くちびるが疲れていた。ほおも、ひきつれたように鈍く痛い。歓送迎会のせいだ。何度も繰り返される自慢話に、愛想笑いと「そうなんですね」、「すごいですね」を繰り返し続けた。
二次会の誘いをどうにか断って、一人で駅に向かって歩く。繁華街は夜九時をまわっても明るく、人であふれている。それなのに、心細いし、さびしい。そして、こわい。上京して十年を超えるのに、いまだにこう感じるのは、私が田舎出身だからだろうか。それとも、仕事は常に辞めたいけど資格もなく転職活動も嫌でそのまま、恋人はいたことがなくて、友達も少ない、そんな生活だからだろうか。
歩道橋を渡る。私の実家の周辺には歩道橋なんてなくて、初めて東京で歩道橋を渡った時、妙に感慨深かった。都会だ、と思った。歩道橋は私にとって、光にあふれる東京の街を一番感じられる場所だ。
電車で席に座ると、勝手にため息がこぼれた。お腹が空いている。ろくに食べられず、飲めず、ただ気を遣った歓送迎会だった。昔から食が細く、食べるのが遅い。とりわけ他人と食べるのが苦痛だ。誰も私に特別の関心を払っていないのはわかっているけど、緊張すると、冗談や誇張でなく、手が震える。喉が細くなる感覚もして、食べものも飲みものも喉を通りにくくなる。お酒も好きでない。となると、飲み会の類は、ただ時間がとてつもなくゆっくりと過ぎるのを感じるだけの場になりはてる。
それなのに、会を断りもできないのが私の弱いところだ。だけど、一人暮らしで、子どもの世話も親の介護もない私に、穏便に断る理由は見当たらない。そんなの気にする必要はないとわかってはいるのに。
飲み会では、酔っているのか酔っていないのかわからないけれど、毎回、誰かにたいてい一つは嫌なことを言われる。例えば、
「髪染めるとか、もうちょっとおしゃれしたらいいのに」
とか、
「彼氏いるの? いないの? だったら、◯◯社の◯◯さんと付き合ったら? お似合いじゃない?」
とか、
「そろそろ将来のこと考えないとねえ」
とか。
考えの古い地元ならともかく、東京でこんなことを言われるとは思っていなかった。社員全員の家族構成を知っているような小さな会社だから、仕方がないことかもしれないけれど。
イヤホンをはめる。スマホを開いて、今日が自分の誕生日だったことに、この、後二時間あまりで今日が終わる今、気が付く。つい数年前までは友達から当日にメッセージが届いていたけど、二十九歳の今、一通も来ていない。
みんな忙しいんだろう。だけど、たまに覗くインスタやXの更新頻度はわりと高くて、今日だって、ほら。つい数時間前に更新されている。
みんな、きらきらしているなー。友達も知らない人も。勝手に流れてくる動画や写真に映る人たちはすべてを手に入れているように見える。美しさ、たくさんのお金、きれいで高級な持ちもの、好きな仕事、すてきなパートナー。
着物姿の若い男性が振り返る動画が流れた。それから、その男性は、身に着けている着物や小物について、一つ一つ関西弁で説明しはじめた。何度か見たことのある人だ。センターパートの黒髪で、黒目がちな瞳、すっと細高い鼻、上品な口元。モデルかインフルエンサーかなにかだろう。この人も美貌と口の巧さで勝ち上がっていくんでしょうね。ちがう動画に切り替える。
アパートに帰って、スプリングコートを脱ぎ、一つに結んでいた髪をほどきながら、真っ先にベランダに出た。ベランダ用のサンダルはだいぶ古びていて、履くたびに新調しないと、と思うのに、部屋に戻ると忘れている。かすかに、近くを流れる川の、それもそうきれいでない川の匂いがする。半月が、速い速度で流れる雲に隠されては現れ、そのたびにあたりが暗くなったり明るくなったりした。
ベランダは申し訳程度の広さしかない。物干し竿は使わないし(室内干しだ)、邪魔だから壁に立てかけているけど、それでも狭い。育てているシクラメンは、今の季節、花が終わって、葉と茎だけになっている。今日は寝坊したせいで朝の水やりができていなかったから、茎ごとくたりと地面に倒れるような格好になってしまっている。小さなジョウロで水をやりながら、不意に泣きそうになった。
二十九歳になったのに、私はまだ人生がわからない。なんのために生きているのかわからない。みんなは、例えば、仕事に全力投球するとか、恋人と結婚するとか、好きなことを極めるとか、したいことがあるように見える。だけど、私は選べない。いずれにも振りきってしまえないのだ。
もう歳なんて取りたくない。学生の頃は楽しかった。片想いだったけど好きな人がいて、友達がいて、勉強や部活をそこそこがんばって。
学生時代のまま、時が止まったらよかったのに。
だめだ。どうしたらいいんだろう、私。これからの人生。ていうか、これまでなにをしてきたんだろう。
銀色の手すりに肘をついて地上を見下ろすと、人一人歩いていない道路を街灯が照らしていた。その時ふと、手すりが意外と低いことに気が付いた。このまま身を乗り出したら、頭から落ちる、落ちられるな――。
「やめろって」
突然強い力で二の腕を掴まれ、後ろに体を持っていかれた。――え?
「死ぬなよ」
声がすぐ耳元でした。後ろから体温が伝わってくる。サンダルが右足だけ脱げていて、コンクリートの冷たさを感じた。
――立ったまま、誰かに抱きとめられている。
おそるおそる上半身をねじって振り返ったら、至近距離で目が合った。息を呑む。
きれい。潤んだような、黒目の大きな瞳。二重で、やさしげ。だけど……どこかさびしげだ。
「……大丈夫?」
思わず口からこぼれた。言ってから、これは私の台詞でなく、相手の台詞だ、と思った。
「なにが?」
案の定、彼は目をしばたたいた。だが、私は続けてしまった。
「いや……さびしそうに見えたから」
彼が一瞬表情を止めた。
「――そんなに見つめんといて」
からかうような軽い声に、はっとした。彼の手が離れる。あわてて私も体を離して、向かい合った。彼は黒っぽい着物を着て立っていた。同色の羽織を羽織っている。背は百六十六センチの私より少し高いくらいだ。細身だけど、抱きとめられた感触はがっちりしていて、男性だと強く感じた。離れると、その瞳はさびしそうではなくて、ただきれいなだけだった。鼻も細高くてきれいな形をしている。口元も目立たない。髪は黒髪でセンターパートで、
「あ」
思い出した。今日も見た、あの動画の人だ。だけど、名前は知らない。
「俺のこと、知ってはるでしょ? ふつう、もうちょっときゃーきゃー騒いでくれるんやけどな」
その言葉と髪をかき上げる仕草に、見られ慣れている人だ、と思う。自分がかっこいいと自覚している人だ、とも。
「……知りません」
「え、まじで言ってる? 着物男子の隼人を知らんとか、」
不意に言葉を途切れさせた。自分の右手をまじまじと見ている。
「……なんですか? ていうか、どうやってうちに入ったんですか?」
助けてくれたんだとは思う。だけど、最初の驚きが去るとこわさだけが残って、急激に不安がふくらんだ。男性と二人きりになる機会なんてこれまでの人生なかった。しかも、初対面の人だ。そこそこ有名な人だけに、高い口止め料を払わされたら困る。いや、こういう場合は逆か。私が高い口止め料を要求する?
射られるように顔を見つめられ、心臓が早鐘を打った。
「自分、誰ともキスしたことないん?」
「は?」
顔がかっと熱くなった。なにを初対面で。……事実だけど。ていうか、これは危険な状況では? 私は後ずさった。武器になるもの。物干し竿はあるけど、これを振りまわして、窓でも割ってしまったら。いや、この際、それはささいなことだ。
「まあええわ。年上? は年上やろね、二十代後半? 俺二十四歳なんやけど」
いや、だから、なに。私は物干し竿に手を伸ばした。こんな失礼なやつ――。
「まあええわ。俺のこの手がその証拠やし。――なあ、俺と一緒に歳を重ねてくれへん?」
「は?」
「せやから……せや、最近はもっとはっきり言わなあかんねんな。めんどいな。俺と付き合わへん? てか、付き合うてほしいねん。運命の人やねんから」
息が止まる。
強い風が吹き抜けた気がした。胸に小さな灯りが灯って、全身がぶわりとあたたかくなる。
片想いばかりだったいくつかの恋。誰からもそういう意味で好かれたことのない私。
だけど、どうしてこんな人が――。きれいで、だけど、軽そうな、私とは世界のちがう人が。
「あ」
急に彼はなにかに気付いたように顔をしかめた。
「ごめん、急がへんと。また会いに来る。それまで、とにかく、髪染めんとって。それと、くちびる守っといて。誰ともキスしたらあかんで」
ふたたび射した月光に、瞳がきらめいた。私は見とれるだけで、なんの反応もできなかった。
「ほな」
くるりとその場で一回転したと思ったら、彼の姿は跡形もなく消えていた。
「……なんだったの?」
夢のような気もした。だけど、腕を掴まれ、抱きとめられたあたたかな感触、今も止まらない鼓動が、夢じゃない証拠――。
部屋に戻って、「着物男子 隼人」で動画を検索する。やっぱりさっきの人だ。だけど、どうやってうちに。しかも、突然消えた。
「また見てなー」
耳が熱くなる。この声。そう、この、ちょっと低くて、深い声だった。
運命の人だと言った。誰ともキスしたらあかんで、とも。
キスなんて、誰がしてくれるの……。
また会いに来るとも言っていた。本当かどうかわからない。私にとっては特別な言葉でも、彼にとってはなんでもない社交辞令なのかも。
あ、ほら、この動画。
「いつもみんなありがとー! 愛しとるよー」
ってほら、気軽に言っている。誰にでも言っちゃえるんだろう。
大体、私は彼のことをなにも知らない。遊んでいそうだし、私のことも、恋愛慣れ、男慣れしていない年上の女をからかっただけというか……。
いい夢を見ただけ、と言い聞かせる。だけど、彼の瞳とそのまなざし、声、抱きとめられた熱さが、離れなかった。
土日はいつも通り、なにごともなく過ぎた。仕事のある平日より少し遅めに起きて、一人でご飯を食べ、洗濯をして、掃除をして、スーパーに買い出しに行って、また一人でご飯を食べた。趣味のレース編みを少しだけ。今は赤い糸で、花の形のコースターを作っている。仲のいい友達はほとんど結婚していて、誘われることもないし、こちらも誘いにくい。
誕生日は気分も落ち込んでいたけど、不幸なわけではない。ただ、仕事もプライベートもなんの花も咲かすことなく、枯れていくんだろうな――と思う。でも、それはそれでなんの不足があるだろう。自分の食い扶持を稼いで、身のまわりのことをして生きていくだけで、じゅうぶん私はがんばっている。生きているだけで、上等だ。
月曜日も、いつもと同じ仕事内容で、いつもと同じような会話。
「ねえ、染谷さんって今、手すいてる?」
町田先輩はすでに書類を手元に用意して、私の席のそばに立っていた。
「あ……少しだけなら」
本当は営業部から頼まれた資料作りがあった。だけど、たぶん、急げば間に合うはずだ。
「そしたら、これ、頼んでいい? 企画部から頼まれたんだけど。今週中でいいんだけど、私、ちょっと今、いっぱいいっぱいで」
「了解です。企画部のどなたですか?」
「あ、企画部には私から返しておくから、終わったら言ってー」
「……はい」
書類にざっと目を通し、クリアファイルに入れていったん置いておく。なんていうか……なんていうかだ。キーボードを叩く音が自然と大きくなる。
私にも矜持がある。仕事は好きでないけど、きちんとこなすし、精度の高い仕事をしたいと思っている。だから、先輩に利用されていても、最終的に会社の利益になる、それならそれでいい。でも――一体、私はなんのため、誰のために生きているのだろう。
あの日の彼が頭に思い浮かんだ。……あんなにきれいな人に見つめられるなんて初めてのことだった。誰にも見つめられたことはないけれど……。あれから三日が経つが、なんの音沙汰もない。会いに来ると言っていたのに。SNSは見ないようにしていた。私に会いに来てくれないのに、更新されていたら、がっかりしてしまう。傲慢だろうか。それとも、愚かだろうか。――だけど、まあ、軽い人だし、失礼だし、いずれにしても、あれは夢だ。
現実は、パソコンと書類の山、仕事を押しつけて成果は横取りする先輩、それに気付いていない上司たち、見て見ぬふりの同僚たちだ。
午後八時をまわって、私はパソコンの電源を切った。
「お先に失礼します」
「おつかれー」
「おつかれさま」
まばらに返ってくる声に、先輩の声はもちろんない。
会社の入るビルを出た。人の波に、私だけじゃない、みんな働いている、と少しだけ気持ちが上向きになる。今日は自炊をしなくてよし。スーパーでお弁当を買って帰ろう。アイスも買おうかな。いつもと変わらない風景、いつもと変わらない日常。
「遅いんやな」
突然背後から声がした。あの声。
振り返ると、隼人がいた。藍色の着物に薄いグレーの帯を合わせている。
「心配したで、ぜんぜん出てきへんから」
「……残業してたから」
声がかすれた。
「大変やな。てか、ごめんな、また会いに来る言うてたのに、なかなか時間なくてさ。俺もこう見えて忙しいねん、せやから、」
と、きゃーっと甲高い声がした。
「隼人だー」
その声を契機に、一気にまわりが彼に気付いた。
「え、まじで生隼人じゃない?」
「うそうそ、えーほんとだ! 写真撮らせてくれないかな? てか、サイン! てか握手!」
「てか、あの女なに?」
「……マネージャー? だよね、たぶん」
体がさあっと冷えた。心臓がきしむ。私はこの人のなんでもないし、お似合いでもない。
あー、と彼が頭をかいた。本当にめんどくさそうな、嫌そうな声で、心臓が凍った。私がそばにいたせいで、迷惑を。
「……ほんまにめんどいな。るりさん、行くで。しっかりつかまっといて」
なんで私の名前を知っているの? 思った瞬間、彼が私に近付いた。近い。後ずさろうとしたが、腕を掴まれる。強い風が吹いた。その場で体が彼とともに一回転して――上空に巻き上がっていくような感覚――。
「……え?」
地面がない。足が浮いている。眼下は、無数の光できらめいている。ビルの電気だろうか。大きなビル群を、私は見下ろしていた。私、今、空を飛んでいる……?
「あ、あんま動かんといて。落ちたら死ぬ」
耳元でささやかれて、体が熱くなった。――彼に後ろから抱きかかえられている。
「……ちょっとこわい」
「ごめん、俺一人やったらぜんぜんちゃう場所に行けたんやけど、るりさん、初めてやから。あのビルの屋上に降りるで」
抱きかかえられたまま、近くの白っぽいビルの屋上まで飛んで、そして、そっと降ろされた。固い地面に、足の力が抜けた。
「大丈夫?!」
彼が体を支えてくれたけど、そのまましゃがみ込んで、両手をついてしまう。コンクリートは冷たかったけど、その固さにほっとした。
「……大丈夫じゃないです」
「ごめん。こんなつもりちゃうかってん。まあ、目立つかなとは思うたけど、洋服やったら、俺ってわからんかもと思うて」
彼は私の前にまわり込んで、片膝をついてしゃがんだ。目が合う。吸い込まれそうな瞳。自分の気持ちがわからなくて、混乱した。みんなの視線はおそろしかったし、空を飛んだのもこわかった。そもそも、この人が何者なのかわからなくて不安だ。だけど、胸があたたたくて、なんだか泣きそう。
彼がそっと微笑んだ。満面の笑みではなかったが、空気がぱっときらめくような華やかさがあった。
「髪染めんとおってくれとる。もう一個の約束も守ってくれとる?」
「約束?」
「誰ともキスせんといてって」
私は曖昧に笑った。
「……守ってる。ていうか、心配しなくても大丈夫」
「なんで?」
「……だって、誰も望まないから。体目的のやつ以外は」
「そんなわけないやん」
「そんなことあるんだって……。ていうか、あなたって……その、何者?」
「ああ、ごめん、説明遅なって。表向きは二十四歳、インフルエンサー兼モデルの着物男子隼人。で、実質は約千四十歳のあやかし。名前は、史誠」
「……え? あやかしって……妖? 狐とか、なんだろう、天狗とか……?」
「んー狐も天狗もおるけど、俺とは別の族。俺の場合は、ていうか、俺の属する族は、そういう一言で言える族じゃなくて……まあ、簡単に言うたら、人の感情を食べて生きる鬼やな」
「おに?」
隼人――いや、史誠はその場にあぐらをかいて座った。ためらったが、私も床におしりをつけて座った。
「うん。――そんな怯えた顔せんとってよ。あのな、あやかしの条件は、一に魔力を持っとること、二に人間の食糧とはちがうもんを食糧にすることや。魔力って一言に言うてもいろいろあるねんけど……せやな、例えば、付喪神ってわかる? 付喪神の宿ったもんも、一種の魔力やし……。まあ、いろいろや。せやから、鬼言うてもいろんな族がおって、そら、なかには人間を食べる族もおるけど、それ以外は太陽光で生きる族とか月光で生きる族とか、人間を傷付けん族がほとんどやねん。……まあ、俺の族は微妙なところやけど。感情の一部をもらうわけやから……」
指先から冷えていく。こわい、だけど、惹かれてしまう。でも、信じられない。だけど、突然アパートに現れたこと、消えたこと、そして今日空を飛んだこと。魔力でなければ、なにで説明がつくだろう。
「……そういうあやかしってたくさんいるの?」
「うん。あやかしの中に、いろんな族があって、その族の中にまたようけ家がある。俺は、人間の感情を食べる鬼の族の中の恒明家に属する。人間に混じって生活しよるんもおるし、人間が誰も来んようなとこで生活しよるんもおる。いろいろやな」
彼は、有名な女優の名を二人挙げた。
「月光で生きる鬼と、天狗や」
「そうなんだ……」
世界の見え方が一変した気がした。
「あやかしかどうか見分ける方法ってあるの?」
「いや。やけど、あやかしって死なへんやつとか、めっちゃ長生き、千年くらい生きるやつとかが多いねん。せやから、あやかし同士、顔見知りのやつはわかる。それと、俺の族……人間の感情を食べる族は、あやかしかどうか感情の匂いで判断できる。直接会ったら。あやかしは、感情にほんのちょっと魔力が混じってるから、匂いがちゃうねん」
「感情が匂うってこと?」
「簡単に言うたらそう。やけど、一般的な鼻で感じる匂いとはちょっとちゃう。なんていうか……感じるねん。第六感みたいな。それで、感情を食べる。食べるっていうか、体に触れさせてもろうて、その時の感情をちょっとだけ吸わせてもらう」
――処理しきれない。だけど、
「じゃあ、あの時も、」
「せや。あの時、死にたい感情が匂ったから、助けに行った」
それから、冗談めかしたように付け加える。
「ついでに、ちょっとだけ食べさせてもろたけど……。あの後、ほかにも死にたい感情が匂ってん。せやから、ほかにも行かなあかんくて、ちゃんと説明できへんかってん。インフルエンサーとモデルの仕事もあるし」
「……いつも助けてるの?」
彼はなぜか目を伏せた。――なんでそんなにさびしそうなの。思わず体が動いて、抱きしめてしまった。彼が脈打っているのを感じた。そのあたたかさも。彼が身じろぎして、私ははっとして体を離した。彼はうつむいて、
「せや。せやけど、あんまええことちゃうねん。せやから、誰にも言わんといて」
「言わないけど……いいことじゃないの?」
「俺の族では、ええことではないねん。ルール違反でもないけど」
「……そうかもしれないけど、私は救われたし……夢だと思ってたけど」
冗談めかして笑ってみせたら、彼は顔を上げて、表情をゆるめた。
「せやろな。誰も信じてくれへんやろし。夢ちゃうけどな」
ふと彼の手に目が留まった。
「それ、どうしたの?」
彼の両手の手のひらに、火傷をしたような痕があった。それも、幾度も繰り返したような。
「ああ。気ぃ抜けてたわ。いつもは魔力で隠してんやけど。ちょっと試させてもらってええ?」
「……なにを?」
彼は答えずに、右手を私の顔に伸ばしてきた。私は動けなかった。手は、私の髪にやさしく触れた。顔が赤くなるのが自分でもわかった。
「やっぱり」
彼は髪から離した手を私に見せた。痕がきれいに消えて、なめらかになっている。
「……なんで?」
彼は次は左手で私の髪に触れ、ほら、と見せた。こちらもきれいになっている。
「左手首、見せて」
「え?」
左手を取られ、ジャケットとブラウスの袖をめくられる。手首内側、縦に三つ並んだほくろに、
「やっぱり」
とまた言った。手を取られているのが恥ずかしくなる。
「……離して」
彼はあっさり手を離した。男性から手を取られた経験なんて……それこそ、小学生の頃のダンス以来じゃないだろうか。
「実はさ、」
彼の真剣な声に顔を上げたけど、強いまなざしに逃げたくなった。こんなに真剣に向き合われても、私はきっとなにも返せない。
「帰らせて」
立ち上がろうとしたら、立ちくらみが起きた。目の前が真っ黒に塗りつぶされて、思わずしゃがみ込む。
「ちょっ、大丈夫?!」
体にふわりと布のようなものがかけられた感覚がして、それから布ごと体をぎゅっと抱きしめられた。徐々に視界が晴れた。すぐそばに瞳。わずかにゆがめられている――心配するように。思わず目を閉じた。これ以上希望や期待を抱く前に、夢だとわかっているうちに、早く目を覚ましたい。
「ごめん、疲れさせて。せやけど、もうちょっと話聞いてほしいねん。このままでええから」
ささやかれる。
「あのな……俺ってあやかしの家に生まれたのに、魔力がぜんぜんなくてさ。当然、人間の感情を食べるなんてできへんくて、人間の食べものと同じもんしか受け付けへんかってん。要するに、突然変異で人間として生まれたねん」
びっくりして目を開けた。だって、彼は今魔力を持っているはずだ。彼は目を閉じていた。そのまつげがかすかに震えていた。
「俺の族は、ふつう、永遠の命を持っている。生まれながらに持つ魔力はだんだん強くなって、二十歳から二十四歳でピークを迎える。同時に、そのピークの状態で体も成長を止めて、年を重ねなくなる。なかには生まれた時は魔力がなかったけど、数歳で魔力ができ、そのまま強くなる人もおる。やけど、俺はずっと魔力がなくて、二十四歳になっても片鱗も見られなかった。俺は二十四歳まで人間やった。そんな俺を心配して、祖父ちゃんが俺に魔力を移した。魔力と同時に、俺は永遠の命も得た。永遠の二十四歳になった。言うのは簡単やけど、ほんまはそんなことしたらあかんねん。禁忌なんや。禁忌を犯したから、祖父ちゃんは死んだ。永遠の命やったのに。それに、俺は、感情を食べるために、あるいはその目的でなくても、人間の体に触れたら、火傷するようになった。……運命の人以外は」
二次会の誘いをどうにか断って、一人で駅に向かって歩く。繁華街は夜九時をまわっても明るく、人であふれている。それなのに、心細いし、さびしい。そして、こわい。上京して十年を超えるのに、いまだにこう感じるのは、私が田舎出身だからだろうか。それとも、仕事は常に辞めたいけど資格もなく転職活動も嫌でそのまま、恋人はいたことがなくて、友達も少ない、そんな生活だからだろうか。
歩道橋を渡る。私の実家の周辺には歩道橋なんてなくて、初めて東京で歩道橋を渡った時、妙に感慨深かった。都会だ、と思った。歩道橋は私にとって、光にあふれる東京の街を一番感じられる場所だ。
電車で席に座ると、勝手にため息がこぼれた。お腹が空いている。ろくに食べられず、飲めず、ただ気を遣った歓送迎会だった。昔から食が細く、食べるのが遅い。とりわけ他人と食べるのが苦痛だ。誰も私に特別の関心を払っていないのはわかっているけど、緊張すると、冗談や誇張でなく、手が震える。喉が細くなる感覚もして、食べものも飲みものも喉を通りにくくなる。お酒も好きでない。となると、飲み会の類は、ただ時間がとてつもなくゆっくりと過ぎるのを感じるだけの場になりはてる。
それなのに、会を断りもできないのが私の弱いところだ。だけど、一人暮らしで、子どもの世話も親の介護もない私に、穏便に断る理由は見当たらない。そんなの気にする必要はないとわかってはいるのに。
飲み会では、酔っているのか酔っていないのかわからないけれど、毎回、誰かにたいてい一つは嫌なことを言われる。例えば、
「髪染めるとか、もうちょっとおしゃれしたらいいのに」
とか、
「彼氏いるの? いないの? だったら、◯◯社の◯◯さんと付き合ったら? お似合いじゃない?」
とか、
「そろそろ将来のこと考えないとねえ」
とか。
考えの古い地元ならともかく、東京でこんなことを言われるとは思っていなかった。社員全員の家族構成を知っているような小さな会社だから、仕方がないことかもしれないけれど。
イヤホンをはめる。スマホを開いて、今日が自分の誕生日だったことに、この、後二時間あまりで今日が終わる今、気が付く。つい数年前までは友達から当日にメッセージが届いていたけど、二十九歳の今、一通も来ていない。
みんな忙しいんだろう。だけど、たまに覗くインスタやXの更新頻度はわりと高くて、今日だって、ほら。つい数時間前に更新されている。
みんな、きらきらしているなー。友達も知らない人も。勝手に流れてくる動画や写真に映る人たちはすべてを手に入れているように見える。美しさ、たくさんのお金、きれいで高級な持ちもの、好きな仕事、すてきなパートナー。
着物姿の若い男性が振り返る動画が流れた。それから、その男性は、身に着けている着物や小物について、一つ一つ関西弁で説明しはじめた。何度か見たことのある人だ。センターパートの黒髪で、黒目がちな瞳、すっと細高い鼻、上品な口元。モデルかインフルエンサーかなにかだろう。この人も美貌と口の巧さで勝ち上がっていくんでしょうね。ちがう動画に切り替える。
アパートに帰って、スプリングコートを脱ぎ、一つに結んでいた髪をほどきながら、真っ先にベランダに出た。ベランダ用のサンダルはだいぶ古びていて、履くたびに新調しないと、と思うのに、部屋に戻ると忘れている。かすかに、近くを流れる川の、それもそうきれいでない川の匂いがする。半月が、速い速度で流れる雲に隠されては現れ、そのたびにあたりが暗くなったり明るくなったりした。
ベランダは申し訳程度の広さしかない。物干し竿は使わないし(室内干しだ)、邪魔だから壁に立てかけているけど、それでも狭い。育てているシクラメンは、今の季節、花が終わって、葉と茎だけになっている。今日は寝坊したせいで朝の水やりができていなかったから、茎ごとくたりと地面に倒れるような格好になってしまっている。小さなジョウロで水をやりながら、不意に泣きそうになった。
二十九歳になったのに、私はまだ人生がわからない。なんのために生きているのかわからない。みんなは、例えば、仕事に全力投球するとか、恋人と結婚するとか、好きなことを極めるとか、したいことがあるように見える。だけど、私は選べない。いずれにも振りきってしまえないのだ。
もう歳なんて取りたくない。学生の頃は楽しかった。片想いだったけど好きな人がいて、友達がいて、勉強や部活をそこそこがんばって。
学生時代のまま、時が止まったらよかったのに。
だめだ。どうしたらいいんだろう、私。これからの人生。ていうか、これまでなにをしてきたんだろう。
銀色の手すりに肘をついて地上を見下ろすと、人一人歩いていない道路を街灯が照らしていた。その時ふと、手すりが意外と低いことに気が付いた。このまま身を乗り出したら、頭から落ちる、落ちられるな――。
「やめろって」
突然強い力で二の腕を掴まれ、後ろに体を持っていかれた。――え?
「死ぬなよ」
声がすぐ耳元でした。後ろから体温が伝わってくる。サンダルが右足だけ脱げていて、コンクリートの冷たさを感じた。
――立ったまま、誰かに抱きとめられている。
おそるおそる上半身をねじって振り返ったら、至近距離で目が合った。息を呑む。
きれい。潤んだような、黒目の大きな瞳。二重で、やさしげ。だけど……どこかさびしげだ。
「……大丈夫?」
思わず口からこぼれた。言ってから、これは私の台詞でなく、相手の台詞だ、と思った。
「なにが?」
案の定、彼は目をしばたたいた。だが、私は続けてしまった。
「いや……さびしそうに見えたから」
彼が一瞬表情を止めた。
「――そんなに見つめんといて」
からかうような軽い声に、はっとした。彼の手が離れる。あわてて私も体を離して、向かい合った。彼は黒っぽい着物を着て立っていた。同色の羽織を羽織っている。背は百六十六センチの私より少し高いくらいだ。細身だけど、抱きとめられた感触はがっちりしていて、男性だと強く感じた。離れると、その瞳はさびしそうではなくて、ただきれいなだけだった。鼻も細高くてきれいな形をしている。口元も目立たない。髪は黒髪でセンターパートで、
「あ」
思い出した。今日も見た、あの動画の人だ。だけど、名前は知らない。
「俺のこと、知ってはるでしょ? ふつう、もうちょっときゃーきゃー騒いでくれるんやけどな」
その言葉と髪をかき上げる仕草に、見られ慣れている人だ、と思う。自分がかっこいいと自覚している人だ、とも。
「……知りません」
「え、まじで言ってる? 着物男子の隼人を知らんとか、」
不意に言葉を途切れさせた。自分の右手をまじまじと見ている。
「……なんですか? ていうか、どうやってうちに入ったんですか?」
助けてくれたんだとは思う。だけど、最初の驚きが去るとこわさだけが残って、急激に不安がふくらんだ。男性と二人きりになる機会なんてこれまでの人生なかった。しかも、初対面の人だ。そこそこ有名な人だけに、高い口止め料を払わされたら困る。いや、こういう場合は逆か。私が高い口止め料を要求する?
射られるように顔を見つめられ、心臓が早鐘を打った。
「自分、誰ともキスしたことないん?」
「は?」
顔がかっと熱くなった。なにを初対面で。……事実だけど。ていうか、これは危険な状況では? 私は後ずさった。武器になるもの。物干し竿はあるけど、これを振りまわして、窓でも割ってしまったら。いや、この際、それはささいなことだ。
「まあええわ。年上? は年上やろね、二十代後半? 俺二十四歳なんやけど」
いや、だから、なに。私は物干し竿に手を伸ばした。こんな失礼なやつ――。
「まあええわ。俺のこの手がその証拠やし。――なあ、俺と一緒に歳を重ねてくれへん?」
「は?」
「せやから……せや、最近はもっとはっきり言わなあかんねんな。めんどいな。俺と付き合わへん? てか、付き合うてほしいねん。運命の人やねんから」
息が止まる。
強い風が吹き抜けた気がした。胸に小さな灯りが灯って、全身がぶわりとあたたかくなる。
片想いばかりだったいくつかの恋。誰からもそういう意味で好かれたことのない私。
だけど、どうしてこんな人が――。きれいで、だけど、軽そうな、私とは世界のちがう人が。
「あ」
急に彼はなにかに気付いたように顔をしかめた。
「ごめん、急がへんと。また会いに来る。それまで、とにかく、髪染めんとって。それと、くちびる守っといて。誰ともキスしたらあかんで」
ふたたび射した月光に、瞳がきらめいた。私は見とれるだけで、なんの反応もできなかった。
「ほな」
くるりとその場で一回転したと思ったら、彼の姿は跡形もなく消えていた。
「……なんだったの?」
夢のような気もした。だけど、腕を掴まれ、抱きとめられたあたたかな感触、今も止まらない鼓動が、夢じゃない証拠――。
部屋に戻って、「着物男子 隼人」で動画を検索する。やっぱりさっきの人だ。だけど、どうやってうちに。しかも、突然消えた。
「また見てなー」
耳が熱くなる。この声。そう、この、ちょっと低くて、深い声だった。
運命の人だと言った。誰ともキスしたらあかんで、とも。
キスなんて、誰がしてくれるの……。
また会いに来るとも言っていた。本当かどうかわからない。私にとっては特別な言葉でも、彼にとってはなんでもない社交辞令なのかも。
あ、ほら、この動画。
「いつもみんなありがとー! 愛しとるよー」
ってほら、気軽に言っている。誰にでも言っちゃえるんだろう。
大体、私は彼のことをなにも知らない。遊んでいそうだし、私のことも、恋愛慣れ、男慣れしていない年上の女をからかっただけというか……。
いい夢を見ただけ、と言い聞かせる。だけど、彼の瞳とそのまなざし、声、抱きとめられた熱さが、離れなかった。
土日はいつも通り、なにごともなく過ぎた。仕事のある平日より少し遅めに起きて、一人でご飯を食べ、洗濯をして、掃除をして、スーパーに買い出しに行って、また一人でご飯を食べた。趣味のレース編みを少しだけ。今は赤い糸で、花の形のコースターを作っている。仲のいい友達はほとんど結婚していて、誘われることもないし、こちらも誘いにくい。
誕生日は気分も落ち込んでいたけど、不幸なわけではない。ただ、仕事もプライベートもなんの花も咲かすことなく、枯れていくんだろうな――と思う。でも、それはそれでなんの不足があるだろう。自分の食い扶持を稼いで、身のまわりのことをして生きていくだけで、じゅうぶん私はがんばっている。生きているだけで、上等だ。
月曜日も、いつもと同じ仕事内容で、いつもと同じような会話。
「ねえ、染谷さんって今、手すいてる?」
町田先輩はすでに書類を手元に用意して、私の席のそばに立っていた。
「あ……少しだけなら」
本当は営業部から頼まれた資料作りがあった。だけど、たぶん、急げば間に合うはずだ。
「そしたら、これ、頼んでいい? 企画部から頼まれたんだけど。今週中でいいんだけど、私、ちょっと今、いっぱいいっぱいで」
「了解です。企画部のどなたですか?」
「あ、企画部には私から返しておくから、終わったら言ってー」
「……はい」
書類にざっと目を通し、クリアファイルに入れていったん置いておく。なんていうか……なんていうかだ。キーボードを叩く音が自然と大きくなる。
私にも矜持がある。仕事は好きでないけど、きちんとこなすし、精度の高い仕事をしたいと思っている。だから、先輩に利用されていても、最終的に会社の利益になる、それならそれでいい。でも――一体、私はなんのため、誰のために生きているのだろう。
あの日の彼が頭に思い浮かんだ。……あんなにきれいな人に見つめられるなんて初めてのことだった。誰にも見つめられたことはないけれど……。あれから三日が経つが、なんの音沙汰もない。会いに来ると言っていたのに。SNSは見ないようにしていた。私に会いに来てくれないのに、更新されていたら、がっかりしてしまう。傲慢だろうか。それとも、愚かだろうか。――だけど、まあ、軽い人だし、失礼だし、いずれにしても、あれは夢だ。
現実は、パソコンと書類の山、仕事を押しつけて成果は横取りする先輩、それに気付いていない上司たち、見て見ぬふりの同僚たちだ。
午後八時をまわって、私はパソコンの電源を切った。
「お先に失礼します」
「おつかれー」
「おつかれさま」
まばらに返ってくる声に、先輩の声はもちろんない。
会社の入るビルを出た。人の波に、私だけじゃない、みんな働いている、と少しだけ気持ちが上向きになる。今日は自炊をしなくてよし。スーパーでお弁当を買って帰ろう。アイスも買おうかな。いつもと変わらない風景、いつもと変わらない日常。
「遅いんやな」
突然背後から声がした。あの声。
振り返ると、隼人がいた。藍色の着物に薄いグレーの帯を合わせている。
「心配したで、ぜんぜん出てきへんから」
「……残業してたから」
声がかすれた。
「大変やな。てか、ごめんな、また会いに来る言うてたのに、なかなか時間なくてさ。俺もこう見えて忙しいねん、せやから、」
と、きゃーっと甲高い声がした。
「隼人だー」
その声を契機に、一気にまわりが彼に気付いた。
「え、まじで生隼人じゃない?」
「うそうそ、えーほんとだ! 写真撮らせてくれないかな? てか、サイン! てか握手!」
「てか、あの女なに?」
「……マネージャー? だよね、たぶん」
体がさあっと冷えた。心臓がきしむ。私はこの人のなんでもないし、お似合いでもない。
あー、と彼が頭をかいた。本当にめんどくさそうな、嫌そうな声で、心臓が凍った。私がそばにいたせいで、迷惑を。
「……ほんまにめんどいな。るりさん、行くで。しっかりつかまっといて」
なんで私の名前を知っているの? 思った瞬間、彼が私に近付いた。近い。後ずさろうとしたが、腕を掴まれる。強い風が吹いた。その場で体が彼とともに一回転して――上空に巻き上がっていくような感覚――。
「……え?」
地面がない。足が浮いている。眼下は、無数の光できらめいている。ビルの電気だろうか。大きなビル群を、私は見下ろしていた。私、今、空を飛んでいる……?
「あ、あんま動かんといて。落ちたら死ぬ」
耳元でささやかれて、体が熱くなった。――彼に後ろから抱きかかえられている。
「……ちょっとこわい」
「ごめん、俺一人やったらぜんぜんちゃう場所に行けたんやけど、るりさん、初めてやから。あのビルの屋上に降りるで」
抱きかかえられたまま、近くの白っぽいビルの屋上まで飛んで、そして、そっと降ろされた。固い地面に、足の力が抜けた。
「大丈夫?!」
彼が体を支えてくれたけど、そのまましゃがみ込んで、両手をついてしまう。コンクリートは冷たかったけど、その固さにほっとした。
「……大丈夫じゃないです」
「ごめん。こんなつもりちゃうかってん。まあ、目立つかなとは思うたけど、洋服やったら、俺ってわからんかもと思うて」
彼は私の前にまわり込んで、片膝をついてしゃがんだ。目が合う。吸い込まれそうな瞳。自分の気持ちがわからなくて、混乱した。みんなの視線はおそろしかったし、空を飛んだのもこわかった。そもそも、この人が何者なのかわからなくて不安だ。だけど、胸があたたたくて、なんだか泣きそう。
彼がそっと微笑んだ。満面の笑みではなかったが、空気がぱっときらめくような華やかさがあった。
「髪染めんとおってくれとる。もう一個の約束も守ってくれとる?」
「約束?」
「誰ともキスせんといてって」
私は曖昧に笑った。
「……守ってる。ていうか、心配しなくても大丈夫」
「なんで?」
「……だって、誰も望まないから。体目的のやつ以外は」
「そんなわけないやん」
「そんなことあるんだって……。ていうか、あなたって……その、何者?」
「ああ、ごめん、説明遅なって。表向きは二十四歳、インフルエンサー兼モデルの着物男子隼人。で、実質は約千四十歳のあやかし。名前は、史誠」
「……え? あやかしって……妖? 狐とか、なんだろう、天狗とか……?」
「んー狐も天狗もおるけど、俺とは別の族。俺の場合は、ていうか、俺の属する族は、そういう一言で言える族じゃなくて……まあ、簡単に言うたら、人の感情を食べて生きる鬼やな」
「おに?」
隼人――いや、史誠はその場にあぐらをかいて座った。ためらったが、私も床におしりをつけて座った。
「うん。――そんな怯えた顔せんとってよ。あのな、あやかしの条件は、一に魔力を持っとること、二に人間の食糧とはちがうもんを食糧にすることや。魔力って一言に言うてもいろいろあるねんけど……せやな、例えば、付喪神ってわかる? 付喪神の宿ったもんも、一種の魔力やし……。まあ、いろいろや。せやから、鬼言うてもいろんな族がおって、そら、なかには人間を食べる族もおるけど、それ以外は太陽光で生きる族とか月光で生きる族とか、人間を傷付けん族がほとんどやねん。……まあ、俺の族は微妙なところやけど。感情の一部をもらうわけやから……」
指先から冷えていく。こわい、だけど、惹かれてしまう。でも、信じられない。だけど、突然アパートに現れたこと、消えたこと、そして今日空を飛んだこと。魔力でなければ、なにで説明がつくだろう。
「……そういうあやかしってたくさんいるの?」
「うん。あやかしの中に、いろんな族があって、その族の中にまたようけ家がある。俺は、人間の感情を食べる鬼の族の中の恒明家に属する。人間に混じって生活しよるんもおるし、人間が誰も来んようなとこで生活しよるんもおる。いろいろやな」
彼は、有名な女優の名を二人挙げた。
「月光で生きる鬼と、天狗や」
「そうなんだ……」
世界の見え方が一変した気がした。
「あやかしかどうか見分ける方法ってあるの?」
「いや。やけど、あやかしって死なへんやつとか、めっちゃ長生き、千年くらい生きるやつとかが多いねん。せやから、あやかし同士、顔見知りのやつはわかる。それと、俺の族……人間の感情を食べる族は、あやかしかどうか感情の匂いで判断できる。直接会ったら。あやかしは、感情にほんのちょっと魔力が混じってるから、匂いがちゃうねん」
「感情が匂うってこと?」
「簡単に言うたらそう。やけど、一般的な鼻で感じる匂いとはちょっとちゃう。なんていうか……感じるねん。第六感みたいな。それで、感情を食べる。食べるっていうか、体に触れさせてもろうて、その時の感情をちょっとだけ吸わせてもらう」
――処理しきれない。だけど、
「じゃあ、あの時も、」
「せや。あの時、死にたい感情が匂ったから、助けに行った」
それから、冗談めかしたように付け加える。
「ついでに、ちょっとだけ食べさせてもろたけど……。あの後、ほかにも死にたい感情が匂ってん。せやから、ほかにも行かなあかんくて、ちゃんと説明できへんかってん。インフルエンサーとモデルの仕事もあるし」
「……いつも助けてるの?」
彼はなぜか目を伏せた。――なんでそんなにさびしそうなの。思わず体が動いて、抱きしめてしまった。彼が脈打っているのを感じた。そのあたたかさも。彼が身じろぎして、私ははっとして体を離した。彼はうつむいて、
「せや。せやけど、あんまええことちゃうねん。せやから、誰にも言わんといて」
「言わないけど……いいことじゃないの?」
「俺の族では、ええことではないねん。ルール違反でもないけど」
「……そうかもしれないけど、私は救われたし……夢だと思ってたけど」
冗談めかして笑ってみせたら、彼は顔を上げて、表情をゆるめた。
「せやろな。誰も信じてくれへんやろし。夢ちゃうけどな」
ふと彼の手に目が留まった。
「それ、どうしたの?」
彼の両手の手のひらに、火傷をしたような痕があった。それも、幾度も繰り返したような。
「ああ。気ぃ抜けてたわ。いつもは魔力で隠してんやけど。ちょっと試させてもらってええ?」
「……なにを?」
彼は答えずに、右手を私の顔に伸ばしてきた。私は動けなかった。手は、私の髪にやさしく触れた。顔が赤くなるのが自分でもわかった。
「やっぱり」
彼は髪から離した手を私に見せた。痕がきれいに消えて、なめらかになっている。
「……なんで?」
彼は次は左手で私の髪に触れ、ほら、と見せた。こちらもきれいになっている。
「左手首、見せて」
「え?」
左手を取られ、ジャケットとブラウスの袖をめくられる。手首内側、縦に三つ並んだほくろに、
「やっぱり」
とまた言った。手を取られているのが恥ずかしくなる。
「……離して」
彼はあっさり手を離した。男性から手を取られた経験なんて……それこそ、小学生の頃のダンス以来じゃないだろうか。
「実はさ、」
彼の真剣な声に顔を上げたけど、強いまなざしに逃げたくなった。こんなに真剣に向き合われても、私はきっとなにも返せない。
「帰らせて」
立ち上がろうとしたら、立ちくらみが起きた。目の前が真っ黒に塗りつぶされて、思わずしゃがみ込む。
「ちょっ、大丈夫?!」
体にふわりと布のようなものがかけられた感覚がして、それから布ごと体をぎゅっと抱きしめられた。徐々に視界が晴れた。すぐそばに瞳。わずかにゆがめられている――心配するように。思わず目を閉じた。これ以上希望や期待を抱く前に、夢だとわかっているうちに、早く目を覚ましたい。
「ごめん、疲れさせて。せやけど、もうちょっと話聞いてほしいねん。このままでええから」
ささやかれる。
「あのな……俺ってあやかしの家に生まれたのに、魔力がぜんぜんなくてさ。当然、人間の感情を食べるなんてできへんくて、人間の食べものと同じもんしか受け付けへんかってん。要するに、突然変異で人間として生まれたねん」
びっくりして目を開けた。だって、彼は今魔力を持っているはずだ。彼は目を閉じていた。そのまつげがかすかに震えていた。
「俺の族は、ふつう、永遠の命を持っている。生まれながらに持つ魔力はだんだん強くなって、二十歳から二十四歳でピークを迎える。同時に、そのピークの状態で体も成長を止めて、年を重ねなくなる。なかには生まれた時は魔力がなかったけど、数歳で魔力ができ、そのまま強くなる人もおる。やけど、俺はずっと魔力がなくて、二十四歳になっても片鱗も見られなかった。俺は二十四歳まで人間やった。そんな俺を心配して、祖父ちゃんが俺に魔力を移した。魔力と同時に、俺は永遠の命も得た。永遠の二十四歳になった。言うのは簡単やけど、ほんまはそんなことしたらあかんねん。禁忌なんや。禁忌を犯したから、祖父ちゃんは死んだ。永遠の命やったのに。それに、俺は、感情を食べるために、あるいはその目的でなくても、人間の体に触れたら、火傷するようになった。……運命の人以外は」
