喜び、戸惑い、これまでの痛み――多様な感情でぐちゃぐちゃになり、その全てまでは整理できないまま、差し出された手に手を返そうとして、止まった。
あの日、花まみれになって意識を失った絵巳里の、最期の顔が頭に浮かぶ。途端、暗闇の底から無数の鎖が浮かび上がり、自分の足に絡み付くような心地がして、夢から現実に引き戻された。
――自分は、救われてはいけない。
詩乃は、涙を拭って、拒絶を示す。
「む……」
「む?」
「無理……」
「…………」
すると花人は、拗ねたように唇を尖らせ、むっとした。露骨に不満げな表情だ。
「しーちゃんは、昔から頑固だよね」
嫌味っぽく言った花人に、詩乃も負けじと、畳の上を見つめたまま呟く。花人を直視して言い返す勇気はなかった。
「花人お兄ちゃんは、昔から強引だよね……」
思えば、花人には子供の頃からこういうところがあった。
贈り物をすると言い出したら詩乃が断っても聞かないし、家の用事で花見へ行く予定を断れば、詩乃の知らないうちに詩乃の家の者を丸め込んで、詩乃との花見を強行した。
軽やかな雰囲気に似合わず、結構、我が強いのである。十年経ってもそこは変わっていないらしい。
「絵巳里様のことを考えてくださるのは本当に嬉しいし、できることなら協力してほしいと思ってる。でも離縁するのは、三年も面倒を見てくれたこの家に失礼だし、不義理だと思うの……。お父様が死んだ後も私が衣食住不自由なく生活できたのは、この家のおかげなのに」
絵巳里のことを手助けしてほしいと言いつつ、自分は売らないなどと、都合が良すぎることは理解している。でも、後先考えず、すぐに結婚しますと受け入れることもできない。
それに、花人のためでもあった。下手に花人との関係性を疑われたら、花人が捕まってしまうかもしれない。アザモノである詩乃に世間からの信用はなく、詩乃が貫通していないと無罪を主張したところで、受け入れてもらえないだろう。
「衣食住くらい、俺だって提供できるよ。分かった、じゃあこの家が与えたものよりも立派なものをしーちゃんにあげる。何が欲しい? しーちゃんが望むなら何でもするよ」
そういう問題ではないのだ。恩義や道理を説こうとする詩乃に対し、花人は財力と権威を盾に、どこまでも真っ直ぐに結婚を強行しようとする。
困り果てて無言で俯く詩乃に、花人の方も困ったように眉を下げる。
「じゃあ、しーちゃんは一生この家にいるつもりなの?」
「……日本の女性たるもの、一度添い遂げると決めたからには、全うするべきだと思う」
一瞬、沈黙が流れた。
次に降りてきたのは、さらに拗ねたような、子供じみた声だった。
「……俺のこと好きだって言ったくせに。その気持ちは、全うするべきじゃないの?」
詩乃はかぁっと顔を赤くし、顔を上げて反論する。
「そ、それは、子供の頃の話でしょう?」
「しーちゃんの方から俺をその気にさせたんだよ。責任取ってもらわないと困る」
花人は、ぶすっとしたまま言葉を重ねる。
「昔は可愛かったのにな。花人お兄ちゃんと結婚するって言って聞かなくて」
「だっ……だからそれは、子供の頃の話でしょうっ」
昔のことを持ち出されて動揺を隠せず、詩乃は思わず声を荒らげた。
「それに、この世界の全てから守るって、壮大すぎるよ……私は花人お兄ちゃんをそんな危険な目には遭わせたくないし」
静かだった部屋の空気が「ぶっ」という音で震えた。花人の背後に控えていた護衛の男が、詩乃の発言が余程面白かったのか、耐えきれずに噴き出したのである。
「おい、泉。何笑ってる」
花人の低い咎めに、泉と呼ばれた男はなおも肩を揺らした。
詩乃もよく知る人物だ。幼い頃、兄や親のように一緒になって泥遊びまでしてくれた護衛官。昔と違って、その顔には傷跡のようなものができていた。
「花人様、お気持ちは分かりますが少し早まりすぎているのでは?」
泉は主君を宥めるように窘めると、座ったまま詩乃に向き直り、申し訳なさそうに会釈をした。
「申し訳ございません、詩乃様。花人様はこう見えてかなり焦っているのでございます。まさか、詩乃様がご結婚されているとは知りませんでしたから」
泉は、花人を庇うためか、状況について補足してくる。
「実は、花人様が帰国する前から、詩乃様の居場所はこちらでも探っていました。しかし、どれだけお調べしても、家をなくした後の消息が不明でして……。蛇神家は持てる財力を駆使して詩乃様のことを徹底的に隠していたのですよ。だから、我々としても詩乃様がまさか、既に家庭に入っていることは想定外だったのです」
そこまで言って、泉はふふ、とまた笑った。
「まぁ、考えてみれば自然なことですよね。いくら好きでも、年頃の女性が、一人の男を待ち続けているなんてありえな――おっと、失礼しました」
そこで泉は花人にぎろりと睨まれ、肩を竦めて言葉を止めた。
花人は、ふう、と自分を落ち着かせるように息を吐き出し、あらためて詩乃へと向き直る。
「……分かったよ。結婚のことは、後で考えてくれたらいい。まずは、しーちゃんの大切な人を目覚めさせることを優先しよう」
その声からは、先ほどまでの子供じみた色は消え、冷静さが窺えた。花人は滑らかな動作で立ち上がり、外套の裾を整える。
「色々決まったら連絡するよ。手紙の宛先は、この屋敷でもいい?」
さりげなく問われた言葉に、詩乃は瞬時に巳貴の冷徹な眼差しを思い出した。激しい躊躇いが胸を突き、思わず首を横に振る。
「……夫のある身だから、手紙のやり取りはできない」
「返さなくてもいいよ。俺の方からだけ送る。読んでくれるだけでいいから」
詩乃の拒絶を、花人は柔らかな微笑みで優しく包み込み、有無を言わせなかった。
如月の冷たい空気の中、甘い花の香りを残して、花人とその一行は静かに蛇神家の屋敷を去っていった。
詩乃は、春の幻を見たかのように現実感がないまま、その背中を見送った。
花人が去っていった後、詩乃は絵巳里の部屋に戻った。
花人が帰ってきて、既に結婚した自分と結婚したいと言ってくれている。長い夢を見ていたのではないかとすら思った。
終わったはずの初恋が、再開しようとしている。嬉しいはずなのに素直に喜べないのは、しがらみが多すぎるせいだった。
まるで思い出の景色が切り取られたようにあの日のまま美しい花人と、罪を犯し、暴力を振るわれながら、下働きのように働いている醜い自分。あまりにも残酷な差だ。
詩乃は思い悩んで溜め息を吐き、物言わぬ絵巳里に対して呟いた。
「絵巳里様、私はどうしたらいいのでしょう」
答えは当然、返ってこない。
けれどおそらく、何者にも縛られない彼女なら、周囲のことなど考えず、己の道を進みなさいと言っていただろう。
彼女は、誰に軽蔑されようと、誰を切り捨てようと、自分を貫く女性である。彼女は常識破りであり、美しく、時に残酷でもあるのだ。
――自分はやはり、絵巳里のようにはなれない。
絵巳里を置いていけない。
詩乃が絵巳里の衣類を洗濯するため水場へ向かおうとしたその時、表門の方から賑やかな声が聞こえた。芳しい香水の香りが香ってくる。
「ただいま戻りましたわ。まあ、銀座は相変わらずの人の多さで、歩くだけでも骨が折れますこと」
現れたのは、買い出しから戻ったばかりらしい、女中の千姫だった。オレンジと黒い線が印象的な立涌の銘仙を身に纏い、帯はモスリンの昼夜帯をしている。
その手には、銀座の有名百貨店の包みがいくつも抱えられていた。女中でありながら、彼女の買い物内容は並の令嬢よりも遥かに華やかである。大方、巳貴から金をもらったのだろう。
詩乃が端に寄って道を譲ろうとした、その瞬間。千姫の鋭い眼光が、詩乃に向けられた。
「……あら。詩乃様、そんなところで何をぼんやりしていらっしゃいますの?」
千姫は艶やかな唇を歪め、詩乃が手に持っていた絵巳里の衣類を、汚物でも見るかのような目で見下ろした。
「先ほどお勝手を通りましたけれど、あちらの棚の整理、まだ終わっていませんわね。今日の朝、やってくださいとお伝えしたはずですけれど?」
来客があったせいで、頼まれたことをできていない。詩乃は、感情を殺し、あっさりと頭を下げた。
「すみません。今すぐ取り掛かります」
本来であれば、女中である千姫と、蛇神家の一員である詩乃には上下関係がある。もちろん、次期当主の妻である詩乃の方が上だ。しかし、いずれ詩乃の座を奪おうとしている千姫にとっては、詩乃の方が下であるようだった。
「怪我を言い訳に、お仕事を怠けるおつもりかしら。少し足を怪我しているだけで大袈裟な。巳貴様に構ってほしくて過剰に痛がっているのでしょう?」
千姫の言葉は、巳貴がいつも詩乃に放っている罵倒をわざと真似るような響きがあった。
「家のお仕事もできないうえに、子もなせていないのに、巳貴様の優しさに甘えるなんて恥知らずですこと。奥様って、まだご実家に帰らないのですか? わたしだったら恥ずかしくって、この家にいられません……ああ、ごめんなさい。奥様のご実家は、没落したのでしたわね」
千姫の紅を引いた唇から、詩乃を直接抉るような鋭利な言葉が、淀みなく紡ぎ出される。
彼女の言う通り、詩乃は結婚後一度も子を産んでいない。女としての――次期当主の妻としての務めを果たせていないのだ。おそらく自分の側に問題があるのだろうと詩乃は思っている。
その劣等感の傷口に、千姫が容赦なく塩を塗り込んでいく。
「気付いていないようだからはっきり言って差し上げますけれど、巳貴様は仕方なく奥様を匿っているのですわ。巳貴様が本当に好きなのはわたしなの」
千姫は勝ち誇ったように肩を揺らし、一歩詩乃へと詰め寄った。
「わたしが蛇神家の跡継ぎを産んであげる。そうすれば、奥様はいずれ用済みです」
――その言葉を聞いた時、詩乃の中に生まれたのは、千姫という女が抱く夢の空虚さに対する、冷ややかな憐れみだった。
何も分かっていない。
彼女の言うことは全て、絵空事である。
「……確かに私は、いずれ用済みかもしれませんが、そうなった時、跡継ぎを産むのが千姫さんであるとは限りません」
珍しく反論した詩乃に、千姫が驚いたようにぎょっと目を剥く。
普段大人しい詩乃は、意見を言うというただそれだけで、相手の動揺を生み出すようだった。
詩乃は淡々と言葉を重ねた。
「どのような甘い言葉であの人に騙されているのか存じ上げませんが……旦那様の妾は千姫さんだけではありません。この家の女中数名に加えて、花街の芸妓や若いご令嬢など、他所でも多くの女性と関わりを持っております」
千姫の美しい顔が、屈辱に歪んでいく。
「あの人が千姫さんと結婚したとして、千姫さん一人を一途に愛するとは思えません。千姫さんは、それでいいのですか」
詩乃が喋るたび、千姫の形相はみるみるうちに般若のごとき鬼気迫るものへと変わっていく。
詩乃は目を伏せ、言葉を続けた。確信めいた、予想を呟く。
「それに、旦那様にはおそらく他に好きな人がいらっしゃいます」
「はあ!? それが自分だって言いたいの!?」
千姫が金切り声を上げた。
「いいえ。おそらく、私でも、千姫さんでもありません。私もあの人の女性関係を全て把握しているわけではありませんので、お相手が誰かは分かりかねます。でも、これだけは分かります。旦那様には心に決めた方がおります。あの人は、どうしたって満たされない思いを、複数の女性と遊ぶことや私への暴力で埋めているのです」
皮肉にも、大嫌いな蛇神巳貴という人間のことを、詩乃はこの家の誰よりも分かっているつもりでいる。
千姫がついに声を荒げた。
「何でそんなこと分かるのよ!」
「妻としての勘です。ずっと傍にいたから、分かるのです」
「いい加減なことを!」
激情に駆られたらしい千姫が、詩乃の肩を強く突き飛ばした。
よろめいた詩乃の背が、冷たい壁に激突する。
逆上した千姫は、銀座で買い込んできたばかりの包みを振り回し、狂ったように詩乃の体を叩き始めた。
「巳貴様の好きな人はわたしよ! 他の誰でもない! あの人はわたしを愛しているの!」
重い荷物が詩乃の肩や腕に当たり、鈍い痛みが走る。千姫は髪を乱し、自分へ向けられているはずの愛情が否定されたことへの怒りに任せて、詩乃をなじり続けた。
「この家をめちゃくちゃにして、名家の令嬢というわけでもないくせに、女としての役目も果たせず、それなのに養ってもらって、どうして平気そうにしていられるの!? どれだけ面の皮が厚いのよ! あんたのせいで巳貴様がどれだけ苦しんだと思っているの! 巳貴様は表に出さないだけで、今だって苦しんでいるのに! あんたは何も知らないでしょう!? アザモノのあんたを嫁にして、あの人が社交界でどんな目で見られているか知らないでしょう! 遺言のせいで望まない結婚をさせられて、巳貴様が今どんなに辛い思いをしているか――」
千姫の罵倒は止まることを知らない。痛いほどに高い声が廊下に反響する。
望まない結婚。その通りだ。巳貴は被害者である。本来ならば、もっと良い相手――自分の家柄に相応しい令嬢を妻に迎え、祝福されるはずだったのに。
詩乃の存在そのものが、彼の人生に影を落としているという事実は、どれだけ否定しようとしても消えることはない。
言い返す言葉がなかった。
その時、廊下の陰からおそるおそるといった様子で寄ってきて、口を挟む者がいた。
「ち、千姫さん、やりすぎでは……」
若い女中が、勇気を振り絞ってやっと出せたかのようなか細い声で、横から千姫に声をかけた。
その女中は、数日前、詩乃が巳貴の叱責から守った人であった。
まだ十代半ばに見える彼女は、丸みを帯びた童顔に、小動物のような大きな瞳を不安げに揺らしている。背丈も詩乃の肩ほどしかなく、大人びた千姫の傍に立つと、まるで雛鳥のようだった。
千姫が彼女をぎろりと睨み付ける。すると彼女は、びくりと肩を揺らし、怯えたように身を縮めた。
まずい。これ以上千姫が怒れば、怒りの矛先は彼女にも向けられるかもしれない。
詩乃は、咄嗟に千姫の機嫌を取る言葉を吐いた。
「気分を害して申し訳ございません。これからは、より一層身の程を弁えて振る舞います」
その発言を受け、千姫はようやく落ち着いたようで、詩乃を叩きつける動きを止める。そして、ふんと鼻を鳴らし、重い荷物を抱えたまま、勝ち誇った足取りで去っていった。
詩乃はその様子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
遠ざかる千姫の背中を見届けてから、女中の娘が、詩乃の傍に駆け寄った。
「あの……大丈夫ですか」
この家では珍しい、詩乃へ向けられた心配の言葉だった。
「私、新しく入った使用人の、杏といいます。ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。この間は、助けていただいてありがとうございました」
使用人の間では、主人には当然挨拶をするにしても、詩乃に挨拶をしてはいけないという風潮がある。杏もきっと、上からそう指示されているだろう。なのに、わざわざ名を名乗ってくれた。
さらに、彼女は詩乃の身を案じるように、詩乃の腕の傷を窺った。
「少し、お部屋でお休みしませんか。血が出ていらっしゃるので、手当てさせていただきます」
詩乃は一瞬、ぽかんとした。
来たばかりである杏は、この家で詩乃に関わるとどうなるか分かっていないのだろう。気持ちは嬉しいが、自分と関われば、杏まで不名誉なことを言われるかもしれない。
そう思い、詩乃はやんわりと断った。
「……私に関わらない方がよいと思います」
「……え? な、何故でしょうか」
「私はこの家で浮いているので。杏さんまで悪く言われるかもしれません」
詩乃からの拒絶の言葉に、杏はしばらく黙っていたが、急に詩乃の手を取ったかと思えば、強引に引っ張ってきた。
「大丈夫です! 他の皆さんは、今お洗濯をしておりますので。こっそり移動すれば、誰かに見られることはありません」
先程までの消極的な態度からは想像もつかないその手の力強さに、詩乃は戸惑いつつ、導かれるまま自室へ戻った。
杏は、手際よく清潔な手拭いを水に浸すと、詩乃の腕の傷をそっと拭った。白い腕には、痛々しい赤紫の痣と、一筋の血が滲んでいる。
杏は、優しく手当てをしながら語りかけてくる。
「足のお怪我で詩乃様がお休みになられてから、使用人はてんやわんやです。なんせ、このお屋敷の膨大な数の仕事のほとんどを、詩乃様がなさっていましたから……。そんな忙しい時に、千姫さんは旦那様から貰い受けたお金で買い物へ行っていて。本当に、大変です」
小さな手が、詩乃の傷口に薬を塗り込んでいく。
詩乃は、この家で初めて受ける使用人からの献身に、胸を締め付けられるような心地がして、無言になってしまった。
「この家はどうなっているのでしょうか? 私が憧れた蛇神家とは違っていて、正直、戸惑っています」
杏の漏らした独白は、純粋な疑問と、失望の色を孕んでいた。
「御三家の中でも、蛇神家はとりわけ帝国への貢献度が高くて、帝都の民からの評判がよいのですよ。花神家は悪事に手を染めているうえに、三十年前逃走した花の神の捜索に成功していないので、評判が悪くて……。山神家も、力こそ強いですが、次期当主の息子さんは放蕩三昧だとか……それに比べて、蛇神家は本当に素晴らしい家系だと思っていましたのに」
「……花神家に、悪事に手を染めているという噂があるの?」
詩乃は驚いて問い返した。今朝応接間にいた、穏やかな微笑みを湛えた花人の姿が脳裏を掠める。あの優しい面持ちからは、悪事を行っているなど、とても想像がつかない。
杏は、深刻な面持ちでこくりと頷いた。
「は、はい。他の二家に比べて、花神家は手段を選ばない、怖い印象のお家です。悪い噂が尽きません。裏でどんな糸を引いているか分かったものではないと、外からは恐れられております」
詩乃は、花神家の印象が、他所から見て怖いものであることを知らなかった。
護衛の方々は、確かに目付きが鋭くて怖い。けれど、少なくとも詩乃の目に映る花人は、優しい人である。
詩乃の手当てを終えた杏は、どこか遠くを見るような目をして語り始めた。
「ですから、誰もが憧れる御三家の中でも、私にとって蛇神家は特別憧れだったのです。蛇の神は帝都を守る守護の要であり、次期当主の巳貴様は若くして軍の重職に就かれ、規律正しく国家のために尽くされている。私の故郷の村でも、蛇神家は神聖な救世主のように語られていました。それに、私のような貧しい家の娘も女中として雇ってくださる。なんて慈悲深く、誇り高い家柄なのだろうと、ずっと憧れて、やっとの思いで奉公に上がったのです。なのに……」
杏はそこで一度、言葉を区切った。杏の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「この家ではご当主様の暴力は日常茶飯事。使用人を仕切っている大奥様も、ご当主様から受ける暴力の腹いせか、使用人への当たりがきついのです。そうやって空気が悪いから、使用人同士の関係も悪くて、新入りの私などは、いじめられる日々です」
杏はやるせない気持ちを吐き出すように、肩を落として言った。
杏の言う通り、蛇神家は当主もその奥様も、穏やかな性格ではない。
巳貴の暴力も、おそらくは両親譲りだ。
巳貴が幼い頃から、当主である父親は、日常的に妻に暴力を振るっていたらしい。それを見て育った巳貴の女性への認識は歪んでしまっただろう。
加えて、巳貴の母親は、巳貴を次期当主として育てるために、厳しい体罰を与えて教育したと聞く。
巳貴には、生まれた頃から暴力が身近にあったのである。
引き継がれた悪い連鎖が、詩乃を苦しめているのだ。
杏は自嘲的に笑う。
「ここにいると、自分が信じてきたものが崩れていくようで悲しいです。あんなに素晴らしいはずの蛇神家の内部が、どうしてこんな……って」
窓の外では、冷たい風に吹かれた梅の枝が、激しく揺れていた。
杏は立ち上がり、覚悟を決めたように言う。
「できれば近々、ここを辞めようと思っています」
え、と詩乃は驚きの声を漏らした。
年季を満了していない女中が辞めるというのは、あまり一般的ではない。結婚して辞めていく人はいるが、何もないのにやめられるものだろうか。
「行く宛てがあるのですか?」
「それは、まだ……。そもそも、辞めさせてもらえるかも分かりません。でも、いつか辞めてやると思いながら働かなければ、気持ちがやられてしまうので」
杏は力なく笑うと、襖の前まで移動し、部屋を出ていこうとする前、恭しく頭を下げた。
「最後に一つ、詩乃様に謝らなければならないことがあります。足を怪我した詩乃様を、私は置いていきました。……あの時は、ごめんなさい。千姫さんが恐ろしくて、勇気が出ませんでした」
もしかすると、彼女はこれを言うために声をかけてくれたのだろうか。どうやら彼女なりに、ずっと罪悪感を抱えていたらしい。
杏は、詩乃に謝罪できたことでいくらかすっきりしたのか、涙を拭って部屋を出ていった。
◇
仕事がないせいで、全く疲れていない。本来、体を動かしている方が好きな詩乃は、休みを与えられてからというもの、本来の力を持て余すような心地だった。
横になっても眠れず、結局深夜までぼうっと天井を眺める羽目になった。暇だ、と詩乃は思う。何かしようかしらと上体を起こした時、部屋の襖を勢いよく開けられる。
立っていたのは、仕事帰りの巳貴だった。
その顔には、死人のような色濃い隈がある。
巳貴は荒々しく詩乃の部屋に踏み入り、詩乃に抗う隙も与えず、細い体をその腕の中に力任せに閉じ込めた。はー……と耳元で大きな溜め息の音がする。
巳貴の腕の力は強く、抱き締められているこちらは体が痛いほどだった。けれど、もう少し力を緩めてほしいなどと言えば機嫌を損ねるかもしれないので、我慢して、人形のように動かずにいた。
随分と長い間そうしていた後、巳貴は立ち上がり、仕事用の軍服から部屋着へと着替えながら、軍部の愚痴を零し始めた。
「どいつもこいつも、腑抜けたことばかり。上層部の老いぼれどもは、目先の予算と身内の体面を守ることしか頭にない」
巳貴は、脱いだ制服を床に叩きつけるように置くと、いらいらした様子で言葉を重ねる。
「……少しお休みになられてはいかがですか? 最近、疲れがひどいように見えます」
おずおずと差し出した詩乃の言葉は、しかし巳貴の神経を逆撫でするだけの結果に終わった。
「休めるわけがないだろう。こんな状況で。お前は呑気なものだな」
しばらくあぐらをかいたまま詩乃に愚痴を聞かせていた巳貴は、不意に詩乃を見つめて、機嫌悪そうに眉を寄せた。
「お前は、一体何が不満なんだ?」
その唐突な問いに、ぼうっと話を聞いていた詩乃の背筋が伸びた。怒られるような予感がして、背筋が凍る。
「主人が帰ってきてもその仏頂面。お前はどうしていつも、俺の前で笑わない? 服も飯も、望めば何でも与えてやっているだろう」
楽しい話をされているわけでもないのに、笑えるわけがないだろう――という反論が喉元まで出かかったが、それを口にすればまた暴力が飛んでくることを、詩乃は知っている。
「……ずっと負い目を感じているのです。私はこの家にとって、旦那様にとってのお荷物ですから。これほどのご迷惑をおかけしているのに、笑っていられるほどの図太さはありません」
詩乃が目を伏せて、身の程を弁えた発言を心がけると、巳貴はいくらか気分を良くしたようで、優しい口調で問うてきた。
「母上にまた何か言われたのか?」
義母にではなく、女中にだ。昼間の千姫の、鬼のような形相を思い出す。しかし、千姫について告げ口したところで、彼が己の愛妾を罰することはないだろう。
詩乃は乾いた諦めを胸に、曖昧な微笑だけを返した。
「子を産めない体だと、引け目を感じているんだな」
巳貴は詩乃の沈黙を肯定と解釈したらしい。
確かに、日頃から義母にも、なかなか身篭らないことについてはしつこいほどに文句を言われている。
「跡継ぎのことなら心配しなくていい。いずれ他所で女を見繕って、俺との子を産ませる。その子をお前の子だと言って、家を納得させるつもりだ。お前はその子を育てるだけでいい」
「そこまでしていただかなくても……」
「世の中には、子の産めない女を無慈悲に実家へ叩き返す男もいるそうだが、俺は違う。そんなことでお前を捨てるわけがないだろう」
巳貴は詩乃の顎を掬い上げ、逃げ場を奪うように顔を近付けた。その瞳には愛などではなく、深い呪いのような執念が渦巻いている。
「お前は一生、俺の隣で苦しんでいればいい」
詩乃の心は、その言葉を聞きながら冷え切っていた。
意識が浮遊して、空中から自分の姿を眺めているように感じる。この男の腕の中にいると、まるで自分が、物言わぬ人形になったようだ。
しかし、先程の本人の発言通り、巳貴が何でも与えてくれるというのは事実である。寝床が固く、体を痛めていた時は上質な布団を用意してくれたし、贅を尽くした着物も髪飾りも、しつこいほどに贈ってくる。
ふと、詩乃はいい案を思い付いた。
「……望みが、一つだけあります」
掠れた声で言うと、巳貴が驚いたように、わずかに目を見開いた。
詩乃の方から何かを要求することは、これまでほとんどなかったからであろう。
「何だ。言ってみろ。お前が望むなら何でもしてやる」
「杏という名の使用人が、最近入ったと思うのですが……」
巳貴はぴんと来ていない様子で、ぎゅっと眉根を寄せて沈黙した。
軍務に追われ、屋敷の管理は母親に任せきりの彼が、数十人もいる下働きの女中の名前を一人ひとり覚えているはずもない。
その当然の反応を予測していた詩乃は、畳みかけるように言った。
「その使用人を、私のお付きの女中にしていただきたいのです。よろしければ、私の手伝いを、その子にしていただきたくて……」
「……珍しいな。気に入ったのか?」
「は、はい。とても」
あんなに純粋な憧れを持ってこの家に来た杏が、いじめに遭い、使い潰されていくのを見過ごすことはできなかった。自分の側に置いてしまえば、少なくとも千姫や他の女中たちから露骨な嫌がらせを受けることはなくなるはずだ。
それに、巳貴の命令であれば、命じられてアザモノに付き添っている可哀想な子だと、同情も受けられるだろう。
巳貴は不可解そうに詩乃を凝視していたが、やがてその口元に、満足げな笑みが浮かぶ。詩乃が珍しく何かを求めてきたことが、彼の支配欲を心地よく刺激したのかもしれない。
「分かった。その女中を、明日にでもお前の傍につかせる」
巳貴はそう言って詩乃の額に口付けを落とした。
その感触に、詩乃は思わず身を強張らせる。しかし、それ以上何かされることはなかった。
「湯浴みをしてくる。今夜は一緒に寝よう」
そう言い残して部屋を去っていく巳貴の背中を見届け、詩乃はようやく長く溜めていた息を吐き出した。張り詰めていた緊張が緩み、全身から力が抜けていく。
(……今夜の旦那様は、機嫌が良かった。痛い目に遭わずに済んだ)
そんなささやかな安堵を、今の自分が最大の幸福として数えてしまっている。詩乃は、その惨めさを自覚しながらも、暗い部屋の中で独り、窓の外を眺めていた。
冬の朝は、刺すような冷気と共に明けた。
東の空が白み始めると、蛇神家の広大な屋敷は、薄っすらと降りた霜で白銀に縁取られていく。
詩乃は、痛む足首を庇いながら、かじかむ指先で米を研ぎ、竈の火をつけようとしていた。爆ぜる薪の音だけが響く静けさの中、背後から遠慮がちな足音が近付いてくる。
「あのっ……どうしてですか、詩乃様」
振り返ると、そこには戸惑ったような表情で立ち尽くしている、杏の姿があった。
まだ他の女中たちも寝静まっているような早朝である。詩乃は驚きに瞬きを繰り返し、火照った頬を拭って振り返った。
「……あ、おはようございます、杏さん」
「おはようございます……。あの、私、大奥様から急に起こされて、今日からは詩乃様のお傍を離れずにお仕えするようにと言われたのですが……。どうして、私などを選んでくださったのですか?」
詩乃ははっとして、火の傍から離れた。この独断は、杏にとっては寝耳に水だったはずだ。望まぬ役目を押し付けられた形になっているのではないかと、急に不安と申し訳なさが込み上げてくる。
「……ごめんなさい。あなたの許可も取らずに。私のお付きになること、嫌でしたか?」
「まさかそんな! 滅相もありません!」
杏は慌てて顔を上げると、ちぎれんばかりに首を横に振った。そして、丸い瞳に不安の色を浮かべながら、声を潜めて問いかけてくる。
「……ただ、昨日の今日ですから。あんな弱音を吐いてしまった私に、無理に気を使ってくださったのではないかと思って……」
「……あの話を聞いたからというのはそうですが、私の仕事を手伝う人がほしいというのは本当です。足を怪我していますし、日常生活でも手伝いがほしい場面はあって。……よければ、お願いできますか?」
杏はしばらく、呆然と詩乃の顔を見つめていた。やがて、強張っていた彼女の表情がふわりと解け、春を待つ蕾がほころぶような笑みが溢れる。可愛らしい人だ、と詩乃は思った。
「……詩乃様は、お優しいのですね」
杏は深く一礼すると、清々しい足取りで炊事場の土間へ踏み込んできた。
「そちらで準備されているのは、巳貴様のご朝食ですか?」
「はい。旦那様は家を出るのが早いですから、他の人より早く作っているのです」
「ほお……巳貴様が、詩乃様の作った朝食しか食べないというお噂は本当なのですね」
杏は物珍しそうに言いながら、詩乃の隣に並んだ。
「早速ですけど……私に何かお手伝いできることはありますか?」
「え……手伝ってくれるのですか?」
「もちろんです! というか、本来はこういった仕事こそ、私たち女中が行うべきことなのです。奥様が全てを一人で背負っていらっしゃる今の状況の方が、どうかしているのです」
杏はそう言って快活に袖をまくると、詩乃の手から重い鉄鍋を預かった。
朝日が差し込む炊事場で、詩乃と杏の影が寄り添うように重なる。それは、凍てつく蛇神家の屋敷の中で、詩乃が初めて手に入れた、微かなぬくもりだった。



