籠の鳥の再縁


 詩乃は狼狽えた。
 家も表札も変わっていないのに、中から別の人物が出てきたからだ。あの夫婦には子供がいたが、男児だけだったはずである。
 この者は、一体誰なのか。

「……淀川さんのお宅で間違いないでしょうか」
「ええ、うちが淀川です。主人のお知り合い?」

 短髪の女性が、毛先を揺らしながら小首を傾げる。

「あの……私、十四年ほど前に、この家の近隣に住んでいた者でして。当時のご様子をお伺いしたいのですが……」

 詩乃が事情を明かすと、女性は「ああ!」と合点がいったように、大きな丸い瞳を輝かせて声を上げた。

「つまり、主人のお知り合いなのね。ごめんなさい、驚かせて。十四年前なら、わたくしはこの家にいませんものね。主人のもとへ案内しますわ」

 あっけらかんとした調子でそう言うと、彼女は快く格子戸を広く開け、詩乃と杏を家の中へと招き入れた。
 彼女は、詩乃の顔に浮かぶ困惑を察したのか、言いづらいであろう家庭の事情を、自ら包み隠さず打ち明けてくれた。

「貴女の知る奥様は随分前から昏睡状態で病院にいますわ。医者はもう、目覚めることはないだろうと言っております。わたくしは、彼の再婚相手です」

 詩乃は、はっと息を呑む。
 かつて母と親しくしていたあの優しい女性は、病床の身であるらしい。残された主人は、この年の離れた若い女性を新たな妻として迎えたのだ。確かに十四年も経てば、あの頃と家庭の状況が変わっていてもおかしくはない。
 若き妻は、浮かない顔で付け加えた。

「とはいえあの人も、そう元気ではないのですが……。最近は特に、憔悴しておりますの。ごめんなさいね」
「……申し訳ございません。大変な時に尋ねてしまって」
「いえいえ、いいのですよぉ。昔の知人に会えば、あの人ももしかしたら、少しは元気が出るかも……」

 彼女はどこか哀しげに眉を下げながらも優しく微笑み、階段を上って、二階の奥にある部屋の襖に手をかけた。

「旦那様、お客人ですよ」

 狭い部屋の中、布団の上に、その男はいた。
 詩乃の記憶にある淀川の主人は、もっと恰幅が良く、快活に笑う人物だったはずだ。しかし、そこに横たわっていたのは、頬が痛々しいほどに削げ落ち、髪には白いものが混じった、すっかり老け込んでしまった男の姿だった。あまりの変わり果てた様形に、詩乃の目には、彼がまるで別人のように映った。
 下半身を寝具に埋め、生気のない上体を壁に預けてぼんやりと窓の外の曇り空を眺めていた男は、ゆっくりと視線を動かした。
 そして、詩乃の顔を捉えた瞬間、言葉を失ったようにぴたりと動きを止めた。

「……詩乃さんか。久しぶりだね。随分大きくなった」

 お互い年を重ね、風貌が変わっているにもかかわらず、彼は詩乃のことをよく覚えているようだった。

「驚いたよ。ようやく天からの迎えが来たのかと思った」

 詩乃の記憶にある彼は、冗談など口にする男ではなかった。

「……お久しぶりです。お招きいただき、ありがとうございます」
「悪いねえ、あの頃の元気な体なら、どこかへ食事でも連れて行ってやったんだが」
「お気遣いありがとうございます。……奥様のこと、お悔やみ申し上げます」

 男のやつれた姿に痛ましさを覚え、詩乃はそっと視線を落とした。

「あいつは、全身から花が咲いて、眠ってしまったんだ」

 詩乃は驚いて顔を上げ、男を凝視する。隣に立つ杏からも「えっ……」と困惑の吐息が漏れた。絵巳里のような症状を抱える他者がいるという事実に、詩乃たちは互いに目を見合わせる。
 動揺する二人など気にも留めず、男は堰を切ったように、身の上話を滑らせ始める。

「僕たちはね、病気になる前から、離縁する予定だったんだ。お互い、好きな人ができてね」
「……そうだったのですね」
「僕たち夫婦は、同じ人を好きになったんだ。それはそれは、美しい人でねえ。でも彼女は、私よりもあいつを選んだ」

 哀愁を帯びていた男の声調が、じわりと湿った熱を帯びていく。

「あいつは美しい化け物に気に入られて、呪われてしまったのだよ。だから、花が咲いた」

 どくん、と詩乃の心臓がひときわ大きく脈打った。寒気のようなものが背中を伝う。

「……化け物……というのは……」

 問いかける詩乃を、男は見つめ返した。その唇が、三日月のように吊り上がる。ぞっとするほど、不気味な笑みだった。

「君の母親だよ」

 しん……と、一瞬、部屋に静寂が訪れた。

「……お母様に呪われたから花が咲いたというのですか? そんなわけ――」
「神の世界を見たことがあるかい」

 詩乃の反論を遮り、男は身を乗り出した。その瞳の奥にある光はすでに混濁している。そして、文脈も論理も失われた独白が、彼の口から溢れ出し始める。

「それはそれは、美しい景色でね。そこには君の母親もいた。しかし、僕は、僕の体に咲く花は増えなかった。花々は枯れ、僕はここに戻ってきた。あいつだけが戻ってこない。ああ、あぁ、どうしてなのだ。狡いと思わないかい。僕も体に花を散らしたかった。僕の体は老いていき、再びあれを見る前に死ぬだろう。君が彼女なら、僕を救ってくれたのかな。何度願ったか分からない。救いをください、神様、仏様と。しかし僕は、一向に選ばれなかったのだよ。この気持ちが君に分かるかい」

 男の眼球に、幾筋もの赤い毛細血管が浮かび上がっていく。ぎらぎらとした執念の籠もった視線が、詩乃を襲う。
 男の身体が、前傾姿勢のまま床を這うようにして、詩乃へとじりじりと距離を詰めてくる。

「強い期待は恨みになるよ。憎しみになるよ。今だって僕は――君のことを殺したくてたまらない」

 それまで黙って控えていた彼の現在の妻が素早く動いた。彼女は詩乃の手首を掴むと、半ば強引に部屋の外へと連れ出す。杏もまた、慌ててその後に続いてきた。
 戸が閉まり、男の姿が遮断される。女性は深く、胸の底に溜まっていた泥を吐き出すような溜め息を溢れさせた。

「ごめんなさいね。今日は調子が良くないみたい。調子が良い時もあるのですけれど」
「いえ……。私はまだ、お話ししていたかったのですが」
「やめておいた方がいいですよ。旦那様は、ああなると暴れ出して物を壊すのです。離れて落ち着くのを待つのが吉です」

 女性は詩乃の提案を拒むように告げると、さっさと階段を降り始めた。
 この家に住む人間にそのように言われては従うしかないので、詩乃は仕方なく、その後に続き階段をおり始める。

「……あの人は、おかしくなってしまったの。ごめんなさいね。狐にでも取り憑かれたのでしょうね」

 彼女は、最先端の格好には似合わない、非科学的なことを言って悲しげに笑った。

「せめてお茶だけでも飲んでいってちょうだい。折角来てくださったのですから」

 淀川の妻に促されるまま、詩乃は杏と並んで客間の座布団に腰を下ろした。
 目の前に差し出された茶碗からは、香ばしい湯気がゆるやかに立ち上っている。
 しかし、詩乃は茶を楽しむような心境ではない。耳の奥で、つい数分前に浴びせられた、あの男の言葉がずっと鳴り響いている。

――『君の母親だよ』
――『君のことを殺したくてたまらない』

 母を化け物と呼ばれたことも、彼らを呪ったという突飛な話も、まだ頭の中でうまく処理が追いついていなかった。

「どうぞ、冷めないうちに」

 淀川の妻の声は、驚くほど穏やかだった。夫があれほど異様な様子で暴れかけていたというのに、彼女はまるで、よくある持病の発作でも見たかのように淡々とお茶を淹れ、給仕している。慣れているのだろう。
 これ以上飲まないのも失礼にあたる。詩乃は、まだ熱い茶碗を両手で包むようにして持ち上げた。一口すすると、香ばしい苦味が強張った喉を滑り落ちていく。それを見た隣の杏も、続けてお茶に口を付けた。
 沈黙を破ったのは杏だった。どこか落ち着かない様子で膝の上の指をそわそわと動かしていた彼女は、単刀直入に切り出す。

「あの、この家の元奥様が、体から花が咲いて眠ってしまったという話は事実なのですか? そのような話、あまり聞いたことがないのですが……」

 詩乃にとっても、気になっていたことだった。けれど、あまりにも踏み込んだ、ともすれば無礼にあたる質問を臆せず口にした杏の度胸に、詩乃は内心で目を見張った。
 淀川の妻は、きょとんと目を丸くして言った。

「あら、あなた、帝都に住んでいながら花咲き病をご存じないの? 昔は帝都の流行り病だったのよ。開国と同時に異人が持ち込んできたものと噂されているわ」
「知りませんでした……」
「まあ、今の若い子は知らなくて当然かもしれないわね。花咲き病罹患者の遺体は、昔はすぐに燃やされてしまっていたから。死体から病がうつるかもしれないからって、身近にそのような個体が生まれたら燃やすように教えられていたの。体から花が咲いて、その個体は何年経っても腐らないから、どうも不気味だったみたいでねえ。しかも、見た目も老いないらしいのよ」

 遠い昔の寓話でも語るように、女性はふふふ、と喉を鳴らして笑った。
 その軽やかな笑い声が、詩乃の胸を鉛のように重く圧迫する。視線を落とすと、茶碗に張られた茶の湯面が、自分の手の震えに合わせて細かく揺れていた。
 老いない身体。三年経ってもあの頃と変わぬ顔をした、絵巳里の姿が脳裏をよぎる。
 杏が作ってくれた流れを、ここで途切れさせてはならない。そう思い、詩乃は失礼を承知で顔を上げた。

「あの……不躾な質問かもしれませんが」
「いいのよ。わたくしは気にしませんから」

 穏やかに先を促され、詩乃は震えそうになる声をなんとか整えて言葉を紡いだ。

「淀川さんと、元奥さんが、同じ人物と不倫をしていた……というのも、事実なのでしょうか」

 淀川の妻は、一度お茶で唇を湿らせてから、困ったように苦笑した。

「うーん……。わたくしも、その話は主人があんな風になってから、ちらりと耳にしたくらいで。事実かどうかは分かりませんわ。当時の様子も知りませんし、わたくしは彼の前妻には会ったことがありませんもの。あの人が、熱に浮かされてわけの分からないことを言っているだけかもしれませんし」

 そこで一度言葉を切ると、彼女は何かを思い出すように視線を斜め上に向けた。

「ただ、その不倫相手というのが、隣の家に住む人妻だったという話は聞きましたよ」

 頭から水を浴びせられたかのように、全身の血の気が引いていく。指先が、見る見るうちに凍りついていくような心地がした。

(……お母様だ……)

 一つの可能性として抱いていた疑念が、確かな事実となって詩乃の胸に突き刺さる。

「びっくりよね。あの人の前の奥様が、女性をお好きな方だっただなんて。まあでも、当時は今よりもっと結婚に自分の意思が反映されなかった時代でしょうし、いくら女の人が好きでも、男性と結婚しなければならなかったのでしょうね」

 もっと話を聞きたい。自分の母親には、何かある。そう確信した詩乃は、思い切って聞いてみた。

「あの、この家には男の子が一人いらっしゃいましたよね。もう成人していると思うのですが、この家にはいらっしゃらないのですか?もしよければ、その方のお話を聞ければと思いまして……」

 詩乃の言葉を聞いて、淀川の妻は申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさいね。前の奥様との間の子なら、日露戦争で殉職したそうですの。会わせることはできませんわ」
「そうですか……」

 前妻は眠っている。息子は戦死。淀川の主人は、まともに話を聞ける状態ではない。手詰まりだった。

 その後、出されたお菓子を辛うじて口に運び、お礼の挨拶を済ませて、詩乃たちは淀川邸を後にした。
 一歩外に出ると、強い夕風が、容赦なく詩乃の頬を叩いた。空はすでに、燃えるような茜色から、夜の帳が降りる手前の薄暗い紫へと移り変わろうとしている。昼間の暖かさは嘘のように消え去り、家々の影が長く伸びていた。

「ごめんなさい。杏さんには、少し刺激の強い話だったかもしれないですね」

 隣を歩く小柄な背中に、詩乃は申し訳ない気持ちで声をかけた。自分の家の事情に巻き込んでしまったという罪悪感があった。
 しかし、杏はすぐに顔を上げて首を振った。

「いえ、私の地元では、痴情のもつれなんて茶飯事ですので。今回の話よりも一つも二つも入り組んだ話はよくありましたよ」

 その口調は、詩乃の心配を吹き飛ばすほどからりとしていた。
 まだ十代半ばだというのに、自分よりもずっと肝が据わっている。
 詩乃は安心し、軽く買い物を済ませた後、蛇神家の屋敷へと向かって歩みを速めた。

 灯りの消えた薄暗い玄関は、しんと静まり返っていた。
 引き戸を開け、玄関に荷物を下ろす。ふと顔を上げると、いつの間にか、目の前に巳貴が立っていた。
 あまりにも物音がしなかったものだから、彼が暗闇からぬっと出てきたかのような錯覚に襲われる。
 ただいま戻りました、と言葉を紡ぐ間もなかった。
 唐突に視界が大きく歪んだ。凄まじい衝撃が頬を走り、激しい衝撃音が狭い玄関口に響き渡る。
 何が起きたのか理解するよりも早く、詩乃の身体は冷たい床へと崩れ落ちていた。焼けるような痛みが顔面を支配し、視界がちかちかと明滅する。

「男と会っていたんだろう」

 頭上から降ってきたのは、怒りを隠しきれていない、巳貴の低い声だった。
 見上げれば、逆光の中に立つ巳貴の瞳が、憎しみで濁っている。その拳は固く握りしめられたままだ。

「……っ!」

 隣で、杏が息を呑み、短い悲鳴を上げた。まさか帰宅した早々にこのような暴力を目の当たりにするとは思わなかったのだろう、彼女は恐怖に顔を青ざめさせ、床に倒れ伏す詩乃の姿を信じられないといった目で見つめていた。

「立て」
「…………、だ、んな様、何を」
「立てと言っているのが聞こえないのか。もう一発殴ってやる」

 詩乃は必死に足に力を込め、ゆらりと立ち上がった。
 ――途端、また拳が顔に飛んでくる。鍛えられた男の力は強く、吹き飛ばされるかのように玄関の戸に体が勢いよくぶつかった。

「詩乃様!」

 杏が泣きそうな声で叫び、詩乃に駆け寄ってくる。

「……来ないでください、杏さん」
「ですが!」
「お願いします。私の方に寄らないでください。お願いします。離れてください」

 詩乃は小さな声で懇願する。何故なら、こうなった巳貴と自分の間にいれば、杏まで巳貴から暴力を振るわれかねないからだ。
 床に倒れ込む詩乃を見下ろしていた巳貴の手が伸びてきて、詩乃の着物の胸元を乱暴に掴み取る。抗う間もなく、身体を引きずり上げられた。
 視界が定まる前に、凄まじい痛みが再び頬を襲う。肉のぶつかる鈍い音が、狭い玄関に響き渡る。一度では終わらなかった。二度、三度と、容赦のない拳が詩乃の顔を打ち据える。頭が激しく揺さぶられ、痛熱い火花が視界を覆い尽くした。

「巳貴様! おやめください!」

 その暴挙を見かねた杏が、隣から張り裂けんばかりの声を上げた。
 その瞬間、詩乃を打っていた巳貴の動きがぴたりと止まる。彼の顔がゆっくりと杏のほうへと向けられた。
 腫れ上がった瞼の隙間から見えた杏の姿は、ひゅっと喉を鳴らして息を呑み、がくがくと激しく震え始めていた。蛇に睨まれたような顔だった。

「お前も共犯か」
「え、ぁ、な……」

 地を這うような低い声に、杏の顔から完全に血の気が引いていく。巳貴は彼女を見据え、なおも執拗に言葉を重ねた。

「今日どこへ行っていたか言ってみろ。どうせ、花神家の三男のところだろう」

 そう吐き捨てると同時に、巳貴は掴んでいた詩乃の身体をゴミ屑のように勢いよく放り出した。床に叩きつけられる詩乃に目もくれず、彼は行き場のない怒りをぶつけるように、すぐ横の壁を凄まじい勢いで殴りつけた。

「言え。嘘をついたらどうなるか、分かっているだろうな」

 家鳴りがするほどの衝撃音が轟く。剥き出しの力を前に、杏は青ざめ、息を止めて立ち尽くすことしかできない様子だった。
 杏が黙っていると、巳貴がもう一度、脅すように壁を殴った。家鳴りが玄関に木霊するたび、杏の小柄な身体がびくりと大きく跳ね上がる。けれど彼女は、恐怖にすくむ脚に懸命に力を込め、震える喉の奥から絞り出すようにして声を返した。

「……な……何を、おっしゃっているのですか。私たちが今日行ったのは、詩乃様のご実家の、隣家でございます。その後は、買い物に行っただけで……」
「本当のことを言わなければ、お前の大切な主人はもっと痛めつけられるぞ」

 言いながら、巳貴の手が床に伏せる詩乃へと伸びた。詩乃は、頭髪を乱暴に掴み上げられ、無理やり顔を上向かされる。頭皮を引き裂かれるような激痛に耐えながら、詩乃は必死に杏の方を見た。恐怖に押し潰されそうになっている杏の瞳と、詩乃の目が、まっすぐにかち合う。
 杏はごくりと唾を飲み込んだ。そして、すうっと深く息を吸い込んで、己を鼓舞するように声を張り上げた。

「我々が本当のことを言っているということは、本日我々がお会いしていた方に聞けば分かることです!」

 目の前にいるのは、今まさに暴力を振るっている絶対的な権力者だ。怖くないはずがない。恐ろしくてたまらないはずなのに、杏は震える両手を自ら強く抑え込み、必死に反論を続けている。

「それほど疑うのであれば、今すぐ詩乃様のご実家の隣家に使者を送り込んで探ってください。我々は今日、家を出た後すぐにその家に向かい、帰りに買い物をしただけで、それ以外はどこにも行っておりません。調べたうえで私が嘘をついているというのであれば、私を処分して構いません。そうなれば私は、二度とこの家の前には現れません」

 一気に捲し立てると、杏は躊躇うことなく冷たい土間に両手をついた。そのまま深く額を地面に擦りつけ、小さく丸まった背中で土下座の姿勢を取る。

「どうか、詩乃様を許して差し上げてください……」

 床に遮られたその声は、今にも泣き出しそうなほど激しく震えていた。主の身代わりになろうとする、悲痛なまでの懇願だった。
 重苦しい沈黙が流れた。しばらくした後、興が削がれたように、巳貴が詩乃の髪から手を離す。彼はそのまま感情の消えた声で使用人を呼びつけると、「淀川の家を調べろ」とだけ短く命じた。
 複数人の男たちが、ばたばたと慌ただしい足音を立てて一斉に屋敷を飛び出していく。

「いつまで蹲っているつもりだ」

 吐き捨てられた言葉は、床に倒れる詩乃と、額を床につけたままの杏の二人へ向けられた命令だった。
 促され、詩乃も杏もおそるおそるといった様子で、ゆっくりと顔を上げる。詩乃の切れた唇からは微かに血が滲み、殴られた頬は熱を持ってじんじんと激しく脈打っていた。視界が未だに歪むなかで、巳貴の冷たい目が詩乃を射抜く。

「何故淀川の家を訪ねた?」
「……私の母を知っている人物に、お話を伺いたいと思い……」

 これ以上の怒りを買わぬよう、詩乃は消え入りそうなほどの小さな声で、偽りのない事実だけを答えた。

「この前からお前は、随分と様子がおかしい。やはり、誰かに唆されたか」

 ねめつけるような巳貴の視線が詩乃を縛りつける。ここで嘘をつけば、また杏にまで火の粉が及びかねない。
 詩乃は恐怖で乾いた口を震わせながら、事実を伝えた。

「……学者の方とお会いして、私の母のことが知りたいと言われたのです」
「その学者の名は?」
「北原先生でございます」

 巳貴の眉がぴくりと動いた。その瞳には、鋭い警戒の色が見える。

「彼はその道の権威だ。お前のような人間が約束を取り付けられるとは思えない」

 逃げ道は完全に塞がれていた。これ以上、小細工で誤魔化せる相手ではない。詩乃は小さく息を吸い込み、完全に観念して、隠していた事柄を吐き出した。

「……花神家の花人様に、紹介していただいたのです」

 ぽつりと落とされたその一言が引き金だった。
 途端に、玄関先の空気が凍りつくような錯覚に襲われる。ただでさえ緊迫していた場の温度が、ひやりと、恐ろしいほどの冷ややかさをもって引き下がっていくのが肌に伝わってきた。

 ふ、と力なく噴き出すような音が薄暗い玄関に落ちた。自嘲のようにも聞こえる笑い声だった。
 ふ、はは、は、と、巳貴の口から漏れる乾いた笑いは、次第に狂気的な高い笑い声へと変貌していった。

「幼き日の思い出は、三年連れ添った俺との日々よりも輝かしいか!」

 鼓膜を突き刺すような怒号に、詩乃の身体はびくりと激しく震えた。恐怖で身を縮める彼女を見下ろし、巳貴は嘲るように言葉を畳みかける。

「そうか、そうだよな、お前は元々、そちらの世界(・・・・・・)の人間だものなぁ。お前が何年経っても俺との子をなせないのは、そういうことなんだろ」

 は、ははは、は、と壊れた玩具のように笑っていた巳貴が、不意に顔を伏せた。床に落ちる影のなかで、ふう……と深く、酷く冷めた息が吐き出される。
 再び彼が顔を上げたとき、そこにあった歪な笑みは一瞬にして消え失せていた。感情の削ぎ落とされた、能面のような無表情だった。

「――――ふざけるなよ」

 地を震わせるほどの低い声が、詩乃の心を凍らせる。

「俺が今までどんな思いで情報を隠し、お前を花神家から守ってきてやったと思ってる。お前が何も知らずに幸せに暮らせていたのは俺のおかげだと言うのに。お前は俺の気も知らないで、呑気にこちらの世界に首を突っ込もうとしている。本当に、愚かで、どうしようもない」

 どういう意味かと、問い返すことを許される雰囲気ではなかった。巳貴の瞳には、詩乃に対する剥き出しの嫌悪と侮蔑が宿っている。

「お前は知らないだろうがな、お前の幸福は、無知の上で成り立っているものだ」

 彼は囁くようにそれだけ言い捨てると、今度は杏へと視線を向けた。

「もう二度と、詩乃に近付くな」

 有無を言わせぬ宣告に、杏の小さな身体が強張る。

「お前を詩乃の付き人として雇うのは今日で最後だ。今後は料理番の女中に戻れ。お前のことは千姫に見張らせる」

 杏が巳貴に何かを言い返そうと僅かに口元を動かした。詩乃はその一瞬の動きを見逃さず、必死の思いで杏を強く睨みつけた。
 余計なことは言わないで、彼の言う通りにしてくれ――という意思を込めて。
 これ以上、大切な彼女が傷つくところなど見たくなかった。詩乃の気迫に押されたらしい杏は、悔しそうに唇を噛み締め、それ以上言葉を重ねるのをやめた。

「下がれ」

 巳貴の声に従い、杏が廊下の奥へと去っていく。
 残された詩乃は、震える拳を握りしめ、俯いたまま巳貴に問うた。巳貴と目を合わせる勇気はなかった。

「……先程、私を無知だとおっしゃいましたが。私は、何を知らないのでしょうか」
「…………」
「旦那様は、私に何を隠しているのですか。私の母親は一体――」
「まだ、俺に歯向かう意思があるようだな」
「め……滅相もございません」
「母親のことを探ろうとしているだろう。俺は、俺の許可なく余計なことをするなと言っているんだが?」

 こちらを凍りつかせるような声音に、詩乃は、それ以上何も言えなくなってしまった。

「立て。来い」

 詩乃は身をすくめ、巳貴に付いていくことしかできなかった。
 屋敷の奥深く、外の光がほとんど届かない冷え切った脱衣所。
 床に組み伏せられた詩乃の視界に映ったのは、なみなみと冷水が張られた木桶だった。冷え切った水面が、天井の薄暗い電灯を反射して鈍く光っている。

「お前が勝手なことをした仕置きだ」

 巳貴の冷たい声と同時に、容赦のない手が詩乃の後頭部を掴んだ。抗う間もなく、視界が強引に傾く。

「――っ、や、め」

 懇願の言葉は、容赦なく突き落とされた水面によって掻き消された。
 鼻と口に冷水が侵入してくる。冷水が気道を塞ぎ、激しい苦しさが呼吸を阻む。詩乃は本能的な恐怖に駆られ、必死に身体を捩った。
 しかし、後頭部を固定する巳貴の手は、岩のように微動だにしない。むしろ、暴れれば暴れるほど、さらに深く、冷たい水の底へと詩乃の顔を押し付けていく。
 水中で、詩乃の口からゴボゴボと気泡が漏れ出た。胸が引き裂かれるように熱い。水が染みて顔の傷が痛い。脳が酸素を求めて悲鳴を上げ、視界の端が急速に黒く染まっていく。
 このまま、死ぬのだろうか。絶望が頭をよぎり、全身の力が抜けかけたその瞬間、不意に髪を掴む手が引き上げられた。

「げほっ! あ、が、はっ……!」

 床に投げ出された詩乃は、激しく咳き込みながら、 必死に空気を求めて喘いだ。口からも鼻からも、吸い込んでしまった水が溢れ出る。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、激しい酸素の飢餓感に身を震わせる。

「う、うぅ、ぐ、ごほ」
「……はは、無様。お前、苦しんでいる時だけは可愛いな」

 巳貴が笑う。
 だが、安息は与えられなかった。

「俺に向かって謝罪しろ。許しを請え。二度と他の男と会うな。それが花神家の当主であってもだ」

 ――花人と、もう二度と会わない。その要求は詩乃は、すぐには首を縦に振れなかった。
 詩乃のその態度が、巳貴の怒りを買ったのだろう。巳貴はち、と舌打ちした。

「おい、聞いてるのか。自分が誰のものか分かっているのか? はは、どうやら自覚が足りないらしいな」
「ひっ、ご、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさいッ」
「最初からそうやって従順にしていたら、少しは許してやろうと思ったのだが」

 冷酷な呟きと共に、再び濡れた髪が乱暴に掴み上げられる。

「嫌、いや……っ、お願いします……!」

 詩乃の必死の懇願も、巳貴の耳には届かない。再び目の前に迫る水面を見つめながら、詩乃はただ、この底なしの暗闇からいつか自分を引っ張り上げてくれる誰かの存在を、心の奥底で祈るように希求するしかなかった。

 ――その日を境に、杏が詩乃の前に姿を現すことはなくなった。
 詩乃は、ようやく屋敷の中にできた唯一の味方を奪われ、孤立無援となった。
 そして、巳貴から詩乃へと振るわれる暴力の頻度は、目に見えて跳ね上がっていった。

 ◇

 そうして、あっという間に三ヶ月ほどの月日が流れ去っていった。
 暦は水無月を迎えている。連日のように降り続く雨が、古びた瓦を、庭の木々を、容赦なく濡らし続けている。体にまとわりつくような、湿った重い空気が、詩乃の体に不快感を与えた。
 詩乃は、巳貴からの暴力で痛む体に鞭打ち、今日も屋敷中の仕事を一身に引き受けていた。
 家事の合間に縁側に座り、ただぼんやりと、雨粒が地面に穿つ無数の小さな水溜まりを見つめる時間だけが日々の楽しみだ。しとしとと鳴り響く雨音は、まるで外界との繋がりを完全に断ち切る遮断壁のようだった。
 この三ヶ月、ただの一通も、花人からの文は届いていない。巳貴が裏で手を回し、屋敷に届く前に全て処理しているのだろう。
 届けられるはずの言葉が遮断された世界で詩乃の心は、徐々に摩耗していた。
 雨に濡れる庭の紫陽花が、じっとりと色を深めていく。その鮮やかな色彩さえも、今の詩乃の瞳には、どこか遠い世界のように霞んで映るだけだった。

「詩乃」

 悪魔のような声が、後ろから聞こえた。
 振り返れば巳貴がいる。今日は仕事が早く終わったのだろう。
 詩乃の心に焦りが生まれた。体の痛みで少し休んでいただけだが、傍から見れば、家の仕事を怠っているようにも見える。
 詩乃は慌てて立ち上がり、頭を下げた。

「旦那様、申し訳ございません、これは……」
「言い訳はいい。来い」

 ――今日も、機嫌が悪い。

 部屋に着くなり、巳貴は詩乃を押し倒した。
 最近、ろくな言葉も交わさないまま肌を重ねられる回数が明らかに増えている。ほとんど無理やりに近いその行為の最中、詩乃はいつも天井の一点を見つめ、心を固く閉ざして嵐が過ぎ去るのを待つ。愛の欠片もない肉体の繋がりは、暴力とはまた異なる痛みで、詩乃の心をじわじわとすり減らしていた。
 行為の後、汗ばんだ身体を置き去りにしたまま、薄暗い寝室に巳貴の低い声が落ちた。

「お前、体に異変はないのか」

 詩乃はすぐには言葉の意味が理解できず、横たわったまま黙っていた。
 日々の暴力による打撲や、引きずられた痕なら全身に残っている。けれど、彼はそういう意味で尋ねているのではないような気がする。

「異変というのは……」
「月のものは来ているのか」

 張り詰めた沈黙が寝室を支配する。詩乃は小さく息を止めた。
 生理なら、つい先週来たばかりだった。詩乃は元々周期が短く、四日ほどで終わってしまう。だからたまたま巳貴が出張で不在にしていた期間と重なり、彼が把握できていないだけのことである。

「来ていますが……」

 冷えた声で事実を告げると、再び部屋に沈黙がおりた。
 子供を作ろうとしているのだろうか――と、ふとそのような考えが浮かんだ。
 詩乃の胸に違和感が広がる。以前は他所の女を孕ませ、その子供を跡継ぎとして詩乃に育てさせると言っていたはずだ。それがどうして、今更自分との間に子を望むような真似をするのだろう。詩乃が妊娠しにくい体質であることは、巳貴も最初の一年で察していたはずなのに。
 窓の向こうから、しとしとと絶え間なく響く雨音が聞こえてくる。しばらくその音に耳を傾けていた詩乃は、今の落ち着いた巳貴にならば、望みを聞き入れてもらえるかもしれないと淡い望みを抱いた。

「……明日、外出させていただけないでしょうか」
「何だと?」

 不機嫌そうに眉をひそめる巳貴の、威嚇のような声がする。しかし詩乃も今回ばかりは譲れず、必死に言葉を続けた。

「お父様の命日です。明日だけは、外出を許してください」

 自ら命を絶った父の墓参りには、毎年必ず足を運んでいる。それは巳貴も承知している事実だった。
 しばらくの沈黙の後、巳貴は「使用人を一人付ける」とだけ短く吐き捨て、外出の許可を出した。条件付きではあったが、拒絶されなかったことに、詩乃は小さく安堵する。

「他の男と少しでも会話を交わしたら殺すからな」

 背後から容赦のない脅し文句が耳元に吹き付けられた。
 しかしそれだけ言うと、巳貴は詩乃の身体を圧迫するように強く抱きしめたまま、やがて規則正しい寝息を立て始めた。
 身動きの取れない腕の中で、詩乃は、明日の予定を考えていた。

 詩乃の父は、郊外にある公園墓地に眠っている。
 郊外までは朝から出てもかなりの時間がかかるため、詩乃は、巳貴の朝食ついでに自分のお弁当も作った。竹皮に包んだ塩むすびと、少しの香の物。それだけを巾着に忍ばせる。
 朝靄が屋敷の庭を白く染める頃、詩乃は身支度を整えて玄関を出た。すぐ後ろには巳貴が付けた目つきの鋭い使用人が、影のようにぴたりと従ってくる。
 詩乃は、都心の停留所から、ガラガラと音を立てて走る路面電車に乗り、大きな駅へと向かった。そこから、郊外へと一直線に伸びる木造の郊外電車へと乗り換える。
 激しく車体を揺らしながら進む電車の車内は、まだ時間が早いせいか乗客もまばらだった。木製座席に腰を下ろすと、窓枠が震える単調な音が、詩乃の鼓膜を震わせる。横に座る使用人は、一言も喋らない。
 車窓から見える景色は、煉瓦造りのビルやモダンな洋館が立ち並ぶ帝都の街並みから、次第に広大な緑へと移り変わっていった。泥を跳ね上げながら走る乗合自動車や人力車の姿が消え、代わりに茅葺き屋根の農家や、雨をたっぷりと吸って青々と輝く田畑が広がり始める。
 窓を少し開けると、湿った土と草の匂いが、電車の電気特有の焦げ臭い匂いに混じって流れ込んできた。
 流れていくのどかな田園風景をじっと見つめる。今日は、雨が降らなくてよかったと思った。