籠の鳥の再縁


 ようやく辿り着いた公園墓地は、瑞々しい緑に包まれていた。
 広大な敷地になだらかな遊歩道がどこまでも伸びている。そして、整然と並ぶ墓石の合間を縫うように、立派な木々が豊かな葉を茂らせている。近隣の住人が散歩に訪れることもあるというのも頷けるほど、そこは清々しく、墓地にしては近寄りやすい雰囲気だった。
 詩乃は、父の墓へと向かった。その一歩後ろを、使用人が無言で付き従ってくる。
 父の墓に辿り着いた。刻銘された父の名を見つめながら、持参した手桶から柄杓で水を汲み、墓石の頭からかける。水が石の上を流れる音だけが、静かな墓所に響いた。
 花立に季節の花を供え、線香に火を灯す。使用人は、詩乃の墓参りを静かに待ってくれているようだった。
 詩乃はそっと目を閉じ、胸の前で両手を合わせる。合わせていた手を離し、ゆっくりと瞼を持ち上げた――その時だった。

「詩乃?」

 懐かしい声が聞こえた。
 声のした方へ視線を巡らせると、そこには見覚えのある姿があった。
 育ての母である。実の母親を亡くした後、父と再婚し、幼い詩乃を我が子として育ててくれた人だった。
 三年の月日は、彼女の容姿に隠しきれない変化をもたらしていた。かつて父の傍らで微笑んでいた頃の、ふくよかだった面影は薄れ、驚くほど細く、肉も削げ落ちている。
 詩乃を見つめる目尻には、この数年で刻まれたであろう深い皺が何本も走っていた。

「お母様……」

 どうして彼女がここにいるのだろうという困惑が過ぎる。
 しかし、思えば今日は父の命日なのだ。彼女がこうして墓参りに訪れても全く不思議ではない。たまたま同じ時間に居合わせてしまったのだと合点がいった。
 詩乃は気まずさから、視線を斜め下へと逸らす。
 父が自死を選んだあの日、目の前の母は狂ったように泣き叫び、詩乃を激しく責め立てた。お前のせいであの人は死んだのだ、と。
 母から浴びせられた言葉の刃は、今も詩乃の心に深く突き刺さったままである。結局母は、詩乃との間に修復不可能な溝を作ったまま実家へと去り、それきりとなっていた。
 嫁いだ後のやり取りも、全て蛇神家を通した形式的なものばかりで、こうして直接顔を合わせるのは、父の死後初めてのことである。
 気まずさを抱えているのは母も同じようで、彼女もまた、詩乃からすっと目を背けた。

「……元気にしているの」

 母は横を向いたまま、そう問いかけてきた。

「……はい」
「その顔の怪我は何? 転んだの?」

 嫁ぎ先で殴られているなどと、口が裂けても言えない。詩乃は、努めて平静を装いながら、「家事の最中に転んでしまって」と嘘を吐いた。

「あなたが家事をしていると言うの? 何故? 蛇神家なら、女中だって沢山いるでしょう」

 母が不審げに問い返してくる。
 鋭い指摘に、詩乃は言葉に詰まってしまった。沈黙する詩乃の様子を、母はじっと見つめていたが、やがてその頑なな態度から何かを察したように、ぽつりと同情の滲む声を漏らした。

「……そう。アザモノだものね。いくら名家に嫁いだとはいえ、扱いは悪いということかしら」

 湿っぽい風が二人の間を通り抜けていく。
 実に三年ぶりの再会だった。かといって他愛のない世間話を交わせるような関係でもない。お互いに何を喋るべきか分からず、ただ気まずい沈黙だけが流れた。
 そのうち、重い口を開いたのは母の方だった。

「あの時は、悪かったと思っているわ」

 予想もしなかった謝罪の言葉に、詩乃は驚いて顔を上げた。

「お母さんも冷静ではなかった。今更こちらが何を言っても言い訳になるけれど、あの人が首をつってしまったことを、誰かのせいにしたかったのよ。本当は、あの人を支えきれなかった私の責任でもあるのに、娘であるあなたのせいにした。母親失格ね。私のことは、もう母と呼ばなくていい」

 淡々と紡がれる告白を、どう返していいかも分からず、呆然と聞き続ける。

「蛇神家からの支援も、先月打ち切ってもらったの。いつまでも詩乃の力を借りてはいられないもの」

 母はそう言って区切りをつけると、父の墓石に向かって両手を合わせ、長い間目を閉じた。何を祈っているのか、その背中は以前よりも少し小さく見える。

「……あの人が、こうしてまた、詩乃と引き合わせてくれたのかもしれないわね」

 顔を上げた母は、そう呟いて悲しげに微笑む。
 そして、くるりと詩乃の方へと振り向いた。

「花神家の花人様が、我が国に帰ってきたという話を聞いたのだけれど。会った?」

 それまでの重苦しい空気を振り払うような、どこか軽快な調子で投げかけられた問い。詩乃は思わず、少し調子の外れた声を上げてしまった。

「……えっ?」
「あなた、小さい頃、花人お兄ちゃん、花人お兄ちゃん、ってうるさかったじゃない。戻ってきたなら、会っているのではないかと思って」

 詩乃は必死で平静を装って、笑い飛ばすように声を返す。

「まさか。もう大人ですから。結婚しましたし、いくら幼馴染みでも会いはしませんよ」
「でも、花人様は迎えに来たでしょう」

 何故か確信めいた口調で言ってくる母に、詩乃はそれ以上、言葉を紡ぐことができなくなってしまった。
 母は詩乃のその反応に目を細め、次に雲の多い空を見上げて言った。

「……そうね、あなたの言う通り、あなたはもう大人だわ。もう大人だから――……どうしてあなたの父親が死んだのかについて、話をさせてちょうだい」

 覚悟を決めたような母の声音に、詩乃の胸に不穏なざわめきが広がった。母の口から、一体何が語られるというのだろうと身構える。

「お父様が死んだのは……家に嫌がらせがあったからですよね」

 父の死の引き金は、詩乃の異能の暴走を巡る、周囲からの容赦のない誹謗中傷と嫌がらせだったはずだ。それ以外の何でもない。
 しかし、母は悲しげに首を横に振った。

「もちろん、それで心を折られたというのはあるだろうけど、それだけで心を折られたわけではないわ」
「……え?」
「あの人はずっと怯えていた……。いつか自分のもとに、天からの迎えが来るのではないかと。そして、詩乃が異能を発現した時、ついに迎えが来たものと思い込んだのよ。あの人は、花の神の手から逃げたかっただけ。永遠の美しい地獄から」

 母の言う言葉の意味を、どうにかして脳内で論理的な文章に組み立て直そうとする。しかし、どれほど思考を巡らせても、現実離れした言葉の数々は滑り落ちていくばかりで、一向に腑に落ちてはくれなかった。

「……何を言っているのかよく……」

 当惑を隠せない詩乃の細い声を、母の、これまでになく真剣な眼差しが遮った。

「詩乃。あなたの実の母親は、花の神だったの」

 ――頭上から雷が落ちてきたかのような衝撃が走った。
 これまで人から聞いた発言の数々が、激しい火花を散らしながら結びついていく。詩乃は、目を見開いたまま凍りついた。

「花の神は、現人神。人の姿をして生まれる。そして親から子へ力が引き継がれていく。でもね、詩乃。神様というのは、人にとって都合の良い存在ではないわ。だからこそ祀り、その凶悪な力を人のために使ってもらおうとする行いこそが信仰よ。あなたの母親は、人の手に負えなかった」
「…………」
「巷では、花の神は花神家の劣悪な環境に嫌気がさして家を飛び出した――なんて言われているけれど、実はその逆。花神家の方が、自分たちが祀っていた花の神を追い出して、追放したの。花の神が、あまりにも危険だったから」

 花神家が祀る花の神は、現人神。人の姿をして生まれると、以前杏から聞いた。
 目の前で淡々と語る母の言葉は、詩乃がこれまで信じていた世界の輪郭を、容赦なく塗り替えていく。

「あなたの母と、当時花神家の人間だったあなたの父は、家を飛び出して二人で市井で暮らすようになった。けれど、花の神の悪癖は治らなかった。彼女はその力を使って、多くの人を惑わすようになった。体から花を咲かせるというのは、神の力よ。神の力で眠らせて、自分の世界に連れ込むの。神隠しという言い方が合っているかしら。肉体だけを現世に残して、意識だけを持っていく……。当時は帝都中に被害が広がって、取り返しのつかない事態になった」

 詩乃は目眩に似た衝撃を覚えていた。
 体から花を咲かせ、老いることもなく眠り続ける病。かつて帝都を震撼させたというその怪異の源流に、まさか自分の実の母親がいたというのか。

「花の神が死亡したことによって、ようやく花咲き病罹患者が出なくなったけれど、あの人はずっと責任を感じていたでしょうね。花の神を家から連れ出して、結果こうなったんだもの。いつか自分も呪われる、連れて行かれると、晩年はひどく憔悴していたわ。一度でも神の世界を見た人間は、じわじわとおかしくなっていくのよ」

 淀川の主人が言っていた。自分は、体に花が咲いたが、枯れてしまったと。
 体に花が咲き切る人間もいれば、咲かずに戻ってこられる人間もいるということなのだろうか。

「あの人が言うには、花の神の世界は、本当に花しかない世界のようでね。あの人にとって、美しい地獄のように見えたらしいわ。だから詩乃、あなたの異能が発現した時に、彼はついに神の権能が代替わりしたと確信を覚えて、恐怖から首をつったのよ。花しかない地獄へ行くくらいなら、自分で死んだ方がましだとね」

 父を死に追いやったのは、世間の冷たい目などではなかったらしい。実の娘である詩乃の中に、かつて愛し、そして最も恐れた化け物の影を見てしまったから。彼は、迫り来る美しい地獄の恐怖に耐えかね、自ら首の骨を折る道を選んだのだ。
 逃れようのない血の呪いが、詩乃の足元からじわじわと這い上がってくるような感覚に襲われた。

「じゃあ、私は……」
「ええ」
「私は、今、花の神様で。私の異能は、異能ではなくて、神力ということ……?」

 詩乃の唇から漏れ出た声は、拙く震えていた。
 花の神は死に、その権能は子孫である詩乃に受け継がれた。不在であるという花の神は、詩乃なのである。

「そうよ。あなた、結婚したところで子はなせなかったでしょう。花の神は代々花神家の人間とのみ生殖を行ってきたから、他の家の者とは交配が行えない身体になっているの」

 どうやら自分は最初から、蛇神の血を受け入れることなどできない身体だったらしい。
 詩乃の頭の中で、以前杏から言われた疑念の声が蘇る。

――『詩乃様……私、やはり怪しいと思うのです』
――『花人様はどうしてわざわざ、詩乃様に近付かれたのでしょうか』

 実の母を亡くし、孤独に震えていたあの頃、何の前触れもなく詩乃の前に現れ、いつも優しく寄り添って、幼き日の全てを彩ってくれた花人。
 その存在に、何の疑問も抱かなかった。
 けれどそれは、花神家の人間が、花の神を監視していたという、ただそれだけだったとしたら。花の神の力が暴走しないよう、見守っていただけだったとしたら。いつか実の母のように暴走し、帝都に災厄をもたらさぬよう、見張っていただけだったとしたら。
 それはただの義務であり、詩乃への個人的な感情ではない。
 そのことに気付いた時、詩乃の胸に大きな悲しみが襲ってきた。

「……母様が、花人お兄ちゃんが迎えに来ると言ったのは、私が花の神だから?」

 詩乃の力ない問いに、母は苦笑した。

「さあ。それはどうかしら」

 否定するわけではないが、決して肯定もしないというような、そんな優しい口調だった。

「直接会って聞きなさい」

 母は続けて、詩乃の背中を押すように言う。

「その答えを私が知っていたとしても、その答えをあなたに言うべき人は、私じゃないもの」

 詩乃はしばらく、黙っていた。
 見上げれば、これまで空を覆っていた厚い雲の隙間から、まるで空がひび割れたかのように太陽の光が幾筋も漏れ出して、墓石の群れを白々と照らし出していた。
 詩乃は、光と影が斑に落ちる地面を見つめた。
 花人との、幼い日の記憶を思い出す。孤独だった自分を呼び止めた花人の声、一緒に見上げた空、自分に向けられていた、ひだまりのような笑顔。

(……あの全てが嘘だったとは、到底思えない)

 凍りついていた詩乃の心の中で、熱いものが弾ける。
 確かめなければならない。誰に何を言われようと、彼自身の口から本当のことを聞くまでは、ここで全てを諦めるわけにはいかない。
 ついに、詩乃は走り出していた。

「奥様!?」

 すぐ後ろで、巳貴の命令でずっと詩乃に付いてきていた使用人が、素っ頓狂な声を上げる。
 風にたなびく銘仙の裾の向こう、すれ違いざまに、母の優しい声が耳に届いた。

「いってらっしゃい。詩乃」

 背後から迫る使用人の「お待ちください!」という制止の声も、今の詩乃の耳には届かなかった。前だけを見つめ、濡れた砂利道をがむしゃらに駆け抜ける。
 幸い、父の墓には何度も足を運んでいるため、迷路のような遊歩道の構造は頭に入っていた。しかし、初めてここを訪れた使用人にとっては、鬱蒼とした木々と似たような墓石が続くこの広大な敷地は、一瞬の隙で標的を見失うような迷宮であるはずだ。角を曲がり、あっという間に監視の目を撒いた。
 詩乃は、墓地の外へと続く坂道を、息を荒げながら駆け下りていく。
 この数ヶ月間、巳貴に幾度も打ち据えられた全身の傷が、じんじんと悲鳴を上げている。荒い呼吸を繰り返すせいで喉が痛い。足がもつれそうになる。それでも、詩乃は走るのをやめなかった。
 巳貴の冷酷な脅し文句が、頭の中を何度も鳴り響いている。

――『他の男と少しでも会話を交わしたら殺すからな』

 後でどんな仕置きを受けたっていい。
 殺されてもいいから、あの人に会いに行きたい。

 駅に着いた時、既にホームからは発車を告げる鋭い警笛が鳴り響いていた。
 詩乃は急いで木造の階段を駆け上がる。ちょうど、列車の重い扉が閉まりかけていた。
 詩乃は最後の力を振り絞ってその隙間に身体を滑り込ませる。
 直後、大きな揺れと共に電車が動き出した。滑り込みに成功した詩乃は、通路の床に膝をつき、激しく肩を上下させて呼吸を貪った。車内にいた数人の乗客が、足元が泥に汚れ、髪を振り乱した詩乃の姿にぎょっとして視線を向ける。
 追っ手である使用人の姿がホームに遠ざかっていくのを窓から確認すると、詩乃は胸が張り裂けそうなほどの安堵に包まれた。
 電車がガタゴトと激しい音を立てて帝都へと引き返していく間、詩乃は座席にしがみつくようにして、荒い息を整えた。
 窓の外ののどかな田園風景が、再び灰色のがっしりとした煉瓦造りの街並みへと移り変わっていく。賑やかな路面電車の音や、人々の喧騒が近づいてくるにつれ、詩乃の心臓は別の緊張で跳ね上がり始めた。

(花人お兄ちゃんの家の場所が分からない……)

 花人が詩乃の家に来たことはあっても、詩乃が花人の家に行ったことはない。
 しかし、帝都御三家の一角ということは、相当有名ではあるのだろう。誰かに聞けば場所が分かるかもしれない。
 帝都の駅に到着するや否や、詩乃は人混みの中へ飛び込んだ。行き交う人々や、走る乗合自動車の排気ガスに眩暈を覚えながらも、まずは道行く一人の男性に声をかける。

「あの、恐れ入ります。花神家のお屋敷へ行きたいのですが、どちらの方角でしょうか」
「え? ああ、花神さんなら、あの坂を上って、三つ目の角を……」

 男性は親切に指を差して教えてくれたが、連れ立っていた上品な着物姿の女性が、詩乃の顔を凝視し、引き攣った顔で男性の袖を強く引いた。

「ちょっと、あなた。この子アザモノよ。どうして話を聞いたの?」
「いや、ものすごい剣幕で、本当に困っていそうだったから……」
「アザモノの話なんか聞くもんじゃないわ。縁起が悪い。行きましょう」

 女性はひそひそとそう言って、詩乃を汚物でも見るかのような目で睨みつけると、男性の手を引いて早足に去っていった。
 明確な軽蔑の目に、詩乃の足が竦みかける。
 けれど、これで花神家の屋敷の場所が分かった。
 今の詩乃には立ち止まっている時間など一秒もない。いつ、蛇神家の追手が来るか分からないのだから。ここで傷付いている暇があるなら、一歩でも前へ進まなければならない。

「……ありがとうございます」

 詩乃は、去りゆく背中に小さく呟き、教えられた方向へと再び走り出した。

 なだらかな坂道を登っていた時、曇り空から大粒の雨が落ちてきた。午前中晴れていたのは奇跡だったのだろう。
 雨脚はあっという間に強まり、世界を白く塗り潰すほどの土砂降りとなって詩乃の身を容赦なく打ち付ける。着物は一瞬にして水を吸って重くなり、乱れた髪が顔に張り付いて視界を遮った。ぬかるむ泥道で足元が滑り、走れば転んでしまいそうになる。詩乃ははやる気持ちを抑え込み、一歩、一歩、痛む足で泥を踏みしめるようにして慎重に前へ進んだ。
 その時だった。

「このようなところで、一体何をなさっているのですか、詩乃様」

 背後から落ち着いた声がしたと同時に、頭上を大きな影が覆い、激しかった雨の衝撃がぴたりと遮られた。
 驚いて振り向けば、差し掛けられた大きな傘の向こうに、見覚えのある男が立っている。
 花人の護衛官である、泉だ。彼はがっしりとした大柄な体躯を洋装に包み、驚いた様子で詩乃を見下ろしていた。

「泉さん……!……がいるということは、ここは花神家の近くなのですね?」
「それはそうなのですが、何故あなたが単独でここにいるのか理解に苦しみます。ここは蛇神家の屋敷からは随分と離れているはずですが。散歩にしては遠距離すぎますし、今日は散歩日和では全くないですし」

 泥にまみれ、傷だらけでずぶ濡れの詩乃の姿を見て、泉はやれやれとでも言いたげに渋い顔をしてみせた。しかし、その厳つい双眸の奥には心配の心が宿っているように見えた。

「お転婆なのは昔から変わらないということでしょうか」

 泉はかつての日々を懐かしむように、慈しみをたたえてふっと苦笑した。
 詩乃は、久しぶりにこのような距離で話す、父のような存在だった泉に胸が熱くなりながらも、荒い息を整え、必死に言葉を絞り出した。

「花人お兄ちゃんに会いたいのです。どうか、会わせていただけませんか」

 そこまで勢いで言い切ってから、詩乃は不意に身の程知らずなことを言っていることを自覚し、口ごもった。

「でも……忙しい……ですよね」

 帰国したばかりの花神家の当主だ。一家を背負うほどの人物であれば、一刻の猶予もないほどやるべきことに追われているはずである。自分のような存在が、突然押し掛けていいわけがない。
 不安に揺れる詩乃を見て、泉は今度ははっきりと、声を立てて笑った。

「あなたが会いたいと言っているのなら、どんな予定よりも優先させなければ、後から彼に怒られますよ。共に参りましょうか」

 泉の手によって、詩乃は傘の中へと導かれる。

「花人様は不安そうにしていましたよ。この三ヶ月、文を送って約束を取り付けても、詩乃様が約束の場所に現れないと。距離を詰めすぎて嫌われたのではないかと、一人反省会をしておりました」
「嫌うなんて、そんな……」
「ええ、何かご事情があるのだろうとは思いましたが、調子に乗っている花人様に釘を刺すいい機会だと考え、こちらからは、手を繋いだのがやりすぎだったのでは? と言っておきました。詩乃様の方は夫を理由に拒否しているのに、強引に迫りすぎだと。追いすぎても女性は引いてしまいますよ〜と」

 泉の顔は、この状況を楽しんでいるのか、にやにやしていた。花人に否定的な意見を言えるのは、ほぼ育ての親と言ってもいい泉くらいなものだろう。
 彼の先導で雨の坂道をさらに進むと、やがて鬱蒼とした木々の向こうに、圧倒的な威容を誇る花神家の屋敷が姿を現した。
 息を呑むほど立派な純和風の邸宅だった。
 濡れて黒々と光る見事な瓦屋根が幾重にも重なっている。周囲を囲む高い塀からは、木々の枝が美しくしなだれ落ちていた。
 土砂降りの雨に煙るその厳かな屋敷は、この世の穢れを寄せ付けない神域のように、そして詩乃を迎え入れるように、静かに建っていた。

(お母様とお父様が、昔住んでいた家……)

 詩乃が屋敷に入った途端、十数人もの使用人たちが整然と列をなしていた。彼らは床に両手をつき、まるで身分の高い貴人を迎えるかのように、深く頭を下げて平伏していた。

「うわっ」

 思わず詩乃が悲鳴をあげてしまったほどだ。

「詩乃様は雨で濡れており、お体が冷えております。まずは温まっていただきましょう」

 泉の言葉と共に、女中たちが音もなく動き出す。ずぶ濡れで泥にまみれた詩乃は、至れり尽くせりの手際で奥へと案内された。
 用意されていたのは、湯気が白く立ち上る広々とした湯殿だった。ふんだんな薪で温められた空間が、冷え切った詩乃の身体を優しく包み込む。温かい湯に身を沈めると、巳貴に痛めつけられた全身の痕がじんわりと疼いたが、それ以上に、張り詰めていた心の強張りが、湯気の中に溶けていくようだった。
 湯から上がると着物が用意されていた。その着物に着替えて外へ出れば、待ち構えていた女中たちに髪を丁寧に拭われ、豪奢な客間へと通される。

「すぐに花人様が参ります。少々お待ちくださいませ」

 雨の音だけが響く静かな部屋だった。

 どれほどの時間が経っただろうか。何もない部屋で時間を持て余し始めていた頃、廊下の向こうから、にわかに騒がしい足音が近付いてきた。
 次の瞬間、勢いよく襖が開け放たれる。敷居をまたぐようにして部屋に飛び込んできたのは、肩を上下させている花人の姿だった。

「花人お兄ちゃん……」
「ごめん、今帰ってきたばかりで。俺に会いに来てくれたというのは本当?」
「う、うん」
「言ってくれたら、迎えくらい寄越したのに。……そんなに俺に文を送るのは嫌?」

 少し拗ねたように言った花人は、走って乱れたらしい髪を掻き上げながら、詩乃の正面に座った。
 確かに、知らせの文でも送っておけばよかったかもしれないが、そのような暇はなかったのだ。
 ――その時、ぐう、と花人のお腹が鳴った。花人は気まずそうな顔をして、ふっと詩乃から視線をそらす。
 雨音だけが流れる中、しばしの沈黙が走った。彼らしくない隙だらけの様子に、張り詰めていた糸がふっと切れて、思わず噴き出してしまった。ここに来るまでずっと緊張で強張っていた心が嘘のように解き放たれ、一度込み上げた笑いがどうしても止まらなくなってくる。

「……笑わないでよ。最近、仕事が忙しくて何も食べてなくて」

 詩乃ははっとして、「よかったら……」と前置きし、巾着袋の奥から、防水の包みのおかげで全く濡れずに済んだおむすびを取り出す。大したものではないが、少しでも腹の足しになればと思ったのだ。

「それ、しーちゃんが作ったの?」
「うん。……あっ、でも、他所のものは食べられないんだっけ」

 差し出しかけて、手を止めた。花人が、毒を盛られる危険を考慮して、花神家の用意したもの以外は決して口にしないよう躾けられていると話していたのを、唐突に思い出したのだ。
 しかし、詩乃がおむすびを引っ込める前に、花人が詩乃からそれを奪い、さっさと食べ始めてしまった。

「しーちゃんの毒で死ぬならそれでいい」
「毒なんて盛ってないよ……」
「ふふ、知ってる」

 悪戯っ子のように笑う花人を見て、詩乃の胸がきゅうっと締め付けられた。それはおそらく、ときめきと言って差し支えない感情だった。
 けれど詩乃はその感情に無理やり蓋をし、知らないふりをした。

「しーちゃん、また怪我をしてる?」

 おむすびを食べ終えた花人が、こちらを案じるように聞いてきた。
 その視線の先には、化粧でも隠しきれなかった顔の痕がある。家事の最中に転んだと嘘を吐くべきか迷ったが、見破られる気がして、「……うん」とだけ小さく答えた。
 花人は、これ以上踏み込まれたくないという詩乃の気持ちを察したのか、それ以上何も追及してこなかった。
 泉が、花人は詩乃に嫌われていると思い込んでいると言っていた。だからなのだろうか、今日の花人は、詩乃に過度に踏み込もうとはしてこない。
 その慎重な距離感がかえって詩乃に安心感を与え、詩乃は自分の方から話を切り出すことができた。

「……今日、お父様の命日だったから、墓参りに行ってきたの。そこで、育ててくれたお母様に偶然会って」

 そこで詩乃は、躊躇って言葉を区切った。
 静かになった室内に、雨の音が響く。
 詩乃は膝の上で着物の裾をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めて言葉を紡いだ。

「――……私が、花の神だということを聞いた」

 その瞬間、花人の動きがぴたりと止まった。
 彼の柔らかい表情が、硬く強張っていく。

「花人お兄ちゃんは、ずっとそのことを、私に隠していたよね」

 縋るような声を向けても、花人は唇を噛むようにして、沈黙を守るだけだった。その拒絶のような沈黙が母の言葉の正しさを証明しているようで、胸が痛む。

「花の神様がよくないものであるということも、聞いたよ。人知の及ばない恐ろしい生き物で、人の体に花を咲かせて眠らせて、地獄のような花の世界に連れて行ってしまう……って」

 一気に告げながら、詩乃は花人の瞳の奥をじっと見つめた。そこにあるはずの真実を探り当てようと、必死に言葉を重ねる。

「花人お兄ちゃんが私に近付いたのは何故? 私が花の神だから? 絵巳里様を目覚めさせることに協力すると言ったのも嘘だった? 絵巳里様が眠ってしまった原因について、私の知らないことを知っていたのに、それを私に隠し続けていたよね」

 幼い日の温かな思い出も、再会してからの優しい言葉も、全てが自分という神を監視するための、花神家としての義務だったのだろうか。詩乃は、溢れ出しそうになる悲しみを必死に抑え込みながら問うた。

「どこまでが本当で、何が嘘で、花人お兄ちゃんが私に何を隠しているのか、どうして隠していたのか……知りたい」

 本当のことを言ってほしい。その一心で真っ直ぐに視線をぶつけると、花人は耐えかねたように美しい顔を悲痛に歪め、切なげな声を漏らした。

「ごめん、しーちゃん、怒らないで。嫌いにならないで」

 名家の当主としての威厳などどこにもない、まるで迷子の子どものような声を上げて、花人は詩乃を見つめてくる。

「俺、しーちゃんに嫌われたら、生きていけない」

 その瞳に浮かぶ今にも壊れてしまいそうなほどの脆さを目の当たりにして、詩乃は動揺した。
 いつも冷静で、余裕ありげだった花人が取り乱している。ひとまず花人の言い分を聞こうと思い、頷いて続きを促した。
 すると、花人はいくらかほっとしたような顔をして、話を続ける。

「体から花が咲いた人間を、花の世界から連れ戻す方法が分かっていないというのは本当だよ。それは花神家の人間でも分からない。だからしーちゃんと一緒に、その方法を探ろうとしていたのは真実だ」

 絵巳里を救いたいという詩乃の願いに寄り添ってくれたのは、決して偽りの態度などではなかった。その事実を知り、詩乃の緊張がわずかに解ける。

「しーちゃんは母親のことが好きだったでしょう。死んだ時、ずっと泣いていたもの。その母親が恐ろしい神様で、多くの人間を殺したなんて事実、俺は知らせたくなかった。君が花の神であることも、俺は君には、生涯隠し通すつもりだった」

 雨の音のする和室で、花人は、まるで痛みに耐えるような表情をして言葉を重ねる。
 幼いあの日、実の母を亡くして世界の終わりのように泣きじゃくっていた自分を、彼はどんな思いで見つめていたのだろう。
 母の正体や、帝都を揺るがした災厄について伏せていたのも、全ては傷付いた詩乃の心をこれ以上傷つけないための、彼なりの優しい嘘だったのかもしれない。

「しーちゃんには、自分の背負った立場なんて知らずに、一人の人間として笑っていてほしかったんだ。確かに、いずれは花神家に連れ戻すつもりだった――でもそれは、花の神としてではなくて、俺の妻として。しーちゃんに、神としての重責を背負わせたくなかった。俺にとってはそれが全てだよ」

 彼が隠し通し、守ろうとしていたのは神の秘密ではなく、詩乃の平穏だったのだ。
 不意に、巳貴から浴びせられた冷たい台詞が、頭の中で木霊した。

――『お前の幸福は、無知の上で成り立っているものだ』

 彼の言う通り、自分は何も知らなかったのだと思い知る。
 実の母の正体も、父が死を選んだ本当の理由も、自分が何を背負っているのかも、そして、目の前の人がどれほど深い愛で、自分のあやうい幸福を守ろうとしてくれていたのかさえも。

「……花人お兄ちゃんは、私が好き?」

 ぽつりと、雨音に掻き消されそうな声で聞いた。
 詩乃にとっては何よりも、母の正体や自分の正体よりも、それだけが重要なことだった。

「愛している」

 その言葉は、間髪を容れずに返ってきた。

「君がどれほど恐ろしい祟り神でも、その力で帝都の人間を皆殺しにしたとしても、君と歩む道がどこまでも血に染まっていたとしても、この世で俺だけは、俺という存在だけは、君を愛し続けてあげられる」

 湿っぽい彼の瞳の底に宿っている情熱は、愛というよりも、熱心な信仰のようにも感じられた。