籠の鳥の再縁


 しかし、このような場所こそ、詩乃の胸を踊らせた。
 人でごった返しているから、誰も一人ひとりの顔を見ていない。他人のことなど気にしていないのだ。中には奇抜な格好をしている人もいて、額に印のある詩乃も、この中にいれば他の人々に紛れることができる。他の場所なら目立つ特徴が、この場所でなら存在が薄れるのだ。
 そのように、人の多い場所は詩乃にとっては他よりも居やすい場所である。でも、花人にとってはそうでないかもしれない。

「……花神家の当主が、こんなところにいていいの?」

 それだけが気になって、車から少し遅れてやってきた、隣に立つ花人を見上げた。
 さすがに自覚はあるようで、彼は高級な着物ではなく、書生風の格好に変装していた。

「護衛なら沢山付いてるからね」

 花人は悪戯っぽくそう言って、楽しげにちらりと後ろを振り返った。
 視線を追うと、庶民らしい格好に着替えて景色に紛れようとしている男たちが複数人見えた。鍛え上げられた大柄な体格はあまり隠せておらず、ぞろぞろと一定の距離を保って付き従っている彼らの様子は、どこか奇妙だった。

 気を取り直して楽しもうと思う心に、足枷のような影が落ちてくる。自分が楽しもうとすると、どうしても絵巳里の姿が思い出されるのだ。自分は、眠ってしまった絵巳里を放ってこんなことをしていていい人間ではないような、居心地の悪さを感じる。
 詩乃は、先ほど北原に言われた言葉を思い出す。

――『あなたの母の生前の知人を見つけることができれば、連絡をください』

 生前の知人。六歳の時の記憶など、ほとんどない。何人か思いつく相手はいるが、向こうは年月を重ねてあの頃とは風貌が変わっているはずだ。広く、移り変わりの激しい帝都で、その足跡を辿るなど到底不可能なように思えてしまう。
 知らずのうちに再び深く考え込んでいた詩乃の眉間に、花人の指先が優しく当てられた。

「しーちゃん。考えすぎだよ」

 額に触れた体温にハッとして、詩乃の意識が現実に引き戻される。

「大丈夫。しーちゃんの大切な人は、きっと元に戻るから。今は肩の荷をおろして、楽しむことにだけ集中して」

 そう笑う花人の瞳は、どこまでも澄んでいて、詩乃の不安を全て吸い取ってしまうのではないかと思うほど、温かかった。
 すっと、自分の中にある影が消えていく。

「……うん。ありがとう」

 自分が辛気臭い顔をしていては、折角楽しんでいる杏の気持ちも沈んでしまうだろう。そう思った詩乃は、無理やり口角を上げた。
 花人が優しく微笑み返し、人混みを避けるように歩き出す。
 通りには、西洋風の山高帽にマントを羽織った男や、モダンなリボンを髪に飾った女子、荷車を引く職人たちがせわしなく行き交っていた。活動写真館の看板には、大スターの勇ましい姿が極彩色で描かれていて、呼び込みの男たちが声をからして観客を誘っている。
 花人が人混みを縫うようにして立ち寄ったのは、白煙と甘い香りが漂う一軒の店だった。彼が買い求めたのは、浅草名物の人形焼だ。

「ほら、しーちゃんも杏ちゃんも食べて。温かいうちが一番美味しいからね」

 経木の薄い包みから、焼き立ての香ばしい湯気が立ち上る。
 詩乃はそれを受け取り、そっと口に含んだ。ふっくらとした生地の甘みと、滑らかな餡の熱さが口いっぱいに広がる。
 隣では、杏が五重塔の形をした人形焼をまじまじと見つめた後、嬉しそうに頬張っている。彼女が楽しそうで、詩乃も嬉しくなった。
 そしてふと、何も買っていない花人のことが気になった。

「……花人お兄ちゃんは、食べないの?」
「外のものは食べないように躾けられてるんだ。食べたら後から泉にねちねち言われるんだよ。毒殺なんかもあるからね」

 さらりと恐ろしい可能性を口にする花人に、詩乃はぎょっとした。
 そういえば、彼の兄は二人とも、若くして死んでいる。彼は、暗殺がそう遠くない世界で生きているのだ。
 詩乃は、少し悩んだ後、食べかけだった人形焼の端を摘み、千切って花人に差し出した。

「私が毒見したので。これは大丈夫です」

 花人は一瞬、ぽかんとしたが、すぐにその端正な顔をふにゃりと崩して笑う。

「しーちゃんに毒見させるなんて、それこそ泉にぶん殴られるなぁ」

 嬉しそうに顔を綻ばせた花人は、あーん、と詩乃の指から直接人形焼を食べた。
 詩乃は驚き、思わず周囲を見回してしまったが、誰も詩乃たちのことなど気にしていない。人混みは、人のいないところにいるのと似たようなものであるようにも感じられた。
 浅草寺の境内へと進むと、今度はカフェーから流れてくる西洋の蓄音機の音や、電気館のきらめき、伝統的な絵馬堂の古びた佇まいが見えた。

「昔、一緒にこうやってお祭りに紛れ込んだことがあったよね」

 立ち並ぶ露店を眺めながら、花人が懐かしそうに目を細める。
 その直後、前方から押し寄せてきた人の波に、詩乃の身体がわずかに揺らぐ。それを見逃さなかった花人が、人混みに圧されそうになる詩乃の手を、当然のようにきゅっと握って引こうとした。

「えっ」
「だ、だめです! 詩乃様のお手に触るなんて!」

 詩乃が驚きで短い悲鳴を上げるのと、すぐ横から鋭い叱責の声が飛んできたのは、ほぼ同時だった。
 杏が焦ったように、花人の前に立ちはだかって注意する。

「やっぱりあなた、詩乃様のこと狙ってませんか!? 詩乃様の美しさに見惚れる気持ちは分かりますけど、詩乃様は夫ある身の方ですので、げ、言動をわきまえてください! 男性であり、権威もあるあなたならいざ知らず、こんなところ見られたら、詩乃様が何を言われるか分からないんですよ!?」

 杏の言う通りだ。姦通の罪を疑われれば、花神家の当主である花人よりも、前科者であり、女である詩乃の方が、世間から容赦なく泥を塗られるだろう。
 緊迫した空気が流れるかと思いきや、花人は怒る風でもなく、子供のように拗ねた様子で不満げに唇を尖らせた。

「……ちぇ。杏ちゃんはけちだなー。ちょっとくらい良いじゃんね」
「駄目です!」
「じゃあ、杏ちゃんもしーちゃんの反対側の手を握ってよ」
「……えっ?」
「そうすれば、はぐれないように三人で繋がってただけ、って言い訳できるでしょ?」
「……そ……そうでしょうか?」
「ね、お願い。後でおいしいカフェーに連れてってあげるから」
「カフェー……な、なるほど」

 帝都の若者たちの間で大流行している、ハイカラな〝カフェー〟という響きに、地方の出である杏の心はわずかに揺らいだようだった。
 杏は、花人の妙な説得力に押し切られるように曖昧に頷き、おそるおそる詩乃の反対側の手をぎゅっと握りしめる。
 両手をそれぞれに握られ、詩乃は苦笑するしかない。またしても花人の強引さに流されてしまっている気がしたが、一度こうと言い出したら絶対に引かない彼の性格を、詩乃は誰よりもよく知っているので、過度な反発は諦めた。

 三人で手を繋いだまま、さらに奥へと歩みを進める。
 銘酒屋や劇場がひしめく賑やかな通りを抜けると、洋風の洒落たカフェーが姿を現した。ハイカラな格子窓からは、軽快なジャズの音と、焙煎された珈琲の芳しき香りが漂っている。
 白いエプロン姿の女給に案内されて席につくと、花人は躊躇いなく、洋菓子や冷たいアイスクリームを二人の前に並べさせた。

「これ、本当に私がいただいても良いのですか……?」

 見たこともない銀色の器を前に目を丸くする杏に、花人は「もちろん。今日一日、しーちゃんを守ってくれたお礼だよ」と優しく微笑む。
 一口ごとに「ほっぺたが落ちそうです!」と顔を綻ばせる杏を見て、詩乃の心もすっかり和んでいった。

 ◇

 やがて、太陽が西の空を茜色に染め始める。約束通り、周囲が暗くなる前にと、花人の手配した自動車は、詩乃たちを乗せて再び蛇神家の屋敷の前へと戻ってきた。
 護衛たちの乗る車を引き連れ、排気音を残して夕闇の彼方へと走り去っていく車列を見届けた後、詩乃はほっと胸を撫で下ろし、小声で隣の杏に語りかけた。

「……ね。花人お兄ちゃんは、いい人だったでしょう?」
「ま……まぁ……噂で聞いていたよりは……」

 カフェーでの甘いおもてなしや、道中での彼の細やかな気配りにすっかり毒気を抜かれたのだろう。杏は、花人が恐ろしい悪人であるという疑念が薄れたのか、きまり悪そうにもごもごと口を動かした。
 大切な幼馴染みの本来の優しさを理解してもらえたことが、詩乃は何よりも嬉しかった。

「朝言いかけていた、その噂というのは何だったのですか?」

 詩乃の問いかけに、杏は視線を泳がせ、気まずそうに俯く。

「……やめておきます。本当に、ただの噂だったかもしれません。私としたことが、噂なんかに惑わされて、お恥ずかしい限りです」

 杏はどこか自分を恥じるように小さくはにかみ、それ以上は何も語ろうとはしなかった。お世話になった花人への悪く言うことが躊躇われたのだろう。
 そのまま、詩乃たちは屋敷の勝手口へと戻った。
 帰宅後すぐに、新たに生まれた家事を片付けていく。夕食の片付けを終える頃には、すっかり夜も更けており、互いに労いの言葉を交わしながら別れた。

 詩乃は、自室に戻る前に、離れにいる絵巳里のもとを訪れた。横たわる絵巳里の世話を済ませてから、その白い肌を侵食するように咲く花の一輪へと、恐る恐る手を伸ばす。
 北原に言われた通り、花弁を一枚、指先でそっと摘んで引きちぎった。これまで絵巳里の体に咲く花に直接触れ、損なうような真似をしたことはなかったために、とても不安だった。しかし、花弁を千切っても、何か変化が起きることはなかった。
 詩乃はほっと息を吐き、花弁を大切に包んで自室へと戻った。
 花弁を文机の上にそっと置き、今日北原から頼まれたことについて考える。

(母様の知人……以前住んでいた家の隣家であれば、まだ残っているかもしれないけれど)

 かつて隣の家に住んでいたあの御夫婦であれば、頻繁に出歩いていた母の生前の様子を何か覚えているかもしれない。
 けれど、名家の令嬢を異能で害し、忌むべきアザモノとして世間に知れ渡ってしまった今の自分の話を、彼らはまともに聞いてくれるだろうか。突然尋ねたところで、怯えられ、門前払いされる予感しかしない。
 何より、既に引き払われて更地となっているはずのあの実家は、詩乃にとって父が自ら命を絶った場所である。あの土地に近付くと思うと、嫌な感じがした。

「――今日は外出をしていたらしいな」

 深く思考の海に潜っていた詩乃は、後ろから近付いてきた気配に気付かなかった。
 振り向けば、仕事帰りらしい、夫である巳貴が立っている。
 ひゅっと、心臓が縮むような心地がした。

「あ……お、おかえりなさいませ」

 詩乃は慌てて床に手をつき、丁寧に頭を下げる。
 詩乃たちが出かけていたという話は、あっという間に巳貴の耳に入ったらしい。それ自体が珍しいことであるので当然だろう。
 家のことを全て済ませてから出たのだから、言い訳はできる。堂々としていよう、と詩乃は自分の心を落ち着かせた。
 巳貴は冷ややかな一瞥を詩乃にくれた後、その視線を文机の上にぽつりと置かれた花弁へと移動させた。

「どこへ行っていた?」
「……絵巳里様を目覚めさせるための手がかりが何かないかと、有名な学者のもとを尋ねました」

 詩乃の言葉を聞いた巳貴は、一拍の間を置いた後、「は」と低く嘲るような、冷たい鼻笑いを漏らした。

「それで、相手にはしてもらえたか?」
「それは……」
「アザモノの女など、学者からは相手にしてもらえないだろう。可哀想に」

 確かに、巳貴の言う通りだ。詩乃が一人で赴いたところで、最高学府の権威ある学者になど、門前払いにされるのが関の山だっただろう。今回対面できたのは、偏に花神家の当主という強大な後ろ盾が同行してくれたからに他ならない。
 けれど、その事実を彼に明かすわけにはいかないので、詩乃はただ、その侮蔑を受け入れるように「……はい。そうでした」と小さく声を絞り出す。

「けれど、何もせずに諦めたくないのです。私が、絵巳里様の人生を潰してしまったので……できる限りのことは、させていただけませんか。これから色々と外へ出て、調べさせていただきたいのです」

 巳貴は感情の読めない瞳で、しばらくの間、じっと詩乃を見下ろしていた。
 そして、今度は逃げ道を塞ぐような重みを含んだ声で、ゆっくりと問いかけてきた。

「何かあったか?」

 核心を突く質問に、詩乃は一瞬、息を止めて黙り込んでしまう。

「……何か、とは?」
「この三年で、お前がそんなことを言い出すのは初めてだ。これまでまるで被害者のような生気のない顔をして、大人しく姉上の世話をするばかりだっただろう。それが急に、外へ出て根本的な解決法を探そうとし始めた。何かきっかけがあったと考えるのが自然だ」

 すうっと、背筋を一本の氷柱でなぞられたような寒気が走った。
 目の前にいる男は、仕事において極めて有能で、情勢の変化や人間の機微に恐ろしいほど敏感な、明晰な頭脳を持つ人間である。
 その鋭い観察眼に全てを見透かされそうで、詩乃の中に激しい焦りが生まれた。
 ここで巳貴の怒りを買えば、もう、外には出られなくなる。そうすれば、絵巳里を目覚めさせる方法を探ることも、叶わなくなるかもしれない。

「絵巳里様を救いたいと考えることは、おかしいですか」

 焦りが詩乃を突き動かした。
 普段、巳貴の前では余計なことを言わないようにと閉ざしている詩乃の口が、驚くほど滑らかに動く。

「元より、何かしようと考えていなかったわけではありません。ですが私は、絵巳里様を失った絶望のあまり、これまで具体的に動くことができませんでした。私なんかに何かを変えられるという自信もなかったのです。でも、ようやく思考と行動力が一致してきました。遅すぎるかもしれませんが、もっと、絵巳里様のために、なりふり構わず行動したいと思うようになりました。無謀でも、傍から見て情けない努力でも、許していただけないでしょうか」

 巳貴は、面食らったように目を見開き、しばらく黙っていた。
 口数の少ない詩乃が、これほど饒舌に語りだしたことに驚いたのだろう。そして、その熱意は巳貴に伝わったようだった。

「……そうか」

 掠れた声が落ちたと同時に、巳貴は突如として畳の上に膝を突き、拒む隙さえ与えず、詩乃の身体を強く抱き締めた。あまりの勢いに詩乃が息を呑む間も無く、耳元に、彼の自嘲的な声が流れ込んでくる。

「本当に、笑えるな」

 どこか泣きそうな声が、詩乃の耳に届く。

「誰もが姉上を見捨てたこの屋敷で、俺の味方は、姉上を害したお前しかいない」

 背中に回された腕に力が籠もり、すり、と巳貴の頬が詩乃の髪に擦りつけられる。

「お前だけが、俺と一緒に姉上のことを待ってくれる……なのに、俺は時々怖くなる。お前も姉上と同じ、同じ場所には留まっていられない鳥のようなもので、いつかどこかへ羽ばたいていってしまうのではないかと。俺を置いて、自分の望む世界に消えていってしまうのではないかと――姉上と同じように、花に拐われていってしまうのではないかと」

 縋るような告白の後、ぐず、と微かに鼻を啜るような音が鼓膜を震わせた。

「姉上が残していったお前がいなくなったら、俺にはもう、何も残らない」

 しかし、詩乃がその言葉の意味を咀嚼するよりも早く、巳貴は素早く腕を解き、毅然とした動作で立ち上がった。
 あまりの温度差に、詩乃は畳に手をついたまま、呆然と彼の立ち姿を見上げるしかなかった。先ほどまでの脆さは影も形もなく、巳貴の顔は既にいつもの、冷徹で非の打ち所がない次期当主の表情へと戻っている。
 彼は乱れた衣服を軽く整えると、何事もなかったかのように淡々と告げた。

「明日、休みを取った。客人が来る。お前も同席しろ」
「……え?」

 お前は恥だと言って詩乃を表に出したがらない巳貴にしては、珍しいことだった。
 困惑する詩乃を見下ろし、巳貴は言葉を続ける。

「相手は山神家の次期当主――泰山《たいざん》という名前の男だ。一応、俺の一高時代の学友だ。嫁を見せろと言って聞かんのだ。うるさい男だが、同席してほしい」
「は……はい。あの、額はどうしたら」

 反射的に額のアザに指先が伸びる。名門家系の者同士が集う場で、この印を晒すのは無礼ではないか。詩乃の当然の疑念に対し、巳貴は一顧だにせず言い放った。

「隠さなくていい。俺の妻がアザモノであることは、誰もが知っている」

 彼はそれだけを言い残すと、流れるような動作で詩乃の部屋を後にした。詩乃は、パタンと閉まった襖を、ぼんやりと見つめていた。

 ◇

 翌朝、十時を告げる柱時計の音が屋敷に響いて間もなく、玄関の方が慌ただしくなった。山神家の次期当主、泰山が到着したのだ。
 詩乃は巳貴の先導のもと、主屋から客間へと続く、長い廊下を歩いていった。

(もう少し、ゆっくり歩いてくれないかな……)

 巳貴の三歩後ろを必死に追いかけながら、詩乃は心の中で小さく溜息をついた。
 元より歩幅が違ううえに、巳貴の歩調はいつも速い。それに対し、詩乃は着物の裾が乱れないよう気遣い、小さな歩幅で小走りに近い速度を維持しなければならず、客間に着く前から息が上がりそうだった。
 客間の前で巳貴が足を止め、襖を滑らせる。
 開かれた視界の先、上座の座布団を占拠するようにして待っていたのは、詩乃の予想していたよりも大柄な男だった。

「おお! あんたが詩乃さんか! 初めまして!」

 彼は巳貴と同年代のはずだが、既に歴戦の軍人か、荒くれ者かと思わせるほどの、凄まじい貫禄を漂わせている。何より目を引いたのは、着物を押し広げている、筋骨隆々とした逞しい肉体だった。和装の上からでも一目で分かるほど厚い胸板と、丸太のように太い腕が、山神家という血筋の持つ頑健さを体現している。

「えらいべっぴんだなあ。巳貴、お前、姉に言われて結婚したと言っていたが、本当は惚れて娶ったんじゃないか? なぁ?」

 彫りの深い精悍な顔立ちにはにやにやとした、旧友をからかうような笑みが張り付いており、耳元には細かな細工の施された金の耳飾りが鈍い光を放っていた。

「冷やかしに来たのなら今すぐに帰すが」
「そんな冷たいこと言うなよぉ! ったく、お前は、相変わらずつれねえ奴だなあ」

 細身で落ち着きがあり、一分の隙もない氷のような巳貴。
 野性的で豪快、見る者を威圧するような熱を孕んだ岩塊のような泰山。
 好対照な二人の男が並ぶ空間に、詩乃はおそるおそる足を踏み入れた。

「悪いな、来てもらって。旧友の嫁を一度この目で拝んでみたかったんだ。ほら、今はこんな世界情勢だろ? おれもいつ、兵として駆り出されるか分からねぇ。いつ何が起こるか分からない時勢だから、死ぬ時に悔いのない人生にしてえんだ」

 泰山がそう言って、明朗に笑う。
 詩乃は御三家の嫁の名に恥じないよう、できるだけ美しい所作を意識し、巳貴の斜め後ろへと腰を下ろした。着物の裾を美しく整え、手を突いて、深く頭を垂れる。

「お初にお目に掛かります。山神家次期当主、泰山様。蛇神巳貴が妻、詩乃と申します。此度は遠路遥々、私どもの屋敷へと足をお運びいただき、誠に恐悦至極に存じます。至らぬ身ではございますが、本日はどうぞ、よしなにお見知り置きくださいませ」

 名家の嫁として、恭しい挨拶をする。
 泰山は形の良い唇を不敵に歪め、値踏みするような視線で詩乃の姿をじろじろと露骨に眺めまわした。

「容姿の美しさは母親譲りだな。あの人はこんな、大人しそうな女ではなかったが」

 その言葉に、詩乃は心底驚いた。儀礼的な緊張が一瞬で吹き飛び、弾かれたように顔を上げる。

「……私のお母様と、お会いしたことがあるのですか?」
「おう、まだちっせぇ時だけどな。嬢ちゃんの母親は初恋泥棒だったよ。人妻の色気ってやつか? ぎゃはは! ひとたび見れば頭から消えない、魅力的な女性だったなァ……少し――魅力的すぎるほどには」

 豪快に笑い飛ばす泰山の耳元で、金の飾りが揺れる。
 ――母の知人。昨日、北原の研究室で言われたばかりの言葉が、詩乃の頭の中を激しく駆け巡った。自分の母を知る人物が、まさか、こんな形で目の前に現れるなんて思いもしなかった。

「お母様がどのような人だったか、よければ、教えていただけませんか?」

 食いついてきた詩乃に、泰山は驚いたように目を丸くした。彫りの深い顔に一瞬だけ奇妙な困惑が走り、彼は言葉を濁すように、詩乃の隣に鎮座する巳貴へと視線を移した。

「何だ、お前、この子に何も話してないのか?」

 向けられた問いに対し、巳貴はぴくりとも動かず、泰山を睨み付ける。客間に、しばしの沈黙が走る。
 泰山は「あー……」とばつが悪そうに太い指で頭をかくと、すぐに軽薄な笑顔を作って詩乃に向き直った。

「会ったことがあるっつっても、おれが直接喋ったわけじゃねえんだよ。死んだ母親のことが気になるのは分かるが、おれからは何も言えねえわ。ごめんな」

 そのあからさまな幕引きに、違和感が残った。何かを隠されているという疑念だけを残して、詩乃の母に関する話題はそれ以上、深く閉ざされてしまった。
 不穏な沈黙を破るように、女中がすり足で客間へと入ってくる。彼女が捧げ持つ漆塗りの木目が美しい盆の上には茶が用意されていた。
 泰山に差し出された茶に添えられたのは、目にも鮮やかな生菓子である。

「ほう、これは手厚いもてなしだな」

 泰山は、出された玉露の香りを愉しむように鼻腔をくすぐらせると、筋骨隆々とした逞しい手で、小ぶりな茶碗を優雅に持ち上げた。

「いい茶だな。渋みのしの字もねえ。いい気分だ!」

 泰山は大きく笑い、今度は添えられた生菓子へと手を伸ばした。
 そして。

「それで、花神家の御三家除名の件は、どうする。巳貴」

 詩乃にとって爆弾のような言葉を落とした。

「父上が既に動き始めている。お前の父親も、相当怒り心頭なのだろう」
「そりゃもう! ったく、巻き込まないでほしいよな~。おれはまだしばらく女の子と遊んで、ふらふらしてたかったのに。時世が動く時にふらふらしてたらおれが親父に殺されかねねぇからなあ」

 泰山は軽い調子で肩をすくめたが、その口ぶりは冗談のそれではない。

「お前も分かってると思うが、花神家のことは、これ以上は看過できねえ。軍部全体の総意だ」

 御三家から除名。そうなると、花人はどうなるのだろう。少なくとも、良い結果にならないのは察せる。

「……除名というのは……?」

 仕事の会話に割り込むなど、本来なら許されることではない。しかし我慢ならず、詩乃はか細い声で問うてしまった。
 花神家の名が出てきたせいで、冷静でいられなくなったのだ。

「花神家を潰すんだよ。一族皆殺しだ」

 泰山の口から、詩乃にとっては重大な発言が、気軽にさらりと投げつけられた。血の気が引き、息が詰まる。あの穏やかで美しい花人の笑顔が、真っ赤な血に染まっていく想像が脳裏を過ぎる。

「皆殺しというのは、何故……やりすぎなのではないでしょうか」
「……あ?」

 それまで派手な笑みを浮かべて愛想よく振る舞っていた泰山が、急に渋い顔をした。彫りの深い顔を不快げに歪め、叱咤するように詩乃を睨みつける。

「嬢ちゃん、女が男の世界に口出すもんじゃねぇぞ」

 耳元の金の飾りが、彼の苛立ちを示すように小さく揺れた。

「あの家はもう内部から崩壊している。花の神は不在、当主は頼りになるかも分からねえ若い男に代替わりした。ただでさえあの家は何十年も帝都に害を及ぼしていた。ここまで見逃してやって建て直せなかったんだから、もう無理だろ」
「うちの愚妻が失礼した。彼女は帝都の情勢を何も知らない。あまり責めないでやってくれ」

 巳貴が泰山の威圧を遮るように、会話に割り込んでくる。その言葉は、不躾な泰山から自身の所有物を守るための防壁のようでもあった。
 巳貴は横目でちらりと詩乃を一瞥し、言い放つ。

「お前はもう退室していい」
「えー! 出ていけとは言ってねぇだろ、おれ! 嬢ちゃんがいてくれねえと場に華がねぇよ」
「人の嫁を華扱いするな。華が欲しいなら他の女を呼ぶ」
「んじゃあ、お前の愛人一人呼んでこい。乳が大きい子がいいなァ」

 品性のないやり取りを交わしながら、けらけらと下卑た笑い声をあげる泰山。男たちの世界の生々しい会話から逃れるように、詩乃は一礼して客間を後にした。
 廊下を歩き、男たちの声が遠のいても、詩乃の胸のざわつきは一向に収まらなかった。「花神家一族皆殺し」という言葉が、耳の奥で幾度も不気味に木霊する。

(軍部の総意と言っていた。花神家がそれほど嫌われているなんて知らなかった。帝都で一体、何が起こっているの……?)

 昨日、人形焼を嬉しそうに食べてくれた花人のあの優しい笑顔が、消し去られようとしている。その恐ろしい現実に、詩乃は不安でいっぱいになった。

 それから数時間が経過した頃、泰山は、蛇神家の屋敷を去っていった。
 車へ乗り込む直前、泰山がふと足を止め、見送りのために控えていた詩乃へと顔を向けた。

「じゃあな、嬢ちゃん。いつどうなるか分からない情勢だ。死ぬ時に後悔しない人生を送れよ」

 金の耳飾りが陽を反射して美しくきらめいている。泰山はそのまま自動車へと乗り込み、排気音とともに帰っていった。

 花人は、除名の件を知っているのだろうか。
 巳貴や泰山が、人に知られたくない話を詩乃の前でするとは思えない。これは、既に花神家の人々も把握している話なのだろう。
 だから昨日、花人にはあれだけ護衛が多かったのだろうか。

 蛇神巳貴という男は、職務において非合理的な判断は下さない。必ず帝都に利のある選択をする。そこだけは、三年連れ添った詩乃には確信が持てる。
 ――花神家の除名は、帝都に利のある選択だということだ。

(もっと詳しく聞きたい……でも、普段政に興味のない私が急に御三家の話に食いついたら、怪しまれる)

 自分の身近にいる巳貴が、おそらく最も全てを把握している。なのに詩乃は、巳貴に気軽に何かを聞くことができない。彼は、近くて遠い存在だ。何が彼の逆鱗に触れるか分からないからである。

(花人お兄ちゃんにこのことを言う?……でも、もし万が一、花人お兄ちゃんがこのことを知らなかった場合、私が間諜のようになってしまう。そうなれば、情報を漏らした蛇神家の責任に……)

 詩乃は屋敷の洗濯物を干しながら、ぼんやりとしていた。どうも、いつものようにてきぱきと動けない。杏は誰よりも早く詩乃の異変に気付いた。

「詩乃様、どうかしたのですか? 体調が悪いのであれば、今日の外出は延期にして、少し休みましょう」

 籠に残った手拭いを広げながら、杏が心配そうに詩乃の横顔を覗き込んでくる。
 今日は午後から、母の話を聞くために、かつて暮らしていた実家の跡地周辺へ赴く約束になっている。
 詩乃は微かに強張った唇を動かし、小さく首を横に振った。

「……いえ。行きましょう。遅いよりは、早い方がいいと思うので」

 その後も、家事をしている間、詩乃はずっと上の空だった。
 やがて身支度を整え、手提げ袋を小脇に抱えて薄暗い玄関口で靴を履こうとしていた時。巳貴が背後から近付いてきて、詩乃のすぐ傍で立ち止まった。

「何処へ行く?」
「買い物です。ついでに、実家の付近を訪ねてこようと思いまして……。昔、仲良くしてくださっていた隣の家の御夫婦へ、少し挨拶に」

 腕を組んだ巳貴が、詩乃を冷たい目で見つめた。

「俺が休みなのにか?」

 ビクッと肩を揺らしたのは隣にいる杏の方だった。彼女は、脅すような巳貴の威圧に慣れていないのだろう。
 まずい、と詩乃は直感した。今日の巳貴は虫の居所が悪い。この状態で外出を強行すれば、後から何をされるか分からない。
 どう対処しようか悩んでいたその時。

「旦那様ぁ。今日、お休みだとお伺いしたのですけれど」

 廊下の向こうから、甘ったるい声が聞こえてきた。
 ゆっくりとした足取りで巳貴の傍へと擦り寄ってきたのは、巳貴のお気に入りの妾である千姫だった。ぽってりとした唇には、女中らしからぬ濃厚な紅が引かれており、その身に纏う着物もどこか煽情的な派手さを帯びている。

「あら、奥様。お出かけですの? 食材の調達がまだでしたものね。よろしくお願いしますわ」

 千姫は詩乃に向けて形ばかりの笑みを浮かべると、これ見よがしに巳貴の逞しい腕に己の白い腕を絡ませた。

「わたしと旦那様は――ゆっくり(・・・・)してますから」

 彼女は、巳貴の肩へぴとりと自身の頭を預け、上目遣いで詩乃を挑発してくる。その仕草からは、詩乃に対する明確な優越感が透けて見えた。
 しかし、詩乃にとってむしろこの状況は都合がいい。巳貴のことを千姫に押し付けることができるからである。

「はい、お任せください。夕飯までには戻りますので」

 巳貴が口を開く隙を与えぬよう、詩乃は早口でそれだけを告げると、杏の手を引いて屋敷の外へと出た。重い扉が閉まり、冷たい外気が頬を撫でた時、ようやく深く息を吐き出すことができた。
 しかし、隣の杏は不安げだ。

「よ、よかったのでしょうか。巳貴様、明らかに不機嫌でしたけど……」
「愛妾との時間があれば機嫌も治るはずです。旦那様は、性欲を発散させると機嫌が治る、分かりやすい方ですから」
「…………詩乃様って」
「どうしました?」
「本当に、巳貴様に対する独占欲は皆無なのですね……」

 淡々と夫の生態を評した詩乃に、杏は圧倒された様子で呟いた。
 詩乃は歩調を緩めることなく、ぱちりと瞬きを繰り返す。

「独占欲?」
「巳貴様には、色んな女性がいらっしゃるじゃないですか。屋敷の中にまで妾を作って遊んでいますし……正妻の立場からすると、あまり気分の良いものではないのではないかと思っていました」
「名家の男性が妾を作ることは珍しくないと聞いています。それに、旦那様は私が蛇神家に来た当初からこんな感じなので、違和感を覚えたことはありませんよ。彼は私の所有物ではないですし」

 歩きながら詩乃が言うと、「ほへえ」と杏が間抜けな相槌をうった。

 詩乃たちは、しばらく歩いた。
 そして、市電の喧騒から少し離れた住宅街の路地を進み、あるところで足を止めた。
 眼前に広がるのは、ぽっかりと空いた四角い更地である。かつてそこには、詩乃が六歳まで過ごした家があった。それが今は、雑草が生い茂っているだけの荒涼とした土地に変貌しており、その寒々しい光景に、詩乃の胸が小さく痛む。
 すぐ隣に目を移すと、かつて母と交友関係を持っていた夫婦の家が、十四年前と変わらぬ場所にあった。

「……ここです」
「淀川というお家なのですね」

 杏が表札を見て呟く。
 詩乃は古びた格子戸の前に立ち、緊張しながらも戸を叩いた。

「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか」

 しばらくの静けさの後、奥の方からパタパタと軽快な履物の音が近付いてきて、ガラリと格子戸が開け放たれる。
 詩乃の前に姿を現したのは、詩乃の記憶の中にある夫婦ではなかった。そこに立っていたのは、まだ二十代後半から三十代ほどに見える若い女性である。
 実にあか抜けたモダン・ガールだ。髪は耳のあたりできれいに切りそろえられた、最新流行の断髪をしている。
 彼女は、詩乃の額のアザを目にしても、怯えたり嫌悪したりする素振りをまったく見せず、不思議そうに小首を傾げた。

「はーい、どちら様かしら? わたくしに何か御用?」

 鈴を転がすような、快活で屈託のない声だった。