「……分かった」
詩乃は、全ての真実を受け止めて微笑んだ。
花人が驚いたように目を見開く。
「……信じてくれるの? 俺はずっと、しーちゃんに隠し事をしていたのに」
不安だった。でも、期待もしていた。
花人の自分に対する感情が、打算などない、純粋なものであると。
「六歳からの仲なのに、今更隠し事くらいで嫌いになったりしないよ」
詩乃がそう言うと、花人は泣きそうな顔で笑った。
「……よかった」
そして、暗くなった空気を明るくするように、柔らかな声を出す。
「しーちゃん、お腹空いてない? 実は、ここへ来る途中で泉に、しーちゃんにご飯を出すように伝えてあるんだ」
「えっ? いや、そんな、いいよ」
「しーちゃんのご飯は、さっき俺が食べちゃったし。食事をする部屋があるから、一緒に行こう」
花人は立ち上がり、部屋の襖を開けた。詩乃も慌ててその後に続き、来客の間を後にした。
長い廊下を進む途中、大きな窓の向こうに、和風庭園が広がっているのが見えた。
中央に濁りのない池があり、その周囲を取り囲むようにして、瑞々しい梅雨時の花々が、絢爛と咲き誇っている。
その美しさに、詩乃は思わず一瞬だけ足を止めて見惚れてしまった。
けれどそれも数秒のことで、すぐにハッと我に返り、先を行く花人の背中を追いかける。しかし足元がもつれ、板敷きの床で滑って身体が大きく傾いた。何とか体勢を保ち、姿勢を正した詩乃の先に、予想外の光景があった。
「大丈夫?」
倒れそうになった詩乃の気配を察し、花人がすぐさま振り返ったのである。
ただ、それだけのことだった。誰かが自分の危うさに気づき、すぐに振り返ってくれる――そんなあまりにも些細な出来事に、詩乃の心は激しく揺さぶられた。
「だ……大丈夫」
詩乃は再度歩き出す。
すると、花人はそれ以上先を急ぐことなく、詩乃の隣へと寄り添った。
花人が詩乃の歩幅に合わせて、ゆったりとした足取りで歩く。
その瞬間、なんとも形容しがたい感情が、詩乃の中に生まれる。
――好きだ、と思った。
巳貴はいつも、詩乃よりも前を歩く。先をすたすたと歩み、遅ければ置いていく。
けれど花人は、立ち止まってくれた。後ろを歩く詩乃の様子を気にしてくれた。
巳貴なら絶対に、詩乃が転けようと先を進む。そして詩乃は、彼のことをいずれ見失う。
「あそこだよ。食事の間」
廊下の奥の部屋を指さす花人。
詩乃の中から、堰を切ったように抑えきれない感情が溢れ出した。気がつけば詩乃は、案内するために少し前に立った花人の背中へと、後ろから抱きついていた。
着物越しに、彼の体温と、小さく刻まれる心音が伝わってくる。
(――好き)
この温かな背中に顔を埋めながら、このまま時が止まればいいのにと願う。
(……本当は、花人お兄ちゃんと共に生きたい)
溢れる想いをそのまま口にできたら、どれほど幸せだっただろうか。
しかし、眩い光のようなその願いは、すぐに冷えきった現実によって遮られる。蛇神家のあの暗い離れで、今も眠り続けている絵巳里の姿が頭に浮かぶ。
彼女があの家に囚われている以上、自由を選択することは許されない。絵巳里の眠る原因の一端が自分にあるのならなおさらだ。
自分は、あの冷たい籠の中へと、帰らなければならない。
「……しーちゃん?」
花人の声がして、詩乃は彼の背中からぱっと身体を離した。
「ごめんなさい、少しふらついてしまって」
何事もなかったかのようにいつものように無理に笑ってみせ、再び歩き始めた。
窓の外で激しさを増していく土砂降りの雨音が、詩乃の気持ちを残酷に覆い隠していく。
それでも、今はそれでよかった。
恋情に突き動かされて絵巳里を見捨てるほど、詩乃は薄情になれない。
◆ ◆ ◆
花人と夕食を共にした後、詩乃は、花人が手配した運転手の自動車へと乗り込んだ。激しさを増す雨の中、車は水飛沫を上げて夜の闇へと滑り出し、去っていった。
花人は、ランプの赤い光が遠ざかり、その姿が完全に視界から消え去るまで、じっとその方向を見つめていた。
帰っていく詩乃を思い、細く、長い息を吐き出す。
「行かせてよかったのですか?」
花人の代わりに傘をさしている泉が、詩乃の行く先を憂うような声で言った。
花人は、つまらなそうに返す。
「そりゃあ、帰らせたいか帰らせたくないかで言えば、帰らせたくなかったけれど」
ふらついたと言って寄りかかってきた彼女の細い体を抱きしめて、そのまま口付けをして、あの家に帰してやらなければよかった。
しかし花人には、それができない理由がある。
「まあ、ここにいることが詩乃様の安全でもないですからね」
泉の言葉は的確であった。
今の花神家を取り巻く状況は、決して穏やかではない。政府は御三家の枠組みから花神家を排除しようと躍起になっており、花神家は、いつ奇襲や武力争いに巻き込まれてもおかしくない、極めて不安定な状態にある。
無論、当主として相応の防衛策は張り巡らせている。しかし、愛しい彼女をこの血生臭い争いの渦中に巻き込む危険を思えば、蛇神家に身を置いている方がまだ安全であると言わざるを得なかった。
けれど花人の胸には、どうしても拭い去れない、棘のような違和感が突き刺さったままだ。
「しーちゃんが会うたびに怪我をしてるの、何でだと思う?」
「異能犯罪を犯した女性が蛇神家の次期当主のもとに嫁いだんですよ。立場上釣り合わないと反感は買うでしょう。使用人や、周囲の人間からの嫌がらせという線が濃厚かと」
「嫉妬による女性からの嫌がらせ、ね。……それにしては、傷が可愛くないけれど」
詩乃の顔に刻まれていた微かな痕や、衣服の隙間から見え隠れしていた、痛々しい変色――あれは力の弱い女の嫌がらせでできるような生易しいものではない。明らかに、大の男が容赦なく拳を叩きつけたような、痛々しい暴力の痕跡である。
加害者の正体として、容易に導き出される一人の男。そこへ思考が行き着くたびに、花人の体の底から、どろりと黒く濁った感情が這い上がってくる。
「しかし、どうも腑に落ちませんね。次期当主である蛇神巳貴本人も、アザモノを嫁に取ると格が落ちるとして、結婚当初は随分と周囲から叩かれたそうです。彼にとってその婚姻に利があるとは到底思えない。詩乃様を嫁にしたことで、彼自身も苦労が絶えなかったでしょう。聡明で合理的な彼にしては、そこだけがあまり理性的な選択に見えないといいますか」
泉は腕を組み、蛇神巳貴という男の真意を計りかねるように眉根を寄せていた。確かに、利害を最優先する蛇神の人間が、身内にしても何の得もない犯罪者をわざわざ妻に迎えたこと自体、奇妙極まりない。
だが、花人にとって男側の動機など、些末なことだった。
「どうでもいい。いざとなれば、あの男は殺すだけだ」
花人はそう言って、いつものように美しく、けれど酷く昏い笑みを浮かべた。
◇
詩乃が蛇神家の屋敷に足を踏み入れた途端、廊下の奥から怒鳴り声が聞こえてきた。
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
覚悟はしていた。こうなることは承知の上で行動を起こしたのだ。
詩乃は声のする方へと、ゆっくりと足を進めた。
廊下を渡る途中、にやにやと下品な薄笑いを浮かべた千姫が姿を現した。彼女は詩乃の姿を捉えると、待ってましたとばかりに嘲るような声をかけてくる。
「奥様、旦那様の言いつけを破ったってほんとですかぁ? 随分とまあ、派手にお出かけになられたようで」
ねっとりとまとわりつくような、侮蔑の混じった声音であった。いつもなら言葉を詰まらせてしまうところだったが、今の詩乃には、千姫の相手をしている暇などない。詩乃はその嫌味を無視し、千姫の脇をすり抜けるようにして、小走りで怒鳴り声のする部屋へと急いだ。
部屋に入ると、墓地まで自分に付き添ってくれていた使用人が床に蹲っていた。彼女は顔から血を流して身を縮めている。
その姿が目に飛び込んできた途端、サーッと血の気が引いていく。
(戻ってくるのが遅かった……)
何故こんな簡単なことに想像が及ばなかったのだろう。自分が監視を巻いて逃げ出したとなれば、見張りの任務を与えられていた使用人が、巳貴から罰を受けることになる。
花人に会いたい、本当のことを知りたいという、その一念で頭がいっぱいになっていた。自分の身勝手な行動が周囲にどのような災厄をもたらすか、考えが及んでいなかった。
拳を血に染めた巳貴の鋭い眼光が、獲物を捉えるようにして、まっすぐに詩乃の方へと向けられる。
「今日、墓から逃げ出したと聞いたが」
衣服を血で汚したままの巳貴は、詩乃の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。
「どこへ行っていた?」
突きつけられた問いに、詩乃は喉が完全に押し潰されたかのように、ぐっと黙り込むしかなかった。
視線をわずかに落とすと、床に蹲ったままの使用人が、助けを求めるような目で詩乃を見上げていた。
どう答えればいいだろう。花人のもとへ行ったと正直に言えば、自分だけでなく、この使用人もただでは済まない。どう答えれば最も巳貴の怒りを最小限に抑えられるのか、焦燥の中で思考がぐるぐると回っていく。
緊迫した沈黙が流れる中、後ろから足音を忍ばせて、千姫が愉しげに部屋に入ってきた。
「旦那様ぁ。この女のことだから、他所に男でもいるに決まっています。アザモノは誰からも見向きされないはずですもの、お相手も余程下賤の男なのでしょう。旦那様ってばお可哀想。わたしが慰めてさしあげますからね……」
千姫は勝ちを確信したように、ぴとりと巳貴の逞しい腕に己の身体をすり寄せ、詩乃へ蔑みの目を向ける。これで詩乃の失脚は決定的だと、愉悦に瞳を濡らして。
次期当主の妻の座を狙っている彼女からしたら、さぞ都合の良い展開だろう。
――しかし。
「きゃあっ!」
巳貴は、表情一つ変えずに、自分にくっついてきた千姫の身体を、鬱陶しい羽虫でも払うかのように突き飛ばした。
詩乃は驚いて目を見開く。
巳貴が自分以外の女性をこのように扱うところを見たのが初めてであったからだ。
床に尻もちをついた千姫は、涙目で自身の肩を抱きながら、信じられないといった面持ちで巳貴を見上げた。しかし、巳貴の視線は、彼女を人間としてすら捉えていないように冷え切っていた。
「俺は入室を許可したか?」
「…………へ」
「呼んでもいないのにのこのこと。さっさと出ていけ」
千姫は息を呑んだ。自尊心をへし折られたのか、顔を屈辱に歪めながらも、どうしても諦めきれないように再び巳貴の足元へと縋りつく。
「何故そんなことを言うのですか……っ? 旦那様、わたしとあなたは昨日も愛し合ったではありませんか。わたしが好きだとおっしゃってくれたでしょう!? 旦那様は、わたしのことを、愛しているは、ず、」
悲痛な叫びは、一瞬にして途切れる。
鈍い衝撃音が室内に響き渡り、一撃で千姫の身体が床へと転がった。ぴくりとも動かなくなった彼女の、床にぶつけた頭から、赤い血がだらりと流れる。
詩乃はその場に縫い付けられたように絶句し、ただ恐怖に身を震わせるしかなかった。
「それで? どこへ行っていた」
巳貴はまるで何事もなかったかのように、詩乃へと同じ質問を繰り返した。その冷たい目が、じりじりと詩乃を追い詰めていく。
「……答えたくありません」
詩乃が苦し紛れに、震える声で回答を拒んだ、その刹那。
視界が不自然に歪み、激しい衝撃が詩乃の頬を襲った。
気がついた時には、詩乃も千姫と同じように床へと倒れ込んでいた。打たれた頬が焼けるように熱い。痛みに耐えながら、乱れた髪の隙間から恐る恐る見上げた先、そこに立つ巳貴の唇は、歪に釣り上がっていた。
「お前は本当に頭が悪いな。どこへ行ったか、俺が把握していないと思ったか?」
――調べが付いている。
こちらに答えを求めておきながら、巳貴の方は、既に答えを知っているのだ。
巳貴は倒れ込む詩乃の髪を掴み上げ、ずるずると床を引きずるようにして冷たい廊下へと連れ出した。
「いた、いたッ、い」
「醜いお前が表に顔を出せば恥をかくのは俺たちの家だ。最初から、こうしておけばよかった」
頭皮が引き裂かれるような激痛に、詩乃は涙を流しながら必死に彼の腕に手をかけるが、鋼のような力で拒絶される。
板敷きの廊下に擦れて着物がはだけ、全身の生傷が悲鳴を上げる。
引きずられた先にあったのは、絵巳里の眠る、暗い離れの一室だった。
乱暴に戸を開け、畳の上へと投げ出される。詩乃の髪から手を離した巳貴は、息を切らす詩乃を冷たい目で見下ろしながら、薄ら笑いを浮かべた。
「この離れはな、元々は俺が幼い頃、粗相をした時に母親に折檻させられていた部屋だ。……どういうことか分かるか?」
詩乃は、嫌な予感がした。
母に厳しい教育を受けていた巳貴が、過去によく閉じ込められていた部屋……ということは。
「外から錠がかけられる。お前はここで一生、姉上の世話をしていればいい」
開け放たれた戸口の向こう、庭園の灯籠から漏れる朧気な光が巳貴の背中を照らし、その表情を不気味な逆光の影で塗り潰す。
暗闇の中に浮かび上がる彼の口元だけが、愉悦に歪んでいた。
「そもそも、罪人であるお前が外の空気を吸って生きていることの方がおかしい。そうだろ? なあ?」
震える詩乃を見下ろし、巳貴は離れの戸を締めた。ガチャン、と外側から重々しい錠前がかけられる音がする。
内側からどれだけ叩こうとも、巳貴は戸を開けず、さっさと立ち去ってしまった。足音が遠ざかっていく。
底知れない絶望が、詩乃の全身を深く飲み込んでいった。
◇
離れの部屋に監禁状態となったまま、長い月日が流れていった。
食事は一日一食、巳貴が仕事帰りに運んでくる。巳貴は墓参りの一件から使用人への信用をなくしたのか、離れへの使用人の出入りすら禁じているようだった。あの後、怒りに任せて気に入らない使用人を一斉に解雇したとも聞いた。
詩乃のいる離れに、巳貴以外の人間は誰も来ない。
今、何月なのかも分からない。蒸し暑いことから、夏も半ばであろうことは予想がつく。
絵巳里の世話をし、食事を取り、何もない部屋の中で時間を浪費するだけの日々である。屋敷の家事のため毎日動き回っていた詩乃からすれば、体が鈍っていくような、体の先端から死んでいくような感覚がした。
そんな詩乃には、唯一の心の支えがあった。
この離れには、花人と過去に交わした手紙を置いてある。自室は巳貴が頻繁に出入りするため、隠す意図で一部移動させたものだ。絵巳里のいる離れであれば、使用人も滅多に出入りしない。だからこの部屋は、隠し物をするにはちょうどよい場所だったのである。
『こちらはすっかり冬の気配が濃くなり、毎日冷たい雨が降っています。時折、君と過ごした日本の温かなひだまりが恋しくなります。しーちゃん、そちらは寒くありませんか。風邪をひいていないか心配です』
『留学中、いつもしーちゃんの笑顔を思い出します。どんなに離れていても、俺のことを忘れないでいてくれると嬉しいです』
まだ花人が遥か遠くの異国にいた頃、海を越えて届けられた手紙の束。万年筆のインクで綴られた彼の文字がそこにある。
こっそりと読み返すたびに、まだ生きていようと思えた。
そして、隣で眠る絵巳里の姿を見るたびに、まだ死んではいけないと思った。
まだ外が明るい時間帯、詩乃は手紙を抱き締めたまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた。昼であれば巳貴が帰ってこないと、そう踏んでいたのだ。
――しかし。
戸を開ける音がして目覚めた。開け放たれた戸口の前に、逆光を背負った巳貴が立っている。
一瞬、ぼうっと寝ぼけていた詩乃は、はっとして上体を起こし、手元にあった手紙を咄嗟に布団の裏へ押し込もうとする。しかし、その慌てた様子こそが、巳貴を怪しませたらしい。
巳貴は部屋に踏み込み、詩乃を冷たい目で見下ろした。
「それは何だ?」
低く問われ、一瞬にして顔から血の気が引いた。何とかして隠し通そうと身を縮めたが、巳貴の冷ややかな目は、紙面に記された送り主の名を既に捉えたようだった。
「俺に隠れて何を読んでいるのかと思えば」
巳貴の目が釣り上がる。その顔に浮かんだのは、身の程知らずな虫を眺めるかのような、底冷えのする嘲笑だった。
「こそこそと、他の男と手紙を交わしていたのか」
「……これは違います、この手紙は結婚前に送られてきたもので、旦那様と結婚した後は、一度も手紙のやり取りはしてな――」
言葉が言い終わるか終わらないかの刹那、巳貴の大きな手が、詩乃の細い首を掴み上げる。
「……ッ」
抵抗する間もなく、詩乃の身体は畳の上へと勢いよく押し倒された。背中に受けた衝撃の直後、詩乃の首を絞め上げる巳貴の手に凄まじい力が込められる。
気道を完全に押し潰され、酸素が途絶えた。
上から組み伏せてくる巳貴の瞳は、ぎらぎらと光っている。
「お前は本当に、俺を苛立たせるのが上手だな」
首を絞める巳貴の指が、詩乃の肉に食い込んでいく。
「今ここで、殺してやろうか」
見上げた先にいる巳貴の顔が、何故か泣きそうなほどに歪んでいた。
「なあ、本当のこと言えよ。本当は、俺に隠れてずっとあの男と繋がってたんだろ」
首を絞められているせいで、声を出して弁明することができない。詩乃は否定を示すため、わずかに首を横に振った。
嘘ではない。蛇神家に嫁いで以来、詩乃は一度も花人へ手紙を返していない。過去に届いた言葉の数々を見返すだけで、自分から花人と繋がろうとしたことなど一度もなかった。
しかし詩乃の反応は、火に油を注ぐ結果にしかならなかったらしい。次の瞬間、詩乃の細い首をへし折らんばかりに、巳貴の手の力がさらに強まった。
「なあ、何で俺に嘘つくんだ? 何で? 何で? 何で? 何で? なあ、何でだよ。なあ、なあ、なあ!! おい!!」
巳貴の声が徐々に大きくなっていき、詩乃の顔のすぐ横の畳へと、その硬い拳が何度も叩きつけられる。床を伝って脳を揺さぶる振動が伝わってきて、全身が恐怖で震えた。
息ができない。苦しい。このままこの男の手によって、暗い離れの床で虚しく絞め殺されるのだという、死の予感がした。
意識の糸がぷつりと途切れかけたその時、唐突に首にかかっていた圧迫が消失した。
肺に空気が雪崩れ込み、詩乃は激しく咳き込んだ。涙と涎で顔を汚しながら床を這う詩乃を、冷然と見下ろす巳貴の口から、低い笑い声が漏れる。
「はは……」
はは、はははは、ははは――と、何がそんなにおかしいのか、狂ったような乾いた笑い声が離れに響き渡る。その笑いは徐々に熱を帯びていき、室内の空気を不気味に侵食していった。
と。巳貴は急に、弾かれたように立ち上がった。そして、力なく横たわる詩乃の隣、床に散らばる花人からの手紙を、手荒く拾い上げる。それだけでは飽き足らず、詩乃が必死に隠していた、開きかけていた棚の奥へも迷いなく手を伸ばし、残りの手紙も乱暴に引きずり出した。
詩乃が止める間もなく、巳貴は離れの重い戸を勢いよく開けた。そして、濡れた地面へ向けて、詩乃の命そのものだった手紙の束を放り捨てた。
さらに、彼の指先は、ポケットからマッチを取り出し、頭を擦って火をつける。小さな、禍々しい橙色の火花が灯った。
「……っ、おやめください!」
詩乃の口から悲痛な叫びが漏れた。床を這い、彼を止めようと必死に手を伸ばす。
しかし、巳貴はその懇願を気にかける様子すら見せず、冷笑を浮かべたまま、火のついたマッチを地面の手紙の山へと、躊躇なく投げ捨てた。
純白の紙片が一斉に真っ赤な炎を上げて燃え上がった。インクで綴られた優しい言葉たちが、詩乃の目の前で、容赦なく黒い灰へと姿を変えていく。
(嗚呼)
詩乃は、朱く染めった火の海を、呆然と見つめていた。
紙の爆ぜる音が聞こえる。
(失った。失ってしまった。何もかも)
胸を焼き尽くすのは、言葉にならない絶望だった。生きる拠り所だった唯一の光を消し去られ、心にぽっかりと穴が穿たれる。
頭上から降り注ぐ巳貴の勝ち誇った高笑いが、まるで深い水底から聞いているかのように、ひどく遠く感じられた。
いつの間にか、巳貴がすぐ傍まで来ていた。
手足の自由を奪われ、放心状態のまま床に押し倒される。抵抗する気力さえ失った詩乃の身体を、男の重みが容赦なく圧し潰した。
まるで強姦のような、一方的で痛ましい行為が詩乃の身に襲いかかる。
「はは、ははははははは! これで分かったか! お前がどれだけあの男を望んでも、俺以外との幸せを望んだとしても、お前は一生、俺のものだ! あいつと一緒になれる日など永遠に来ない!」
己の尊厳を蹂躙し、陵辱する男の手が冷たく肌を這い回るその傍らで、詩乃の虚ろな瞳は、開け放たれた戸口の外をぼんやりと見つめ続けていた。
手紙の残骸がまだ、赤々と激しく燃え盛っている。あの炎の向こうにあるはずの外の世界が、到底辿り着くことのできない、ひどく遠い幻のように思えた。
羽をもがれた鳥のよう。
人を不幸にした分際で空を求めてしまうことなど、身分不相応だったのだ。
光のない日々が続いた。
薄暗い離れで、生きながらにして死んでいるように過ごした。
機械的に食事を与えられ、深く眠り続ける絵巳里の身体を拭い、誰とも言葉を交わすことなく、夜になればただ巳貴の欲を受け入れる。心を踏みにじられ、大切な手紙を焼き尽くされ、いつしか痛みを感じることさえ忘れた。
思考の糸が解けていく。意識は常に霧の中を漂うようにぼんやりとしている。今日がいつなのか、自分がどれほどの時間をこの離れで過ごしているのか、時間感覚さえも完全に曖昧になっていった。
ある日、巳貴が薄く笑いながら、詩乃の耳元に不穏な言葉を落とした。
「よく聞け。一週間後、山神家と我が蛇神家は、花神家を襲撃する」
その言葉が摩耗しきった詩乃の頭に届くまで、長い時間がかかった。
随分と時間が経った後、詩乃は、ひび割れた声で問い返した。
「……それは……花神家が、花の神を制御できず、花咲き病を帝都に広め、多くの人が死んだからですか」
自分から出てくる声に、起伏はなかった。巳貴は詩乃のその反応に満足したように、歪に口角を上げる。
「そうだ。祀る神のいない御三家など、必要ないだろう」
神無き一族の末路など、滅びしかないのだと言い放ち、巳貴は身を屈めて詩乃の顔を覗き込んだ。そして、詩乃の中に辛うじて残っていた心の破片を完全に粉砕するように、残酷に囁く。
「お前の愛しい男も殺してやる」
花人を殺す。その宣告が、冷たい水底に落ちる石のように詩乃の中に沈んでいく。
詩乃の反応が薄く面白くなかったのか、巳貴は用が済んだと言わんばかりに部屋から去っていく。
詩乃は、巳貴の足音が廊下の向こうへ消えていくのを、焦点の合わない瞳でぼんやりと眺めていた。
――『しーちゃん』
ゆらり、と頭の中で柔らかい花が咲く。擦り切れた記憶の欠片が咲いた。まだ幼く、けれど詩乃よりも背丈の高い花人が、詩乃に向かって優しく笑いかけている。
「あ」
詩乃の口から声が漏れた。
「あ、ああ、あ、あ」
それは言葉の形を成さない。
(嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。花人お兄ちゃんに、死んでほしくない)
もう全て失ったのだと思っていた。人の幸せを完全に諦め、抜け殻のように生きていたはずだった。それなのに、花人が死ぬかもしれないと思った途端、凍りついていた心から、恐ろしいほどの熱い力が濁流となって湧き上がってくる。
詩乃は、這うようにして立ち上がると、全身の体重をかけて閉ざされた戸へとぶつかった。何度も、何度も、狂気じみた勢いで身体を戸に打ち付ける。
しかし、戸はびくともしない。
詩乃は、何時間もその行いを続けた。肩を、背中を、拳をぶつけ、ただ花人を救うために戸を開けようと足掻き続けた。けれど、ついには全身が激痛と疲労で完全に動かなくなり、力尽きて畳の上へと横たわることになった。
――その時だった。
外側からガチャリと、金属が擦れ合って錠を開ける微かな音が聞こえた。
目を見開く詩乃の前で、重い戸がゆっくりと開き、差し込んだ光の中に、一人の少女が姿を現した。
「し……詩乃様?」
かつて本邸で詩乃に親身に接してくれていた女中、杏である。
「音がしたから、誰かいるのかと思って……それに、ここに出入りしていたのは詩乃様だけだから、心配になって見に来たんですけど……」
杏の方が、詩乃の姿を目にして戸惑っているようだった。
「どうして……」
詩乃が枯れた声で問う。
すると、杏は少し恥ずかしそうに言った。
「実は私……あの後蛇神家をクビになって、しばらく実家に帰っていました。巳貴様は私だけじゃなくて、気に入らない使用人を一斉にやめさせたので、今この屋敷にいる人の数は少ないはずです。だから、忍び込むことができました。私、やっぱりどうしても詩乃様のことが気になって、今日こっそり様子を見に来たんです。そしたら、ここから音がして」
詩乃は、痛む身体を無理やり引きずり、立ち上がろうとした。
けれど、花人が死ぬ光景が再び頭に浮かんだ瞬間、膝の力が完全に抜け、その場に激しく崩れ落ちてしまった。
ほろりと涙が零れた。止めどなく溢れる涙が、詩乃の着物を濡らしていく。
その様子を目にして、杏が驚いたように息を飲んだ。
「……詩乃様、どうして泣いているのですか。それに、この鍵は何ですか? 離れに鍵なんて、なかったはずですよね」
怖いから。あの優しい温もりを、この世界から永遠に失ってしまうことが、たまらなく怖い。
「私に、できることは、ありますか」
杏が神妙な面持ちで問いかけてくる。
詩乃は泣きじゃくりながら、必死に言葉を紡いだ。
「……っこんなことをあなたに言うのは、迷惑だって分かってます。でも、私、花人お兄ちゃんに手紙を書きたいっ……それを、渡しに行ってもらえませんか。お願い、します」
詩乃は、溢れる涙を拭おうともせず、声を震わせて言った。
「他の男性に、手紙を書くような真似は、はしたないと止めますか?」
泣きながら、自嘲気味に問う詩乃を、杏はしばらく黙って見つめていた。しかし、すぐに詩乃の傍らに膝をつき、涙に濡れた詩乃の頬を優しく包み込んできた。
「詩乃様の涙を見たのは、初めてです。あなたはこれまでどんな扱いを受けても、毅然としていたのに……。だから、お手伝いをさせてください。あなたの涙が止まるように」
その力強い言葉に、詩乃の目からはまた涙が溢れた。
瞼を擦って、紙と筆を握る。
詩乃が花人に手紙を書くのは、実に三年ぶりであった。
戸が開いても、詩乃は逃げなかった。
手紙を書いている最中、杏がずっと傍にいてくれたおかげで、いくらか冷静になれたのである。
詩乃が勝手にいなくなれば、巳貴は間違いなく激怒するだろう。そして行き場のない詩乃の行き先は簡単に予想がつく。そうなれば、巳貴は予定よりも早く花神家に軍を送りつけるかもしれない。
詩乃は杏に手紙だけを託し、離れの部屋に鍵をかけさせて、再び狭い離れに閉じこもった。
(……これでいい)
手紙の内容は、花神家への襲撃の日程を伝えるものだ。
あとは杏が花神家に手紙を渡してくれるはずである。日程だけでも伝われば、花人の方も逃げるなり対抗するなりしてくれるだろう。
詩乃は杏のことを信じて、暗い部屋の中に戻った。
不思議と、胸の中から不安は消えていた。
◇
閉ざされた離れで最も恐ろしいのは、巳貴の休日が訪れることだった。
太陽がまだ高い昼間だというのに、離れに巳貴がやってきた。差し込む陽光を背に受けて立っていたのは、目をぎらつかせた巳貴だった。彼はまるで、自らの所有物を当然の権利として気まぐれに検分するかのような足取りで詩乃の元へと歩み寄ってくる。
その手には、鞭が握られていた。
「っ……」
恐怖のあまり、詩乃の喉から小さな悲鳴が漏れる。逃げ場のない狭い部屋の隅へと身を縮めたが、巳貴は表情一つ変えぬまま、容赦なく詩乃の細い手首を掴み上げ、自分のもとへと引きずり出す。
――巳貴は、詩乃を監禁するようになってから、仕事での鬱憤を詩乃を痛めつけることで晴らすようになった。
ヒュッと空気を切り裂く音が響いた直後、鞭の痛みが詩乃の背中を襲う。
「うぅ……っ!」
焼けた鉄を押し当てられたかのような激痛が走り、詩乃の身体が大きくのけぞる。衣服が裂け、その下の肌に、一瞬にして血の筋が浮かび上がった。
しかし、巳貴の虐待はそれだけでは終わらない。二度、三度と、容赦なく鞭が振り下ろされる。肉を打つ悍ましい音が何度も虚しく響き渡る。
あまりの痛みに呼吸が上手くできない。
「あと三日だ」
巳貴は、詩乃を見下ろして腕を振り下ろし、脈絡もなくそのようなことを言う。
「あと三日で、花神家は終わる」
詩乃に言い聞かせるように、繰り返す。
その言葉をぼんやりと聞いていた詩乃は、血を滴らせながら、力なく返した。
「……そんなに私が憎いですか」
そう言うと、視界の端に映る巳貴が笑う。
「ああ――憎いよ」
詩乃は何だかおかしくなって、思わず「ふふ」と笑った。
「やっぱり、私が憎いのですね。ごめんなさい」
疲れていたのである。もう、疲れ切った。限界であった。毎日毎日、絶対的な支配者に殴られるのも、体を汚されるのも。空虚で、死にたくて、それでも逃げられない日々である。詩乃にはもう何も失うものがない。けれどそれゆえに、無敵になったようにも感じていた。
その笑い方が不気味だったのか、鞭を持った巳貴の動きがぴたりと止まる。
「……何がおかしい」
詩乃は巳貴の方を見ずに、笑い混じりに返した。
「旦那様は……以前私のことを無知とおっしゃいましたが……私は、旦那様が思っている以上に、旦那様のことをよく理解しております」
これまでどれほど虐げられ、傷つけられても、沈黙して耐え続けていた。けれど今、全てを奪われ何もない詩乃の中には、恐れもない。
自分を檻に閉じ込め、大切な思い出を焼き尽くした巳貴という男に対して、詩乃は初めての小さな仕返しをする。
「ずっと不思議でした。以前は潔癖で、女性と遊ぶことなどなさらなかった旦那様が、どうしてこんなにも、何かに追われるように多くの女性と遊ぶようになったのか」
詩乃は、知っている。
蛇神家に遊びに来るようになった当初、巳貴が絵巳里のことを、どんな目で見ていたのか、よく覚えている。それほど巳貴が絵巳里を見つめる視線は印象的で――異様だった。
「旦那様。貴方は――絵巳里様のことを、ずっと恋い慕っておられるのですよね」
詩乃は気付いていた。
三年の結婚生活の中で、詩乃が密かに初恋の相手を思い続けていたように、巳貴もまた、別の女性を想い続けていることに。
「……何を言っている?」
巳貴の表情が一瞬にして凍りつく。
誤魔化したって無駄だ、と詩乃は思った。
千姫を始めとする多くの女たちをいくら抱こうとも、彼の底なしの孤独が埋まることはない。その理由が、詩乃には分かる。どれだけ願っても、巳貴が絵巳里と結ばれることはできないからだ。
「愛している人からの願いだから聞き入れたのですよね。私のようなアザモノと結婚することすら、何も言わずに飲み込んで。絵巳里様が私をあなたに託したから、あなたは私を見捨てることができなかった。憎かったですよね。私のことがずっと。絵巳里様を害したくせに、絵巳里様に守られている私のことが」
詩乃の放った言葉は、巳貴の最も触れられたくない、最も深い傷口を正確に突き刺したのだろう。
巳貴の顔から全ての表情が消え失せた。
振り下ろされていた鞭が、その動きを完全に止めた。巳貴の手から力が抜け、鈍い光を放つ革紐が、畳の上にだらんと力なく垂れ下がる。
詩乃は、巳貴としばらく見つめ合っていた。
痛みに耐えながらも、まっすぐに自分を射抜く詩乃の瞳の中に、いささかの迷いもない確信があることを悟ったのだろう。巳貴はそれ以上、否定することも、取り繕うような弁明をすることもなかった。
張り詰めた空気が淀み、ひどく重苦しい沈黙が流れた後、巳貴は、掠れた声でぽつりと呟いた。
「……お前のことが憎い理由は、それだけじゃない」
そして――泣きそうな顔で笑った。
「姉上の愛した人が、俺の欲するものを完膚無きまでに奪い尽くした女が、お前の母親だったからだ」



