偶然の赤い糸

 仕事帰り、久しぶりにカフェで一人で夕食を食べた。隠れ家的なカフェだけどおしゃれすぎなくて、いつもほどよく混んでいるけど、相席になることはない。焦って食べる必要がないのが一番だった。量もちょうどいい。一人で店で食べるのも苦手な私にとって、貴重な店だった。
「こんばんは」
 突然声がした。自分に話しかけられたのかどうかわからなかった。顔を上げると、正面に同世代の見知らぬ女性が立っていた。目が合う。
「染谷るりさんですよね?」
「……はい」
 仕事かなにかで会った人だろうか。記憶を探るが、覚えはない。少しきつめの顔立ちだが、美人だ。細身の紺のワンピースを着て、首元には小さな一粒ダイヤが光っている。黒の艶やかな髪は、胸元付近まであった。女性は
「史誠がお世話になっています」
とにこりと笑った。――え? 言葉が出なかったが、とっさに立ち上がる。
「ええよ、座って。ここ、座ってもええ?」
「……はい」
 向かいにするりと腰かけて、定食を注文する。私も、ゆっくり、ふたたび腰を下ろした。誰なのだろう。史誠くんの本名を知っている人はそう多くないと思っていたけれど、私の思い込みか。彼にとっては本名を教えたことに、特別な意味はないのかもしれない。
 女性は水を一口飲んで、
「史誠の姉です」
と言った。
「あ……こちらこそ、お世話になっております」
 あわてて頭を下げた。姉なら、史誠くんと同じ人間の感情を食べる鬼だろうか。父母のどちらかがちがうきょうだいもいると言っていたから、わからないけれど。それにしても、なんの用事で……ああ、反対されるんだ、と気が付いた。とたんにお腹が痛くなった。
「こわいんや」
 お姉さんが微笑んだ。――私の感情を、お姉さんは正確に感じ取っている。
「……いえ、その……緊張していて。その……私のこと、お聞きになったんですか?」
「ううん。そんなこと史誠は言わへんよ。私も史誠ほどやないけど、魔力強いねん。せやから、史誠に残るあなたの感情の残り香をたどって、あなたを見つけた。あの子は馬鹿なことばかりしてるけど、それにしても、それで運命の人を引き当てるなんてね」
「……馬鹿なことって、人を助けていることですか?」
「せや」
 怒りが湧いた。
「それって馬鹿なことですか? 火傷までして止めてるのに」
「自分を犠牲にしてまで止める必要ないんやない?」
「それは、」
 そうかもしれなかった。だけど、それで馬鹿なことだと言うのはちがうだろう。
「まあええけどね。せやけど、そういう感情ばっかり食べよったら、栄養偏るねん」
 運ばれてきたサラダをつまんで、お姉さんは軽く言う。私は食欲がすっかり失せてしまって、箸を置いた。
「せや。本題忘れるとこやったわ。自分、運命の人やってほんまに信じてはるん」
「え?」
「言い方悪かったかな。確かに史誠が火傷せずに触れられる、髪で火傷の痕を癒せる、史誠を人間にできるいう意味では運命の人やろうけど、そうやなくて、史誠を幸せにできると本気で思ってはるん」
 胸に石を投げつけられた気がした。答えられずにいると、お姉さんは、くすりと笑った。
「自分、単純すぎへん? 私、姉ちゃうくて、幼なじみやで。千年以上前から知ってる。同じ、感情を食べる鬼の族」
「なんでそんなうそ」
「理由なんてないけど」
 私はお姉さん、じゃない、幼なじみと名乗る女を見返した。というより、見返すことしかできなかった。呼吸が勝手に浅くなる。意味のない悪意をぶつけられることなんて、いつぶりだろう。ふだんは自己の利益のための悪意で、それはそれで嫌だけど、どちらがより悪質だろう。
 女はサラダを平らげ、メインを食べはじめた。栄養も摂れないし、おいしいともまずいとも感じない、と史誠くんは言っていたが、それでも食べるんだな、と思った。私なら食べなくていいものは食べたくないけれど。
「……なんで食べるんって顔してはるね」
「えっ……。……すみません。ただ、その……不思議に思っただけで」
「私やって、別に食べたくてたまらんわけちゃうで。せやけど、人間たちと生きるんやったら、食べなあかん場面ってどうしてもあるねん。私、ふつうに人間と働いてるねん。せやから、ランチ行くとか、飲み会とかあるねん。その時、食べれません、飲めません、では話にならんやろ?」
 史誠くんと同じことを言う。
「……私は、けっこう憂鬱ですけど……」
「そうなん」
 女は私がいないかのように、黙々と食べた。かえって緊張がとけて、スープに口をつけた。冷えていたが、どうにか飲み下す。
「……なんか言うたら?」
女が顔を上げた。私はつばを呑み込んだ。
「……お名前はなんていうんですか?」
史華(ふみか)
「ふみかさん……」
「ええやろ? 史誠と史華」
 私の心を読んだように言う。
「そうですね」
 悔しい。だけど、名前も一緒に過ごした時間の長短も、私にはどうしようもないことだ。
「言うておくけど、私が自分に会いに来ること、史誠の家族も知ってはるから」
「……そう……」
 息苦しくなった。家族。避けては通れない。相手が人間だとしても、もしも結婚となれば家族とは関わることになるけど、史誠くんの場合、結婚以前の問題だ。キスしてしまったら、史誠くんは人間になる。それを家族が許すとは思えない。
「家族は、私と史誠が結ばれてほしいと思ってはる」
「……」
 それはわからないけれど、私ではなく、あやかしと結ばれてほしいだろう。祖父が自らの命と引き換えにしたのだから。
「それに、火傷やって、史誠自身の魔力では一時的に隠すことしかできへんけど、他人の強い魔力なら治せるねん。私の魔力やって。別に、自分の黒髪やなくたって」
「そうなの?」
 そんなこと、史誠は一言も言わなかった。史華は勝ち誇った顔をした。
「せや。私の魔力では治せる。魔力の弱いあやかしやったら、できへんけど。……人助けせんくても、感情食べるのに体に触れざるをえんねん。そしたら、どうしても火傷してまう。せやから、私が治そうかって言ってんのに」
 指先が冷えていく。誤魔化し、見ないようにしていた現実が白日にさらされたように感じた。それならば、私が史誠くんのそばでいる理由はどこにある? 人間にするため? だけど、本人がそう望んだからといって、史誠くんにとって一番の幸せなのだろうか? 幸せにするなんて、言えない。幸せの形もわからないのに。
 それに、私は? 史誠くんが人間になって幸せであれば、私も幸せ? それから史誠くんに捨てられたとしても? それでもいいと私は思えるだろうか?
「せやからね、」
 史華はメインもすばやく平らげて、デザートを口に運んだ。
「自分から身引いてくれへん?」

 自分の部屋に帰ってドアを閉めた瞬間、ぶわりと涙が出た。言い返せなかった。認めたくないけれど、史華の言うことはもっともだった。それを押しきれるほどの力も気持ちも覚悟も、私にはなかった。一緒に出かけて、ときめいて……。それだけだ。
 会いたかった。だけど、おいそれと呼べない。それに、今思い出した。今日は夜八時から生配信をすると言っていた。
「こんばんは。着物男子の隼人です。今日はあたたかかった、ていうより、暑うてたまらんかったから、このコーデです。木綿の絣の着物に、空色の角帯を合わせています。ほんまは袷の季節やけど、暑いから単衣です」
「ということで、今日は久しぶりに着物の基本的なところをおさらいしようと思いますー。春、新学期、なにか新しい趣味はじめたいな、とか、この夏は浴衣着たいな、とか、考えている方は、ぜひ! あるいは、着物って決まりがあってむずかしそうだし……とためらっている方もぜひ!」
「まず、着物も洋服と同じように季節、気温に応じて、袷、単衣、薄物とあります。袷は裏地が付いたもので、秋から冬に着ます。単衣は裏地のない着物で、六月、九月に着ます。薄物は七、八月に着る、透ける着物です。一応はそうなってるけど、そう難しく考えずに、気温に合わせて着るので大丈夫! 寒い時は袷、ちょっと暖かくなったら単衣、暑い時は薄物! 俺も今日、単衣やし」
 史誠くんは自分がそれぞれの着物を着た画像や動画も使って、一個ずつ丁寧に説明する。
「それと、押さえておきたいのは、着物の格。って言うと、なんか堅苦しいけど、ドレスコード、TPOってこと。例えば、洋服でも、結婚式はきれいなワンピースやスーツ着るし、友達と会う時はカジュアルな格好するし、レストランデートの時はちょっときれいめな服着たり、するやん? それと一緒やねん。礼装、準礼装、略礼装、日常着って分類されるんやけど、まず礼装。一番格が高い、ちゃんとした格好。簡単に言うたら、女性の場合は黒留袖、色留袖、振袖、それと紋付きの訪問着。男性の場合は黒紋付き、色紋付き。そこから、準礼装になったら……」
 付下げとか江戸小紋とか、初めて聞いた。
 実際の反物や帯も見せて、染めや刺繍の模様を軽やかに語っていく。帯にも格があるらしい。実家の呉服屋のものだろうか。着物ってすごく手がかかっているんだな、と思った。そして、華やかで、だけど、派手すぎない。
 史誠くんの説明は、徐々に小物に移っていった。襦袢、半衿、帯揚げ、帯締め、帯留め、履物、バッグ、かんざし。特に帯留めとかんざしはいろんな素材があって、珊瑚や水晶、真珠が使われているものに心惹かれた。
 理解しきれていない部分も多いけど、それでも、少し着物にくわしくなれて、もうちょっと気楽に着てもいいかも、と思えた。前みたいに、レンタルのお店で借りてもいいし。
 と同時に、史誠くんを見ているだけで、心満たされた。
 史誠くんがまばたきするたびに空気がきらめいて、微笑むたびに画面がぱっと明るくなる。人前だから作っている面はあると思うけど、それでも、この仕事が好きなんだ、というのが伝わってくる。
 コメントがどんどん流れている。視聴者数は、百から二百の間を動いている。動画配信にはくわしくないけど、けっこう人気だろう。
 史誠くんが身を置いている世界は、二つの意味で、私とはちがうことを実感する。あやかしの世界。そして、表舞台。遠い。一緒に空を飛んだことや出かけたことは夢だったんじゃないか。それもずいぶん昔の。
「俺は根付も好きで。特に気に入っているのはこれ。水晶で作ってもらったやつなんやけど、彫りがきれいやろ? 花の模様」
 根付がアップになる。――シクラメン? シクラメンの株全体が彫られた、円柱形の根付だ。
「これは最近作ってもらったやつやけど、古いものは今では作れないような細工のものや象牙のものもあるんで、小物から入るのもええかな、と思います。これは江戸時代ので――」
 いくつか根付を見せていく。驚くほど細かな彫刻がほどこされている。不意に、史誠くんの声が私の中で遠ざかった。
 ――史華は、いつから史誠くんに恋しているのだろう。幼なじみ、と言っていた。史誠くんは実際は約千四十歳だから、同い年くらいだろうか。そうしたら、約千四十年史誠くんを好きってこと? 人間の私としては途方もない時間だ。だけど、永遠の命の鬼にとっては大した長さでないのかも。いや、それでも同じ人に長く恋し続けるって、大したことだ。
 私はせいぜい六年くらい――まぶたにあざやかに現れた彼の姿を、急いで振り払う。今さらだ。彼に直接想いは伝えていない。だけど、クラス中に広まったうわさで私が彼を好きだったことは知っていたはずだ。でも、なにもなかった。だから、今さらなにも起こりえない。だいたい、どこでどうしているかすら知らない。彼の名前をネットで検索したことがあるが、出てきたのは同姓同名の別人ばかりだった。それなのに、心のどこかに引っかかるものがある。小さな棘みたいなもの。
「じゃあ、今日はここで終わりまーす!」
 はっとした。配信が終了する。
「ご視聴いただき、ありがとうございました! また見てなー!」
 微笑んだまま、両手をカメラに向かって振る史誠くんが消える。
 史誠くんの動画や写真はネットにあふれていて、直接会わなくてもいつでもその笑顔も声も感じることができる。だけど、体のぬくみと複雑な気持ちの動きは、画面越しではわからない。――見たら、より会いたくなる。だけど、史誠くんも疲れているだろう。
 私はスマホを伏せて、お風呂に入った。
 湯船でぼんやりする。もしこのまま会い続けるのなら、家族に会う必要があるだろう。歓迎されないのはわかっているのに。では、駆け落ち? いや、いつの時代……。それに、駆け落ちしても、魔力を使えば居場所なんて簡単にわかりそうだ。史誠くんが今の仕事を続けるなら、魔力を使わなくてもわかるだろうし。
 いっそ今のうちに会わないようにした方が。だけど、火傷が。史誠くんは感情を食べるために人間に触れざるをえない。私の感情だけでは足りないだろうし、止めたって、史誠くんは死にたい人を制止するだろう。……すごく感情的な話だけど、制止する場合以外で、女性に触れてほしくない。火傷するからというのもあるけど、それだけじゃなくて。でも、それは無理な注文だ。それに火傷したって、史華やほかの魔力の強いあやかしが治せばいいのだ……。

「おつかれ」
 会社の給湯室で声がして、心臓が跳び上がった。
「なんでここに」
 史誠くんが深緑色の着物姿で立っていた。
「時間できたから、会おうと思って」
 一瞬で心が満たされる。だけど、
「あぶないよ」
「大丈夫。消えれるし」
「そうだろうけど……」
 うれしいのに、見つかるかもしれないという心配ばかり先に立った。史誠くんの手に、新しい火傷の跡が見えた。
「火傷、大丈夫?」
 聞きながら、火傷の数だけ人間に触れたんだ、なかには女性もいるだろうと、複雑に心がささくれた。
「あーもう慣れた」
「慣れても痛いと思うけど……。……髪使って」
「ええん?」
「うん」
「ありがと」
 手が髪に伸びた。その動作だけでどきりとする。髪をそっと掴まれる。……いいように利用されているのかな、と一瞬思って、だけど、目が合ったら、そんなことどうでもよくなってしまう。でも、そんな浮かれきった自分を、別の冷静な自分が見ていた。
 どう伝えたらいいか迷った。
「……ねえ……火傷って誰か別のあやかしの魔力で治せたりしないの……?」
「え?」
 史誠くんが手を離した。焦った。
「私の髪で治してほしくないって意味じゃなくて。じゃなくて、もし、その方が頻繁に治せるのなら、そっちの方がいいのかなって……だけで」
「……なんか聞いたん?」
「え、いや……」
「誰かに会ったん?」
 急に声色が変わった。まなざしも鋭くなる。ためらったが、白状した。
「……あなたの幼なじみだっていう人が……」
「いつ?」
「……一昨日の夜」
「史華?」
 呼び捨てだけど、どうでもいいがゆえの言い方ではなくて、親しみのこもった言い方に聞こえた。
「……うん」
「あいつの言うことは聞くなよ」
 あいつって。それもまた親しみをこめて。
「だけど、そんなに間違っているようには聞こえなかった。ていうか、なにが正しくて間違っているのかすらわからないし。それに、もし会い続けるなら、家族にも会わなくちゃいけないと思ってる」
 勢いにまかせて一気に言うと、史誠くんは口を曲げた。
「……家族に会う必要はないわ。子どもちゃうねんから」
「でも、家族は反対するだろうし、それにしても、会わなきゃいけないし」
「ええねんて」
 突き放すような言い方に、かっとなった。
「私だって会いたいわけじゃないよ。だけど、状況が許さないじゃない。キスしたら人間になるとか……どうしたらいいかわからないし」
 勝手に涙が浮かんで、動揺した。
「待ってよ。……俺のこと、本気で好きちゃうやろ? せやのに、家族に会いたい言われたって……まだなんも決まってへんのに、なんも言えんやん」
「これからの心構えとか、覚悟とか、あるじゃない。あやかしのことだって、私、まだぜんぜんわからない。わからないのに、選べって言われたって」
 涙で声がおかしくなる。……ていうか、ここ、会社の給湯室だ、と頭の片隅で思い出した。
「……ちょっと考えさせてよ」
 風が起きた。曇った視界の中で、史誠くんが一回転し、消えるのが見えた。ひどい。急にそんな。
「染谷さん?」
 扉が開いて、藤松(ふじまつ)先輩が入ってきた。
「え、泣いてる? 大丈夫?!」
「大丈夫です。……コンタクトが急に痛くなって」
「ああ、調子悪い時あるよね」
 人に興味のない藤松先輩で助かった。
 私は先に給湯室を出た。まだ心臓は落ち着かない。会えてうれしかったという気持ち以上に、怒りと焦りと迷いの渦の中で溺れてしまいそうだった。
 
 史誠くんはあれから一度も現れてくれないまま、一週間が過ぎた。会ったことのあるのが嘘みたいに感じる。SNSは更新されているし、配信もあったから、元気なのは確かだ。――このままフェードアウトするのなら、それならそれでいい……なんのことはない、元に戻るだけだ。
 朝の通勤ラッシュ、駅の人混みに、はっとした。――史誠くん? 人を挟んでしばらく追いかけたが、スーツ姿で、しかも結婚指輪をしていて、それに目がちがう。がっかりした。歩く速度を落とす。どんどん人に抜かれた。もともと高くない気分が転がるように落ちていく。
 会社に着いた時点で、どん底だった。
「この資料なんだけど、このあたり間違ってない? ちょっと確認お願い」
 席に着いてすぐ、営業部から、先週作った資料を返された。
 電話が鳴って取れば、会社へのクレームだった。延々と繰り返される文句に、ええ、ええ、とうなずき続け、やっと切れたと思えば、
「もっと毅然と言って、早く切りなさいよ」
と係長にちくりと言われる。
 メールが連続して来て開いて確認しているところに、営業部から資料確認の催促。
 昼休み、自席で弁当を食べながらスマホを見たら、芸能人の結婚報告のニュースが流れていた。ツーショットが載っている。いいなあ……なんでも持っている人っているんだな。気が付いたら、涙がにじんでいた。あわてて指先で粒を弾く。
 もういろいろ嫌だ。
 まだ休憩時間は残っていたけど、パソコンを開いた。縁いっぱいまで水が満ちたグラスみたいに、なにかが起これば、とたんに心の水はグラスからあふれて、崩壊してしまうだろう……。目の縁が熱い。
 午後七時半に会社を出た。体が重く、肩は凝って、吐き気がした。だけど、そうだ、人生ってこうだった、と、思い出すように思った。調子がいい時は思いもしないけど、実際、人生って苦しいことの方が多い。生きることに意味なんてない。
 電車の席はいくつか空いていたが、座って他人と体が触れるのがひどく嫌で、ドア横で立っていた。車内は仕事帰りのぐったりした空気に満ちていて、だけど、若い男の子たちがなにが面白いのか笑いながら話している声が響いていた。窓には、車内が明度を落として静かに映っている。
 スマホを取り出す。もうすっかり癖になった指の動きで、史誠くんのSNSを開く。史誠くんの姿を目にしただけで、胸の奥がぎゅっと引き絞られた。
「……史誠くん」
 吐息とともに思わず落ちた声は、男の子たちの声と走行音に紛れた。
 電車を降りて、駅を出た。
「るりさん」
 空耳だと思った。次の瞬間、軽く腕を引かれて、駅ビルの壁際に連れていかれる。史誠くんだった。風で髪が乱れ、着物の袖が小さくはためいている。
「……なんで」
「呼んだやん」
 当たり前みたいに言う。
「……そうだけど……」
「来ると思わんかった?」
「うん……もう会ってくれないだろうなって」
「なんやそれ」
 笑った顔がまぶしかった。倒れそうなくらい、ほっとした。
 史誠くんは真面目な顔になって、
「……いろいろ考えたねん。もう二度と俺の名前を呼ばんかったら、それはそれやと思っとったけど、呼んでくれたから。……史華が会いに来たいうことは、史華だけやない、ほかのあやかしもようけ動いてるはずやし、俺の家族もるりさんのこと把握してるはずや。せやから……これから、狙われるかもしれへん」
「史誠くんが?」
「るりさんが」
「え? ……ああ、私に史誠くんを人間にされたくないから?」
 家族としては当然だろう。
「それもある。やけど、それより、俺を失脚させるために、るりさんを利用しようとするやつが出てくる」
 目をしばたたいた。
「私を利用って言ったって、史誠くんが失脚することなんてある? そりゃ、熱愛報道とか出たら、マイナスイメージになるかもしれないけど……」
 恥ずかしくなって、途中でやめた。
「あやかし全体、俺の族全体、俺の家、どこでも権力争いは常にあるんや。権力のためなら、利用できるもんはぜんぶ利用するようなやつもおるねん。つまりな、俺の魔力を狙うやつが、るりさんを、例えばやけど、誘拐する。解放と引き換えに、俺の魔力を一部受け渡すよう、脅迫する」
「受け渡すってそんな簡単にできるものなの?」
「あやかし同士やったら、できなくはない。違法やけど。それでな、俺の魔力を弱めて、家の長、族の長、最終的にはあやかしの長になるのが目的や」
「どういうこと? え……? そしたら、史誠くんって今、家の長で、族の長ってこと? で、あやかしの長?」
 史誠くんはわずかにくちびるをゆがめた。
「家長と族長。せやけど、それは祖父ちゃんからもらった魔力が強いからだけで、そんな偽もんの魔力で俺が選ばれとることに反対するやつはようけおる。それと、あやかしの長は別におるんやけど、次また改選がある。族長は全員それに出ることになる。ちょうど、」
 史誠くんはためらうように言葉を止めた。
「なに?」
「ちょうど今年の冬にあやかしの長の改選がある。それに向けて、秋に族長選、夏に家長選が開かれる。せやから、今年は特にタイミングが悪いな」
「そうなの……」
 史華が来るわけだ。心がよどんだ。
「……だけど、そんな、万一があっても、魔力と引き換えなんて取引き応じないでね」
「その前に助け出す。せやけど、いざとなったら、引き換えにして助ける」
「それはだめだよ」
「いや、死ぬで」
 一瞬ぞっとしたが、現実感はあまりなかった。
「……それでもだめ」
「……そうなる前に助けるから、安心して。……それで、来週末でも空いてたら、家族と族のメンバーに会ってもらえたら」
「会わせてくれるの?」
 史誠くんはゆっくりうなずいた。
「うん。というより、会っておいてほしい。狙われた時、気付けるように」
「……」
 背筋が冷たくなる。そんなにも危険な道なんだろうか。
「大丈夫。すぐになんかが起こることはないんは、魔力でわかっとる。せやけど、いっせいに動き出したら、ちょっと調べるんに時間がかかる。そうなる前に打てる手は打っておきたい」
 史誠くんは真剣な瞳をしていた。――ああ。最後にどういう道を選ぶことになるにせよ、選ぶために、ある程度のリスクも承知で飛び込むしかないのだ。そこから引き返せない可能性があるのもわかった上で。それが嫌なら、今ここで別れるほかない。
「――わかった。来週の土、日、どっちでも私は大丈夫」
「じゃあ、土曜日で」
「みんなの予定は大丈夫……?」
「長の命令は絶対」
 びっくりして顔を見返したら、史誠くんはほおをゆるめた。
「じょーだん。まあ、ほんまはほんまやけど、そんなことせえへん。せやけど、夜でもええ?」
「夜?」
「せや。呉服屋やから、ちょっと昼は厳しいんや」
はっとした。聞いていたのに……。
「平日にする?」
 言いながら、有休取れるだろうか、と頭をよぎった。
「いや。そんなことしたら、自分、仕事たまってまうやろ。それに、ほかも平日の昼に仕事の人多いから」
「……平日の夜は……って、大阪だよね」
「んーまあ、俺と飛んでいくから行けるけど、やっぱ土曜の夜で。その方が確実やわ。帰りは……ていうか、俺んち泊まる? 実家やなくて、一人暮らししとるマンション」
「え、と……」
 そういうことだろうか。だけど、出会ってわずか一か月も経っていない上に、キスすらしていないのに。それに、どういう仕組みなのか。キスをしたら人間になるけど、それ以外は大丈夫という話なのだろうか。それはそれで論理的にはありかもしれないけど、私の気持ちとしては。
 顔を覗き込まれる。笑った目をしていた。やさしいまなざし。
「大丈夫、手は出さへん。帰るのしんどいと思うて。夜中までかかるかもしれんし」
 こんな言葉を信じて不幸になるのは嫌だったけど、考えたら、史誠くんは神出鬼没だ。私が部屋に鍵をかけて籠城しようが、入ってこられるのだ。それなら、
「信じる」
 よっしゃ、と史誠くんは小さくこぶしを握って笑った。その笑顔を見たら、憂鬱なことも不安もぜんぶ、どこかに消えてなくなった。出会ってよかった、という、きらきらした、あたたかな気持ちに体を満たされる。