籠の鳥の再縁


 昼食を終えた後も、銀座散策は続いた。

「次は、舶来の万年筆でも見るか。それとも、帯でも新調するか?」

 巳貴が詩乃の顔を覗き込み、愉しげに聞いてくる。
 詩乃は、楽しくなかった。別に、贅沢をしたいわけではないからだ。
 それよりも気がかりなことがある。

「あの、絵巳里様のお世話は、本日は誰がなさっているのでしょうか」

 我慢できず、巳貴の話を遮ってしまった。朝からずっと、離れで眠っている絵巳里のことで頭が一杯なのである。
 少し出かけて帰る程度だと思っていたのに、この調子では夜が来てしまう。どうしても気になり、早く帰らなければ、という焦りが詩乃を襲っていた。

「他の女中に任せてある。俺が姉上のことを考えていないわけがないだろう」

 不安だった。屋敷の使用人たちは、絵巳里をどこまで世話してくれるのかと。
 詩乃は、一部の人々が、絵巳里を陰で「死体」と呼んでいることを知っている。彼らは、絵巳里を死んでいるものとして扱っているのだ。きっと絵巳里がいずれ目覚めるなんて夢にも思っていないし、介護する価値があるとも思っていないだろう。
 心配で俯き、思い悩む詩乃に、巳貴がぽつりと呟いた。

「お前、少しも笑わないな」
「……え?」

 詩乃はぱっと顔を上げた。そこには、眉間にぎゅっと皺を寄せた巳貴がいた。

「俺と出かけるのが楽しくないのか?」
「い、いえ、そのようなことは」

 楽しいわけがないだろう――と思いつつ、咄嗟に否定したが、巳貴の双眸から、瞬時に温度が消え失せる。
 その後、巳貴の機嫌は昼間よりも明らかに悪くなり、ついには口をきいてくれなくなった。

 夕刻から降り始めた雪は、瞬く間に帝都を白銀の世界へと塗り替えた。
 夜を迎え、さらに積もった雪景色を見に行こうと、巳貴は不機嫌そうなまま銀座で車夫を拾った。向かった先は、上野の山である。
 公園に足を踏み入れると、そこには息を呑むような美しい景色が広がっていた。
 池の向こうまで続く銀世界。噴水も樹々も、全てが分厚い真綿に包まれたかのように白く光っている。竹の枝が雪の重みに耐えかねて時折しなり、さらさらと雪を零す音だけが、夜の静けさを揺らしている。
 その凍てつくような美しさをひとしきり眺めた後、ようやく巳貴が帰路へと歩みを向けた。
 足元で、降り積もったばかりの雪がぎゅっ、ぎゅっと小気味よい音を立てる。
 上野から歩いて三十分ほどかかる川の向こうに、蛇神家に雇われている運転手が車で迎えに来ているらしい。
 橋の向こう、闇の中に、車体から突き出したライトが二筋の光となって見えた。
 巳貴は数歩先を、無言のまま進んでいた。詩乃は、足をやや引きずりながら、巳貴の背中を追った。一日中無理に歩いたせいで、足の痛みが増してきた気がする。

 橋を渡っていた時、ふと、前方から一人の男が歩いてくるのが見えた。
 分厚いインバネスコートに身を包み、深く帽子を被ったその人物に、何故か目を奪われる。
 詩乃は、巳貴に遅れまいと必死に歩き、その男の傍らを通り過ぎた。

(……背の高い人)

 ただ、それだけを思った。
 雪が音を吸い込むような静寂の中、すれ違いざま、微かに花のような甘い香りが鼻腔をくすぐったような気がしたが、振り向かず、凍える手で着物の合わせをきつく握りしめた。

 数歩、離れた時だった。

「――……しーちゃん?」

 背後から聞こえたその声は、降り積もる雪を震わせ、詩乃の意識を一瞬にして現実に引き戻した。
 詩乃をそう呼ぶ人物は、この世界に一人しかいない。
 十年の歳月を超えて、何度も夢の中で繰り返された、忘れもしないあの声。
 詩乃は足を止め、弾かれたように振り返った。

 白銀の夜の中に、その人は立っていた。
 街灯の光を背に受け、舞い落ちる雪がその肩に、帽子に、降り積もっていく。男がゆっくりと帽子を上げると、影の中から、かつて星の名前を教えてくれたあの頃と変わらない、美しい顔が浮かび上がる。
 雪の白さよりもさらに透き通るような白い肌と、すっとした鼻筋と、知的な光を宿した涼やかな目元からは、大人の色香を感じた。かつての少年らしい華奢な肩幅には厚みができていて、仕立ての良い漆黒のコートを凛然と着こなしている。
 詩乃の知る花人は、いつも思い浮かべる花人の姿は、少年の頃のままだったが、十年の歳月を経て彼は、美しい大人の男へと変貌していた。

「……花人お兄ちゃん?」

 詩乃の口から、震える吐息と共にその名が漏れ出した。
 風が吹き抜け、二人の間に雪のカーテンを引く。再会の歓喜よりも先に、信じられないという戸惑いがあった。
 異国にいるはずの彼が、何故、今ここに。

「戦争の影響で、帰国を余儀なくされたんだ。本当はあと何年か、向こうにいる予定だったのだけれど」

 詩乃の疑問を感じ取ったかのように、花人がゆっくりとした口調で説明を加える。
 雪は音もなく降り続け、橋の上で対峙する詩乃と、花人の境界を白く塗り込めていく。

 付いてこない詩乃を巳貴が不審げに振り返る音も、足首の痛みも、全てが遠い世界の出来事のように思えた。

「よかった、ずっと探していたんだ。郵便も届かないし……家もなくなったんだろう」

 花人は、安堵の吐息を漏らして微笑んだ。その柔らかな表情には、大人になった今も、かつての優しい少年の面影が色濃く残っている。

「……よく、私だと分かりましたね」

 十年前、詩乃はまだ十歳の子供だった。風貌もあの頃とは随分と変わっているはずだ。それなのに、花人は詩乃に迷いなく声をかけた。

「俺がしーちゃんに気が付かないわけないよ」

 花人は愛おしげに言葉を紡ぎながら、上から下まで、詩乃の全身をなぞるように視線を降ろした。そして、口元を手で覆うと、照れたようにわずかに視線を逸らす。

「でも確かに、見違えるように変わったね。昔も愛らしかったけれど、今はもっと、大人っぽくなったというか……すごく綺麗になった」

 花人の白い頬が、何故か朱に染まっている。
 ふと、花人が詩乃の額を見つめる。その視線の先に何があるかを知っている詩乃は、羞恥に突き動かされるように、素早く自らの額を手で隠した。

「その額の印は何? 流行りのお洒落なのかな?」
「あ、こ、これは……」

「――アザモノの証です。異能で人を傷付けた、その罰として与えられる印ですよ」

 背後から割り入るように、冬の空気よりも冷たい声が放たれた。
 一瞬、巳貴の存在を忘れていた詩乃は、はっとして振り返る。花人もまた、ようやくそこに立つ巳貴に気付いたようで、そちらに視線を向けた。花人の目が、巳貴という存在を値踏みするように細められる。
 巳貴の表情は、先程までの不機嫌とは比にならないほどに、険しく歪んでいた。眉間に刻まれた深い溝が、彼の内に燃え上がる底知れぬ怒りを感じさせる。

「詩乃。こいつは?」
「……幼い頃の、知り合いで。独逸帝国に、長年留学していた方です」

 詩乃はその威圧感に、怯えた仔鹿のように肩を震わせ、消え入りそうな声で答えるのが精一杯だった。

「……へえ。アザモノって言うんだ。俺がこの国を離れている間に、そんな仕組みができたんだね」

 花人は興味深そうに頷くと、詩乃に一歩歩み寄った。そして、あろうことか、罰の印が刻まれた額に、優しく唇を落としたのだ。

「小さくて、可愛い印だ。可憐な花のようにも見える」

 詩乃は驚いて目を見開く。
 罪人の証として付けられたこの印を、可愛いなどと言ったのは花人が初めてだったからだ。
 この国では、誰もがこの印を、忌むべきものとして扱ってきた。なのに花人は、長年異国にいたからか偏見のない目で見てくれる。

 嬉しく思って顔を綻ばせた――次の瞬間、強い力で二の腕を引かれ、強引に花人から引き剥がされた。
 詩乃を自らの背後へと引き寄せたのは、巳貴だった。

「うちの愚妻が、昔は世話になったようで。異国帰りのあなたには分からないかもしれませんが、人のものに接するにしては、少々距離感を間違えているのでは?」

 顔に笑みを貼り付けてはいるが、怒っているのがひしひしと伝わってくる。二の腕を掴む巳貴の指先が、ぎりりと詩乃の肌を痛めつけた。

愚妻(・・)?」

 花人がその言葉を反芻し、怪意そうに眉を寄せる。

「この子は愚かではないけれど。それに、まるで自分の物のように言うのはやめてもらいたいな」

 花人は一歩踏み出し、詩乃のもう片方の腕を、奪い返すように引き寄せた。

「この子は俺と、将来を誓い合った仲だよ」

 堂々たる宣言に、詩乃は目を見開いた。
 そんな覚えはない。まさか、あの幼い頃の戯れのようなあの発言のことを言っているのだろうか。
 対する巳貴の口角が引き攣る。その眼光はもはや、業火を宿した鬼のようで。次に口を開いた時には、彼の敬語は崩れていた。

「……何を、馬鹿げたことを。こいつは三年前から俺のものだ。蛇神家に嫁いできた、俺の花嫁だ」
「……蛇神家?」

 詩乃の腕を掴む花人の指先に、微かに力がこもる。花人は、その瞳に暗い灯火を宿して囁いた。

「こいつの言ってること、本当なの?」
「……え、っと」
「しーちゃん、大人になったら俺と結婚するって言ったよね? ね? ……で、その男、誰?」

 花人が、まるで別の回答を期待しているかのように問うてくる。静かに怒っている様子の彼の瞳に、言いようのない恐怖を覚えた。

「許さないから。しーちゃんが、他の男のお嫁さんになるなんて」

 問い詰める声が鋭く突き刺さってきた、刹那。

「――触るな」

 巳貴がついに苛立ちを露わにし、詩乃の手を強引に引いて、花人を振り払った。
 
 まだ話し足りない。聞きたいことも、伝えたいことも山ほどある。また会えて嬉しいと、そう言いたいのに。
 巳貴の有無を言わさぬ力に抗う術はなく、引きずられるようにして、川の向こうで待つ車へと連れ去られていく。
 雪のベールの向こうに立ち尽くす花人の姿が、白く、遠く、夜に溶けて消えていくのを、詩乃はただ涙を堪えて見つめることしかできなかった。

「お帰りなさいませ、巳貴様。予定より遅かったですね」

 詩乃たちが車に乗り込むと、運転手がそう言い、車を走らせていく。窓の向こうで、大きな橋が遠ざかっていった。
 隣に座る巳貴からは、煮えくり返るような怒りの熱が伝わってくる。彼は一言も発さず、ただ前方を見据えていて、その静けさがかえって詩乃の恐怖を煽った。
 このまま屋敷に戻ったらどうなってしまうのだろう。殴られる程度では済まないかもしれない。何とか運転手の目があるこの車の中で、少しでも巳貴の機嫌を取らなければならないという焦りが詩乃を襲う。

「あの、旦那様」
「あいつとは、余程親しかったようだな」

 詩乃の声と、巳貴の声が重なった。巳貴の声の方が大きく、詩乃の声は掻き消される。

「没落したとはいえ、元は華族令嬢のくせに、男と親しくしていたのか。婚約した男女ですら、みだりに会うことは許されないと言うのに。良家の子女の常識も持ち合わせていないようだな」

 巳貴の言葉が、詩乃の胸にちくちくと刺さる。

「……申し訳ございません。当時は幼く、異性と親しくするのははしたないことという自覚が足りませんでした」
「黙れ。言い訳など聞きたくない」

 それきり、詩乃は喋れなくなってしまった。
 雪降る夜道を、車が進んでいく。前にいる運転手が、二人の険悪な雰囲気を感じ取ってか、ちらちらと心配そうにこちらを見てくる。
 屋敷が近付いてくるにつれ、詩乃はやはり恐ろしくなり、巳貴に媚びるような視線を向けた。

「旦那様、あの……」

 震える声で弁明しようとした、が。

「黙れと言ったはずだ」

 低い声と共に、巳貴の大きな手が詩乃の後頭部を強引に掴み寄せた。抗う間もなく、無理やり上を向かされた詩乃の唇に、巳貴のそれが押し当てられた。
 巳貴の荒い舌が詩乃の口腔に侵入してくる。詩乃が苦しさに身を捩ると、巳貴はさらに力を込め、彼女を座席の背もたれに押し付けた。逃がさないとでも言うように。
 二の腕に食い込む指が、捻挫した足首の痛みさえ忘れさせるほどに詩乃を締め上げる。空気を奪われ、意識が朦朧とする中で、詩乃の脳裏には、雪の中に佇んでいた花人の、あの美しい姿ばかりが浮かんでいた。

「お前は、俺のものだ。もう二度と、誰にも、指一本触れさせない」

 ようやく唇を離した巳貴が、耳元で毒を吐くように囁いた。彼の瞳は、暗く濁っている。

「今夜は眠れると思うなよ」

 詩乃は荒い息を吐きながら、乱れた着物の襟を震える手で押さえた。窓の外を流れる景色は寒々としていて、詩乃を残酷に突き放しているようにも思えた。

 巳貴の宣言通り、その夜は一睡もできなかった。
 眠っていないのは巳貴も同じであろうに、巳貴は朝から涼しい顔で仕事へ出かけて行った。圧倒されるほどの凄まじい体力である。
 詩乃は、ようやく解放されたことにほっとしながら、すぐに疲れ切った体で離れの絵巳里の元へ向かった。

 離れの奥、厚い帳に仕切られたその一角は、そこだけが屋敷の喧騒から切り離されたように静かだ。
 絵巳里の姿を確認すれば、服が変わっている。昨日はどうやら、他の使用人がきちんと世話をしてくれたらしい。詩乃は安心し、ほっと息をつく。
 寝台に横たわる絵巳里の姿は、生きている人間というよりは、精巧に作られた人形に見える。透き通るほど白い肌は、血の通った温もりを感じさせない。それでも、生きていると信じたい。
 詩乃は、絵巳里の頬に触れぬよう、そこから生える花にそっと指先を寄せた。花の重みのせいか絵巳里の呼吸は浅く、時折微かに胸が上下するだけだ。

「絵巳里様……どうか、目覚めますように」

 祈りを捧げる。
 正直なところ、詩乃がこの屋敷で興味があるのは、絵巳里のことだけなのだ。
 巳貴とは元より望まぬ婚姻であったため、生活を支えてくれることへの感謝の気持ちはあれど、恋情などは抱いていない。蛇神家の莫大な富にも、関心がない。

 詩乃をこの家に深く縛り付けているのは、ただ一つ、絵巳里への罪悪感のみである。

 詩乃が深く溜め息を吐いた、その時だった。廊下を騒がしく走る足音が近付いてくる。ばたばたと足音うるさく、女中の一人が駆け込んできた。

「詩乃様! 詩乃様、いらっしゃいますか!」

 血相を変えて飛び込んできた女中に、詩乃は驚いて手を止めた。

「花神家の当主様が、詩乃様にお会いしたいとおっしゃって、来訪しております!」

 詩乃は、不可解に思って眉を寄せる。
 本来、家を訪れる客の対応は夫人の務めだ。夫の仕事関係の人物や百貨店の外商などが訪れた際も、不在の主に代わって応対し、伝言を預かる――それが妻に求められる役割の一つである。
 しかし、アザモノである詩乃は表に出るべきではないとされており、巳貴に関する来客の対応は全て、巳貴の母である大奥様が引き受けるというのが決まりだった。
 そのため、来客対応に詩乃が必要とされることは、これまでになかったことである。

「……私ですか?」
「はい、詩乃様です。巳貴様でも、当主様でも、大奥様でもなく、詩乃様にお会いしたいとのご要望です」
「……本当に私ですか?」
「は、はい。何度も確認しましたので、間違いないと思います」

 詩乃は不可解に思って眉を寄せた。
 何故自分を指名したのだろう。花神家といえば、蛇神家と並び称される、帝都の名門中の名門だ。そんな家柄の人物が詩乃を訪ねてくる理由に、心当たりが一切ない。
 詩乃の亡き両親がかつて何か関わりを持っていたのだろうか。それにしても、母が病気で死んだのは十四年前で、父が自殺したのも三年前。死を悼んで訪ねてくるにしては遅すぎる。
 詩乃は、頭の中で様々な可能性を考え、そのどれもを否定して、首を傾げた。分からない。
 来客を対応するには少し粗末な格好だったので、急いで部屋に戻って着替える。波のような抽象柄がナナメに入り、中央に大きな蝶が染められた名古屋帯と、紅葉の柄の紋錦紗の着物を着衣し、花神家の当主が待つという応接間へ向かった。
 「失礼します」と言って襖を開け、中へ足を踏み入れる。

 淡い陽光が差し込む和室の一角に、一人の男と、数名の男が座っていた。中心にいる男の姿を目にした瞬間、詩乃の鼓動が大きく跳ねた。
 その男は、透き通るような微笑を湛えている。

「やあ、しーちゃん。昨日ぶりだね」

 そこにいたのは、花人だった。

「どうぞ、座って」

 花人は、正面の座布団を指し示した。彼は、深みのある紺色の上質な着物の上に、洋風の外套を羽織った和洋折衷の格好をして、懐中時計を帯に挟んでいる。
 詩乃は戸惑いながらも、勧められるままに膝を折った。

(どうして花人お兄ちゃんがここに……)

 花人の背後には、大柄で体格のいい男たちが何人も控えている。彼らの威圧感に、思わず身を竦めた。

「あの、花神家のご当主様がこちらにいらっしゃると聞いて、来たのですが」
「うん。俺が、花神家の当主だよ」
「………………え?」
「帰国してから正式に代替わりの儀式が執り行われて、俺が当主になったんだ」

 詩乃は呆然とする。
 育ちの良いお坊ちゃんだとは思っていたが、まさか帝都御三家の一角、花神家の頂点に立つ人物だったとは。聞いた話では、花人には二人の兄がいたはずだ。しかし、彼らは十年前に死んでいる。
 花人が留学したのももしや、異国で研鑽を積み、家督を継がなければならない唯一の後継者であったからなのだろうか。

「お久しぶりです、詩乃様。大きくなられましたね」

 花人の背後に控えている大柄な男の一人が、恭しく頭を下げた。
 記憶の断片が繋ぎ合わされる。かつて花人と遊んでいた幼い日、常に影のように付き添っていた護衛の一人だ。あの頃に比べて年を重ねてはいるが、その誠実な眼差しは、少しも変わっていなかった。

「じゃあ、花人お兄ちゃんは、花の神を祀る花神家の一族であるのに、ずっとそれを隠していたってこと?」
「隠していたつもりはないよ。俺は顔が知られているし、いずれしーちゃんの方から気付くかなと思っていただけ。まあ、意図的に言わなかったのは事実だけれど……。折角遠慮せず遊んでくれているしーちゃんに、わざわざ権威を主張するような真似をすれば、緊張して遊んでくれなくなるような気もしていたしね」

 花人が、少しばつが悪そうに微笑む。

 世間のことに没干渉であるために、世の中のことが分からないのは、貴婦人令嬢の弱点と言われることもある。
 あの花神家の子息の顔を、詩乃は把握していなかった。
 それに、花人の言う通り、花人が花神家の人間であると知れば、詩乃は花人を避けていただろう。自分にはとても釣り合わない相手だから。
 驚きのあまり黙り込む詩乃に、花人は続ける。

「ごめんね。帰国したばかりで、状況を把握できていなくて。昨日から一晩かけて、色々調べさせてもらったよ。しーちゃんが、どういう経緯で蛇神家に嫁いだのか」

 花人が語る経緯は、とても正確だった。


 六歳の時、母が死んだ後、詩乃の父は再婚し、円満な家庭を築いていった。

 そして十三歳の時に女学校へ入学した詩乃は、そこで蛇神家の長女である絵巳里と知り合う。絵巳里はこの頃卒業間近であったが、卒業後も詩乃と親しくしてくれた。

 絵巳里は親からしつこく持ち込まれる縁談を断り続け、社会に出て働くことを優先した新時代的な人で、偏見の目を向けられることも多々あった。
 女学校とは花嫁修行のために行くものである。なのに、これでは何のために学校へ通わせたのか分からないと、絵巳里の両親も、結婚しない絵巳里を親不孝者だと厳しく叱っていたらしい。それでも、絵巳里は自分を貫いた。
 何者にも従わない自由さ、気高さが、詩乃が絵巳里に憧れる理由の一つでもあった。

 詩乃は、絵巳里を介して巳貴のこともよく目にしていた。直接会話を交わすことはほとんどなかったが、尊敬する人の弟であるため、敬意を持っていた。

 その四年後、詩乃の異能の暴走が起こり、絵巳里は身体から花を咲かせ、深い眠りについてしまう。

 この事件はたちまち世間に広まり、蛇神家という名門に傷をつけた詩乃の家には、無数の嫌がらせと誹謗中傷が殺到した。精神的に追い詰められた父は、ついに自ら命を絶つ。

 父の再婚相手である母にも責められ、居場所をなくし、自責の念に苛まれ、父の後を追って自殺することも考えていた詩乃を迎えに来たのは、被害者であるはずの巳貴だった。

 巳貴は、あろうことか詩乃を娶ると言い出した。

 蛇神家と詩乃の家では、家格が釣り合わない。それどころか、事件を機に爵位を返上したので、没落した家である。この状態で詩乃を娶るなどと言えば、蛇神家内部からの反発はさぞ激しかったことだろう。

 それでも巳貴が詩乃に縁談を持ち込んだのは、絵巳里が遺書を残していたからだった。

 不思議ではなかった。絵巳里は少し特殊な死生観を持つ人で、十歳の時にも一度自殺未遂をしている。
 人間には生きる権利があるが、いつ死ぬかを決められる権利もあるというのが絵巳里の持論であり、詩乃にも、わたくしはいつかふらりと死ぬからね、と日頃から伝えていた。
 今すぐ死ぬという言い方ではなかったが、それでも常に、死の準備をしているような人であった。いつ死んでもいいように、あらかじめ遺書を書いていても不自然ではない。

 絵巳里の遺書には、巳貴に向けて、どうか詩乃を頼むという旨のことが書かれていたらしい。
 あの子がもしも、絶望の淵に立たされた時は、手助けをしてあげてほしいと。

 だから巳貴は、憎んでいるであろう詩乃を自分の妻とし、面倒を見ると言い切った。取り残された詩乃の母のことも援助すると言った。
 自分だけならまだしも、育ての母にも影響する話だ。そして何よりも、自分のせいで眠り続けている絵巳里のことが気がかりだった。
 詩乃はこの結婚話を即座に受け入れ、責任を取って、一生絵巳里の世話をすると誓った。
 花人が、詩乃のこれまでの苦労を気遣うように優しい声を出す。

「きっと、蛇神家のご長女は、しーちゃんの手紙の中で、憧れの人だってよく話題に上がっていた人だよね?」
「はい……」
「敬語なんていいよ。昔みたいに、気楽に喋って」

 花人の柔らかな微笑みが、体を強張らせていた詩乃の緊張を解いていった。

「昨日は、責めるようなことを言ってごめん。俺の方が責められるべきだった」

 花人はふっと目を伏せた。

「しーちゃんが大変な時に傍にいられなかった俺が悪い。しーちゃんを他の男に奪われたのは俺の責任だ。しーちゃんは、何も、何一つ、悪くないよ」

 昨日の詩乃への態度を、これ以上ないほどに悔いている様子が、その硬く結ばれた唇から伝わってくる。
 が、次に花人がぱっと顔を上げた時、その瞳には迷いのない、強烈な熱が宿っていた。

「それで、再婚はいつにする?」

 あまりに飄々と、当たり前のように、まるで明日の天気を語るような軽やかさで放たれた〝再婚〟の言葉。詩乃はぎょっとし、自分の耳を疑った。

「さ……再婚?」
「包み隠さず言うと、俺は君に、彼と離縁してほしい」

 詩乃は、「離縁……?」と、普通に生きていて聞かないような単語を、うまく飲み込めずに小さく繰り返した。
 まさか帰国早々に結婚を申し込まれるとは思わなかった。あれだけ幼い頃の発言を、花人が本気にしているとも思っていなかった。花神家の当主であるというのに、こんな落ちぶれた女、しかも既婚者を娶ろうとするなんて、常識では有り得ない。

 幼い日々を大切に思ってくれている気持ちは嬉しいが、彼の言う再婚というのは、現実的には難しいことである。
 詩乃があの頃と同じ六歳であれば、きっと飛びついていた申し出だ。でも、安易にその誘いに飛び込めないほどには、詩乃は大人になってしまった。

 貞女二夫に(まみ)えず――というのが、婦人の美徳。女にとって一度の結婚は終身の契りであり、たとえ不遇であろうとも耐え忍ぶべきである。男は再婚してよいかもしれないが、女の再婚は社会的に許されない。
 そして何より、眠っている絵巳里のことが頭に浮かんだ。詩乃は、この家で一生涯、彼女の面倒を見ると巳貴に誓ったのだ。それを裏切ることはできない。絵巳里への贖罪を、途中で投げ出すことなど絶対にしない。

「それは……できないよ」

 詩乃は小さく首を横に振った。
 花人が首を傾げる。

「どうして?」

 詩乃は言い淀み、ひとまず常識のことから伝えることにした。

「世間の目もあるから。ただでさえ私はアザモノとして蔑まれているのに、さらに再婚なんて……花人お兄ちゃんまで差別の目を向けられることになる」
「世間の目なんて気にしなくていい。たとえどれだけ非難されることになろうと、俺が世界の全てから詩乃を守るよ」

 一点の曇りもない決意に満ちた言葉に、詩乃は黙り込んだ。
 欧州の自由な空気を吸ってきた花人は、この国の価値観がどれほど強固な檻であるか、きっと分かっていないのだ。いや、分かったうえで無理を言っているのか。
 黙り込む詩乃を見つめ、花人は逃げ道を塞ぐように言葉を重ねる。

「しーちゃんが気になっているのは、蛇神家が援助してくれている母親の生活のことだよね? でも、彼女は今、裕福な生家に戻って過ごしているそうだよ。援助を断ち切られたとしても、何ら不便なく生きていける。気になるようなら、俺が援助を引き継ぐ。それでいいだろう?」

 詩乃は既に育ての母と和解しており、彼女の状況についても把握している。母本人からも、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないから援助を切っても構わない、と言われている。
 しかし、詩乃がこの家を去れない理由は別にある。逃れようのない、負い目だ。

「……絵巳里様は、私のせいで眠ってしまった。絵巳里様を置いて、この家を離れることなんてできない」

 ようやく一番の理由を白状した詩乃に、花人は目を細めた。

「しーちゃんの力で眠り続けている、ご長女のことだね」

 詩乃はこくりと頷いた。
 花人はしばし沈黙し、何かを思案するように視線を落としていたが、ふと顔を上げると、驚くほど晴れやかな声で告げた。

「なら、目覚めさせよう」

 その言葉は、詩乃がこの三年間、幾度となく願い、そのたびに絶望とともに葬り去ってきた祈りそのものだった。

「目覚めさせる……? 絵巳里様を?」
「その人が目覚めたら、しーちゃんの気がかりはなくなるんでしょう? 俺も、その人を目覚めさせる方法を探るよ」

 花人があまりにも簡単に口にするものだから、詩乃は仰天してその顔を見つめた。

「だ、だけど、この三年間一度も、眠ったままぴくりとも動かなかったんだよ? そう簡単には……」
「だから何? これまでは無理だったとしても、これから目覚めるかもしれないよ」

 詩乃は目を見開いた。

 屋敷の誰も、そんなことは言ってくれなかった。
 誰もが詩乃を、死体を世話している惨めな女だと言った。もうやめたら? と、遠回しに勧められたこともある。巳貴の母には、いつまで死体のようなものの世話をしているのかと、忌々しげに吐き捨てられたことさえある。

 それでも諦めきれなかった。
 もう一度絵巳里を目覚めさせ、直接謝りたい。罪を償いたい。その思いだけが、虐げられる日々の中で詩乃を生かした。味方は誰もいなかった。

 それでも、今ここに、共に絵巳里の目覚めを信じ、味方になってくれる人が現れた。
 胸を引き裂くような痛みを抱えて耐え忍ぶばかりの暗い日常に、一筋の光が差し込んだようで、詩乃はいつの間にか、ぽとりと涙を落としていた。一度流せば、それは止まらなくなり、着物の上にぽたぽたと落ちていく。

「……しーちゃん、これまでずっと、苦しい思いをしたんだね」

 詩乃を慈しむように、花人が手を伸ばし、幼い頃のように頭を撫でてくる。

「大丈夫だよ。全部俺が何とかする」

 不相応にもずっと欲しかった、救いの言葉だった。
 堪えていた感情が決壊し、詩乃は声を上げて泣きじゃくる。
 花人はその様子を痛ましげに見つめて、まっすぐな、揺るぎない眼差しで言い放った。

「俺は、遠くにいたこの十年間、君のことだけを想っていた」

 罪人である自分に語られるには、あまりにも贅沢過ぎる、優しい愛の告白である。


「彼女を目覚めさせることができたら――俺と結婚しよう」