あなたとつむぐ恋のうた

 それは、色鮮やかな音楽だった。
 柔らかな歌声が旋律に乗って僕の中に流れ込んできた。
 優しいのに胸に残る悲しさを含んだメッセージは、今も口ずさんでしまうほどに心に残っている。
 ステージ上で輝くように演奏している先輩は、すごく遠くにいるように見えた。
 こんなに素敵な曲を作るなんて。
 僕は時折夢を見る。憧れてしまったあの人を。
 
 
 放課後の部室。
 僕は六月の文化祭で発行する文芸部部誌『かさね』用のエッセイを書いていた。
 ボールペンを片手に、あの時の情景をそっと思い浮かべる。
「鮮麗な世界であなたと—」
 思わず口をついて出たメロディは記憶の中のそれとは違っていた。
 僕は小さくため息をつく。
 もし叶うのならばもう一度あの曲を聴きたい。そして音の波に攫われてしまいたい……。
 ボールペンを回しながら、取り留めもなく考える。
 一向に筆が進む気がしなかった。
 五月末の締切までに間に合うだろうか?
「それ、去年の軽音部の曲?」
 急に声をかけられて、驚いて顔を上げる。目の前には佐々木部長がいた。
「はい、去年の文化祭の。すごく耳に残っていて。最初オリジナルとは知らなくてCDショップで探しちゃったんですよ」
「はは、それ、三鷹が聞いたら泣いて喜ぶぜ」
「三鷹さん?……それって軽音部の?」
「そう、その曲作ったやつ。三鷹蓮。俺の友達なんだ。軽音部の部長」
 持っていたボールペンを落としそうになる。慌てて受け止めると僕は部長に聞いた。
「え?仲良いんですか?僕、今回のエッセイ、その曲にまつわる話にしようと思ってるんです」
「マジか!相澤、本当に気に入ってるんだな。そっか。もし良かったら、三鷹を取材するか?」
「え?取材ですか?」
 大きな声が出て、自分で自分に驚いた。
 もし取材できたなら、きっと内容の厚みも増すだろう。
 でも一番は、憧れの人に会いたかった。
「そう。必要なら俺が三鷹に頼むけど。あいつ絶対喜ぶから」
「いいんですか?」
 口元が緩んでしまいそうになるのを必死で堪えた。けれどもそれは失敗したようだ。 
「絶対いいから大丈夫。気にすんな!相澤、顔に感情がダダ漏れだぞ?三鷹に都合いい日聞いとくから、決まったら連絡するよ」
「ありがとうございます!」
 あの繊細な曲はどんな人が作ったのだろう?
 意識してきゅっと口を結んだ。そうしていないと自然とにやけてしまいそうだ。
 僕は三鷹先輩と会える日に思いを馳せた。



 それから程なくして部長から連絡があり、僕は三鷹先輩と放課後に会うことになった。
 場所は軽音部部室。文化部棟二階の一番奥の部屋だ。微かにギターの音が聞こえてくる。
 期待と緊張でどうにかなりそうだった。
 小さく深呼吸してから、そっと扉をノックした。
「どうぞ」
 柔らかく優しい声と共に扉が開かれる。
 ああ、この声だ。
 頭の中で流れる歌。文化祭の情景。
 次々と思い浮かんでは消えていく。
 僕は思っていたよりもずっとずっと、心を奪われていたらしい。
「失礼します」
「そんなに緊張しないでいいよー。俺しかいないから」
 少し長めの前髪の奥、長い睫毛に縁取られた目が弧を描く。魅惑的な笑顔に思わず目を奪われた。
「あ、あの……僕、2年の相澤と言います。よろしくお願いします」
「大丈夫。知ってるよ。紬くん、ここ座って?」
 僕は首を傾げた。
 まだ下の名前を言っていないのに。
「あの、名前……」
「ああ、名前呼び、嫌だった?綺麗な名前だから呼びたくて。相澤くんって呼ぼうか?」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です」
 どうして知っているのか不思議に思ったが部長が伝えているのかもしれない。
 さらっと名前を褒められて、顔に血が集まってゆくのを感じた。でも、あの色気のある低音ボイスで名前を呼ばれるのは悪くない。
 僕はくすぐったいような恥ずかしいようななんともいえない気持ちになる。
 心の内が顔に出ないように気をつけながら、言われた通りに椅子に腰掛けた。
 開いた窓から、五月の爽やかな風が入ってくる。そういえば、この部室は文芸部室と違ってなんだか良い香りがする。
 手持ち無沙汰に辺りを見回していると、三鷹先輩はスタンドにそっとギターを立てかけて、僕に向かい合うように座った。
 僕は緊張を吹き消すように息を吸って、あらためて挨拶をした。
「今日は時間を作っていただいてありがとうございます」
「タメ口でいいよ。よろしくねー。それで何を知りたいのかなあ?」
「先輩にタメ口なんてそんな!このまま話させてください」
「紬くんは礼儀正しいんだねえ。いい子、いい子」
 言いながら三鷹先輩は小さく伸びをした。
 さらっと本気か冗談かわからない発言をする。
 本当に僕がタメ口で話し始めたらどうするんだろう?
 曲調や歌詞もさることながら、本人も掴みどころがないというか…中性的なルックスも相まって独特な雰囲気を纏っている。
 僕は咳払いをして三鷹先輩に問いかける。
「あの……、取材始めてもいいですか?」
「いいよー、なんでも聞いて?」
 優しく微笑みかけられた。
 一瞬、目を奪われて、慌てて質問をまとめたルーズリーフを見た。
「去年の文化祭で三鷹先輩が作った曲を聴いて、僕、曲の中に入るというか飲み込まれていくような気がして。曲調と歌詞がとても合っていてずっと漂流していたくなる。どうやって曲を作ってるんですか?」
「紬くん、やっぱり文芸部だね!表現が詩的!……どうやってか、そうね。割と何かを見たり体験した時に一フレーズだけふっと出てきて、そこから広げていくかなぁ」
「それは歌詞もですか?」
「うん。というか、歌詞が先にできちゃう時もあるよ。どうしても伝えたい内容とか」
「三鷹先輩の歌詞って、語彙が豊かで表現も独特ですよね。それなのにするっと入ってきちゃう。僕も文章を書くので気になるんですけど、何かコツというか、気をつけていることってありますか?」
「うーん、何かあるかなぁ?強いて言えば、自分の気持ちや伝えたいことにフィットする言葉選びをしてるつもり。……ねぇ、紬くん固いねえ、もうちょいリラックスして?そんなんじゃ疲れちゃうでしょう?」
 微笑みかけられて、自然とつられて笑顔になる。息をするのが楽になった気がする。
 なんだか、とても不思議な人だ。
「ありがとうございます。少しだけ緊張がとれました」
 僕は先ほどまで三鷹先輩が持っていたギターに目をやる。黒いエレキギターはよく見ると所々に傷があるが丁寧に手入れされているように見えた。
「ギター、気になる?」
「はい。近くで見るの初めてなので。先ほども丁寧に立てかけてたので、大切にしてるんだなと」
「うん。そのギター、兄貴のお下がりなの。家で弾く姿見て、かっこいいなーって思って始めたんだ。もう兄貴は音楽やめちゃったんだけどね」
 そう言って、三鷹先輩は少し淋しそうな顔をした。
 触れてはいけない話題だったのだろうか?
「大切なギターなんですね」
 僕は気の利いたセリフひとつ言えず、ただのありきたりな感想を言うしかなかった。
「そうだね。これからもずっと大切にするつもり」
 しんみりとした口調で静かに言う三鷹先輩をそっと覗き込む。元からどこか儚げな印象が魅力的な人だけれど、そんな表情をされると申し訳ない気持ちになる。
 目があって、微笑み返してくれた。
 不意打ちにあって顔が火照る。
 真っ赤になった僕に、三鷹先輩は穏やかに言った。
「なんでもないよー。あ、そうだ!ギター触ってみる?」
「大切なギターなのに、いいんですか?」
「いいよー。だって紬くん、大切に触ってくれるでしょう?さっきも心配してくれたし」
 スタンドから取り上げて僕に渡してくれる。
 三鷹先輩は持ち方や弾き方を丁寧にレクチャーしてくれた。その時に触れた指先の硬さに、何度も繰り返し弦を弾いてきた積み重ねを感じた。きっとこの人の中に音楽が渦巻いて存在していて、ギターとこの両手でそれを取り出してゆくのだ。
 僕は言葉を失ってギターに夢中になる。
 不意に三鷹先輩が口を開く。
「ねえ、俺からも質問してもいい?」
「はい。僕に答えられることならなんでも」
 なぜか、どんなことを聞かれるのか怖い気がした。
「紬くん、俺の歌、気に入ってくれてるんだよね?佐々木から聞いた時嬉しかった。ありがとう。ねえ、どこが一番好き?」
「…一番、ですか?」
「うん」
「一番、って言われると悩むんですが…そうだな…聴いていて自然と自分の中に情景が浮かんでくるところ、ですかね。さっきも言いましたけど、言葉の選び方とか言い回しとか、文芸部の僕よりよっぽど上手ですし」
「ありがとう。でもそれは褒めすぎ」
 三鷹先輩は少し照れたように言って、髪を掻き上げた。通った鼻筋や薄い唇が見えた。整った顔立ちを意識すると緊張してしまう。無意識にその艶のある髪に触れそうになって手を引っ込めた。
 僕はごまかすようにインタビューの予定にはなかった質問をした。
「先輩もやっぱり読書とかお好きですか?」
「うん。好きだよー。だからそのおかげもあると思う。佐々木と仲良いのも、その繋がりなんだよ」
「そうなんですね!」
 やっと繋がった気がした。
 部長と三鷹先輩はタイプが違うから不思議だったのだ。
「うん。だから紬くんも読書好き同士、仲良くしてね?」
「はい!こちらこそ」
 憧れの三鷹先輩にそう言われて、僕は思わず笑顔になった。社交辞令としても嬉しかった。
 次の質問はどれにしようかと悩んでいるうちに、最終下校時刻を告げる予鈴が聞こえてくる。
「あっ、もうそんな時間…」
 がっかりして思わず心の声が漏れてしまう。
「もう帰る時間だね。楽しい時間は過ぎるのが早いねえ」
「はい。今日はありがとうございました!もっとたくさん質問したいことがあったのに残念です」
「俺ももっとお話ししたかったな。一緒に帰ろっか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
 一緒に立ち上がって、思っていたよりも三鷹先輩の背が高いことに驚く。171センチの僕よりも五センチ以上高い。
「どうかしたー?」
「…背が高いなと思いまして」
「思っていたより高かった?」
「…そうですね、すみません。僕とそんなに変わらないと思ってました」
「いいのいいの。よく言われるから。猫背だからかなあ?これで180近くあるんだよ」
 三鷹先輩がギグバッグにギターをしまいながら、僕の失礼な言葉をなんでもないことのように言う。
「そんなにあるんですね。羨ましいです」
 僕は言いながら最後に窓の戸締まりを確認して、リュックを背負って三鷹先輩のそばに行った。
「戸締まりありがとね。じゃあ行こっか」
 スクバを脇に抱え、ギグバッグを背負う三鷹先輩の横顔を見上げる。それに気付いたのか、こちらを向いて笑顔で言った。
「いつでも取材、受けるからね、またお話ししようね」
 初めて会ったはずなのに、居心地が良くていつまででも話していられる気がした。次もまた話せるんだ、と思うと嬉しくて自然と口元が綻ぶのを感じた。
 憧れの人が、少しだけ、手の届く存在になった。それだけで僕は幸せだった。