◇
杏が詩乃の付き人となってから、数日が過ぎた。
冬の厳しい寒さは一向に衰える気配を見せず、凍てつく風が屋敷の隙間から忍び込んでは、肌を刺すような冷たさを運んでくる。そのような、春の兆しなどまだどこにも見当たらない、冬の底のような日のことだった。
廊下を駆ける慌ただしい足音が、詩乃の部屋に近付いてくる。
「お手紙を預かりましたっ……!」
肩を上下させ、血相を変えて飛び込んできた杏は、どこか怯えているようにも見えた。震える手から差し出された封筒に『花神花人』という名を見つけ、詩乃は驚く。
「これは、郵便で来たのですか?」
「いえ、花神家の女中らしき方が、直接私の方に届けに来ました」
一番戸惑っているのは、手紙を託された杏の方だろう。いつになく早口になっている。
詩乃は、手紙が杏の手に渡ったことに、心の底から安堵した。もしこれが杏以外の使用人や、ましてや巳貴の手に渡っていたら、何を言われるか分からない。
詩乃はおそるおそる封を切り、中にある便箋を広げた。
『会わせたい人がいます。異能の研究をしている有名な学者です。何か教えてくれるかもしれません。しーちゃんの足が治る頃に迎えに行きます。どうかお大事に』
文字が変わっていない。何度も読み返した、安心する文字がそこにある。
久しぶりに受け取った花人からの手紙に、詩乃の胸はじんと熱くなった。文字を辿るたびに、得も言われぬ高揚があった。
花人は、あの僅かな時間で、詩乃が足を痛めていることに気づいてくれていたのだ。怪我をしていてもお構いなしに自分を連れ回す巳貴と、言葉にせずとも歩き方の違和感から察してくれる花人。そのあまりの差に、何だか切ない感情が込み上げる。
ふと隣を見れば、一緒に手紙を覗き込んでいた杏が、ひどく浮かない顔をしていた。
何も知らない彼女からすれば、他家の当主からの密やかな文は、不穏な事態にしか見えないはずだ。詩乃は慌てて説明を始めた。
「絵巳里様が昏睡状態なのは、私の異能の暴走が原因ということはご存じですよね?」
「は、はい。伺っております」
「今、絵巳里様の状態をどうにかできないか、探ってもらっていて」
「え……花神家のご当主様にですか?」
「ええ、そうです」
「……何故?」
「実は、花神家の当主様とは、古い知り合いで……」
「……そうだったんですか……」
言葉を交わすほどに、杏の表情がどんよりと暗く沈んでいく。いつも前向きな彼女にしては、珍しいほどの沈鬱な様子だった。
「……どうしたのですか? 何か気になることでも?」
「い、いえ」
杏は慌てて取り繕うような笑顔を浮かべた。詩乃は、その不自然な明るさに違和感を覚えながらも、思い切って提案した。
「よければ、杏さんにも一緒に来てほしいのですがいかがでしょうか。夫ある身の私が、他の男性と二人で出かけていたら、どんな目で見られるか分からないですから……常に私の傍にいてもらえませんか?」
あらぬ疑いをかけられた時、傍らで証言してくれる誰かがいてほしい。それは自分のためでもあり、何より花人の立場を思ってのことだった。
杏は躊躇いがちに頷いたが、その日、彼女の顔から曇りが消えることは一度もなかった。
◇
花人から次に手紙が来たのは、庭に梅の花が咲き、春の兆しが見え始めた頃だった。
詩乃の足の痛みもいつしか消え、すっかり以前の軽やかさを取り戻していた。
手紙には、『明日の朝八時に、裏門に迎えに行きます』と書かれており、詩乃はそれに合わせて動いた。巳貴は早朝から家を出るので、見られることはない。てきぱきと前日から素早く仕事を済ませ、朝から家を出ても文句を言われない状態にした。
当日、詩乃は杏を伴い、人気のない裏門へと向かった。寒風がまだ残る門扉の前で、迎えを待つ詩乃たちの間に重苦しい沈黙が流れる。それを破ったのは、ひどく緊張した様子の杏が放った問いだった。
「……あの、詩乃様。花神家のご当主様とは古くからの知り合いとおっしゃっていましたけれど、家同士が親しくしていたということですか?」
「家同士が……というわけではないけれど。幼い頃、よく私の家の庭に遊びに来てくださって知り合ったのです」
「……花神家の方から、詩乃様お一人に接触してきたということですか? どういう経緯で……」
「とても昔のことで、よく覚えていないけれど……ある日急に庭に来て、声をかけてくださったのが始まりです。私の歌声が外まで聞こえたとかで」
詩乃の答えを聞き、杏は再び口を閉ざした。その眉間に深い皺を刻み、何か恐ろしい深淵を覗き込むような真剣な面持ちで考えに耽っている。そして、意を決したように再び顔を上げた。
「詩乃様……私、やはり怪しいと思うのです」
「え?」
「花人様はどうしてわざわざ、詩乃様に近付かれたのでしょうか」
杏の瞳に、強い警戒の色が宿っている。彼女は詩乃の耳元に顔を寄せ、屋敷の壁にすら聞かせぬような小さな声で囁いた。
「花人様には、神聖な花の神を殺したというお噂があります」
詩乃たちの間を、ざぁっと冷たい突風が吹き抜けた。梅の枝が激しく揺れ、不吉な音を立てる。
「……花の神様は行方不明という話ではないのですか?」
花の神は、三十年以上前から行方不明。花の神を祀る花神家の人間たちは、それを血眼になって捜している。それが、詩乃が巳貴から聞いた話である。
しかし、実態は別であると語る者がいるらしい。
「花の神が、他の御三家の祀る神と違って、現人神であらせられることはご存じですよね。神力を持っているだけで、体はほとんど人と同じなのです。非道な花神家は、そんな花の神をいじめていて、その環境の劣悪さゆえに、花の神は命からがら屋敷から逃げたと言われておりまして……。その逃げた花の神を見つけ出して殺したのが、花人さまではないかという説が有力でございます。対外的には行方不明となっておりますが、実際には、花の神は既に死んでいるのではと……」
神殺し。この帝国を守護する神の命を奪うことは、大罪中の大罪だ。理由の如何を問わず、人の殺害よりもはるかに重い業を背負う行為である。
詩乃は、そのあまりに突飛な疑惑に、一瞬呆気にとられた。現実味のなさを感じ、思わずぷっと噴き出してしまう。
ふふ、ふふふ、と肩を揺らして笑う詩乃を、杏は深刻そうな青白い顔で見つめてくる。
詩乃はしばらく笑い、ようやく落ち着いてから、ゆっくりと杏を見つめ返した。
「……でも、それって、ただの噂なのですよね」
「そ、そうなのですが、火のないところに煙は立たないといいますか」
「私は、この目で見たことしか信じません。少なくとも、私から見た花人お兄ちゃんは、優しい人です」
詩乃の屈託のない微笑みに、杏の焦燥は限界に達したようだった。
「だ……騙されている可能性があるとは、思わないのですか」
その声が震え、悲鳴に近い切実さを帯び始める。
「先程、火のないところに煙は立たないと言いましたが、花人様には明確な火があります。彼は実際、十四年前に――」
「――――何の話をしているのかな」
その朗らかな、なのに背筋を凍らせるような穏やかな声に、杏の顔から一気に血の気が引いた。
杏の背後から、花人がこちらに、優雅に袖を揺らして歩み寄ってくる。その後ろには、春の陽光を遮るほどに体格のいい護衛の男たちが、無言の圧力を湛えてぞろぞろと従っている。
「あ……」
杏は振り返り、絶望したように短い吐息を漏らす。
花人の雰囲気が、今日はどこか違っていた。長い睫毛の奥の瞳は杏を見据え、微笑んでいるはずなのに、何を考えているのかまるで読めない。
杏は逃げ場を失った小動物のように、絶句してその場に立ち尽くした。
花人はガタガタと震える杏の目の前まで来ると、何も言わず、まるで珍しいものを観察するように、じっと彼女の顔を見つめる。
そして、ふっと口元を和らげた。
「こんにちは。しーちゃんのお友達?」
杏は、その敵意のない態度に驚いたように目を見開いた。もっと冷たい言葉を向けられると思っていたのだろう。彼女の強張っていた肩から、わずかに力が抜ける。
「い……いえ、私は、」
「そちらは蛇神家の女中でございます」
言い淀む杏の言葉を遮るように、花人の背後に控えていた大柄な使用人の一人が、すっと前へ出る。彼は手元にある手帳へ視線を落としながら、明瞭な声で何かを読み上げた。
「明治三十四年生まれ、北方の寒村のご出身のようで。弟妹が三人おり、生活苦から奉公に出されたようです。本人の強い希望があって遠方から蛇神家へ上がり、現在は主に炊事や洗濯など下働きを担当しております。学はなく、礼儀作法も十分とは言えません。特筆すべき家柄や後ろ盾もございません」
すらすらと詩乃も知らないような杏の情報を述べる使用人に、詩乃は驚いた。
どうしてここまで知っているのだろう。まさか花神家は、詩乃の周囲にいる人間の素性を、事前に全て調べ上げているというのだろうか。
そして何よりも気になるのは、使用人の声音の中に、侮蔑の色が混じっているように感じることだった。能力があれば出自を問わない蛇神家とは異なり、花神家一族に仕える使用人たちは、皆それなりの家柄の出身であり、強い選民思想を持っている。貧民の出で、作法すらなっていない娘を下働きに雇っているなど、蛇神家の格も落ちたものだ――言外にそう嘲笑うような、冷ややかな含みを感じ取れた。
その非礼な物言いに詩乃が抗議の声を上げようとした、その時。
「ふーん」
花人は短くそう応じると、穏やかに首を傾げた。
「それで?」
花人は真っ直ぐに杏を見つめる。
「君は何て名前なの?」
優しく語りかけるようなその問いに、杏はゆっくりと顔を上げた。花人が求めたのは、家柄や過去の情報ではなく、目の前にいる彼女自身の名前だった。
「……杏、です」
「そっか。しーちゃんに随分信頼されてるんだね。しーちゃんが傍に人を置くのは珍しいもの。……ね?」
悪戯っぽく細められた花人の視線が、今度は詩乃へと向けられる。
詩乃はこくこくと何度も深く頷いた。杏は大切な人なのだと、目で必死に訴えかける。
すると花人は、満足したように今度は杏に視線を戻し、いっそう優しく笑いかけた。
「これからよろしくね、杏ちゃん」
この言葉により杏の緊張はようやく解けたようで、青白かった顔にも血色が戻っていった。
その様子を見て、詩乃もほっと安堵した。
(やっぱり……花人お兄ちゃんは、優しい)
杏は妙な噂を鵜呑みにして花神家のことを警戒していたようだが、花人の人柄を知れば、きっとそのような誤解も解けるだろう。
「車に乗って待っていて。俺はすぐ戻ってくるから」
花人が示した背後には、驚くほど背の高い自動車があった。詩乃と杏は、一目で高級品と分かるその姿に圧倒されながら、花人に促されるまま、並んでその後部座席へと乗り込む。
「すごい……! 私、自動車に乗るなんて初めてです!」
運転手の座る前席とはガラスの仕切りで隔てられた、まるで小さな応接室のような後部座席。そこに張られた、織物の座席に腰を下ろした杏が、先ほどまでの恐怖も忘れたように、きらきらと目を輝かせて歓声を上げた。
詩乃はふふっと笑みを溢しながら、窓の外を見つめる。
窓越しに見えるのは、まだ肌寒い空気の中に立つ花人と、先ほど杏の生い立ちを読み上げた失礼な使用人の姿だった。二人は蛇神家の裏門から少し離れた木陰で、真剣な面持ちで言葉を交わしている。
(何を話しているんだろう……)
花人の穏やかな横顔が、時折、使用人の言葉に小さく頷いている。詩乃はその様子をじっと見つめながら、静かに彼の帰りを待った。
◆ ◆ ◆
裏門の陰にひっそりと咲いた梅の花の声にじっと耳を傾けていた花人は、「……うん」と短く呟いて、静かに瞼を持ち上げた。
「あの子、しーちゃんが核心に至るようなことは何も話してないみたい」
「……本当ですか?」
「花は嘘をつかないよ。人間と違ってね」
問題ないと言っているのに、花人の傍らに控える男は依然として険しい表情を崩さず、熱を帯びた早口で進言してくる。
「しかし、あの娘を詩乃様の傍に置いておくのは危険すぎませんか? 北方の出ということは、帝都のように我々の情報統制も効いておりません。あのことを安易に詩乃様にお話しになったとしてもおかしくありませんよ。詩乃様が我々に疑心を抱けばこれまでの積み重ねが全て無に帰します。彼女のことは早々に処分すべきかと」
「証拠がない。しーちゃんは、事実を見ずに風の噂を真に受けるような愚かな女性ではないよ」
そこまで言って、花人はふ、と口元に笑みを浮かべた。
「ああ、でも、よかった。本当によかったなあ」
まだ納得のいっていない様子で眉を寄せる男の横で、花人は心の底からの安堵の声を漏らす。
「俺はね、この世界の誰に嫌われても、しーちゃんにだけは嫌われたくないんだよ。だから、しーちゃんに嫌われずに済んで、本当によかった」
花人は満面の笑顔で言って、
「あの子が何か話していたら――――俺は、あの子のことを殺さなきゃいけないところだった」
何でもないことのようにそう呟くと、車の待つ方へと、軽やかな足取りで歩き出す。
梅の枝が、強い風に吹かれて大きく揺れていた。
◇
しばらく杏と話しながら待っていると、ようやく車のドアが開き、花人が詩乃の隣に乗り込んできた。
運転手が窓を開け、後ろに合図してから車を発進させる。詩乃たちの乗る車の後ろにはあと三台、護衛車のような車が続いていた。
詩乃としては、夫ある身で他の男性と二人きりにならないように……と心配して杏を連れてきたのだが、まったくの杞憂だったようだ。花神家当主である花人には、若い頃よりも多くの護衛が付いている。考えてみれば、帝都御三家の要人が単独で来るなど有り得ない話だ。
「……わざわざ迎えに来てくれてありがとう」
実を言うと、詩乃は、外を歩くのが苦手である。額にある印のせいで、アザモノであると注目を浴びるからだ。だから、他人に見られることなく動く個室の中で移動することができるのは、詩乃にとってとても救われることだった。
詩乃の控えめなお礼に対し、花人はいつも通りの優しい微笑みを返してきた。
「しーちゃんを歩かせるわけないでしょ」
そう言って、花人は至近距離から詩乃の顔をじっと見つめてくる。
綺麗な瞳に覗き込むように見つめられ、詩乃は緊張を覚えた。
「……どうしたの?」
「ううん。近くで見るともっと可愛いなと思って」
歯の浮くような台詞をさらりと口にする彼に、詩乃は思わず目を逸らす。直視できない。幼馴染みとはいえ、成人した男性から真っ直ぐにそんな言葉を向けられるのは、やはり気恥ずかしい。
詩乃が言葉に詰まっていると、反対隣の座席から、焦ったような声が割り込んできた。
「こ、困ります!」
「え?」
花人の視線が、驚いたように杏へと移る。杏は恐怖に身を強張らせながらも、必死に勇気を振り絞るようにして花人を睨みつけていた。
「奥様は、夫のある方ですので! 少し距離が近いかと思います!」
杏なりに詩乃を必死に〝男〟から守ろうとしてくれているのだろう。彼女からすれば、花人は突然外部から詩乃にちょっかいをかけてきた危険人物である。
花人は一瞬だけ、表情を消して沈黙した。その短い静寂に詩乃が息を呑んだのも束の間、彼はすぐに、いつもの愛想のいい笑顔を作った。
「……そうだね。君のご主人様を口説くような真似をしてごめん」
素直に非を認めた花人の態度に、詩乃はほっと胸を撫で下ろす。
「でも、杏ちゃんも素敵だと思わない? しーちゃんは首が細いし肩幅が狭くて、着物を着るとその美しさが引き立つよね。色が白いからどんな色も似合うし。帝都には多くのハイカラな女性がいるけれど、これほど着物の似合う女性はなかなかいないよ」
花人は屈託のない調子でそう言って、詩乃の姿を上から下まで慈しむように眺めた。
今日の詩乃は、紫地に大胆な草木柄が描かれた銘仙の着物に、赤と黒の市松格子の兵児帯を結んでいる。
「そ……それは、そうですが」
杏は、詩乃の美しさを褒めちぎる花人の熱量に飲まれたのか、気圧されるように小さく同意の声を漏らす。
「毎回違う着物を着ているけれど、ひょっとしてしーちゃんは着物が好きなの? 昔はどちらかと言えば男勝りだったのに、少し見ない間に、女性らしい趣味を持つようになったものだね」
「えっ、詩乃様、昔は男勝りだったのですか?」
杏は目を丸くして聞き返した。いつも大人しく、控えめにしている今の詩乃からは想像もつかないのだろう。
花人は待っていましたとばかりに楽しげに頷く。
「そうだよ。少し目を離すと木に登ったり、走り回ったり、俺に飛びかかってきたり、悪戯をしかけたり……」
「そ、それは幼い時の話で。あの時は、女性としての振る舞いを分かっていなかったから」
忘れてほしい過去を容赦なく語られ、詩乃は顔を早口で言い訳を並べた。
けれど隣の杏は、詩乃の意外な一面を知ることができて嬉しいらしく、「詩乃様にもそんな時代が……」と感心したように深く頷いている。
「でも、言われてみれば詩乃様は、一般的な女性が欲するものを求めていないような気がします。着物も髪飾りも、旦那様から贈られているだけで、自分から欲しがっているわけではないですし。物欲自体、あまりないですよね」
杏はきっと、同じ屋敷で暮らす千姫と詩乃を比べているのだろう。巳貴の愛妾である彼女は、己を華やかに着飾ることを好み、いつも巳貴に高価な宝石や仕立ての良い着物を強請っている。杏は、そんな千姫が苦手なようだった。
反面、詩乃は、自分から巳貴に何かを求めることはほぼない。
「……へえ」
笑みを浮かべたままの花人の瞳が、すうっと細められる。
「その着物、あいつからもらったものなんだ」
車内の温度がひやりと下がった気がした。
杏も、何かまずいことを言ってしまったらしいことを悟ったのか、身を縮めて口を閉ざした。
車内に沈黙が流れたまま、窓の外の景色が通り過ぎていく。
向かう先は帝国大学だった。花人によると、帝国大学では今、いくつかの研究所を設立する動きがあるらしい。来年には伝染病研究所、そして異能学研究所が生まれるという。
異能学研究所は、明治二十五年に個人が創立した大日本私立異能研究所をもとに、その後内務省所管の国立研究所となり、さらに文部省に移管される等のうよ曲折を経た末に帝国大学に改めて設立されようとしている。
これから会うのは、その明治二十五年に大日本私立異能研究所を創設した人物――北原という研究者らしい。
本来であれば会う機会を取り付けることも難しいような相手だ。しかし幸いなことに、北原は花人の独逸留学時代の知り合いのようで、今回ばかりは特別に会ってくれると言う。
詩乃たちを乗せた自動車は、東京本郷の、鬱蒼とした木々に囲まれた一角へと滑り込んだ。
車窓から見えてきたのは、赤煉瓦造りの建物群が立ち並ぶ、威風堂々たる最高学府・帝国大学の敷地である。
車を降りた後、詩乃の目に真っ先に飛び込んできたのは、青空に突き刺さるような尖塔や、アーチ状の窓の数々だった。古めかしくも壮麗な校舎である。
「……何だか、圧倒されてしまいますね」
杏が小さな声で呟きながら、キョロキョロと周囲を見回す。
詩乃もまた、緊張した。噂では、二年前に東北の大学が女性に門戸を開放したというが、やはり学というのは男性の付けるものであり、大学は、女性が来るところではないという感覚が強いからだ。
花人の先導により、詩乃たちは敷地の中でも一際新しい、煉瓦造りの二階建ての建物へと足を踏み入れた。
薄暗い廊下を進むと、微かに薬品の匂いが鼻腔をくすぐる。左右に並ぶ木製の扉の奥からは、時折、人の声が漏れ聞こえてきた。
突き当たりにある大きな扉の前で、花人が足を止める。その扉には『異能学研究室 室長:北原』と書かれたプレートが掲げられていた。
花人が木の扉を軽くノックすると、「どうぞ」と、内側から低く太い声が聞こえた。
「失礼します」
花人が扉を開け、詩乃たちが中へと続く。
部屋の中は、壁一面の本棚に革装丁の分厚い学術書がぎっしりと詰め込まれている。机の上には顕微鏡や、奇妙な色の液体が満たされたフラスコが乱雑に並んでいた。
部屋の主である北原は、机に向かって書類に目を通していた様子だったが、ゆっくりと顔を上げた。険しい表情だった。彼は、白髪交じりの口髭を蓄え、丸眼鏡をしている。
「北原先生。お久しぶりです」
花人が柔らかな笑みを浮かべて挨拶すると、北原は眼鏡の位置を直しながら、どこか懐かしむような視線を花人へと向けた。
「これはこれは、花人様。帰国してから当主になられたそうですね。これからの帝都を、どうぞよろしくお願いいたします」
先程の険しい表情とは一変、北原はにっこりと人のよさそうな笑顔を見せてくる。
厳しそうな人だと思って身を固くしていた詩乃は、ほっと息をついた。
「それで、それが例の、異能発現者ですか」
丸眼鏡の奥の目が、今度は詩乃へと向けられる。
詩乃は観察するようなその視線を受け、咄嗟に姿勢を正して答えた。
「は……はい、私がアザモノです」
「あなた、〝アザモノ〟というのは差別表現ですよ。学者の間では使いません」
語気を強めてきっぱりと告げた北原の言葉に、詩乃ははっとして口を閉じた。差別であるなどとは、考えたことがなかったからだ。
北原は短く息を吐くと、机の上の書類を脇へ退けた。
「眠っている蛇神家のご長女というのはどこです?」
「申し訳ございません。連れてくることは難しいのですが……写真を持ってきました。これで状態が伝わるかと思います」
詩乃は持参した布袋の紐を解き、大切に保管していた絵巳里の写真を数枚、北原の机の上に並べた。
絵巳里を外へ連れ出すなど、巳貴にも、他の家の者にも許されるはずがない。そもそもこの外出ですら、詩乃は巳貴に許可を取っていないのだから。
セピア色の写真の中、絵巳里の白い寝間着や肌からは、まるで肉体を侵食するように無数の禍々しい花々が咲き乱れている。
北原は丸眼鏡の位置を直し、顔を近付けてその異様な光景をじっと見つめた。部屋の中に、張り詰めた沈黙が流れる。
「これは……あなたの異能の暴走でこうなったと?」
「……はい。もう三年、目覚めていません」
「あなたの異能はそれ以降発現していますか?」
「……いえ、一度も」
「では――異能が暴走したきっかけに、何か心当たりはありますか?」
北原に問われたことで、あの日の光景が鮮烈に蘇った。動悸がする。凍りついた過去が一気に動き出し、胸が痛いほどに締め付けられる。詩乃にとってそれは、忘れたくても忘れられない、忌まわしい記憶の断片である。
「歌を……歌いました」
詩乃は、自身の過去を抉るような苦痛に耐えながら、掠れた声で告白した。
「絵巳里様に強請られて、蛇神家の縁側で、歌を」
「歌?」
「実は、歌を歌うことは、その頃にはもう辞めていたんです。歌おうとすると、何だか嫌な感じがして。小さな頃は歌うことがとても好きだったのですが、いつしか歌うことをやめてしまいました。だからあの日、絵巳里様に歌ってと言われて、歌わなければ……」
あの日、もし自分が彼女の願いを拒んでさえいれば。後悔の念が言葉を詰まらせ、詩乃の語尾は消え入るように小さくなっていった。
「歌を歌う時に嫌な感じがするようになったのはいつからですか」
「……え?」
「昔は好きだったのでしょう。なのに、突然歌えなくなった。それはいつからです」
「かなり昔のことなので……よく覚えていません」
「覚えていなくても思い出してください。きっとそこに、何か手がかりが眠っているはずです」
無茶を言う北原に狼狽えながら、何とか記憶を引っ張り出そうとする。
過去の引き出しをひっくり返せば、忘却の底に沈めていたはずの、仄暗く、冷たい記憶の断片が、急激に輪郭を持ちせり上がってくる。
唐突に、花に包まれて棺桶の中に横たわる母の死体の姿が、やたらと映像的に頭に浮かんだ。
「――――……母の肉体が、火葬された後です」
詩乃はかろうじて、震える唇を動かした。
北原は、即座に質問を重ねてきた。
「父親は帝都に住んでいますか? できれば直接お話を伺いたいのですが」
「父は、三年前に自殺しました。私が異能で名家の令嬢を傷付けてしまったことで誹謗中傷を受けて、心を病んでしまったのです」
ただの名家であれば、それほど世間からの反感は買わなかったかもしれない。けれど、相手は帝都御三家の一角、蛇神家の長女だった。
ただでさえ神聖視されている家の人間を、異能持ちが殺した。詩乃の犯行は、異能への悪意を増幅させ、アザモノへの差別意識への増長にも繋がっただろう。
連日のように続いた家への執拗な悪意と嫌がらせは、父の心を確実に蝕み、破滅へと追いやった。
「兄弟などはいますか」
「いえ、一人っ子です」
「そうですか……では、母親の生前の知り合いに心当たりはありませんか?」
「分かりません……知り合いは多かったと思うのですが、何度も会っているような人物はいなかったと思います」
「知り合いは多かった? 特定の人物と特別に仲良くすることはなかったということですか?」
「母はとにかく、色んな人と会う人で……毎回、会う相手が変わりました」
詩乃の母が死んだのは、詩乃が六歳の時だ。十四年も前である。だから、詩乃にとって母の記憶は、かなりぼんやりとしている。
しかし、そんな朧気な記憶の中でもはっきりと覚えているのは、母が明治の女にしては極めて異質なほど、家庭の中に留まることが少ない人だったということだ。母は家事について使用人に指示することなく、家のことを全て女中に任せ、幼い詩乃の手を引いては外ばかり出歩いていた。
母の会う相手は、目まぐるしく入れ替わった。
ある時は隣家に住む小綺麗な夫人、またある時は昔馴染みだという年配の御夫婦、かと思えばどこかで見つけてきた元気な少年。
けれど不思議なことに、詩乃がようやくその人々の顔や名前を覚える頃になると、母はぴたりとその交流を絶ってしまうのだ。そしてまた、何食わぬ顔で別の新しい相手を見つけては会い始める。
幼心に、それは奇妙な違和感として焼き付いていた。
「聞けば聞くほどきな臭いですねえ、その母親」
北原は眉間に深い皺を作り、手元の資料をペンで突つきながら呟いた。研究者としての勘が、詩乃の母親の不自然な行動に何かを見出したのかもしれない。
張り詰めた空気が研究室を満たしたその時、それまで壁際に佇んで黙っていた花人が口を挟んできた。
「しーちゃんの親のことよりも、蛇神家のご長女のことを考えてください。辛いことを思い出させるのは可哀想です」
詩乃のことを庇うような口調だった。過去のことを立て続けに思い出し、詩乃が青白くなっていることに気付いたのだろう。
北原が、顔を動かさず、視線だけで花人の方を見る。そして、またゆっくりと詩乃の方へと目を動かし、にっこりと人のよさそうな笑顔を作った。
「いいでしょう。では次回は、被害者の体に咲いている花の花弁を一片、持参していただけると助かります。また、あなたの母の生前の知人を見つけることができれば、連絡をください」
北原のその言葉を最後に、対談は幕を下ろした。
背後では、花人がすでに立ち上がり、流れるような動作で外套の襟を整えていた。
「お時間をいただき、ありがとうございました。北原先生」
花人が丁寧に一礼するのに合わせ、詩乃と杏も深く頭を下げる。
去り際、詩乃が振り返ると、北原はすでに丸眼鏡の位置を直し、机の上の難解な洋書へと視線を落としていた。
廊下を歩き、白濁した硝子窓から柔らかな陽光が差し込む玄関口へ出る。詩乃は知らずのうちに止めていた息を、深く吐き出した。
「しーちゃん、この後時間ある?」
「え?」
「このまま帰るだけじゃつまらないでしょう。少し遊んで帰ろうよ」
詩乃は一瞬、返答に窮した。
「ね、遊びたいよね? 杏ちゃん」
花人が杏にも問いかける。
杏は一瞬、ぱぁっと目を輝かせたが、主人の許可がなければならないと思ったのか、どう答えるべきか迷うような目をこちらに向けてきた。
(……杏さんのことは、毎日働かせてしまっている。少し、休息の時間も必要かもしれない)
そう思った詩乃は、再び花人の方を見て答えた。
「……分かった。暗くなる前に帰れるのであれば、付き合うよ」
自動車は上野の山を越え、帝都随一の娯楽の場、浅草へと向かった。
吾妻橋の方角から流れてくる、活動写真の伴奏音楽の賑やかな管楽器の音が近付いてくる。車を降りた詩乃たちの目に飛び込んできたのは、万華鏡のように混沌とした浅草の風景だった。
「ここが浅草! すごい人の数ですね……! まるでお祭りのようです」
杏が圧倒されたように、着物の袂をきゅっと握りしめる。
浅草公園、とりわけ六区と呼ばれる興行街は、日本中の最先端と大衆娯楽がごった返す巨大な盛り場だ。視界の先には、十二階建ての赤煉瓦の塔、凌雲閣が空へ向かってそびえ立っている。
「杏さんは、来たことがないのですか?」
「はい、田舎の出なもので……。詩乃様は来たことがあるのですか?」
「……いえ、実は、私も初めてで」
「ええ! 意外です。てっきり、旦那様と来たことがあるものだと」
「あの人は、こういった場所はお嫌いだから……」
浅草は、人が多すぎる。あの場所は品がなく庶民的だと、巳貴が失礼なことを言っていたのを覚えている。



