「――運命の人?」
問い返すと、彼が目を開けた。あ。この瞳。初めて会った時と同じ目だった。美しく、潤んで、だけど、さびしさの混じった色。
「せや。条件は四つ。黒髪であること」
彼は私の髪に手をやった。
「左手首にほくろが縦に三つ並んでいること」
左手首を軽く掴まれる。
「年上であること。それと、誰ともキスをしたことがないこと」
彼は一呼吸置いた。
「運命の人には触れても火傷せえへん。それだけやなくて、黒髪は火傷を癒してくれる。それと、俺を好きになってくれて、キスしてくれたら、俺は二十五歳になれるねん。永遠の命を失える。同時に魔力も失える」
――え? 意味がわからなかった。
「……失いたいの? 永遠の命も魔力も」
彼は笑ったけど、無理に作ったみたいな声だった。
「俺には重荷なんやって。永遠に生きてなんになんねん。魔力がないからってなんやねん。俺は人間に生まれたんやから、人間のままでよかったねん。な?」
どうして祖父が命がけで与えてくれたものを手放して、人間になりたいのだろう。
「なあ、頼むわ。俺はるりさんが好きで、俺を好きになってほしい。それで、キスして人間になんねん」
「なんでそんな、」
言いかけて、胸の中に悲しみが湧いているのに気が付く。私はあなたの言葉を信じていいのかわからない。だって、私はあなたに出会ってまだ今日で二回目で、もし運命の人の条件を満たす人が別に現れてあなたを好きでキスすると言ったら、それはそれでいいんでしょう? 私を運命の人だと、好きだと言うのは、結局、自分が人間になりたいからだけではないの? 人間になったら、最後、捨てるつもりで。そうでなければ、なんで年上(実質は年下だけど)でなんの取り柄もない女に会いに来る?
彼は黙って私の言葉を待っている。
ここで振らなければ。都合のいい女にはなりたくない。ちょっとやさしくされて、かっこいいからって。ちょろすぎる。だけど、出会う前には戻れないことは自分が一番わかっていた。それに、あのさびしげな瞳を見捨ててしまっていいの。
でも、本当に好きになってしまったら、後戻りができなくなったら、どうすればいい? キスして、あなたは人間になって、あなたの人生を大きく変えてしまうことに責任を持てるの? それだけの覚悟は。
「……私はまだあなたをそう……その、好きなわけじゃないし、それに……好きになったとしても……協力できるかわからない。……私でなくても、条件を満たす人ならいいんでしょう? それなら、ほかの人を探したら」
正直な気持ちだったが、言いながら途中でつらくなった。ほかの誰かと彼が互いに好きになって、死ぬまでともに。
「なに言よんねん」
突然彼が立ち上がった。ぞっとするほど冷たい表情をしていた。私は心臓が凍りついたが、すぐに納得した。冷静になる。やっぱりそうでしょう。私は人間になるための駒なんでしょう。
「俺はるりさんがええねん」
怒った声だった。かけられていた羽織ごと抱き上げられる。
「ちょっと、」
彼のくちびるがほおをかすめた。私は胸がどくどくと波打つのを感じながら、着物の襟からかすかに覗く彼の首筋を見ていた。わずかに草のような香りがした気がした。
「俺はるりさんに人間にしてもらいたいねん。それで、一緒に生きるねん。言うたやろ? 一緒に歳を重ねてくれへんかって」
体が持ち上がる感覚がした。顔を上げたら、空が近くなっていた。眼下の光が遠くなり、反対に月の光を強く感じた。空を飛んでいる。東京の空を。ビルの群れ、さまざまに明滅する光。暗い海。
耳元で、風が鳴った。ぐんぐん昇っていく。月が近くなる。こわくなって、思わず彼の着物を強く掴んだら、彼が、史誠くんが、笑った。心底おかしそうに。うれしそうに。顔を見た。弾けるような笑顔だった。
――あなたに出会って、何度心臓を高鳴らせただろう。
覚悟はまだない。好きになってキスをしたら魔力も永遠の命も失ってしまうあなたとどんな未来を描けるのか、わからない。だけど、あなたともう少しだけ一緒にいたい。もう少しだけ、私に考える時間を、猶予を、与えてほしい。あなたを、知りたい。
史誠くんは、そのまま私をアパートまで送り届けてくれた。
「今週の土曜とか、空いてはる?」
「いつでも空いてる」
いつだって私に用事はない。だけど、それすらも今はうれしい。いつでも会える。
「じゃあ、出かけよ。土曜の朝、ここまで迎えに来るわ」
「ありがとう」
「名前を呼んでくれたら、いつでもどこでも行く。ピンチの時とか。あ、本名の方呼んでな」
「うん」
「じゃあな」
「うん、じゃあね」
史誠くんは部屋の中で一回転して消えた。
「おはよ」
史誠くんは、ごく薄いミント色の着物に白と藍色のボーダーの帯で現れた。史誠くんの潤んだような瞳と色の白さがより一層際立っている。
「おはよう」
倒れそうなくらい、緊張していた。私は、薄いピンクのブラウスに黒のパンツを合わせた。浮かれているって思われないように。もっと気に入っているブラウスやパンツや、あるいはワンピースは着なかった。
「俺さ、大阪に住んでんやけど、」
「大阪?」
動揺した。だが、関西弁であることは前から知っていたから、驚くことでもない。
「……そうなんだ。ごめん、こっちまで来てもらって」
「いや、一瞬で来れるからええねん。そういう話ちゃうくて、大阪行ってもええし、こっちでもええし、どっちでデートする? って話で」
デート、という響きに、緊張がより高まった。
「東京がいいかな」
「せやったら、東京観光やな。って、るりさん、住んではるから、観光でもないか」
「ううん、私も行ったことのないところたくさんあるし」
「じゃあ、行こか」
史誠くんが私を抱き上げた。地面が遠ざかって、空が近くなる。胸の高鳴りに気付かれませんように、と願う。
浅草の近く、少し離れたところで、地上に降りた。並んで歩き出すと、あらためて照れくさいような、恥ずかしいような気持ちになる。
「史誠くん、いつも着物、おしゃれ。この色もよく似合ってるし」
思いきって言うと、史誠くんは一瞬表情を止めて、それから、花がほころぶみたいに微笑んだ。
「ありがと。これな、甕覗っていう色で、一番くらい気に入ってるんや。初夏から夏にかけてええかな、と思って」
「かめのぞき?」
「うん。変わった名前やろ? 江戸時代からの色やねんけどな。後は、色で言うたら瑠璃色が好きやな」
どきりとした。
「るりさんと同じ名前」
歌うように言われて、くすぐったい気持ちになる。と同時に、この名前でよかった、と生まれて初めて思った。私にはこの名前はかわいい気がして、ずっとコンプレックスだったから。
「……ありがとう。着物、すごくたくさん持ってるの?」
「んー、まあまあかな。その分、あんまり洋服持ってへんから」
「そっか。私、振袖と浴衣一着ずつしか持ってないな」
「……よかったらやけど、着物着いへん?」
「え?」
「今から。てか、着物デート? 的な」
「え、だけど、着物、どこで、」
「レンタルのとこ。着付けもヘアセットもしてくれる店があるねん。俺も着付けできるけど、それはまあ……」
照れたみたいに笑う。
「行こう」
手を握られて、心臓がばくばく鳴った。
レンタル着物店にはさまざまなコースがあって、ヘアセット付きのものもあれば、着付けのみのものもあった。また、振袖や訪問着、袴も選べた。心躍ったが、奥から、色あざやかでかわいい着物を身に着け、華やかな髪をした若い女子たちの集団が出てきて、ひどく気後れした。
「せっかくやから、ヘアセット付きのにしなよ」
「そうだね……」
小声になってしまう。女子たちがちらりと私と史誠くんを見比べたのがわかった。史誠くんは平然としているが、私は気が気じゃなかった。後で、悪口を言われるだろう、と思った。
「な」
「うん……」
「うちは千着以上のお取り扱いですので、必ず気に入ったものが見つかりますよ」
お店の人がにっこり言った。
「髪型も、さまざま対応していますよ。かんざしもいいですし、リボンやドライフラワーを使ってもいいですし。ガーリーから大人っぽいものまで、ご希望に合わせて」
「……そしたら、このヘアセット付きのものでお願いします」
「かしこまりました。ご案内しますね」
史誠くんを残して奥に入ると、あざやかな着物が目に飛び込んできた。
「わあ……」
思わず声がもれた。
迷いに迷って、明るい青色の地に細い白線で植物が描かれた着物を選んだ。帯は光沢のある白色、帯締めは着物と同色にする。髪はアップにして、全体にパールを散らせてもらった。
「お似合いですよ」
「……ありがとうございます」
出ていく時は、緊張した。史誠くんは入口そばのベンチに座って、店内の内装を興味深そうに眺めていた。私が近付くと、こちらにぱっと顔を向けた。
史誠くんが立ち上がって、目の前に来た。私は完全にあがってしまって、史誠くんを見ることができない。
「え、めっちゃきれい。めっちゃ似合ってはるし。行こ」
手を握られて、引っ張られるように外に出た。陽射しの明るさに、ますます私は史誠くんをまともに見られない。
史誠くんは軽く私の着物の袖を確かめるように触って、
「うん。わりといい生地やな」
と言った。私はちょっとだけあきれ、だけど、それでもうれしくて、
「着物、ほんとに好きなんだね」
「まあ……そうやな。実家が今呉服屋してるんもあると思うけど」
「そうなんだ、だから……」
「それだけやないけどな」
素っ気ない口調に一瞬ショックを受けるが、当たり前のことだ。家が呉服屋だから着物を着ているのだろう、くわしいだろう、というのは、やや乱暴だった。
「ごめん、決めつけて」
「いや」
ふと、気が付いた。
「……あの、すごく当たり前のことだと思うけど、あやかしも生計を立てる必要があるんだね」
史誠くんに苦笑されて、心臓が縮んだ。だけど、やさしい声に、ほっとする。
「せやで。魔力があるからってなんでもできたり、手に入ったりするわけちゃう。まあ、食べることには困らんあやかしが多いのは事実やろうけど、家やって必要やし、服もいる。やっぱりお金は多少いるねん」
「そっか……そうだよね……。あの……」
どこまで踏み込んでいいか迷ったが、
「ご家族は……その……構成は」
「急にかしこまってどしたん」
覗き込まれる。
「いや、ちょっと気になって。あ、だけど、言いたくないことあったら、言える範囲で」
「るりさんやったら、かまへん。せやけど、家族はなあ、一言では言えへんというか、一応、母親と俺の姉が中心で呉服屋をしてる。父親は今の妻と一緒に会社経営してる。年一回、恒明家では集まるけど、ほかの家に所属しとる家族もおるし……。それに、俺の知らんきょうだい、おじおば、いとこ、甥、姪、めっちゃおるよ。母親と父親が同じきょうだいは二人だけ。姉と弟。ほかは母親か父親がちゃうねん」
「――結婚や離婚、多いの?」
「人間に比べたら多いな。まあ、結婚自体せん場合もあるけど。どっちにしろ、永遠の命か、千年単位の寿命かやから、ずっと一緒っていうのは稀やな。一定の年齢になったら、子どもも一生作れるし」
「……それって族の中で結婚することが多いの? それとも族をまたいだり、あやかしと人間だったりもするの?」
「いろいろやな。族同士が多いのは多いけど、またがっていたり、あやかしと人間だったりもする。そうなると、寿命もやし、魔力がどう出るか、どれくらい出るかもいろいろやな」
史誠くんは小さく息をついた。私は微妙な話題になってしまったことに気付いて、急いで、
「そうなんだ。お姉さんたちと仲いいの?」
「まあまあかな。千年以上前からやから、なんというか、もうなじみすぎて、なんというか……なんとも言い表せんくらいやな」
「そっか、そうだよね……」
想像してもしきれない。千年以上の時を超えて生きるというのは。限られた命の私たちに苦痛や苦悩があるように、永遠の命であるがゆえの悩みや困難があるのだろう。同時に、よろこびもあるだろうけど。
寺院や公園をめぐった。人波にもまれたが、一人きりでなく、史誠くんと一緒だから、疎外感や恐怖は感じなかった。ただ史誠くんの横顔を見、話し、隣にいるだけで、幸福感に包まれた。この気持ちは、これまで経験したことがなかった。
「そろそろお腹空いてへん、ご飯食べる?」
「うん」
近くにあったカフェに入った。ドアを開けると、コンソメの香りがした。オレンジ色の明かりの下、素朴な木のテーブルと椅子が並んでいる。
向かい合って座り、メニューを開いて、はたと気が付いた。
「……史誠くん、あの、食べれるの……?」
「ん? ああ、うん、食べれるんは食べれる。ただ、栄養が摂れるわけちゃうし、おいしいともまずいとも感じへんけど」
平然と言われて、一瞬言葉を失った。
「――それって苦痛じゃないの?」
「んー苦痛、とまではいかんけど。正直、人間と仕事する上で、会食って避けて通れんから、ある程度食べれんとあかんっちゅーか」
「でも、気が進まないなら、食べなくていいよ。仕事じゃないし」
「……ええん?」
「うん。……私も、食べるのが得意じゃなくて。飲み会、特に苦痛で。だけど、食べないと生きられないし。だから、気が進まないなら、無理に食べないで」
「ありがとう。せやけど、るりさん、つらいな。でも、確かに俺も感情食べる気せえへん時あるわ。せやけど、体はだるくなるから、食べんわけにもいかんしな」
史誠くんは神妙な表情でうなずいた。その言葉と態度に、緊張がほどけた。そんなこと言わんと食べなあかんで、なんて言われたら、私はすごく嫌だった。
「俺、コーヒーだけ頼むわ。なんも頼まんのは店に悪いし」
「私はAセットにしようかな」
史誠くんを前に食事をするのは、史誠くんと目が合うとどきどきしてしまうのを除けば、苦痛や気詰まりはなく、快適だった。人と食事をする時は、相手の食べるペースを計りながら、私もペースを上げたり下げたり(たいてい上げる)、またデザートやコーヒーのタイミングをそろえたりと、気を遣い、味もしないような状態に陥ってしまう。
だけど、史誠くんはコーヒーだけだし、あやかしのことをいろいろとゆっくり話してくれた。
「あやかしと人間の子どもやったら、人の食べ物も食べなあかん場合が多いな」
とか、
「魔力も、生まれながらに持っとる最大限の力はあるんやけど、多少鍛えて強くすることもできるんや」
とか。
おだやかな時間だった。
ご飯の後、少しまた街を見て、着物を返した。元の服に戻ると、魔法がとけてしまったように感じた。楽しい時間はもう終わり――。
別れ際、私のアパートで、
「せや、連絡先交換してもええ?」
と史誠くんが言い出した。
「うん」
平静を装うのが精いっぱいだった。男性と連絡先を交換することすら、私には初めてだった。
「後……後さ、火傷癒してもらってもええ?」
「うん。てか、ごめん、気付けなくて」
「いや。――ていうか、むしろ俺こそ嫌われへんかって思う。これが目的やって思われたらどないしよって不安やねん」
「それは思わないけど……」
そう答えながら、不安が広がった。火傷を癒すことはそこまで思わないが、それより、最終的に自分が人間になること、それを目的に私と会っているんじゃないか、という不安がある。
史誠くんが手を伸ばした。やさしく髪に触れられる。火傷の痕が癒えていくのか、史誠くんの表情がゆるむ。私もほっと息を吐いた。史誠くんの心はまだわからないけれど、私は史誠くんが苦しむのを見たくない。
「……感情も食べるなら」
史誠くんは目を見張った。
「ええん?」
「うん」
「せやったら……」
史誠くんがそっとほおに触れた。その熱い手に、私は気が遠くなりそうだった。
問い返すと、彼が目を開けた。あ。この瞳。初めて会った時と同じ目だった。美しく、潤んで、だけど、さびしさの混じった色。
「せや。条件は四つ。黒髪であること」
彼は私の髪に手をやった。
「左手首にほくろが縦に三つ並んでいること」
左手首を軽く掴まれる。
「年上であること。それと、誰ともキスをしたことがないこと」
彼は一呼吸置いた。
「運命の人には触れても火傷せえへん。それだけやなくて、黒髪は火傷を癒してくれる。それと、俺を好きになってくれて、キスしてくれたら、俺は二十五歳になれるねん。永遠の命を失える。同時に魔力も失える」
――え? 意味がわからなかった。
「……失いたいの? 永遠の命も魔力も」
彼は笑ったけど、無理に作ったみたいな声だった。
「俺には重荷なんやって。永遠に生きてなんになんねん。魔力がないからってなんやねん。俺は人間に生まれたんやから、人間のままでよかったねん。な?」
どうして祖父が命がけで与えてくれたものを手放して、人間になりたいのだろう。
「なあ、頼むわ。俺はるりさんが好きで、俺を好きになってほしい。それで、キスして人間になんねん」
「なんでそんな、」
言いかけて、胸の中に悲しみが湧いているのに気が付く。私はあなたの言葉を信じていいのかわからない。だって、私はあなたに出会ってまだ今日で二回目で、もし運命の人の条件を満たす人が別に現れてあなたを好きでキスすると言ったら、それはそれでいいんでしょう? 私を運命の人だと、好きだと言うのは、結局、自分が人間になりたいからだけではないの? 人間になったら、最後、捨てるつもりで。そうでなければ、なんで年上(実質は年下だけど)でなんの取り柄もない女に会いに来る?
彼は黙って私の言葉を待っている。
ここで振らなければ。都合のいい女にはなりたくない。ちょっとやさしくされて、かっこいいからって。ちょろすぎる。だけど、出会う前には戻れないことは自分が一番わかっていた。それに、あのさびしげな瞳を見捨ててしまっていいの。
でも、本当に好きになってしまったら、後戻りができなくなったら、どうすればいい? キスして、あなたは人間になって、あなたの人生を大きく変えてしまうことに責任を持てるの? それだけの覚悟は。
「……私はまだあなたをそう……その、好きなわけじゃないし、それに……好きになったとしても……協力できるかわからない。……私でなくても、条件を満たす人ならいいんでしょう? それなら、ほかの人を探したら」
正直な気持ちだったが、言いながら途中でつらくなった。ほかの誰かと彼が互いに好きになって、死ぬまでともに。
「なに言よんねん」
突然彼が立ち上がった。ぞっとするほど冷たい表情をしていた。私は心臓が凍りついたが、すぐに納得した。冷静になる。やっぱりそうでしょう。私は人間になるための駒なんでしょう。
「俺はるりさんがええねん」
怒った声だった。かけられていた羽織ごと抱き上げられる。
「ちょっと、」
彼のくちびるがほおをかすめた。私は胸がどくどくと波打つのを感じながら、着物の襟からかすかに覗く彼の首筋を見ていた。わずかに草のような香りがした気がした。
「俺はるりさんに人間にしてもらいたいねん。それで、一緒に生きるねん。言うたやろ? 一緒に歳を重ねてくれへんかって」
体が持ち上がる感覚がした。顔を上げたら、空が近くなっていた。眼下の光が遠くなり、反対に月の光を強く感じた。空を飛んでいる。東京の空を。ビルの群れ、さまざまに明滅する光。暗い海。
耳元で、風が鳴った。ぐんぐん昇っていく。月が近くなる。こわくなって、思わず彼の着物を強く掴んだら、彼が、史誠くんが、笑った。心底おかしそうに。うれしそうに。顔を見た。弾けるような笑顔だった。
――あなたに出会って、何度心臓を高鳴らせただろう。
覚悟はまだない。好きになってキスをしたら魔力も永遠の命も失ってしまうあなたとどんな未来を描けるのか、わからない。だけど、あなたともう少しだけ一緒にいたい。もう少しだけ、私に考える時間を、猶予を、与えてほしい。あなたを、知りたい。
史誠くんは、そのまま私をアパートまで送り届けてくれた。
「今週の土曜とか、空いてはる?」
「いつでも空いてる」
いつだって私に用事はない。だけど、それすらも今はうれしい。いつでも会える。
「じゃあ、出かけよ。土曜の朝、ここまで迎えに来るわ」
「ありがとう」
「名前を呼んでくれたら、いつでもどこでも行く。ピンチの時とか。あ、本名の方呼んでな」
「うん」
「じゃあな」
「うん、じゃあね」
史誠くんは部屋の中で一回転して消えた。
「おはよ」
史誠くんは、ごく薄いミント色の着物に白と藍色のボーダーの帯で現れた。史誠くんの潤んだような瞳と色の白さがより一層際立っている。
「おはよう」
倒れそうなくらい、緊張していた。私は、薄いピンクのブラウスに黒のパンツを合わせた。浮かれているって思われないように。もっと気に入っているブラウスやパンツや、あるいはワンピースは着なかった。
「俺さ、大阪に住んでんやけど、」
「大阪?」
動揺した。だが、関西弁であることは前から知っていたから、驚くことでもない。
「……そうなんだ。ごめん、こっちまで来てもらって」
「いや、一瞬で来れるからええねん。そういう話ちゃうくて、大阪行ってもええし、こっちでもええし、どっちでデートする? って話で」
デート、という響きに、緊張がより高まった。
「東京がいいかな」
「せやったら、東京観光やな。って、るりさん、住んではるから、観光でもないか」
「ううん、私も行ったことのないところたくさんあるし」
「じゃあ、行こか」
史誠くんが私を抱き上げた。地面が遠ざかって、空が近くなる。胸の高鳴りに気付かれませんように、と願う。
浅草の近く、少し離れたところで、地上に降りた。並んで歩き出すと、あらためて照れくさいような、恥ずかしいような気持ちになる。
「史誠くん、いつも着物、おしゃれ。この色もよく似合ってるし」
思いきって言うと、史誠くんは一瞬表情を止めて、それから、花がほころぶみたいに微笑んだ。
「ありがと。これな、甕覗っていう色で、一番くらい気に入ってるんや。初夏から夏にかけてええかな、と思って」
「かめのぞき?」
「うん。変わった名前やろ? 江戸時代からの色やねんけどな。後は、色で言うたら瑠璃色が好きやな」
どきりとした。
「るりさんと同じ名前」
歌うように言われて、くすぐったい気持ちになる。と同時に、この名前でよかった、と生まれて初めて思った。私にはこの名前はかわいい気がして、ずっとコンプレックスだったから。
「……ありがとう。着物、すごくたくさん持ってるの?」
「んー、まあまあかな。その分、あんまり洋服持ってへんから」
「そっか。私、振袖と浴衣一着ずつしか持ってないな」
「……よかったらやけど、着物着いへん?」
「え?」
「今から。てか、着物デート? 的な」
「え、だけど、着物、どこで、」
「レンタルのとこ。着付けもヘアセットもしてくれる店があるねん。俺も着付けできるけど、それはまあ……」
照れたみたいに笑う。
「行こう」
手を握られて、心臓がばくばく鳴った。
レンタル着物店にはさまざまなコースがあって、ヘアセット付きのものもあれば、着付けのみのものもあった。また、振袖や訪問着、袴も選べた。心躍ったが、奥から、色あざやかでかわいい着物を身に着け、華やかな髪をした若い女子たちの集団が出てきて、ひどく気後れした。
「せっかくやから、ヘアセット付きのにしなよ」
「そうだね……」
小声になってしまう。女子たちがちらりと私と史誠くんを見比べたのがわかった。史誠くんは平然としているが、私は気が気じゃなかった。後で、悪口を言われるだろう、と思った。
「な」
「うん……」
「うちは千着以上のお取り扱いですので、必ず気に入ったものが見つかりますよ」
お店の人がにっこり言った。
「髪型も、さまざま対応していますよ。かんざしもいいですし、リボンやドライフラワーを使ってもいいですし。ガーリーから大人っぽいものまで、ご希望に合わせて」
「……そしたら、このヘアセット付きのものでお願いします」
「かしこまりました。ご案内しますね」
史誠くんを残して奥に入ると、あざやかな着物が目に飛び込んできた。
「わあ……」
思わず声がもれた。
迷いに迷って、明るい青色の地に細い白線で植物が描かれた着物を選んだ。帯は光沢のある白色、帯締めは着物と同色にする。髪はアップにして、全体にパールを散らせてもらった。
「お似合いですよ」
「……ありがとうございます」
出ていく時は、緊張した。史誠くんは入口そばのベンチに座って、店内の内装を興味深そうに眺めていた。私が近付くと、こちらにぱっと顔を向けた。
史誠くんが立ち上がって、目の前に来た。私は完全にあがってしまって、史誠くんを見ることができない。
「え、めっちゃきれい。めっちゃ似合ってはるし。行こ」
手を握られて、引っ張られるように外に出た。陽射しの明るさに、ますます私は史誠くんをまともに見られない。
史誠くんは軽く私の着物の袖を確かめるように触って、
「うん。わりといい生地やな」
と言った。私はちょっとだけあきれ、だけど、それでもうれしくて、
「着物、ほんとに好きなんだね」
「まあ……そうやな。実家が今呉服屋してるんもあると思うけど」
「そうなんだ、だから……」
「それだけやないけどな」
素っ気ない口調に一瞬ショックを受けるが、当たり前のことだ。家が呉服屋だから着物を着ているのだろう、くわしいだろう、というのは、やや乱暴だった。
「ごめん、決めつけて」
「いや」
ふと、気が付いた。
「……あの、すごく当たり前のことだと思うけど、あやかしも生計を立てる必要があるんだね」
史誠くんに苦笑されて、心臓が縮んだ。だけど、やさしい声に、ほっとする。
「せやで。魔力があるからってなんでもできたり、手に入ったりするわけちゃう。まあ、食べることには困らんあやかしが多いのは事実やろうけど、家やって必要やし、服もいる。やっぱりお金は多少いるねん」
「そっか……そうだよね……。あの……」
どこまで踏み込んでいいか迷ったが、
「ご家族は……その……構成は」
「急にかしこまってどしたん」
覗き込まれる。
「いや、ちょっと気になって。あ、だけど、言いたくないことあったら、言える範囲で」
「るりさんやったら、かまへん。せやけど、家族はなあ、一言では言えへんというか、一応、母親と俺の姉が中心で呉服屋をしてる。父親は今の妻と一緒に会社経営してる。年一回、恒明家では集まるけど、ほかの家に所属しとる家族もおるし……。それに、俺の知らんきょうだい、おじおば、いとこ、甥、姪、めっちゃおるよ。母親と父親が同じきょうだいは二人だけ。姉と弟。ほかは母親か父親がちゃうねん」
「――結婚や離婚、多いの?」
「人間に比べたら多いな。まあ、結婚自体せん場合もあるけど。どっちにしろ、永遠の命か、千年単位の寿命かやから、ずっと一緒っていうのは稀やな。一定の年齢になったら、子どもも一生作れるし」
「……それって族の中で結婚することが多いの? それとも族をまたいだり、あやかしと人間だったりもするの?」
「いろいろやな。族同士が多いのは多いけど、またがっていたり、あやかしと人間だったりもする。そうなると、寿命もやし、魔力がどう出るか、どれくらい出るかもいろいろやな」
史誠くんは小さく息をついた。私は微妙な話題になってしまったことに気付いて、急いで、
「そうなんだ。お姉さんたちと仲いいの?」
「まあまあかな。千年以上前からやから、なんというか、もうなじみすぎて、なんというか……なんとも言い表せんくらいやな」
「そっか、そうだよね……」
想像してもしきれない。千年以上の時を超えて生きるというのは。限られた命の私たちに苦痛や苦悩があるように、永遠の命であるがゆえの悩みや困難があるのだろう。同時に、よろこびもあるだろうけど。
寺院や公園をめぐった。人波にもまれたが、一人きりでなく、史誠くんと一緒だから、疎外感や恐怖は感じなかった。ただ史誠くんの横顔を見、話し、隣にいるだけで、幸福感に包まれた。この気持ちは、これまで経験したことがなかった。
「そろそろお腹空いてへん、ご飯食べる?」
「うん」
近くにあったカフェに入った。ドアを開けると、コンソメの香りがした。オレンジ色の明かりの下、素朴な木のテーブルと椅子が並んでいる。
向かい合って座り、メニューを開いて、はたと気が付いた。
「……史誠くん、あの、食べれるの……?」
「ん? ああ、うん、食べれるんは食べれる。ただ、栄養が摂れるわけちゃうし、おいしいともまずいとも感じへんけど」
平然と言われて、一瞬言葉を失った。
「――それって苦痛じゃないの?」
「んー苦痛、とまではいかんけど。正直、人間と仕事する上で、会食って避けて通れんから、ある程度食べれんとあかんっちゅーか」
「でも、気が進まないなら、食べなくていいよ。仕事じゃないし」
「……ええん?」
「うん。……私も、食べるのが得意じゃなくて。飲み会、特に苦痛で。だけど、食べないと生きられないし。だから、気が進まないなら、無理に食べないで」
「ありがとう。せやけど、るりさん、つらいな。でも、確かに俺も感情食べる気せえへん時あるわ。せやけど、体はだるくなるから、食べんわけにもいかんしな」
史誠くんは神妙な表情でうなずいた。その言葉と態度に、緊張がほどけた。そんなこと言わんと食べなあかんで、なんて言われたら、私はすごく嫌だった。
「俺、コーヒーだけ頼むわ。なんも頼まんのは店に悪いし」
「私はAセットにしようかな」
史誠くんを前に食事をするのは、史誠くんと目が合うとどきどきしてしまうのを除けば、苦痛や気詰まりはなく、快適だった。人と食事をする時は、相手の食べるペースを計りながら、私もペースを上げたり下げたり(たいてい上げる)、またデザートやコーヒーのタイミングをそろえたりと、気を遣い、味もしないような状態に陥ってしまう。
だけど、史誠くんはコーヒーだけだし、あやかしのことをいろいろとゆっくり話してくれた。
「あやかしと人間の子どもやったら、人の食べ物も食べなあかん場合が多いな」
とか、
「魔力も、生まれながらに持っとる最大限の力はあるんやけど、多少鍛えて強くすることもできるんや」
とか。
おだやかな時間だった。
ご飯の後、少しまた街を見て、着物を返した。元の服に戻ると、魔法がとけてしまったように感じた。楽しい時間はもう終わり――。
別れ際、私のアパートで、
「せや、連絡先交換してもええ?」
と史誠くんが言い出した。
「うん」
平静を装うのが精いっぱいだった。男性と連絡先を交換することすら、私には初めてだった。
「後……後さ、火傷癒してもらってもええ?」
「うん。てか、ごめん、気付けなくて」
「いや。――ていうか、むしろ俺こそ嫌われへんかって思う。これが目的やって思われたらどないしよって不安やねん」
「それは思わないけど……」
そう答えながら、不安が広がった。火傷を癒すことはそこまで思わないが、それより、最終的に自分が人間になること、それを目的に私と会っているんじゃないか、という不安がある。
史誠くんが手を伸ばした。やさしく髪に触れられる。火傷の痕が癒えていくのか、史誠くんの表情がゆるむ。私もほっと息を吐いた。史誠くんの心はまだわからないけれど、私は史誠くんが苦しむのを見たくない。
「……感情も食べるなら」
史誠くんは目を見張った。
「ええん?」
「うん」
「せやったら……」
史誠くんがそっとほおに触れた。その熱い手に、私は気が遠くなりそうだった。
