籠の鳥の再縁



 巳貴は続けた。

「姉上は、お前の母親の死後も、お前の母親を愛していた。だからお前に近付いたのだ。お前の母親のいる世界に行くために」

 詩乃の頭の中で、過去の記憶が次々と形を成して繋がっていく。何故、絵巳里が頑なに周囲からの婚姻話を断り続けていたのか。何故、家格も立場もあまりに釣り合わない自分のような娘を、絵巳里が特別に傍に置き、優しくしてくれていたのか。その全てに、すとんと合点がいってしまった。あの時、絵巳里が何故詩乃に「歌を歌って」としつこいほどに強要したのかについても。全ては詩乃の奥に、死した母の面影を追い求めていたからなのだ。

「絵巳里様は……私と仲良くしたかったわけではないのですね……」

 悲しみに胸を締め付けられながら、詩乃は、布団の中で眠り続ける絵巳里へと視線を向けた。彼女が自ら心を閉ざしてまで望んだ花の世界。そこには今、自分の母親もいるのだろうか。

 その時、こちらへと近付いてくる重々しい足音が響いた。
 詩乃が緊張しながらそちらを見つめていると、戸口にある男の姿が出てきた。花人の絶対的な信頼を得ている側近――泉だった。
 その大柄な体躯で部屋に影を落とした泉は、床にへたり込む詩乃の痛々しい姿を視界に捉え、次いで鞭を握る巳貴へと視線を向けた。そして、あからさまに蔑むように顔を顰める。

「……ここに来るのが私でよかったですね。花人様なら、あなたのことを殺していますよ」

 泉は巳貴の放つ威圧など気にもとめず、無遠慮に部屋の中へと踏み込み、詩乃のもとへ真っ直ぐに歩み寄ってくる。

「何をしにここへ来た?」

 巳貴が不快げに眉を寄せ、行く手を阻むように鋭い一歩を踏み出すが、泉はその制止を完全に無視した。詩乃の傍らに膝をつくと、「傷の手当をします」と、その大きな手で優しく彼女を気遣う。

「もう一度聞く。何をしにここへ来た。勝手に立ち入るなど無礼にもほどがあるぞ」

 苛立ちを隠そうともしない巳貴の声に、泉は淡々と答えを返した。

「本日は交渉をしに参りました。花神家当主の花人様だけでなく、山神家の要人も既にここに呼んでおります」

 泉は傷ついた詩乃の身体を抱え上げた。そして、巳貴の方に視線を向ける。

「予想はしていましたが、ここまで暴力を振るっているとは」

 そう吐き捨てると、泉の唇が、酷く厭味ったらしく歪んだ。

「父上にそっくりでいらっしゃいますね」

 その一言が放たれた瞬間、巳貴の顔がはっと何かに気付いたように、絶望の色に染まった。

「昔は御三家の交流が多かったので知っていますよ。蛇神家の当主様は昔から亭主関白なお人でした。奥方への暴力は日常茶飯事、奥方からのあなたへの体罰も酷かったとお聞きします。可哀想に……。家族と繋がる方法を、暴力しか知らないのですね」

 巳貴は、一言も言い返さなかった。いや、言い返せなかったという方が正しいのだろう。
 詩乃はそのまま泉に連れ出され、空いていた本邸の一室で手厚い手当を受けることとなった。痛々しく腫れ上がった傷口に、丁寧に薬が塗られていく。

「花人様のもとへ行く前に傷跡だけは隠しましょう。花人様に見られたら何しだすか分かりませんからね」

 泉はそう言って苦笑を浮かべ、自分の上着を詩乃に着せることにより、手当した詩乃の体の傷を覆い隠した。

 傷の手当を終えた詩乃は、泉に促されるまま客間へと向かった。
 広々とした畳の間に、花神家の一族や屈強な兵たち、そして山神家の一族と彼らが従える兵たちが、左右にずらりと居並んでいる。場は緊迫感に満ちていた。
 山神家の泰山だけが、詩乃と目が合うと場違いなほどににかっと白い歯を見せて笑い、気さくに手を振ってきた。その金色の耳飾りが揺れる。その一瞬だけ、張り詰めた心が少しだけ緩む。
 ふと見れば、部屋の奥に座る花人の隣がぽっかりと空いていた。引き寄せられるように、泉の案内に従ってその席へ座りかけた――その時だった。

「おい」

 背後から冷ややかな声がして、詩乃はびくりと身体を強張らせた。振り返ると、巳貴が歪んだ目でこちらを睨みつけている。

(そうだ……私は、蛇神家の嫁なのだから)

 座るべき場所は、夫である巳貴の隣に決まっている。そんな当然のことすら頭から抜け落ちるほど自分がぼうっとしていたことに気付き、羞恥心に頬を染めて小さく俯いた。
 威厳を放つ蛇神家当主とその奥方の隣。そこに腰を下ろした巳貴のすぐ隣に、詩乃もまた、縮こまるようにして腰掛けた。
 気を取り直してあらためて室内を見回すと、先ほど空いていると思った花人の隣には、白髪の学者――北原先生が泰然と座っていた。

「……それで、花神家の若当主。先代の花の神を殺すというのはどういうことだ」

 巳貴の父である蛇神家当主が、沈黙を破って眉間に深い皺を刻んで苦渋に満ちた声をあげた。
 何も聞かされていない、今ここに来たばかりの詩乃にとっても予想外の発言である。

「詳しくは、こちらにいる異能学者――北原先生にお聞きください」

 花人が流れるような仕草で隣の北原先生を紹介すると、蛇神家当主は驚愕に目を見開いた。

「北原……まさか、近代異能学の父と呼ばれる、あの北原先生ですか? まだご存命だったとは……」
「おや、勝手に過去の人にしないでください。確かに日本を離れた時期は長かったですが、老骨に鞭打ってまだまだ現役ですよ」

 北原は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。そして一つ咳払いをすると、本題を説明し始める。

「山神家、蛇神家の皆様。あなたがたは、帝都に災厄をもたらした花神家を武力で討つことで、この事態の責任を取らせようとしているようですが……実はそれでは、何も根本的な解決にはなりません」

 部屋中の視線が北原に集中する。

「花の神の世界――すなわち天界へ赴き、全ての諸悪の根源である先代の花の神を完全に消滅させなければ、現在も眠り続けている花咲き病の人々は、誰一人として目覚めることはないのです」
「何だと……?」

 山神家、蛇神家の両者当主たちの間に動揺が走る。山神家当主が怪訝そうに声を荒らげた。

「先代の花の神は、数年前に崩御されたはずではないのか」
「肉体は滅びても、花の神の世界――人間が天界と呼んでいる、精神世界で魂の核が生きております。あの病を治すには、その核を壊す他に道はありません」

 北原は眼鏡の位置を直しながら、言葉を続ける。

「幸いにも、あなたがたは近日中に花神家を襲撃するため、精鋭の兵を用意しているはずだ」

 その言葉に、蛇神家の者たちがハッとしたように身を硬くした。襲撃の日程が筒抜けであったことに驚いているのだろう。

「その兵力をそのまま使い、山神家と蛇神家を総動員させ、精神世界へ突入して花の神を討つのです」
「おいおい、待てよ先生」

 山神家の泰山が焦ったように身を乗り出す。

「神の世界へ生身の人間が行って、無事に戻って来れるのかよ?」

 誰もが抱く至極当然の恐怖だったが、北原は落ち着き払った様子で首を横に振った。

「御三家であれば神の加護がある。山の神、蛇の神の力が、あなたがたを守る盾となるでしょう。私の手元にある過去の記録には、御三家の人間が一時的に体に花を咲かせながらも、すぐに自力で目覚めたという明確な記載があります。……泰山殿、少しよろしいですか」

 そう言って、北原は懐から、禍々しくも美しい赤い一輪の花を差し出した。

「これは花咲き病の罹患者から採取した花です。詩乃様からお借りしました。山神家の一員たるあなたが進み出て、この花に触れてみてください」

 促されるようにして、泰山がおそるおそる北原の持つその赤い花に指先で触れた。
――途端、生き生きとしていた花弁がみるみるうちに黒ずみ、一瞬にしてカサカサと音を立てて枯れ落ちていった。
 誰もが息を呑む中、北原は確信に満ちた声で語る。

「ご覧の通り、山神家の者が触れただけで花は枯れた。己が祀る神の加護により、精神の侵食を跳ね返している証拠です。実際、体に一時的に花が咲きながらも自力で生還した人間は、口を揃えてこう言います。――どこまでも花が咲き乱れる世界と、美しい女性の姿を夢で見た、と」

 泰山が喉を鳴らし、躊躇いがちに聞いた。

「……その精神世界ってやつに乗り込んで、先代の神様をブチ殺せってことか。理屈は分かったが、んなこと本当にできんのかよ」
「できるかは分かりません。ですが、あらゆる可能性を試してみるのが研究ですからね」
「そもそも、どうやってその世界へ行くんだ。門でもあるのか?」

 蛇神家当主の問いに、北原は静かに視線を巡らせ、詩乃の方を指差してきた。

「詩乃様に、歌を歌っていただきます」

 唐突に自分の名前を挙げられ、詩乃の心臓がびくりと跳ね上がった。一斉に突き刺さる周囲の視線に、思わず肩をすくめる。

「今代の花の神の血を引く詩乃様ならば、先代と同じ力を引き出せるはず。神力の発動条件は『歌』。彼女の歌声を媒介にすれば、御三家の兵たちを一斉に花の神の世界へ誘導することが可能です」

 にっこりと確信に満ちた笑顔を向けてくる北原に、泰山は複雑そうに顔を顰めた。そして、今度はその隣で静かに佇む花人に声をかける。

「おい、花神家の兄ちゃん。仮にその作戦が成功して先代の神を完全に殺しちまったら、花神家は本当に花の神を失うことになるんじゃねえか? 今の花の神である詩乃ちゃんは蛇神家にいるし、ろくに神力を使いこなせねえんだろ。そうなりゃ御三家からの除名どころか、爵位も領地も国に返上することになるぞ」

 その問いかけに、花人はふっと緊張感のない笑いを漏らし、皮肉げに唇を釣り上げてみせた。

「白々しい。武力で俺たちを潰して除名させようとしていた連中が、今更こちらの心配ですか?」

 花人は冷たい眼差しで一同を見回すと、最後に、真っ直ぐ詩乃のことだけを見つめた。その瞳には、揺るぎない絶対の情愛が宿っていた。

「元々、花の神を追い出した時代から、花の神はいないも同然です。それに、蛇神家のご長女を目覚めさせてしーちゃんを娶れるのなら、家名などどうなってもいい」

 あまりにも大胆な発言に、しん、と場が静まる。花人の態度に、誰もが言葉を失っているようだった。
 詩乃のすぐ隣からは、ぎちり、と不穏な音が聞こえた。見れば、巳貴の拳が膝の上で、血が滲まんばかりに固く握り締められていた。
 けれど、今詩乃の頭を占めているのは、巳貴への恐怖ではなく、花人がくれた言葉への感動だった。自分のような存在のために、全てを投げ打つと言ってくれた。その気持ちに応えたいという強い衝動が、詩乃の背中を突き動かす。
 詩乃は意を決して前へ出ると、花人の隣に座る北原先生を真っ直ぐに見つめ、控えめに尋ねた。

「……北原先生。私も、その世界へ行くことはできるのでしょうか?」
「え?」

 不意を突かれたように、北原先生が声を漏らす。

「花の神の世界へ、私自身が赴くことは、可能ですか」

 北原先生は一瞬、驚いたように言葉を詰まらせた。そして、指先で眼鏡のブリッジを押し上げると、難しい表情で口を開いた。

「さあ、どうでしょうな……。先代の神は生前、あちらとこちらを自在に行き来していたようです。ですから、可能か不可能かで言えば可能なのでしょうが、未だ神力を完全に使いこなせていない詩乃様に、それだけの芸当ができるかどうか……」
「……やってみます。いえ、やらせてください」

 詩乃の口から、これまでにない力強い言葉が紡がれた。
 あちらの世界には、母がいるのかもしれない。そして――絵巳里も。

「……おい、これってもし、成功しなかったらどうなるんだ?」

 山神家の兵の一人が小さく声をあげた。
 北原先生はゆっくりと一同を見回し、淡々とした声音で答えた。

「さあ、どうなるでしょうね。山神家と蛇神家の加護が、先代の花の神の神力に力負けするということですから……死に至ることも十分に有り得るでしょう」

 北原先生はそこで言葉を一度区切ると、にやりと、どこか残酷な笑みを浮かべて言い放った。

「もし成功しなければ、ここにいる全員が等しく死ぬ作戦です」

 その時、山神家の泰山がぷっと吹き出し、次いで天を仰いで豪快に笑い始めた。

「おもしれえ! やってみようぜ!」

 泰山は立ち上がると、不安に揺れる自らの兵たちを振り返り、彼らの士気を高めるように声を張り上げた。

「これに成功したら、体が燃やされてねえ患者に関しては、全員救えるってことだろ。そうなりゃおれら英雄だぜ」

 泰山が兵たちに向かって、士気を高めるように声を張り上げた。
 その力強い言葉に、山神家の兵たちの顔から怯えが消え、好戦的な光が宿り始める。泰山はさらにニカッと笑みを深め、拳を突き上げた。

「びびってる腰抜けはいるか!? 少なくともうちの家にはいねえよな!」

 「応ッ!」と、客間が震えるほどの雄叫びが山神家側から沸き起こる。
 その熱気に動かされるように、それまで沈黙を保っていた蛇神家の当主も、重々しく首を縦に振った。

「帝都のために動けなければ御三家の名が廃るというもの。ここで退いては、先祖に顔向けができん。我々も力添えしましょう」

 父の言葉を受け、その隣に座る巳貴もまた、同調した。

「姉上を救えるのであれば、全力を尽くそう」

 御三家の意思が一つの方向へと完全に合致した。それを見届けた北原先生は、満足そうに頷き、詩乃に向かって深く一礼した。

「では、詩乃様。私は異能を持ち合わせぬただの凡夫、ここから先は邪魔にしかなりません。一足先に退室いたします。皆様の首尾を、こちらでお祈りしておりますよ。準備が整い次第、その神力をお使いください」

 北原先生が部屋を去ると、客間に再び、静けさが戻ってきた。
 全員の視線が詩乃へと注がれる。
 詩乃はそっと胸に手を当てた。そして、深く息を吸い込み、ゆっくりと、その唇を開く。
 ――腹の底から響いたのは、高い歌だった。
 昔から知る、母から教わった歌だ。子守唄のような旋律が客間を満たしていく。
 途端、異変が起きた。

「な……っ、これは……!?」

 最初に声をあげた兵の胸元から、恐ろしいほどの速度で、真っ赤な桜の蕾が衣服を突き破って急成長を始めた。
 それを皮切りに、泰山の、巳貴の、そして居並ぶ両家の兵たち全員の身体から、狂い咲くようにして鮮やかな花々が次々と吹き出していく。首筋から、腕から、胸元から、花が一斉に開花していく。

「く、そ……身体が、急に……」

 屈強な兵が一人、ドサリと糸が切れたように畳へ崩れ落ちた。
 それを合図にしたかのように、泰山も、蛇神家当主も、ばたばたと音を立ててその場に倒れ伏していく。ついには全員がその場へ倒れ込んだ。巳貴だけが、床に根を張るように立ったまま、全身に花を咲かせて眠った。
 最後に花人が詩乃を見つめ、優しく微笑む。彼はその顔のまま身体に美しい花を咲かせ、眠ってしまった。
 客間に生い茂る、悍ましくも美しい花々の絨毯の真ん中で、詩乃は立ち尽くした。
 目を瞑る。すると、彼女の意識もまた、ゆっくりと、花の香りが満ちる奈落の底へと引きずり込まれていった。

 ――そこは、美しい極楽浄土だった。
 空はなく、頭上には淡く発光する極彩色の霧が澱みなく流れている。足元を見れば、現実には存在し得ないほど大輪の、そして不気味なほど鮮やかな花々の絨毯が大地を埋め尽くしている。踏み潰しても、そこからじわびると透き通った血のような蜜が溢れ、甘やかな香りが鼻腔を鋭く刺す。どこまでも、どこまでも続く花の海――それこそが、花の神が創り上げた精神世界だった。
 歪な楽園で、御三家の兵たちと、諸悪の根源たる詩乃の母親が既に正面から激突している。

「怯むな! 包囲網を縮めろ! 相手はたった一人だ!」

 現実世界から精神を転移させた蛇神家と山神家の精鋭たちが、それぞれの武器を構えて突撃する。
 彼らの前に立ちはだかる詩乃の母親は、かつて絶世と謳われたであろう面影を残しながらも、その様相は異様だった。瞳には光がなく、焦点はどこにも合っていない。衣服はぼろぼろに擦り切れ、その肌からは無数の蔦や花が直接生え出ている。何かを呟くわけでもなく、ただ虚空を見つめたまま、壊れたからくり人形のように指先を不自然に蠢かせていた。ほぼ廃人と化していながらも、その身から溢れる神力だけは悍ましいほどに健在らしい。

「ぁ、あ……」

 彼女の口から言葉にならない掠れた息が漏れた瞬間、足元の花々が一斉に牙を剥いた。
 無数の薔薇の棘が、桜の枝が、槍のような質量を持って兵たちを貫こうと急成長する。
 進み出たのは、蛇神家の一族だった。彼らが使役する蛇の神の力が解放される。
 空間の裂け目から、鱗を妖しく光らせた無数の大蛇が這い出し、凄まじい密度の群れとなって詩乃の母へと押し寄せた。蛇たちは花の神の操る蔦や枝に噛みつき、その強靭な胴体で締め上げ、毒牙で花弁を腐らせていく。肉と植物が擦れ合う不気味な音が響き渡る。

「おいおい、蛇神家ばっかりにいい格好させるんじゃねえぞ!」

 山神家の兵たちが、泰山の掛け声と共に一斉に大地を強く踏み締めた。
 彼らが宿す山の神の力により、大地が揺れる。空間そのものが目に見えるほど激しく歪み、花神の足元の地面が爆ぜるように盛り上がった。
 地響きが轟く。念力の圧迫が、詩乃の母親に向かって全方位から叩きつけられる。花弁の嵐が吹き荒れ、美しくも凄惨な戦場の中で、鉄錆の臭いと花の甘い香りが混ざり合っていった。
 その激闘の轟音を背に受けながら、詩乃は夢中で走っていた。

「絵巳里様……! 絵巳里様、どこにいらっしゃるのですか……!」

 叫ぶ声は、どこまでも広がる花の海に吸い込まれて消えていく。
 膝まで埋まる花をかき分け、踏み潰し、詩乃はただ一人の女性を探して走り続けた。現実の世界で、ただ冷たく眠り続けていた巳貴の姉。自分の母親を狂おしいほどに慕い、この地獄のような美しい世界へ自ら囚われにいった哀しい人。

 走っても走っても、視界に映るのは狂い咲く極彩色の花ばかり。
 衣服の裾が茨に裂かれ、足元がもつれて何度も倒れ込みそうになる。けれど、詩乃は止まらなかった。あの人が、この世界のどこかで母の面影を待っている。
 衣服の下で、現実世界で負った鞭の傷が幻痛のようにズキズキと痛む。それでも詩乃は涙を拭い、花弁が吹雪のように舞い散る果てしない世界を、ただひたすらに進み続けた。

 ――そして、その人を見つけた。

 狂い咲く花々の中、薄桃色の花弁をひと抱えほども胸に抱いて、静かに立っている人影があった。蛇神絵巳里――現実の世界では、氷のように冷たい体でただ眠り続けているはずの女性が、そこにいた。
 三年前、蛇神家の本邸で詩乃に優しく微笑みかけてくれていたあの頃と少しも変わらぬ、気高く、どこまでも美しい姿のまま、絵巳里は迷い込んできた詩乃へと、慈しむような笑みを向けた。

「何か大きな音が聞こえるのだけれど、向こうで何かあったのかしら?」

 地響きと大蛇の咆哮が遠く轟く狂乱の世界にあって、彼女の声だけは、陽だまりのように穏やかだった。詩乃がなぜこの精神世界にいるのか、それを驚く様子すらなく、まるですぐそこの庭園で出逢ったかのように自然に問いかけてくる。
 詩乃はたまらず絵巳里の胸へと飛び込んだ。その身体を、壊れ物を抱くように必死に抱きしめる。

「絵巳里様……っ、絵巳里様……!!」

 溢れ出た涙が、絵巳里の纏う美しい着物の衣を濡らしていく。懐かしいぬくもりが、現実の痛みに擦り切れていた詩乃の心を包み込んでいくようだった。

「戻りましょう」
「え?」
「戻りましょう、元の世界に!」

 詩乃は絵巳里の肩に手をかけ、その曇りのない瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「あなたを迎えに来たんです!」

 その必死の訴えが響いた途端、絵巳里の顔からそれまでの穏やかな陽光が掻き消えた。彼女の顔は冷たい無表情へと変わり、詩乃の手を強く振り解いた。

「何を言っているの。わたくしはようやく、望む世界に来れたのに」

 美しい彼女ははっきりと拒絶を示す。けれど詩乃は怯まない。現実の世界で、彼女を想って生きている男の顔が脳裏を過ったからだ。

「あなたを待っている人がいます! 巳貴様が、あなたの弟が、今もずっとあなたを……!」

 詩乃は必死に説得する。しかし絵巳里の唇から漏れたのは、笑いだった。

「あの家も世界も、結局は男たちの都合で回っている。世の女が、どれほど息苦しい檻に閉じ込められているか、貴女だって嫌というほど味わったでしょう? 家のため、男のために心を殺し、道具として買われ、国の子孫繁栄のためだけに陵辱される。そんな醜い現実世界に、どうして戻らなければならないの。ああそう。貴女はまだ、あちらの世界に囚われた、籠の鳥なのね」

 絵巳里の瞳に、激しい嫌悪が浮かぶ。

「わたくしは、誰がなんと言おうと、自分の道を進むわ。空を追い続ける」

 言い捨てると同時に、絵巳里は美しい衣を翻し、走り出した。
 彼女が向かう先――それは、先ほどまで詩乃が背にしてきた、凄惨な戦火の渦中だった。廃人と化した詩乃の母親が、今まさに御三家の兵たちによってなぶり殺されようとしている、硝煙と返り血が入り混じる最悪の戦場。

「絵巳里様、いけません! そちらは……!」

 詩乃の制止の叫びは届かない。絵巳里は血を流す詩乃の母親の姿だけをその瞳に映し、恐れも躊躇いも一切なく、地獄の業火のごとき戦火へと自ら飛び込んでいった。
 狂い咲く花々が燃え盛り、朱赤の炎が天を焦がす。その火の海の中へ、絵巳里の美しい姿は、愛しい人を追うようにして、あっけなく飲み込まれて消えていった。
 詩乃の目にはその姿が、大空へ飛び去っていく鳥のように見えた。

 やがて、狂おしいほどに美しかった世界が、音を立てて瓦解し始めた。
 極彩色の霧が澱んでいた頭上の虚空に亀裂が走る。果てしなく続いていた花々の海が、足元から漆黒の奈落へと崩落していく。天界そのものが激しく震え、引き裂かれていく衝撃の中で、詩乃の意識は急速に混濁し、足元がおぼつかなくなっていった。

 ――母が、死んだのだ。

 向こうの戦火のなかで、諸悪の根源であり、かつて自分を生んだ一人の女性の精神の核が、ついに完全に破壊されたのだと、詩乃は直感的に悟っていた。
 神無き世界がその形を維持できずに消滅していく凄まじい轟音のなかで、遠退いていく意識に身を任せながら、詩乃はただ、全てが終わったことを感じていた。

 目を覚ました詩乃の目に、ある光景が映った。
 そこにあったのは、戦いを終え、全てが一段落した安堵の空気ではなかった。
 精神世界から帰還し、未だ朦朧とした様子で立っている巳貴。その無防備な背後から――花人が刃で、彼の身体を貫いていた。
 花人はまるで待ち伏せしていた獲物を仕留めた獣のように、昏く、愉悦に満ちた笑みを浮かべている。

「やっぱりね。花の世界から戻ってきたその瞬間は、油断すると思ってたんだよ」

 花人が容赦なく刀をずるりと引き抜く。金属と肉が擦れ合う嫌な音が響いた。しかし、そこから鮮血が噴き出すことはなかった。巳貴の傷口から、まるで這い出る虫のように無数の黒い小蛇が蠢きながら湧き出し、引き裂かれた肉と服を強引に縫い合わせるようにして、その傷を急速に塞いでいく。

「はは、それが蛇の神の加護か。厄介だなあ」

 花人は面白そうに声をあげたが、その声音にはいささかの動揺もなかった。
 客間の畳の上には、まだ両家の兵たちが折り重なるようにして倒れ、眠り続けている。彼らの身体に咲き誇っていた禍々しい花々は、精神世界の崩壊とともに、今じわじわと煙を立てて枯れていく途中だった。まだ誰も、目覚めていない。
 この事態を止める人がいない。

「でも、際限はあるでしょう。どこまで斬れば君は死ぬかな」

 花人は楽しげに口角を上げ、手にした刀を構え直した。
 蛇の治癒によって強制的に意識を覚醒させた巳貴が、激痛に顔を歪めながらも腰の刀を引き抜き、花人からの攻撃をを間一髪で受け止める。
 きぃん――と、静かな客間に、鼓膜を震わせるほどの激しい金属音が炸裂する。
 まだ完全に身体の力が戻りきっていない巳貴に対し、花人は容赦なく、猛烈な連撃を叩きつけた。目にも留まらぬ速さで繰り出される刃が、客間の障子を切り裂き、畳を跳ね上げる。
 巳貴は防戦一方になりながらも、力を強引に引き出したようだった。巳貴の背後から巨大な大蛇が這い出し、牙を剥いて花人へと襲いかかる。
 しかし、花人は翻る蝶のように軽やかにその顎をかわし、逆に大蛇の首を一瞬で一刀両断にしてみせた。飛び散る霧を浴びながら、花人はさらに距離を詰め、巳貴の肉体を再び深く切り裂く。
 飛び散る血飛沫と、それを塞ごうと蠢く不気味な蛇の群れ。
 狂気的な笑みを絶やさず刃を振るう花人と、満身創痍でありながらも脅威の生命力で立ち塞がる巳貴。
 まだ兵たちが眠り続ける静かな客間は一瞬にして、二人の男の殺意がぶつかり合う、凄惨な戦場へと変貌していた。
 まだ意識が戻ったばかりで力の出ない詩乃は、その場にへたり込み、二人を見守ることしかできない。
 花人の猛攻を受け止め、血を吐きながらも刀を突き出す巳貴が、憎悪に満ちた声を絞り出す。

「こん、なことをして、許されると思っているのか」

 的を射た警告だった。蛇神家の次期当主である巳貴をこの場で殺害すれば、花人は確実にお尋ね者となる。国家を揺るがす大罪人として追われ、捕まれば死罪となるだろう。

「思ってないよ?」

 しかし、花人は刃を交えたまま、まるで子どものように無邪気に微笑んだ。

「花の神を失った俺はもう何者でもない。何も失うものはない。なら俺は、最後にしーちゃんを苦しめたお前を殺すよ」

 巳貴の喉からハッ、と乾いた笑いが漏れ出た。

「さすがは、詩乃の母親を殺しただけある」

 その言葉に、へたり込んでいた詩乃の心臓が凍りつく。

「それどころかお前は、自分の兄二人も殺しただろう」

 巳貴は花人が動揺したその一瞬の隙を見逃さず、花人の剣を押し返し、その視線を床にへたり込む詩乃へと向けた。

「詩乃、聞け。そいつは狂っている。目的のためなら手段を選ばない。お前の母親は、この男に殺されたんだぞ」

 頭が割れそうな混乱の中で息を呑む詩乃に向かって、巳貴は血に濡れた手を伸ばした。

「俺のもとへ戻ってこい」

 突きつけられた真実に、詩乃はしばらく言葉を失う。
 花人が先代の花の神を殺害したという噂は、虚飾ではなかったのだ。それどころか、実の兄たち、そして詩乃の母親の命までもが、彼の手によって奪われていた。
 花人は、詩乃が知っているような、汚れなき無垢な存在ではない。優しく微笑む横顔の裏で、数え切れないほどの血に塗れている。彼は、美しく清らかなだけの花ではないのかもしれない。
 ……たとえそれが本当だったとしても。たとえ、その両手がどれほどおぞましい罪に染まっていたとしても。

「私は……花人お兄ちゃんを信じる」

 声を震わせたまま、詩乃ははっきりと、その言葉を言い切った。
 彼がどれだけ人を殺していたとしても、失意の底にいた自分に手を差し伸べ、神ではなく一人の人間として愛そうとしてくれたのは、他ならぬ花人なのだ。
 詩乃は地に手を突き、満身創痍の夫を真っ直ぐに見据えた。

「旦那様、私と離縁してください。私は、花人様と今後の人生を共にしたいのです」

 その決定的な拒絶の言葉を突きつけられた瞬間、巳貴の顔が、見たこともないほど悲しげに歪んだ。

「どうしてだ! どうして……っ、俺はお前を――愛していたのに」

 その叫びは、不器用で、歪で、暴力でしか他者と繋がれなかった哀れな男が、生まれて初めて吐露した本心の、剥き出しの愛の告白だったのかもしれない。
 しかしその直後、その未練を断ち切るように、銀光が一閃した。
 言葉の終わりと同時に、花人の刀が巳貴の首筋を容赦なく真横に駆け抜ける。

 ――一瞬の後、巳貴の身体が、畳の上へと崩れ落ちた。
 彼は二度と動かない骸となり、その生涯を閉じのだった。