今会いたいのは史誠くんだった。
 私は欠席で返事をした。

 和仁の家で寝泊まりするようになって、何日経っただろう。見慣れてしまった天井の模様が不意にぼやける。史誠くんとも会うどころか、スマホで連絡を取ることもできない夢にも出てこない。出てこれないのかもしれない。帯留めもアパートに置き去りにするほかなかったし……。
 史誠くんは、私が自ら望んで史誠くんと連絡を断ち、和仁といると思っていないだろうか。正確に状況を把握してくれているだろうか。不安でたまらない。
 先輩の火傷の件を和仁に問うと、
「ああ、うん。バングルに触れようとしたら、火傷するようにしてる」
と平然と返ってきた。
「なにか問題?」
「いや……」
 町田先輩については、正直助かった面はあった。あれから先輩から無理に仕事を押し付けられることはなくなった。業務上、話しかけられる時も、おそるおそるという感じになった。だけど、火傷はやりすぎだし、ほかの人、例えば友達だったら、と想像すると、ぞっとした。
 和仁は私のために朝食と夕食を用意してくれる。和仁は日光で生きているから、私のためだけに。
 そんなに食欲ないから作らなくていいよ、と何度も言ったが、栄養つけないと痩せすぎだよ、と言う。誰のせいだと思っているんだろう、と怒りが湧いた。それに、無理に食べることがどんなにつらいか、わからないのだろうか。
 私をこうして自分の家にいさせて。こういう軟禁状態の物語は嫌いだ。愛なんて生まれない。
 仕事の時の方が気持ちが好転した。相変わらず嫌なことはあるけれど、単なる歯車であり、代替可能であることは、私が誰かの運命の人になりうることだけでさまざまに思惑を抱かれることより、ずっと、風通しがよかった。
 りんちゃんからは、
「まじで同窓会欠席?! 浦くん来るのに! 私も会いたいのに!」
と連絡があったが、
「ごめんね……都合が悪くなって」
と返した。りんちゃんとも、もしかしたら一生会わないかもしれない、と思って、ひどくさびしくなった。
 同窓会に行かないこと、浦くんと二度と会わないかとしれないことには後悔はないけれど、閉じられた未来しか見えない。好きになれない和仁とずっと一緒にいる未来しか。根性で負けるつもりはなかった。時間が心をとかすなんてことはあるかもしれないけど、私は和仁に対してはそうならない。
 史誠くんが私にとって唯一無二か、私が史誠くんにとって唯一無二か、なんて問いは、無意味だ。ただ偶然出会っただけ。だけど、それを大切にしたい。