熱愛報道は、週刊誌とネットに載った。モザイクがかけられているから、知らない人が私を特定することはないだろうけど、私を知っている人や、二回目に史誠くんと会った時、路上で私を見た人なら、わかるかもしれない。報道当日、史誠くんは
「大丈夫やから。ばれへんし、るりさんと会うんやめるつもりないし、るりさんに負担はかけへん。仕事やって減らさへん」
ときっぱり言った。だけど、それだけでは心は晴れない。史誠くんのマイナスイメージになるのは避けられないだろう。
嫌なことは続く。報道から一週間、仕事でトラブルがあった。職場を出たのは、午後十一時をまわっていた。こんなに遅くなるのは初めてだ。気持ちがささくれている。
歩道橋を上るのがだるかった。車のヘッドライトが連なっている。ビルの光が、歩いている人たちに降り注ぐ。
歩道橋の上で立ち止まったら、不意に光がにじんだ。私のせいじゃないのに、私のせいにされた。そんなことはこれまでも散々されてきて、先輩が、上司が、同僚が、こんな人たちだってわかっている。だけど。
立ち止まる私を、何人もがよけて歩いていった。
息が苦しくなる。なんで私ばっかり。――私だけじゃないのは知っている。私の職場より大変な職場で働いている友達もいる。でも、私が生きているのは私の職場なわけで、どうしてもその職場の中でほかの人と比較したり、考えたりしてしまう。それはどんどん職場から拡張していって、世の中で私だけと思ってしまう。
乱暴に目元をこすったら、コンタクトが痛くなって後悔する。
歩道橋は下りる方がこわくて、私はそろそろ下りた。半分くらいのところで、後ろから足音がした。私は通り過ぎるのを待ちながら、一歩ずつ下り、背中になにかが当たった。え? 足が地面から離れた。体が浮く。顔に階段が迫る。
「史誠くん、」
とっさに口走っていた。
「るりさん!」
声が降ってきた。同時に体がぐっと上に浮いた。着物の袖がふわりと広がるのが見えた。ああ、史誠くんだ。後ろから抱きかかえられている。ほっとした。強い力。あたたかさ。
足音が素早く私たちの横をすり抜けた。黒っぽい服に、キャップをかぶっている。小柄だけど、性別はわからない。そのまま走って、ビルの影に消えてしまう。
階段の下、地面にそっと降ろされた。その時になって冷や汗が出て、心臓がばくばく鳴った。突き落とされたんだ……。偶然や事故ではなく、明確な意思を持っていた。
「怪我ない?」
「……うん」
声も足も震えた。史誠くんの実家で親戚や族たちを目の前にしたのとはちがう種類の恐怖だった。死ぬことへの恐怖。なに一つ安全じゃない、いつどうなるかわからない世界。
「大丈夫。大丈夫やから」
史誠くんが後ろからそっと全身を包み込んでくれる。涙がつーっと出た。私を押したのは誰なのだろう。これからも狙われるのだろうか。なんのために。なんで。
「俺が守るから。大丈夫。な?」
史誠くんに顔を覗き込まれる。私はまだ涙を止められなかった。
「……ちょっと食べさせて」
史誠くんに手首を握られる。そこから少しずつ感情が史誠くんの手に吸われていくのがわかった。
「……ちょっとだけ、こわくなくなった?」
「……うん。ありがとう」
本当に、少しだけ、心が軽くなっていた。涙も止まる。
「あんまりよくないんやけどな。感情取るん。ぜんぶ大事なもんやから。恐怖心も。せやけど、今は、な」
史誠くんの手が私の顔に伸びた。指でやさしくほおの涙を拭われる。
「……あいつは、あやかしちゃうな。人間の……女や」
史誠くんが低い声でつぶやいた。不意に鋭いまなざしで透かし見るように、宙をにらんだ。
「わかるの?」
「ああ。感情を読んでる。人が多いから混ざり合ってあれやけど……興奮しとるな。よろこんでいる、けど、俺が現れて混乱して……。ああ、電車に乗った……」
「なんで私が突き落とされたのかわかる?」
「それはまだ……やけど……あ、俺の……隼人の、ファン、やな、たぶん……」
私は息の仕方を一瞬忘れた。史誠くんは、ぶつぶつと、その女の行く先を読んでいた。
「報道が出たからだね……」
「せやな……」
ねえ、どうすればいいの。
私の不安を読み取ってか、史誠くんはまたぎゅっと抱きしめてくれた。史誠くんの鼓動に、私の鼓動が重なる。
日曜日夕方、私は書店に行って、それから帰るところだった。アパートの最寄り駅で電車を降りて、外に出た瞬間、
「染谷さんですよね?」
澄んだ声がした。ぎょっとした。あの突き落とされたこわさは、体に染みついている。あの時は史誠くんのおかげで落ち着いたけど、歩道橋は通れなくなったし、駅の階段やエスカレーター、会社の階段を使う時には、どうしても体がこわばる。
おそるおそる振り返ると、二十代前半くらいの小柄な女性が立っていた。はっとするほど、やさしい、美しい顔をしていた。ボブの髪は明るい茶色に染め、小花柄の白いワンピースを着ている。覚えはなかったが、史誠くんの親戚か知り合いのあやかしだろうと予想がついた。こんなにきれいな人と私自身が知り合いだった経験はない。
だけど、なんの用事なのか。また嫌なことを言われるのか、危害を加えられるのか。史華のこともあったし、突き落とされたし、あまり関わりたくはなかったが、じっとこちらの言葉を待っている。仕方なく、
「……はい」
と答えた。
「史誠くんの叔母の諒と申します。史誠くんのお父さんの妹です」
次は叔母。本当だろうか? にわかには信じられない。それに、今度はなにを言われるのか。心がよどんだ。
「警戒しないでください」
諒は困ったような表情をした。
「と言っても、無理はないと思いますけど……お披露目、見させていただきました。すごく感動して。ぜひ史誠くんと幸せになってほしくて」
びっくりした、と同時に胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
口にすると、泣きそうになった。史誠くんと一緒に生きることをほかの人に初めて後押しされた気がする。自覚していたよりずっと、あのお披露目の日のことを、自分が気にしていたのだと知った。
「史誠くんはずっと人間に戻りたがっていて、運命の人をずっと探していたから。こうして見つかって、本当に私も安心しているの」
「そう言っていただいたの、初めてです。みなさん、反対だと思っていたので」
「そうねえ」
見た目は若いけれど、話した感じは落ち着いていた。この人も千年以上生きているんだろうな、と思って、ということは、私が会ったことのない先祖が生きている時代を知っているんだ、もしかしたら先祖と知り合いかもしれない、とすごく不思議な気がした。
「史誠くんの母方のお祖父様が亡くなっているから、ほかの人の気持ちもわかるのよ。肉親の命と引き換えに与えられたものを、自ら失いにいくわけだから。でも、魔力も永遠の命も、史誠くんが望んだものではないのよ。史誠くんの人生なんだから、史誠くんの自由にさせてやりたいと私は思っているの。もちろん、あなたにもあなたの人生があるし、強制はできない。だけど、そう願っている者がいることを、知ってほしくて。――急に訪ねて、ごめんなさいね」
「いえ、本当にありがとうございます」
諒は軽く首を傾げた。
「だけど、まだ気持ちは固まっていないのね」
「……はい。迷っています。なにが正解なのか……正解というのもおかしいですけど、どうすればお互い幸せになれるのか、わからなくて」
「でも、好きなんでしょう? 史誠くんもあなたが好き。それ以上のことがある? キスするのは自然なことよね」
「……」
「お披露目の時にわかったと思うけど、あなたのことを歓迎していない者がほとんどなのよ。ぼやぼやしていたら、あなたをどうにかしてしまうかもしれないわよ」
「……そうですね……」
突き落とされたことが頭をよぎった。あれは人間で、あの後史誠くんが突き止めたところによると、週刊誌報道を見て、ネット上のうわさを突き合わせ(その中には私が二度目に史誠くんと会った時のものもあったらしい)、私を突き止めたらしいけど、利害関係は、人間よりあやかしの方が大きいだろう。
「ね? 早いうちの方がいいと思うわよ」
「そう、ですね」
うなずいたが、そうは思わなかった。応援してくれるのはありがたいし、うれしいけれど。
「……あなたも強情ね」
不意に低く響いた声に、驚いて諒の顔を見返した。諒はにっこり微笑んだ。そこで初めて、なんとなしに、ぞっとした。
「猶予はそうないと思うのよ」
続けた声は、元に戻っていた。
「おわかりでしょうけど、あなただけが史誠くんの運命の人だというわけではないの。世界には同じ条件を持った人がいるし、これから生まれえる」
胸が苦しくなった。わかっていたことをあらためて突きつけられる。私と史誠くんはただ偶然出会っただけ――。
「それに、生まれ変わりということもある」
「生まれ変わりって」
突拍子もない、とすぐに思うが、それならあやかしの存在も突拍子もない。もし史誠くんに出会わなければ、あやかしの存在に気付きもせずに生きていっただろう。だけど、現実にはいるのだ。だから、生まれ変わりだって、ありえない、と断じることはできない。
諒はゆっくりうなずいた。
「輪廻転生――というと、大げさかしらね。だけど、人間たちもあやかしたちも、何度も生まれ変わる。永遠の命を持つ者を除いて。前世やその前の記憶を持つ者の例もあるし、そういった記憶がなくても、生まれ変わっていっているのよ。年数や回数は人によるけれど。もしも、千年前のあの子が生まれ変わって、史誠くんの前に現れたら、どうなるかしらね」
あの子のこと――私は結局うやむやにしたままなのだ。
「……あの子のお名前、ご存知ですか?」
「ええ。さくら。美しい子よ。人間にしては」
「……そうですか」
なんとなくだが、この人はそういう嘘は吐かない気がする。この人が美しい、と言うなら、本当に美しいのだろう。
「史誠くんも人間だった頃よ。十五歳同士出会って、恋に落ちた」
心臓が震えた。十五歳同士って……純粋で、太刀打ちできない感じがする。私だって、あの頃は。
「時代的に、人間は結婚が早いから、さくらも、もうすぐ結婚するはずだったのよね。だけど、史誠くんと出会って、勝手に家を出て、史誠くんの家に転がり込んだ」
喉が鳴った。十五歳。時代が時代だから、とは思うが……。
「史誠くんの母親が――私にとって義姉だけど――特に反対してね。あやかしと結婚させようと思っていたみたい。史誠くんは人間なのに。さくらの方はさくらの方で、神隠しに遭ったってことになっていたらしいわ。義姉は、二人を魔力で隔てようとしたけど、史誠くんのお姉さんやお兄さんが史誠くんの味方をして、なかなかうまくいかなかったみたい。だけど、どうにかさくらを実家に帰すことに成功した。そうしたら、次は史誠くんが出ていってね。さすがにさくらの実家に住みはしなかったけれど、通い婚状態ね。ただ、さくらの親も史誠くんの親も認めていなかったから、正式な結婚と見なすかどうかは受け取り手次第かな」
三日続けて通って、和歌を交わし合ったら、結婚だったっけ……。中、高時代の古典の知識が、頭に勝手に展開される。
「そんな生活が二十四歳まで。正確には、史誠くんが魔力と永遠の命を与えられて、あやかしになった時まで。史誠くんは彼女に触れることができなくなった。さくらは運命の人じゃないから。まもなく、さくらは病気で亡くなった」
くらりとした。どれだけつらかっただろう。永遠の命と限られた命。その別れは、いかんともしがたい――。
「だから、早めに決断した方がいいと思うわ。史誠くんの気持ちが変わらないうちに、ね」
仕事帰り、信号待ちをしていた。頭と目が痛い。気を抜くと、倒れそうな気がした。最近よく眠れていなかった。
「染谷さん」
ハスキーな声がした。横を見ると、スーツ姿の背の高い男性が私を見て立っていた。百八十センチは超えているだろう。
「あなたは……」
言いながら、うんざりした。史誠くんの関係だろう。昨日叔母と会ったばかりだ。それで今日は誰で、なんの用事なのか。
男性はきれいな顔立ちをしていた。鼻が高く、目は切れ長で、口元にどことなく色気がある。髪はマッシュで、茶色い。
「史誠の兄の宗佑です」
「……そうですか」
次は兄。本当かどうか。だが、あの時ふすま越しに聞こえた声に似ている。
自称兄の男性はふっと笑った。笑うとなぜか非情な感じがした。史誠くんとはちがう。
信号が青くなったので、歩き出す。彼は私の横について話し続ける。
「と言っても、俺は父親が人間で、あやかしと人間の子どもだから、史誠とは立場からなにからちがいますがね。それでも、まあ、仲はいいんですよ。……疑っていますね」
「いえ……ただ、以前、史華さんに会った時、最初姉だと言われて。そうしたら、幼なじみだと後で言われて。なので……」
「史華ね。あの子も、史誠以上に変わった子だよ。この千年、結婚もせずに」
「結婚だけがすべてじゃないと思いますけど……」
「それには同意する。だけど、あの子は結婚に興味がないわけじゃない、史誠となら結婚すると言っている。持ち込まれる縁談も交際の申し込みも多いのに、ぜんぶ断って。自分を愛してくれる人と一回付き合ってみたらいいのにね」
「……自分を愛してくれていたって、嫌な人は嫌だと思います」
「そうだね。だけど、ものは試しとも言うし、それで愛が生まれることもあると思うよ」
間違ってはいないかもしれないけど、どうも薄っぺらい言い方をする。
「……急いでいるので、用事がないのなら、失礼します」
足を速めた。
「君だってそうじゃない?」
背中に投げつけられた言葉に、私は驚いて振り向いた。彼は、また非情な表情で笑った。
「……どういう意味ですか?」
「史誠からのアプローチでとりあえず会うようになったら、好きになったってところじゃない? だけど、キスはできない。史誠を人間にしてしまうから」
「……なにが言いたいんですか?」
「事実を。君が持っている情報は事実のほんの一部に過ぎない」
「それは、何事もそうだと思いますけど……」
「観念的な話ではなくて。つまりね、君は、君が史誠を好きになってキスしたら、史誠は人間になる、と思っている。でも、実際は、史誠もまた君を好きでなければ、人間にはならないんだよ」
「え?」
「両想いにならなければいけないんだよ。史誠を人間にするには」
それはうれしい、とまず思った。両想いでなくてよいのなら、利用されているだけじゃないかという不安と疑念が頭から離れないが、両想いならそれはない。
だけど、もしも……もしも、本当にキスして、それで史誠くんが人間にならなければ、史誠くんが私を好きでないという証拠になる。ある種、気持ちを測るメーターになる。それはよいことなのかどうか。
「それを、史誠は知らないだろう」
とどめを刺すみたいな言い方をした。私はそれがなにを意味するのかすぐにはわからず、
「どういう、」
聞きかけて、はっとした。彼は、私がその意味に気付いたことを承知して、ゆっくりうなずいた。体が冷えていく。
「……つまり……」
喉が震えて、言葉にならなかった。
史誠くんは、私が好きになってキスすれば、人間になると、思っている。史誠くんが私を好きになる必要性はないと、思っている。それでは、私は本当に利用されている――?
「よかったら、カフェでも入って話さない?」
「……はい」
どうしてもくわしく知りたかった。
近くにあった、チェーン店のカフェに入る。
私はコーヒーだけにしたが、彼はコーヒーに加え、パフェまで頼んだ。
「……先ほどのお話ですけど、両想いでなければいけない、というのは、どこかに載っているというか、なにか根拠があるんでしょうか?」
あっさり首を横に振ったから、拍子抜けした。
「そんなのはないよ。ただ、これまでの例から。そもそも、史誠に魔力が与えられたこと自体が前例のないことだった。でも、その後、あやかし全体で数例が続いた。知られていないだけで、実際は、もっとたくさんの事例があると思うけどね。魔力の強い肉親が、魔力を持たずに生まれ、長じてなお発現のない子どもに対して、命と引き換えに魔力を与えるというのが。俺は馬鹿ばかしいことだと思うけどね。持っていないのなら、それはそれで仕方ないだろう。魔力を持ってはいても、弱い人もいるんだし」
「……よくわからないんですけど、魔力の受け渡しって、違法ですけど、できるんですよね? その時って命までは失わないんですよね? だけど、魔力を全く持っていない人に対して受け渡すと命を失う? んですか?」
「そうだね。もともと持っている人に少しだけ受け渡す場合は、互いに負担は大きくないから、命を失うことはない。だけど、持っていない人に受け渡すのは、いろんな意味でよくないね。倫理的にも、身体的な負担の意味でも。その場合、一部だけを受け渡すというのはできないんだ。すべて受け渡すしかない。だから、命を失う。これは俺は神の領分だと思っているから仕方ないと思うけど。――ただ、これも、これまでの例からそうだとされているだけだし、もしかしたら命を失っていない者がいないとも限らない」
「……そうなんですね」
「――話は戻るけど、運命の人の条件とか、そういうことは研究が進められる中でわかってきたことだけど、まだ途中の段階だ。科学と同じだよね。今後、変わっていく可能性がある。で、両想いでいないといけない、というのは、最新の事例から。別の族で、彼が運命の人と出会って、キスしたけど、彼はあやかしのままだったらしい。彼は彼女を愛していなかった。もっとも、これも不確定な部分があって、彼女が彼を愛していなかった、という説もあるけど。彼が彼女を捨てた今となっては、わからないことだけど。ただ、まあ、そういう事例があった、ということだ」
「それひどくないですか? その女の人、どうなったんですか?」
利用されただけだとしたら。自分のことでないのに、胸が苦しくなる。
「どうにも。経過観察はしているみたいだけど、そこまでの情報は俺には入ってきていない」
「お待たせしました」
パフェが運ばれてきた。パフェは生クリームたっぷりで、毒々しい色のカラースプレーがまぶされている。彼は
「うわ、おいしそう」
とすぐにスプーンでパフェをすくった。本当においしそうに食べる。見ているだけで胸やけがして、目を逸らした。コーヒーを飲む気もしなかったが、口をつける。意識的にコーヒーの香りを吸い込む。
「今の情報はまだ広く共有されていないんだけど、小耳に挟んだものだから。史誠に伝えるかどうかは君に任せるよ。――いずれ、誰かから聞くことになるとは思うけど」
「……考えます」
と答えたものの、知らせるほかないだろう。だけど、誰から聞いたのか問われるだろうし、その時に史誠くんの兄だと言っていいものか。頭が痛かった。それに、情報を知った史誠くんの反応を想像すると、ためらわれる。私を好きでなく、今後も好きになれそうにないのなら――きっとすぐに私を切るだろう。
その時、ふと思いついた。
「人間に戻るほかの方法はないんですか?」
「今のところは見つかっていない」
思わずため息がもれた。
「……先ほどの彼は、今、お元気なんですか?」
「生きてはいる。孤独を感じながら。気持ちはわかるよね。もともと人間として生まれて、命に限りがあると思っていたのに、急に二十代で永遠の命だと言われてもね。人間に戻りたいけど、戻れない……。いっそのこと、あやかしと付き合えばいいと俺は思うけど」
「ほかの人は、どうしているんですか?」
「人間になって亡くなった者もいれば、あやかしのまま生き続けている者もいる」
どうするのが幸せなんだろう。史誠くんにとって。私にとって。
「そんなに不安なら、史誠をやめて俺にしなよ」
ぎょっとした。彼はほお杖をついて、私を見ていた。片ほほで笑う。美しいけど、こわい。
「……冗談でしょう」
カップを掴む手が震えて、カップを下ろした。コーヒーがソーサーにわずかにこぼれた。
「冗談じゃない。俺も史誠と一緒で、誰とも結婚したこともないし、子どももいないんだよ。俺はキスしてもあやかしのままだし。君より先に死ぬこともない。子どもが魔力と永遠の命を持つかどうかは運次第。だけど、悪くない条件だろう」
「いえ、その……それはお断りします」
「危険な目にも遭っただろう」
不意に声がやさしくなった。
「史誠が隼人として有名なものだから。それに、あやかしの世界でも史誠は有名で嫉妬されているから、史華だけじゃなく、これからもっと危険な目にも遭うかもしれないよ。俺は魔力は強くないし、親戚の中でも傍系だ。だけど、その分、狙われることも少ないし、弱いとは言っても、君一人は守れる。永遠の命だしね」
「……ごめんなさい、そういう問題ではないと思うので」
頭を下げる。危険な目には遭わない方がうれしい。だけど、それを理由に史誠くんと縁を切るのは嫌だった。もしかしたら、私だって、さらなる危険な目にも遭えば、考えを変えるかもしれない。だけど、今はまだ。
笑った気配がした。顔を上げる。胸が詰まった。彼――宗佑は、これまでの気取った笑い顔ではなくて、破顔していた。おかしくてたまらない、という顔。これが素の顔だとわかってしまう。――こちらの方がずっと魅力的だ。
「ほんっと変わってるね。いいね。よし、気が変わった。フェアにいこう。単刀直入に、正直に言うね。史誠と別れてほしい」
さっと表情が冷たく戻る。
「どうして?」
「一族の権力争いの問題があるんだ。くわしくは言わないでおくよ。というより、言いたくないことだから」
「……はあ……」
確かに、史誠くんが人間になれば、自然、史誠くんは家長と族長の役を降りることになるだろう。次の家長の座を巡る権力争いだろうか。次の候補になりうる者と宗佑の仲が悪いというような話か? よくわからないけれど。
「できたら早めに別れてほしいな。史誠に期待を持たせるのもなんでしょ? そもそも、史誠の気持ちを信じきれていないようだし、そんな状態でどうかと思うけど。個人的には」
「……気持ちうんぬんは、私と史誠くんの問題なので、それは言わないでほしいです」
宗佑は一瞬目を見開いて、
「君もなかなかだね」
とコメントを寄越した。
仕事帰り、電車内でぼんやりイヤホンで音楽を聴いていたら、ポケットのスマホが震えた。
取り出して、少し驚く。一年近く連絡をとっていない、高校時代の友達からだった。
「るりちゃん、久しぶり! 元気? なんか高校の同窓会があるってメッセまわってきて。ラインのグループできてるんだけど、入る?」
心臓が軽く跳ねた。
「りんちゃん! 久しぶり! ラインのグループって、学年全体?」
「そうだよー。ちなみに、浦くんも入ってるよ笑」
「入れてもらってもいい?」
「おっけー」
すぐに招待された。グループに入って、真っ先に浦くんのアカウントを探した。
「浦春翔」
その名前だけで、涙が出そうだった。アイコンは犬の写真で、プロフィールの背景は海の写真だ。犬を飼っているのか、というか、どこに住んでいるんだろう、結婚しているのだろうか、誰と海に行ったのだろう。気持ちがあふれてしまう。思わず首元を手で押さえた。元気だった? 会いたい。なんで当時に想いを伝えられなかったのだろう。
電車を降りる。ここ最近で一番うれしかったことだ、と思った。いつもと同じ、なんでもない道も、明るく見える。
寝る前に史誠くんのSNSを見て、初めて罪悪感が湧いた。史誠くんがいるのに、浦くんに会いたいなんて、思ってはいけないことかも。だけど、この気持ちは本物で、消せない。
それに、言い訳するわけじゃないけど、宗佑の言っていたことが頭から離れない。史誠くんが私を好きかどうかわからない。
あの後史誠くんと会ったが、二人と会ったことは打ち明けられなかった。
あ。いけない、ボールペンの替え芯買わないと。日曜日、午後六時をまわったところで、不意に思い出した。仕事で使っているから、今日中に買っておきたい。会社の備品のボールペンはもちろんあるけど、使い心地が好みでないから、自分で買ったのを使っている。
今日はゆっくりするつもりだったんだけどな――。
部屋着からカットソーとジーパンに着替えて、簡単にメイクをした。小さなショルダーバッグにスマホと財布だけを入れて、部屋を出る。
外は蒼く染まっていた。白い月が建物と電線の間に、小さく顔を覗かせているのが見える。
アパートすぐそばの信号のない横断歩道を渡りかけた、時。後ろから二の腕を掴まれた。びっくりして、だけど、史誠くんだと思って、振り返ろうとした。
「おとなしくして」
史誠くんの声じゃなかった。史誠くんより少し高くて、だけど、男性の声。体が動かなくなる。同時に、震えが湧き上がった。襲われる。史誠くん。だけど、声は出てこない。出てくるのは、浅い息だけだ。
「史誠の名前は呼ぶなよ」
息が止まる。あやかし……!? 史誠くんが、私を狙う者がいるかもしれない、と言っていたことが現実になったのだろうか? そうであれば、史誠くんを呼ぶことはできない。史誠くんの魔力を受け渡させてはいけない……!
「……驚いたな。本当に火傷しない。……そのまま」
熱いくらいの手が、私の左手首を掴み、手首の内側を表に返した。
「ほくろが縦に三つ……。五百年待った甲斐があったな」
我に返って、手を振りほどく。
ぱーっ! とクラクションが響いた。横に、トラックのまばゆい光が見えた。体が固まった。轢かれる……!
体が浮いた。痛みはなくて、ああ、これは死んだのかな、と思った。目を閉じる。
……耳元で風が鳴った。目を開けたら、眼下に光が、街が広がっていた。
「危なかったな」
ぎょっとした。知らない男に、お姫様抱っこされて、空を飛んでいる。目が丸くて大きく、二十歳前後に見える。髪は肩につくくらいの金髪のストレートで、ハーフアップにお団子にしていた。かっこいい、というより、かわいいタイプの美形だ。着物を着ている。
「……ありがとうございます」
突然現れて腕を掴んだ男で、しかもそのせいでトラックに轢かれかけたけれど、助けてくれたのは事実だった。
「手荒な真似をして申し訳ない。僕は、日光で生きる族の副族長であり、麻紙家の家長である和仁だ」
日光で生きる族!
「……そうですか。それで、なんの用事……というか、どこに向かっているんですか?」
声が震えそうなのをこらえる。もし機嫌を損なって宙に放り出されたら、死んでしまう。だけど、言いなりになる気はなかった。
「僕の家」
「なんでですか?」
「君は運命の人だろう。染谷るりさん」
背筋が冷たくなった。なんで名前を知っているの。それに、
「あなたにとっての運命の人ではないです」
彼は苦笑した。
「史誠にうまく言いくるめられているのかな。運命の人っていうのは、特定の誰かにとって、というのはないんだよ、キスするまではね。まだ君と史誠はキスしていないだろう?」
「……」
「あやかしの家に生まれたが魔力を持たない者が、誰かに、魔力と永遠の、あるいは、人間よりはるかに長い命を与えられた。その者にとっての運命の人、ということであって、それは史誠の専売特許じゃない。僕もその一人だし、過去にも、現在にも、少なからず、その者はいる。あやかしとして生きていく者もいれば、運命の人に出会い、人間になった者もいる。それから、運命の人を探し求める者もね」
心臓が早鐘を打った。血の気が引き、体が冷えていく。――考えてみれば、当たり前のことに思えた。史誠くんにとって条件を満たした人ならいいのであれば、私も、史誠くんと同じ状況のあやかしに対して、史誠くんに対するのと同じことが可能だろう。
なぜこのことに気付かなかったのだろう。自分のうかつさに腹が立つ。宗佑にも、数例あると聞いていたのに。
「僕も永遠の命を持つ。そして、五百年探し続けて、ようやく君に出会えた。史誠がお披露目をしてくれて助かったよ。おかげで、君を知った」
微笑まれる。
その間にも、彼は時折屋根や電信柱を足場にして、夜を飛んでいく。私の知っている街が後ろに飛び去っていった。
「……だけど、私は、あなたを好きでないし……」
「これから好きにさせてみせるよ」
自信満々な、子どもみたいな顔。なんだか強く言いにくい。口をつぐんだが、宗佑の言っていたことを思い出して、それに飛びついた。
「でも、条件として、あなたも私を好きでないといけないはず。私のこと、好きでないでしょう?」
「え?」
余裕そうな態度が初めて崩れた。
「なにそれ? 初めて聞いたけど、なに情報?」
「……信用できる筋から」
言いながら、虚勢を見破られないかどきどきしていた。宗佑は、まだ確定ではない、と言っていた。そういう事例があった、というだけの話だ。
「なにそれ。てか、そしたら、なに? 史誠は君のこと好きなの?」
息が詰まった。
「それは、わからない」
「えーそれ、ちゃんと確かめた方がいいんじゃない? てか、史誠は人間になりたいんだよね? 君は史誠を人間にして、一緒に生きたいって思ってるの?」
痛いところを突かれた。
「……それに答える義務はないと思うので」
「僕の腕に、君の命がかかっているんだよ。いつでも君を放り出せる」
大丈夫大丈夫。胸で唱える。
「そんなことしたら、あなたも困るんじゃないですか? 運命の人がいなくなって」
「……僕はまだ待てるよ。史誠なんて僕の倍の千年だからね」
声の弱さに、本音を覗き見た気がした。
「どうして人間になりたいんですか?」
彼はくちびるを結んで、答えなかった。空を渡る速度が速くなる。落ちそうで不安になるけど、しがみつきたくなくて、じっとしていた。あたりは群青色のとばりが下りていたが、見下ろせば光がきらめいている。きれい。だけど、その光の強さ、まばゆさは、私たちのいる場所が暗いことを、よりはっきりと浮かび上がらせた。
彼の横顔は険しかった。もしかしたら、彼――和仁は、ずっとこんな思いだったのだろうか。自分のいる場所が暗く沈んでいることが、永遠に生き続けることが、さびしいのだろうか。
史誠くんもさびしそうだったけど、この人もさびしいのか――私だって永遠の命でもないのにさびしいから、当然か……。
顔を上げたら山が近付いてきていて、パニックになった。家って山にあるのだろうか。それにしても、身の危険だ。どうすれば……。山が目前に迫る。木が迫る。
速度がゆるんだ。木の間を、ゆっくりと降りていく。陰鬱な雰囲気だった。二階建ての日本家屋の建物がうっすら見えた。そっと降ろされる。地面に足が着いたことにほっとしたが、全身ががくがくと震え出してしまった。
ぱっとあたりが明るくなった。建物の外灯が灯っていた。
「あれが僕の家」
平坦な声だった。顔も笑っていない。建物は立派だけど、こんな山奥でたった一人で暮らしているの――?
「……一緒に暮らそう」
そっと微笑まれる。
「……できません。――史誠くん!」
喉が震えるほどさけんだ。
私の声は木霊せずに、ただあたりに吸い込まれて消えた。
――史誠くんは現れない。体が冷えていく。胸がつかえたようになって、吐きそうになった。
「……残念だけど、ここは結界を張っているから、僕が許可しない限り、誰もここには入れないし、君がここにいることも、誰にもわからない」
「じゃあ、許可して!」
「君が僕を好きになって、僕も君を好きになったら」
「そんなの許されると思うの?」
急激に後悔がこみ上げた。こんなことなら、途中で怪我をしてでも、逃げ出すべきだった。
冷たいものが、ほおに当たった。空を見上げると、灰色の雲に一面おおわれて、細かな雨粒がさーっと降ってきた。
和仁がさっと私の上に着物の袖をかかげた。
「……とりあえず入って。……襲ったりしないって誓うから」
……ねえ、史誠くん。史誠くんは族長なんでしょう。それなら、ほかの族の副族長の結界なんか早く解いて助けに来てよ。
音がした気がして、思わず後ろを振り返った。誰もいない。木々と雨粒が建物の明かりに鋭く照らされて、影が黒く濃く、斜めに走っているだけだった。
――外で過ごしても、逃げ出せないのなら仕方がない。私は建物を見た。今は和仁を信用するほかないのだろう。
しぶしぶうなずくと、和仁は、走って、と言った。私たちは走って和仁の家に駆け込んだ。
「大丈夫やから。ばれへんし、るりさんと会うんやめるつもりないし、るりさんに負担はかけへん。仕事やって減らさへん」
ときっぱり言った。だけど、それだけでは心は晴れない。史誠くんのマイナスイメージになるのは避けられないだろう。
嫌なことは続く。報道から一週間、仕事でトラブルがあった。職場を出たのは、午後十一時をまわっていた。こんなに遅くなるのは初めてだ。気持ちがささくれている。
歩道橋を上るのがだるかった。車のヘッドライトが連なっている。ビルの光が、歩いている人たちに降り注ぐ。
歩道橋の上で立ち止まったら、不意に光がにじんだ。私のせいじゃないのに、私のせいにされた。そんなことはこれまでも散々されてきて、先輩が、上司が、同僚が、こんな人たちだってわかっている。だけど。
立ち止まる私を、何人もがよけて歩いていった。
息が苦しくなる。なんで私ばっかり。――私だけじゃないのは知っている。私の職場より大変な職場で働いている友達もいる。でも、私が生きているのは私の職場なわけで、どうしてもその職場の中でほかの人と比較したり、考えたりしてしまう。それはどんどん職場から拡張していって、世の中で私だけと思ってしまう。
乱暴に目元をこすったら、コンタクトが痛くなって後悔する。
歩道橋は下りる方がこわくて、私はそろそろ下りた。半分くらいのところで、後ろから足音がした。私は通り過ぎるのを待ちながら、一歩ずつ下り、背中になにかが当たった。え? 足が地面から離れた。体が浮く。顔に階段が迫る。
「史誠くん、」
とっさに口走っていた。
「るりさん!」
声が降ってきた。同時に体がぐっと上に浮いた。着物の袖がふわりと広がるのが見えた。ああ、史誠くんだ。後ろから抱きかかえられている。ほっとした。強い力。あたたかさ。
足音が素早く私たちの横をすり抜けた。黒っぽい服に、キャップをかぶっている。小柄だけど、性別はわからない。そのまま走って、ビルの影に消えてしまう。
階段の下、地面にそっと降ろされた。その時になって冷や汗が出て、心臓がばくばく鳴った。突き落とされたんだ……。偶然や事故ではなく、明確な意思を持っていた。
「怪我ない?」
「……うん」
声も足も震えた。史誠くんの実家で親戚や族たちを目の前にしたのとはちがう種類の恐怖だった。死ぬことへの恐怖。なに一つ安全じゃない、いつどうなるかわからない世界。
「大丈夫。大丈夫やから」
史誠くんが後ろからそっと全身を包み込んでくれる。涙がつーっと出た。私を押したのは誰なのだろう。これからも狙われるのだろうか。なんのために。なんで。
「俺が守るから。大丈夫。な?」
史誠くんに顔を覗き込まれる。私はまだ涙を止められなかった。
「……ちょっと食べさせて」
史誠くんに手首を握られる。そこから少しずつ感情が史誠くんの手に吸われていくのがわかった。
「……ちょっとだけ、こわくなくなった?」
「……うん。ありがとう」
本当に、少しだけ、心が軽くなっていた。涙も止まる。
「あんまりよくないんやけどな。感情取るん。ぜんぶ大事なもんやから。恐怖心も。せやけど、今は、な」
史誠くんの手が私の顔に伸びた。指でやさしくほおの涙を拭われる。
「……あいつは、あやかしちゃうな。人間の……女や」
史誠くんが低い声でつぶやいた。不意に鋭いまなざしで透かし見るように、宙をにらんだ。
「わかるの?」
「ああ。感情を読んでる。人が多いから混ざり合ってあれやけど……興奮しとるな。よろこんでいる、けど、俺が現れて混乱して……。ああ、電車に乗った……」
「なんで私が突き落とされたのかわかる?」
「それはまだ……やけど……あ、俺の……隼人の、ファン、やな、たぶん……」
私は息の仕方を一瞬忘れた。史誠くんは、ぶつぶつと、その女の行く先を読んでいた。
「報道が出たからだね……」
「せやな……」
ねえ、どうすればいいの。
私の不安を読み取ってか、史誠くんはまたぎゅっと抱きしめてくれた。史誠くんの鼓動に、私の鼓動が重なる。
日曜日夕方、私は書店に行って、それから帰るところだった。アパートの最寄り駅で電車を降りて、外に出た瞬間、
「染谷さんですよね?」
澄んだ声がした。ぎょっとした。あの突き落とされたこわさは、体に染みついている。あの時は史誠くんのおかげで落ち着いたけど、歩道橋は通れなくなったし、駅の階段やエスカレーター、会社の階段を使う時には、どうしても体がこわばる。
おそるおそる振り返ると、二十代前半くらいの小柄な女性が立っていた。はっとするほど、やさしい、美しい顔をしていた。ボブの髪は明るい茶色に染め、小花柄の白いワンピースを着ている。覚えはなかったが、史誠くんの親戚か知り合いのあやかしだろうと予想がついた。こんなにきれいな人と私自身が知り合いだった経験はない。
だけど、なんの用事なのか。また嫌なことを言われるのか、危害を加えられるのか。史華のこともあったし、突き落とされたし、あまり関わりたくはなかったが、じっとこちらの言葉を待っている。仕方なく、
「……はい」
と答えた。
「史誠くんの叔母の諒と申します。史誠くんのお父さんの妹です」
次は叔母。本当だろうか? にわかには信じられない。それに、今度はなにを言われるのか。心がよどんだ。
「警戒しないでください」
諒は困ったような表情をした。
「と言っても、無理はないと思いますけど……お披露目、見させていただきました。すごく感動して。ぜひ史誠くんと幸せになってほしくて」
びっくりした、と同時に胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
口にすると、泣きそうになった。史誠くんと一緒に生きることをほかの人に初めて後押しされた気がする。自覚していたよりずっと、あのお披露目の日のことを、自分が気にしていたのだと知った。
「史誠くんはずっと人間に戻りたがっていて、運命の人をずっと探していたから。こうして見つかって、本当に私も安心しているの」
「そう言っていただいたの、初めてです。みなさん、反対だと思っていたので」
「そうねえ」
見た目は若いけれど、話した感じは落ち着いていた。この人も千年以上生きているんだろうな、と思って、ということは、私が会ったことのない先祖が生きている時代を知っているんだ、もしかしたら先祖と知り合いかもしれない、とすごく不思議な気がした。
「史誠くんの母方のお祖父様が亡くなっているから、ほかの人の気持ちもわかるのよ。肉親の命と引き換えに与えられたものを、自ら失いにいくわけだから。でも、魔力も永遠の命も、史誠くんが望んだものではないのよ。史誠くんの人生なんだから、史誠くんの自由にさせてやりたいと私は思っているの。もちろん、あなたにもあなたの人生があるし、強制はできない。だけど、そう願っている者がいることを、知ってほしくて。――急に訪ねて、ごめんなさいね」
「いえ、本当にありがとうございます」
諒は軽く首を傾げた。
「だけど、まだ気持ちは固まっていないのね」
「……はい。迷っています。なにが正解なのか……正解というのもおかしいですけど、どうすればお互い幸せになれるのか、わからなくて」
「でも、好きなんでしょう? 史誠くんもあなたが好き。それ以上のことがある? キスするのは自然なことよね」
「……」
「お披露目の時にわかったと思うけど、あなたのことを歓迎していない者がほとんどなのよ。ぼやぼやしていたら、あなたをどうにかしてしまうかもしれないわよ」
「……そうですね……」
突き落とされたことが頭をよぎった。あれは人間で、あの後史誠くんが突き止めたところによると、週刊誌報道を見て、ネット上のうわさを突き合わせ(その中には私が二度目に史誠くんと会った時のものもあったらしい)、私を突き止めたらしいけど、利害関係は、人間よりあやかしの方が大きいだろう。
「ね? 早いうちの方がいいと思うわよ」
「そう、ですね」
うなずいたが、そうは思わなかった。応援してくれるのはありがたいし、うれしいけれど。
「……あなたも強情ね」
不意に低く響いた声に、驚いて諒の顔を見返した。諒はにっこり微笑んだ。そこで初めて、なんとなしに、ぞっとした。
「猶予はそうないと思うのよ」
続けた声は、元に戻っていた。
「おわかりでしょうけど、あなただけが史誠くんの運命の人だというわけではないの。世界には同じ条件を持った人がいるし、これから生まれえる」
胸が苦しくなった。わかっていたことをあらためて突きつけられる。私と史誠くんはただ偶然出会っただけ――。
「それに、生まれ変わりということもある」
「生まれ変わりって」
突拍子もない、とすぐに思うが、それならあやかしの存在も突拍子もない。もし史誠くんに出会わなければ、あやかしの存在に気付きもせずに生きていっただろう。だけど、現実にはいるのだ。だから、生まれ変わりだって、ありえない、と断じることはできない。
諒はゆっくりうなずいた。
「輪廻転生――というと、大げさかしらね。だけど、人間たちもあやかしたちも、何度も生まれ変わる。永遠の命を持つ者を除いて。前世やその前の記憶を持つ者の例もあるし、そういった記憶がなくても、生まれ変わっていっているのよ。年数や回数は人によるけれど。もしも、千年前のあの子が生まれ変わって、史誠くんの前に現れたら、どうなるかしらね」
あの子のこと――私は結局うやむやにしたままなのだ。
「……あの子のお名前、ご存知ですか?」
「ええ。さくら。美しい子よ。人間にしては」
「……そうですか」
なんとなくだが、この人はそういう嘘は吐かない気がする。この人が美しい、と言うなら、本当に美しいのだろう。
「史誠くんも人間だった頃よ。十五歳同士出会って、恋に落ちた」
心臓が震えた。十五歳同士って……純粋で、太刀打ちできない感じがする。私だって、あの頃は。
「時代的に、人間は結婚が早いから、さくらも、もうすぐ結婚するはずだったのよね。だけど、史誠くんと出会って、勝手に家を出て、史誠くんの家に転がり込んだ」
喉が鳴った。十五歳。時代が時代だから、とは思うが……。
「史誠くんの母親が――私にとって義姉だけど――特に反対してね。あやかしと結婚させようと思っていたみたい。史誠くんは人間なのに。さくらの方はさくらの方で、神隠しに遭ったってことになっていたらしいわ。義姉は、二人を魔力で隔てようとしたけど、史誠くんのお姉さんやお兄さんが史誠くんの味方をして、なかなかうまくいかなかったみたい。だけど、どうにかさくらを実家に帰すことに成功した。そうしたら、次は史誠くんが出ていってね。さすがにさくらの実家に住みはしなかったけれど、通い婚状態ね。ただ、さくらの親も史誠くんの親も認めていなかったから、正式な結婚と見なすかどうかは受け取り手次第かな」
三日続けて通って、和歌を交わし合ったら、結婚だったっけ……。中、高時代の古典の知識が、頭に勝手に展開される。
「そんな生活が二十四歳まで。正確には、史誠くんが魔力と永遠の命を与えられて、あやかしになった時まで。史誠くんは彼女に触れることができなくなった。さくらは運命の人じゃないから。まもなく、さくらは病気で亡くなった」
くらりとした。どれだけつらかっただろう。永遠の命と限られた命。その別れは、いかんともしがたい――。
「だから、早めに決断した方がいいと思うわ。史誠くんの気持ちが変わらないうちに、ね」
仕事帰り、信号待ちをしていた。頭と目が痛い。気を抜くと、倒れそうな気がした。最近よく眠れていなかった。
「染谷さん」
ハスキーな声がした。横を見ると、スーツ姿の背の高い男性が私を見て立っていた。百八十センチは超えているだろう。
「あなたは……」
言いながら、うんざりした。史誠くんの関係だろう。昨日叔母と会ったばかりだ。それで今日は誰で、なんの用事なのか。
男性はきれいな顔立ちをしていた。鼻が高く、目は切れ長で、口元にどことなく色気がある。髪はマッシュで、茶色い。
「史誠の兄の宗佑です」
「……そうですか」
次は兄。本当かどうか。だが、あの時ふすま越しに聞こえた声に似ている。
自称兄の男性はふっと笑った。笑うとなぜか非情な感じがした。史誠くんとはちがう。
信号が青くなったので、歩き出す。彼は私の横について話し続ける。
「と言っても、俺は父親が人間で、あやかしと人間の子どもだから、史誠とは立場からなにからちがいますがね。それでも、まあ、仲はいいんですよ。……疑っていますね」
「いえ……ただ、以前、史華さんに会った時、最初姉だと言われて。そうしたら、幼なじみだと後で言われて。なので……」
「史華ね。あの子も、史誠以上に変わった子だよ。この千年、結婚もせずに」
「結婚だけがすべてじゃないと思いますけど……」
「それには同意する。だけど、あの子は結婚に興味がないわけじゃない、史誠となら結婚すると言っている。持ち込まれる縁談も交際の申し込みも多いのに、ぜんぶ断って。自分を愛してくれる人と一回付き合ってみたらいいのにね」
「……自分を愛してくれていたって、嫌な人は嫌だと思います」
「そうだね。だけど、ものは試しとも言うし、それで愛が生まれることもあると思うよ」
間違ってはいないかもしれないけど、どうも薄っぺらい言い方をする。
「……急いでいるので、用事がないのなら、失礼します」
足を速めた。
「君だってそうじゃない?」
背中に投げつけられた言葉に、私は驚いて振り向いた。彼は、また非情な表情で笑った。
「……どういう意味ですか?」
「史誠からのアプローチでとりあえず会うようになったら、好きになったってところじゃない? だけど、キスはできない。史誠を人間にしてしまうから」
「……なにが言いたいんですか?」
「事実を。君が持っている情報は事実のほんの一部に過ぎない」
「それは、何事もそうだと思いますけど……」
「観念的な話ではなくて。つまりね、君は、君が史誠を好きになってキスしたら、史誠は人間になる、と思っている。でも、実際は、史誠もまた君を好きでなければ、人間にはならないんだよ」
「え?」
「両想いにならなければいけないんだよ。史誠を人間にするには」
それはうれしい、とまず思った。両想いでなくてよいのなら、利用されているだけじゃないかという不安と疑念が頭から離れないが、両想いならそれはない。
だけど、もしも……もしも、本当にキスして、それで史誠くんが人間にならなければ、史誠くんが私を好きでないという証拠になる。ある種、気持ちを測るメーターになる。それはよいことなのかどうか。
「それを、史誠は知らないだろう」
とどめを刺すみたいな言い方をした。私はそれがなにを意味するのかすぐにはわからず、
「どういう、」
聞きかけて、はっとした。彼は、私がその意味に気付いたことを承知して、ゆっくりうなずいた。体が冷えていく。
「……つまり……」
喉が震えて、言葉にならなかった。
史誠くんは、私が好きになってキスすれば、人間になると、思っている。史誠くんが私を好きになる必要性はないと、思っている。それでは、私は本当に利用されている――?
「よかったら、カフェでも入って話さない?」
「……はい」
どうしてもくわしく知りたかった。
近くにあった、チェーン店のカフェに入る。
私はコーヒーだけにしたが、彼はコーヒーに加え、パフェまで頼んだ。
「……先ほどのお話ですけど、両想いでなければいけない、というのは、どこかに載っているというか、なにか根拠があるんでしょうか?」
あっさり首を横に振ったから、拍子抜けした。
「そんなのはないよ。ただ、これまでの例から。そもそも、史誠に魔力が与えられたこと自体が前例のないことだった。でも、その後、あやかし全体で数例が続いた。知られていないだけで、実際は、もっとたくさんの事例があると思うけどね。魔力の強い肉親が、魔力を持たずに生まれ、長じてなお発現のない子どもに対して、命と引き換えに魔力を与えるというのが。俺は馬鹿ばかしいことだと思うけどね。持っていないのなら、それはそれで仕方ないだろう。魔力を持ってはいても、弱い人もいるんだし」
「……よくわからないんですけど、魔力の受け渡しって、違法ですけど、できるんですよね? その時って命までは失わないんですよね? だけど、魔力を全く持っていない人に対して受け渡すと命を失う? んですか?」
「そうだね。もともと持っている人に少しだけ受け渡す場合は、互いに負担は大きくないから、命を失うことはない。だけど、持っていない人に受け渡すのは、いろんな意味でよくないね。倫理的にも、身体的な負担の意味でも。その場合、一部だけを受け渡すというのはできないんだ。すべて受け渡すしかない。だから、命を失う。これは俺は神の領分だと思っているから仕方ないと思うけど。――ただ、これも、これまでの例からそうだとされているだけだし、もしかしたら命を失っていない者がいないとも限らない」
「……そうなんですね」
「――話は戻るけど、運命の人の条件とか、そういうことは研究が進められる中でわかってきたことだけど、まだ途中の段階だ。科学と同じだよね。今後、変わっていく可能性がある。で、両想いでいないといけない、というのは、最新の事例から。別の族で、彼が運命の人と出会って、キスしたけど、彼はあやかしのままだったらしい。彼は彼女を愛していなかった。もっとも、これも不確定な部分があって、彼女が彼を愛していなかった、という説もあるけど。彼が彼女を捨てた今となっては、わからないことだけど。ただ、まあ、そういう事例があった、ということだ」
「それひどくないですか? その女の人、どうなったんですか?」
利用されただけだとしたら。自分のことでないのに、胸が苦しくなる。
「どうにも。経過観察はしているみたいだけど、そこまでの情報は俺には入ってきていない」
「お待たせしました」
パフェが運ばれてきた。パフェは生クリームたっぷりで、毒々しい色のカラースプレーがまぶされている。彼は
「うわ、おいしそう」
とすぐにスプーンでパフェをすくった。本当においしそうに食べる。見ているだけで胸やけがして、目を逸らした。コーヒーを飲む気もしなかったが、口をつける。意識的にコーヒーの香りを吸い込む。
「今の情報はまだ広く共有されていないんだけど、小耳に挟んだものだから。史誠に伝えるかどうかは君に任せるよ。――いずれ、誰かから聞くことになるとは思うけど」
「……考えます」
と答えたものの、知らせるほかないだろう。だけど、誰から聞いたのか問われるだろうし、その時に史誠くんの兄だと言っていいものか。頭が痛かった。それに、情報を知った史誠くんの反応を想像すると、ためらわれる。私を好きでなく、今後も好きになれそうにないのなら――きっとすぐに私を切るだろう。
その時、ふと思いついた。
「人間に戻るほかの方法はないんですか?」
「今のところは見つかっていない」
思わずため息がもれた。
「……先ほどの彼は、今、お元気なんですか?」
「生きてはいる。孤独を感じながら。気持ちはわかるよね。もともと人間として生まれて、命に限りがあると思っていたのに、急に二十代で永遠の命だと言われてもね。人間に戻りたいけど、戻れない……。いっそのこと、あやかしと付き合えばいいと俺は思うけど」
「ほかの人は、どうしているんですか?」
「人間になって亡くなった者もいれば、あやかしのまま生き続けている者もいる」
どうするのが幸せなんだろう。史誠くんにとって。私にとって。
「そんなに不安なら、史誠をやめて俺にしなよ」
ぎょっとした。彼はほお杖をついて、私を見ていた。片ほほで笑う。美しいけど、こわい。
「……冗談でしょう」
カップを掴む手が震えて、カップを下ろした。コーヒーがソーサーにわずかにこぼれた。
「冗談じゃない。俺も史誠と一緒で、誰とも結婚したこともないし、子どももいないんだよ。俺はキスしてもあやかしのままだし。君より先に死ぬこともない。子どもが魔力と永遠の命を持つかどうかは運次第。だけど、悪くない条件だろう」
「いえ、その……それはお断りします」
「危険な目にも遭っただろう」
不意に声がやさしくなった。
「史誠が隼人として有名なものだから。それに、あやかしの世界でも史誠は有名で嫉妬されているから、史華だけじゃなく、これからもっと危険な目にも遭うかもしれないよ。俺は魔力は強くないし、親戚の中でも傍系だ。だけど、その分、狙われることも少ないし、弱いとは言っても、君一人は守れる。永遠の命だしね」
「……ごめんなさい、そういう問題ではないと思うので」
頭を下げる。危険な目には遭わない方がうれしい。だけど、それを理由に史誠くんと縁を切るのは嫌だった。もしかしたら、私だって、さらなる危険な目にも遭えば、考えを変えるかもしれない。だけど、今はまだ。
笑った気配がした。顔を上げる。胸が詰まった。彼――宗佑は、これまでの気取った笑い顔ではなくて、破顔していた。おかしくてたまらない、という顔。これが素の顔だとわかってしまう。――こちらの方がずっと魅力的だ。
「ほんっと変わってるね。いいね。よし、気が変わった。フェアにいこう。単刀直入に、正直に言うね。史誠と別れてほしい」
さっと表情が冷たく戻る。
「どうして?」
「一族の権力争いの問題があるんだ。くわしくは言わないでおくよ。というより、言いたくないことだから」
「……はあ……」
確かに、史誠くんが人間になれば、自然、史誠くんは家長と族長の役を降りることになるだろう。次の家長の座を巡る権力争いだろうか。次の候補になりうる者と宗佑の仲が悪いというような話か? よくわからないけれど。
「できたら早めに別れてほしいな。史誠に期待を持たせるのもなんでしょ? そもそも、史誠の気持ちを信じきれていないようだし、そんな状態でどうかと思うけど。個人的には」
「……気持ちうんぬんは、私と史誠くんの問題なので、それは言わないでほしいです」
宗佑は一瞬目を見開いて、
「君もなかなかだね」
とコメントを寄越した。
仕事帰り、電車内でぼんやりイヤホンで音楽を聴いていたら、ポケットのスマホが震えた。
取り出して、少し驚く。一年近く連絡をとっていない、高校時代の友達からだった。
「るりちゃん、久しぶり! 元気? なんか高校の同窓会があるってメッセまわってきて。ラインのグループできてるんだけど、入る?」
心臓が軽く跳ねた。
「りんちゃん! 久しぶり! ラインのグループって、学年全体?」
「そうだよー。ちなみに、浦くんも入ってるよ笑」
「入れてもらってもいい?」
「おっけー」
すぐに招待された。グループに入って、真っ先に浦くんのアカウントを探した。
「浦春翔」
その名前だけで、涙が出そうだった。アイコンは犬の写真で、プロフィールの背景は海の写真だ。犬を飼っているのか、というか、どこに住んでいるんだろう、結婚しているのだろうか、誰と海に行ったのだろう。気持ちがあふれてしまう。思わず首元を手で押さえた。元気だった? 会いたい。なんで当時に想いを伝えられなかったのだろう。
電車を降りる。ここ最近で一番うれしかったことだ、と思った。いつもと同じ、なんでもない道も、明るく見える。
寝る前に史誠くんのSNSを見て、初めて罪悪感が湧いた。史誠くんがいるのに、浦くんに会いたいなんて、思ってはいけないことかも。だけど、この気持ちは本物で、消せない。
それに、言い訳するわけじゃないけど、宗佑の言っていたことが頭から離れない。史誠くんが私を好きかどうかわからない。
あの後史誠くんと会ったが、二人と会ったことは打ち明けられなかった。
あ。いけない、ボールペンの替え芯買わないと。日曜日、午後六時をまわったところで、不意に思い出した。仕事で使っているから、今日中に買っておきたい。会社の備品のボールペンはもちろんあるけど、使い心地が好みでないから、自分で買ったのを使っている。
今日はゆっくりするつもりだったんだけどな――。
部屋着からカットソーとジーパンに着替えて、簡単にメイクをした。小さなショルダーバッグにスマホと財布だけを入れて、部屋を出る。
外は蒼く染まっていた。白い月が建物と電線の間に、小さく顔を覗かせているのが見える。
アパートすぐそばの信号のない横断歩道を渡りかけた、時。後ろから二の腕を掴まれた。びっくりして、だけど、史誠くんだと思って、振り返ろうとした。
「おとなしくして」
史誠くんの声じゃなかった。史誠くんより少し高くて、だけど、男性の声。体が動かなくなる。同時に、震えが湧き上がった。襲われる。史誠くん。だけど、声は出てこない。出てくるのは、浅い息だけだ。
「史誠の名前は呼ぶなよ」
息が止まる。あやかし……!? 史誠くんが、私を狙う者がいるかもしれない、と言っていたことが現実になったのだろうか? そうであれば、史誠くんを呼ぶことはできない。史誠くんの魔力を受け渡させてはいけない……!
「……驚いたな。本当に火傷しない。……そのまま」
熱いくらいの手が、私の左手首を掴み、手首の内側を表に返した。
「ほくろが縦に三つ……。五百年待った甲斐があったな」
我に返って、手を振りほどく。
ぱーっ! とクラクションが響いた。横に、トラックのまばゆい光が見えた。体が固まった。轢かれる……!
体が浮いた。痛みはなくて、ああ、これは死んだのかな、と思った。目を閉じる。
……耳元で風が鳴った。目を開けたら、眼下に光が、街が広がっていた。
「危なかったな」
ぎょっとした。知らない男に、お姫様抱っこされて、空を飛んでいる。目が丸くて大きく、二十歳前後に見える。髪は肩につくくらいの金髪のストレートで、ハーフアップにお団子にしていた。かっこいい、というより、かわいいタイプの美形だ。着物を着ている。
「……ありがとうございます」
突然現れて腕を掴んだ男で、しかもそのせいでトラックに轢かれかけたけれど、助けてくれたのは事実だった。
「手荒な真似をして申し訳ない。僕は、日光で生きる族の副族長であり、麻紙家の家長である和仁だ」
日光で生きる族!
「……そうですか。それで、なんの用事……というか、どこに向かっているんですか?」
声が震えそうなのをこらえる。もし機嫌を損なって宙に放り出されたら、死んでしまう。だけど、言いなりになる気はなかった。
「僕の家」
「なんでですか?」
「君は運命の人だろう。染谷るりさん」
背筋が冷たくなった。なんで名前を知っているの。それに、
「あなたにとっての運命の人ではないです」
彼は苦笑した。
「史誠にうまく言いくるめられているのかな。運命の人っていうのは、特定の誰かにとって、というのはないんだよ、キスするまではね。まだ君と史誠はキスしていないだろう?」
「……」
「あやかしの家に生まれたが魔力を持たない者が、誰かに、魔力と永遠の、あるいは、人間よりはるかに長い命を与えられた。その者にとっての運命の人、ということであって、それは史誠の専売特許じゃない。僕もその一人だし、過去にも、現在にも、少なからず、その者はいる。あやかしとして生きていく者もいれば、運命の人に出会い、人間になった者もいる。それから、運命の人を探し求める者もね」
心臓が早鐘を打った。血の気が引き、体が冷えていく。――考えてみれば、当たり前のことに思えた。史誠くんにとって条件を満たした人ならいいのであれば、私も、史誠くんと同じ状況のあやかしに対して、史誠くんに対するのと同じことが可能だろう。
なぜこのことに気付かなかったのだろう。自分のうかつさに腹が立つ。宗佑にも、数例あると聞いていたのに。
「僕も永遠の命を持つ。そして、五百年探し続けて、ようやく君に出会えた。史誠がお披露目をしてくれて助かったよ。おかげで、君を知った」
微笑まれる。
その間にも、彼は時折屋根や電信柱を足場にして、夜を飛んでいく。私の知っている街が後ろに飛び去っていった。
「……だけど、私は、あなたを好きでないし……」
「これから好きにさせてみせるよ」
自信満々な、子どもみたいな顔。なんだか強く言いにくい。口をつぐんだが、宗佑の言っていたことを思い出して、それに飛びついた。
「でも、条件として、あなたも私を好きでないといけないはず。私のこと、好きでないでしょう?」
「え?」
余裕そうな態度が初めて崩れた。
「なにそれ? 初めて聞いたけど、なに情報?」
「……信用できる筋から」
言いながら、虚勢を見破られないかどきどきしていた。宗佑は、まだ確定ではない、と言っていた。そういう事例があった、というだけの話だ。
「なにそれ。てか、そしたら、なに? 史誠は君のこと好きなの?」
息が詰まった。
「それは、わからない」
「えーそれ、ちゃんと確かめた方がいいんじゃない? てか、史誠は人間になりたいんだよね? 君は史誠を人間にして、一緒に生きたいって思ってるの?」
痛いところを突かれた。
「……それに答える義務はないと思うので」
「僕の腕に、君の命がかかっているんだよ。いつでも君を放り出せる」
大丈夫大丈夫。胸で唱える。
「そんなことしたら、あなたも困るんじゃないですか? 運命の人がいなくなって」
「……僕はまだ待てるよ。史誠なんて僕の倍の千年だからね」
声の弱さに、本音を覗き見た気がした。
「どうして人間になりたいんですか?」
彼はくちびるを結んで、答えなかった。空を渡る速度が速くなる。落ちそうで不安になるけど、しがみつきたくなくて、じっとしていた。あたりは群青色のとばりが下りていたが、見下ろせば光がきらめいている。きれい。だけど、その光の強さ、まばゆさは、私たちのいる場所が暗いことを、よりはっきりと浮かび上がらせた。
彼の横顔は険しかった。もしかしたら、彼――和仁は、ずっとこんな思いだったのだろうか。自分のいる場所が暗く沈んでいることが、永遠に生き続けることが、さびしいのだろうか。
史誠くんもさびしそうだったけど、この人もさびしいのか――私だって永遠の命でもないのにさびしいから、当然か……。
顔を上げたら山が近付いてきていて、パニックになった。家って山にあるのだろうか。それにしても、身の危険だ。どうすれば……。山が目前に迫る。木が迫る。
速度がゆるんだ。木の間を、ゆっくりと降りていく。陰鬱な雰囲気だった。二階建ての日本家屋の建物がうっすら見えた。そっと降ろされる。地面に足が着いたことにほっとしたが、全身ががくがくと震え出してしまった。
ぱっとあたりが明るくなった。建物の外灯が灯っていた。
「あれが僕の家」
平坦な声だった。顔も笑っていない。建物は立派だけど、こんな山奥でたった一人で暮らしているの――?
「……一緒に暮らそう」
そっと微笑まれる。
「……できません。――史誠くん!」
喉が震えるほどさけんだ。
私の声は木霊せずに、ただあたりに吸い込まれて消えた。
――史誠くんは現れない。体が冷えていく。胸がつかえたようになって、吐きそうになった。
「……残念だけど、ここは結界を張っているから、僕が許可しない限り、誰もここには入れないし、君がここにいることも、誰にもわからない」
「じゃあ、許可して!」
「君が僕を好きになって、僕も君を好きになったら」
「そんなの許されると思うの?」
急激に後悔がこみ上げた。こんなことなら、途中で怪我をしてでも、逃げ出すべきだった。
冷たいものが、ほおに当たった。空を見上げると、灰色の雲に一面おおわれて、細かな雨粒がさーっと降ってきた。
和仁がさっと私の上に着物の袖をかかげた。
「……とりあえず入って。……襲ったりしないって誓うから」
……ねえ、史誠くん。史誠くんは族長なんでしょう。それなら、ほかの族の副族長の結界なんか早く解いて助けに来てよ。
音がした気がして、思わず後ろを振り返った。誰もいない。木々と雨粒が建物の明かりに鋭く照らされて、影が黒く濃く、斜めに走っているだけだった。
――外で過ごしても、逃げ出せないのなら仕方がない。私は建物を見た。今は和仁を信用するほかないのだろう。
しぶしぶうなずくと、和仁は、走って、と言った。私たちは走って和仁の家に駆け込んだ。
