「不愉快だ。下げろ」
朝の光が差し込む座敷に、夫である巳貴の冷淡な声が響いた。
深く沈んだ濃紺の着物を身に纏う、非の打ち所のない美丈夫である彼の瞳は、月光のように冷ややかで、一度見つめられれば、不思議なことに蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。薄く、常に嘲笑を浮かべているかのような唇が、その傲慢さと色気を際立たせていた。
詩乃が今朝早くから起きて用意した味噌汁を一口だけ口にした彼は、すぐに箸を置き、不愉快だと言った。
「……え?」
畳に正座していた詩乃は、突然の発言に戸惑い、思わず聞き返した。
すると次の瞬間、巳貴の手元にあった椀が、詩乃の足元へ投げつけられた。まだ熱い汁が畳に広がっていく。
「聞こえなかったのか? 下げろと言っているんだ」
詩乃は絶句した。言い返す言葉も見つからず、小さく肩を震わせる。詩乃をさらに追い詰めるように、巳貴の冷ややかな罵声が続いた。
「俺の喉を通るものを作れと言っているのがまだ理解できないのか」
巳貴の、氷のような冷たさを宿した眼光が、鋭く詩乃を射抜く。
詩乃は恐怖で身をすくませ、「も……申し訳ございません」と小さな声で謝罪し、深く頭を下げることしかできなかった。
頭上から呆れたような溜め息が聞こえた。
「まともな炊事すらできないとはな。一晩中働いて、疲れて帰ってきて、こんなものを食わされる俺の身にもなってみろ」
詩乃は、汁で濡れてしまった着物の裾をきゅっと握り締めた。
朝早く起きて、丁寧に丁寧に、怒られないようにと作ったものを、巳貴はいとも簡単に、「こんなもの」と蔑む。
本来、炊事は女中たちの仕事だ。この家には何十人もの女中がおり、人手は足りている。
しかし、詩乃がこの家に嫁いで以降、巳貴はわざと詩乃に慣れない家事を押し付け、休む間を与えようとしなかった。
「……申し訳ございません。今すぐお下げいたします」
詩乃は膝をついたまま前に出て、器を片付けようとした。
しかし、恐怖で指先が激しく震えていた。不自然な手つきで器を動かした拍子に、隣の皿を倒してしまう。
その小さな失敗が、巳貴の逆鱗に触れた。
横から飛んできた巳貴の拳が、詩乃の頬を強く打つ。衝撃で、詩乃の体は畳の上へと倒れ込んだ。詩乃は泣きそうになりながら巳貴の顔を見上げる。
「何だその目は。まるで自分が被害者のような面だな。お前は、こうされて当然のことをしたんだぞ」
――そうだ。自分は、罪人だ。このように扱われて当然の人間だ。
詩乃は、痛みで火照る頬を手で押さえながら、俯き、力なく答えた。
「……重々、承知しております。私が悪いのです。申し訳ございませんでした」
「姉上は、もう二度とこうして食事を楽しむことすら叶わない。お前がその機会を奪ったのだ。――この家に一生尽くすこと。それが、我が家への唯一の償いだと思え」
その罪の重さを突きつけられるたび、詩乃が口にする言葉は決まっていた。
こう言えと、巳貴に躾けられているのだ。
「……はい。私は一生、巳貴様と、この蛇神家のものです」
――――蛇神家の長女であり、巳貴の姉である絵巳里は、三年前、詩乃の異能の暴走で大怪我をして以降、ずっと眠り続けている。
◇
大正四年、如月。まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する月である。
寒風が鋭く、着物の合わせから忍び寄る冷気に身がすくむ。
今日の詩乃は、薄い色合いの黄色に植物の柄が影のように染められた着物と、灰色地の単衣の羽織を合わせて身に着けている。今日、と限定したのは、毎日違う着物を着ているからだ。
巳貴は、詩乃を着飾ることを好む。着物も髪飾りも、数え切れないほどに贈られた。きっと彼は、自分の隣に立つ女には美しくあってほしいのだろう。
蛇神家の次期当主の隣に立つに相応しい美人でなくてはならない。そう言い付けられているため、詩乃は片時も身嗜みに気を遣わないことがなかった。こうして少し外へ出るだけという時も、きちんと髪をまとめるし、化粧だって欠かさない。
しかし。
「いやだ、アザモノよ」
店で詩乃を見た婦人は、まるで汚いものを目にしたかのように顔を顰めて、子供の手を引き、詩乃を避けるように離れていく。
「おかあさま、アザモノってなぁに?」
「異能犯罪者のことよ。異能を使って人を傷付けた人は、額に印を付けられるの」
「ええ、こわい」
子供も嫌そうな顔をして、詩乃から距離を取った。
異能を持った人間は、ただでさえ差別の対象だ。そのうえ、人を傷付けたとなれば、白い目で見られて当然である。
詩乃の額にも、小さな印が付いている。
詩乃は額を隠すようにして釣り鐘型のクロッシェ帽子を深く被り、早足で歩いた。
通りでは、ショールを巻いた令嬢や、コートを羽織った紳士たちが、凍てつく風の中を急ぎ足で行き交っていた。
呉服店がデパートメントストアとして新たな装いを見せ、街にはアスファルト舗装が始まったばかり。馬車の蹄鉄が鳴らす乾いた音に混じり、時折、自動車が排気ガスの臭いを残して走り去っていく。
華やぐ帝都の賑わいは、詩乃にとっては遠い世界の出来事のようだった。
手に提げた買い物籠の取っ手が、かじかんだ指に食い込む。詩乃は喧騒を通り過ぎ、山の手へと続く坂道を上っていった。
やがて辿り着いたのは、市街の喧騒とは外れた場所に居を構える、蛇神家の広大な屋敷である。
明治の中頃に建て増されたという煉瓦造りの洋館部分が、冬の枯れ木の間から、まるで巨大な墓標のように突き出している。
門をくぐった先にある広大な庭園には、樹齢を重ねた松などの木々が鬱蒼と茂り、冬の昼下がりだというのに陽光を遮っていた。
表通りの洋風の空気が嘘のように、この屋敷は和の雰囲気を重んじており、古くから続く呪縛がそのまま澱んでいるかのようだった。
蛇神家は、帝都でも有名な、蛇の神を祀る裕福な華族の家である。
大日本帝国において、古くから神を祀る家系は数多くあるが、蛇神家はその中でも突出した強い力を持つ、権力のある家柄だ。彼らは蛇の神を祀り、神の子と子をなし、家系内に神の血を取り入れることでその力を増してきた。
神との混血である蛇神家の一族は、神力が使える。それは異端として迫害されている異能とは違い、神聖な力として扱われている。
詩乃は凍えた手で重い板戸を引き、薄暗い土間へと足を踏み入れた。
買い物籠を台所へ置くと、息を整える間もなく、主屋から繋がる離れへと向かう。毎日、眠った状態の絵美里の体の手入れをするように言われているからだ。
その薄暗い渡り廊下を進む途中で、不意に艶めかしい吐息が聞こえた。
「あぁ、旦那様、いけませんわ、こんなところで……」
声のする方へ目を向ければ、柱の陰で、巳貴が女中を組み敷いていた。
相手は、屋敷でも美人と評判の千姫だ。はだけた着物の隙間から白い肌が露わになっており、いかにも情事の最中であると取れる。
巳貴には、何人もの妾がいる。
嫁ぐ前から、蛇神家の次期当主は大変な色好みであると有名だった。その美貌を武器にし、様々な女性と遊んできたとの噂だ。それは結婚後も同じである。
詩乃の視線に気付いたのは、巳貴ではなく千姫の方だった。彼女は巳貴の肩越しに詩乃の存在を捉えると、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ああ、良い、良いですわ」
そして、こちらに聞こえるようにするためか、わざとらしく大きな嬌声を上げた。噂によると、彼女は巳貴に本気であるようで、いずれは詩乃と離縁させ、蛇神家当主の正妻となることを狙っているらしい。
詩乃は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、即座に視線を逸らした。
胸を突くのは嫉妬ではなく、全てに責められているような感覚だった。夫に何人の愛妾がいようと、詩乃に責める権利はない。自分は、巳貴の大切な存在を奪ったのだから。
詩乃は早歩きでその場を立ち去り、さらに奥に位置する離れへと向かった。
そこには、巳貴の姉、蛇神家の長女である絵巳里が横たわっている。
三年もの間、眠りの中に閉じ込められたままの彼女は、毒々しいほどに美しかった。その体からは無数の花が芽吹き、咲いていた。花は、肉体を侵食する残酷な寄生植物のようでありながら、美しくも見える。彼女の長くまっすぐな黒髪が今なお艶やかなのは、詩乃が日々手入れをしているからだ。
詩乃は濡れた布で丁寧に絵美里の体を拭き、絵巳里の関節の拘縮がないよう、足や腕を動かした。
眠り続けるその貌を見つめるたび、底なしの罪悪感が詩乃の心を浸食する。
絵巳里は、詩乃より四つ年上の、学校が同じ先輩だった。気高く美しく、憧れの人であった。神を祀る名門の生まれであるにも拘らず偉ぶらず、面倒見がよく、詩乃のこともよく気にかけてくれた。
しかし、とある日――絵巳里に誘われ、この屋敷で睦まじく語らっていた最中だった。
学校の検査では異常のなかった詩乃の異能が、突如として発現し、牙を剥いた。詩乃の指先から溢れた不可解な力が絵巳里を包み込み、彼女の全身から猛烈な勢いで花々を咲かせた。
それ以来、絵巳里は一度も目を開けていない。微かな呼吸だけが、彼女がこの世に繋ぎ止められている唯一の証だった。
(絵巳里様……私が異能など持たずに生まれていれば、こんなことには……)
詩乃は堪えきれず瞼を閉じた。
実のところ詩乃は、自分の異能がどういったものなのかよく分かっていない。
異能を使ったのは、三年前発現した際の一度のみで、それ以降は発動していないからだ。
異能は恐ろしい力である。人を害する忌むべき異能。自分の中に潜むその異常さが恐ろしくてたまらない。
こんな力、なければよかったのに。
どれほど血を吐く思いでそう願っても、絵巳里は目覚めない。
夜遅く、一日の仕事を終え、ようやく自室に戻った詩乃は、棚の中に大切にしまってある手紙を取り出した。
夜遅くまで仕事をしている巳貴と一緒に眠ることはほとんどない。詩乃にとって、ようやく安堵できる時間だった。
絶望しかない蛇神家での生活の中で、詩乃には唯一の楽しみがある。
それは、少し年上の幼なじみである、花人との手紙のやり取りを読み返すことであった。
何度も読み返され、角が擦り切れた何枚もの便箋。そこに綴られた端正な文字だけが、詩乃の癒やしである。
ヴァイオリンと作曲の技術に長けていた花人は、十年前、詩乃がまだ十歳であった頃に、さらなる高みを目指して、海を渡った先にある、遠い、遠い異国へと向かった。
その後も手紙だけは続いていた。国境を越えた手紙のやり取りには時間がかかり、何ヶ月かに一度の頻度であったが、詩乃はその手紙をとても楽しみにしていた。
――『お元気ですか。帝国を離れて二月、船での旅は長かったですが、ようやく現地に辿り着きました。こちらの町並みは日本とはまた違った雰囲気があります。いずれしーちゃんにも見せてあげたいです』
――『近頃は、朝から晩までヴァイオリンを弾く毎日です。作曲についても、指導教官から良い評価を受けました。誰か、良い人がいるだろうと言われました。自分でも分かっているのです。曲を作る時、頭に浮かぶのは、しーちゃんの美しくて、壊れそうなほど繊細な歌声だけだということを』
他愛もないやり取りを、最初にもらった手紙から最後の手紙まで捲り続ける。最後に見た三年前の手紙には、こう書かれていた。
――『しーちゃん。何故、最近は手紙をくれないのですか。帝都で何かあったのでしょうか』
花人とは、結婚を機に手紙のやり取りをやめた。詩乃の方から、返事を返さなくなった。
何故なら花人は、詩乃の初恋の相手だからである。
実家を出て嫁ぐのであれば、花人への淡い恋心ごと捨てていこうと思った。いつまでも他の男への初恋を大切にするのは、夫に対して不誠実である。
だから、今は全く関わりがないし、花人の方ももう、詩乃のことなど忘れ、異国の地で音楽の才能を開花させていることだろう。詩乃と共にいた頃の花人はまだ若かったが、あれから十年、もう立派な大人なのだから、現地で家族なども作っているかもしれない。
向こうでは戦争が起こっているという。無事であるといいが……などと心配に思いながら、詩乃は、まだこんなにも花人への思いを募らせている自分に、小さく溜め息を吐いた。
せめて、思い出に浸ることだけは許してほしい。
詩乃は祈るように手紙を胸に抱き寄せ、冷たい布団の中で、一人で眠りについた。
翌朝、東の空が白み始める前のこと。
詩乃は、自室の姿見の前で身支度を整えた。今日は、紋綸子に黒と煉瓦色の変わり格子と、大きな輪っかが染められた着物に、薔薇柄の昼夜帯を締めている。
まだ外が暗く、誰も起きていない不気味な屋敷の廊下を、誰も起こさぬようにと物音を立てずに歩く。
詩乃は台所に辿り着くと、白いエプロンを身に付けて、朝餉の準備に取り掛かる。凍えるような水で米を研ぎ、竈に火を入れる。
蛇神家の次期当主としての重責を担う巳貴は、連日深夜まで職務に追われ、早朝に屋敷へ戻る生活を続けている。当主の座を継げば下に仕事を任せられるため少しは余裕ができるらしいが、今は踏ん張りどころなのだという。
帝国は、欧州で勃発した大戦の余波を受け、軍需物資の調達と植民地統治の強化に血眼になっている。
蛇神家は古来より、天候を操ったり、武力を行使したり、時には敵対者の精神をも蝕む神力を国家に提供してきた。軍部は、最新鋭の重火器と同じ熱量で、蛇神家がもたらす超常の力を求めている。
今は、国家の命運がかかった、重要な時期だ。
巳貴はその重圧を、家庭内での暴力と詩乃への支配に変えて発散しているようだった。
(今度はちゃんと、怒られないようにしないと……)
昨日の朝餉は、何が駄目だったのだろうか。味見はきちんとしていたが、詩乃にとってはちょうどよい味付けだった。ということは、巳貴の好みが自分とは違うということで、味をより濃いめにすべきなのか、薄めにすべきなのか、それすら分からない。
また怒られることを予期して嫌な気持ちになりながらも、朝餉を作っていく。
汁物が煮えるのを待つ間、詩乃はふと、暗い窓の外を眺めた。澄んだ夜空に、まだいくつもの星が瞬いている。
幼い頃、花人が詩乃に、星の名前を教えてくれた。
花人は非常に聡明な人で、高等な教育を受け、和漢の書物から西洋の科学に至るまで、あらゆる知識を持ち合わせていた。詩乃にとって、彼はこの世のすべてを知る、全知全能の神のような存在だった。
そのうえ、海外留学するための往復の旅費とある程度のお金を国からもらったと言っていたので、良いところのお坊ちゃんなのだろうということは何となく察していた。
花人との出会いは、六歳の、春の終わり。
母親が死に、詩乃は独り、枯れかけた枝垂れ桜の下で泣いていた。その時、ふわりと、季節外れの桜の香りが漂った。
見上げれば、そこに美しい少年が立っていた。
『どうして泣いているんだい。君が泣くと、この桜が悲しがって枯れてしまうよ』
彼は優しく微笑むと、詩乃の涙を拭い、枯れ枝にそっと触れた。
その瞬間、奇跡が起きた。散りかけていたはずの桜が、一気に満開の花を咲かせたのだ。その時はよく分からなかったが、今思えば、花人も異能の持ち主だったのだろう。
『俺は花人。いつもここで歌っているのは、君かな?』
彼は自らを花人と名乗り、詩乃の歌声を称賛した。
幼い詩乃の楽しみは、一人で歌を歌うことだった。屋敷の中で歌っていると怒られてしまうので、庭で歌っていたのだ。それをまさか、他人に聞かれているとは思わなかった。
出会ってからというもの、花人は何かの外出のついでなのか、頻繁に詩乃の家に立ち寄り、詩乃と遊んでくれた。
どこからともなく現れる、不思議な妖精のような人だった。護衛のような人々が彼の周りに常に付き添っていたことも、彼が良いところの息子であることを察する理由の一つだった。
『俺もね、最近、兄が二人とも死んだんだ。俺達は、おんなじだね。でも大丈夫。しーちゃんには俺がいるよ。俺にも、しーちゃんがいてほしい』
詩乃は親を失った心の傷を、同じように親を失った花人で埋め、程なくして、花人に恋に落ちた。
この頃は、男女七歳にして席を同じゅうせずという考え方が一般的で、血縁以外の異性とは気軽に接触してはならないような風潮があった。だから、詩乃が関わる異性は、ほとんど花人だけだった。初めて仲良くなった男の子がこのような美しい少年であるのだから、他を見てみたいという気持ちすら湧かなかった。この人と生涯を共にするのだ、と詩乃は即座に決めてしまった。
『私、大きくなったら花人おにいちゃんと結婚する!』
『ええ? 結婚? しーちゃんにはまだ早いと思うけどなあ』
『だから、大きくなったらだよ』
『結婚なんて言葉、どこで知ったの』
『そんなの誰でも知ってるもん。子供扱いしないで』
幼い詩乃が結婚を迫れば、花人はいつも、困ったように笑っていた。
今ならその意味が分かる。結婚は、当人同士ではなく、家が決めることだ。詩乃がどれだけ一方的に願ったところで叶わない。花人が相当裕福な家の子であるということは、あの時既に家が決めた婚約者だっていたかもしれない。そんなことも想像できなかった幼い詩乃は、何度もしつこく花人に結婚を迫っていた。今振り返ると、身の程知らずだったと少し恥ずかしい。
そのように、遠い異国の空に思いを馳せていた、その時だった。
「――詩乃」
背後から忍び寄った気配に気付く間もなく、強靭な腕が詩乃の腰を抱きすくめた。後ろから抱きついてきたのは、いつの間にか帰ってきていたらしい巳貴である。
現実へと引き戻された詩乃の背中に、巳貴の刺すような体温が押し付けられた。彼は愛おしげに、それでいて逃がさぬような力強さで詩乃を抱き寄せると、項から耳朶にかけて、熱い唇を這わせた。
「疲れた」
巳貴が、独白のようにそう言う。
巳貴の瞳には、どろりとした疲労の影が差していた。仕事で神経を削り、深夜の帰宅を繰り返す彼は、時にこうして幼児のような甘えを詩乃にぶつけることがある。
「旦那様、お帰りなさいませ。……火がついておりますので、危ないです」
竈で燃える火が、詩乃たちの影を台所の壁に大きく、歪に映し出している。
「消せばいい」
「ですが、朝餉の支度が……」
「そんなものは後でいい。……部屋に行こう、詩乃」
巳貴の指先が、詩乃の結ったばかりの髪を乱し、強引に自らの方へと振り向かせた。その瞳は拒絶を許さない。動けずにいれば、口付けを落とされる。
(……ああ、今日は本当にお疲れの日だわ)
巳貴にとって、詩乃は憎むべき罪人であると同時に、唯一、自身の脆弱さを晒せる所有物でもあるようだった。それはおそらく、巳貴が詩乃を極端に下に見ているからできることなのであろう。本当に追い詰められた時、彼は詩乃に甘えるように擦り寄ってくる。
詩乃は、竈の火が消えるのを見届けると、巳貴の腕に身を委ね、寄り添うようにして主屋の奥へと歩き出す。
冷え切った廊下を進み、彼の寝室へと向かう道すがら、巳貴の重い体重が肩にかかる。
詩乃は、巳貴の全てを受け入れることこそが自分にできる償いなのだと自分に言い聞かせ、暗がりにある布団の上へと、彼と共に沈んでいった。
詩乃は、巳貴が部屋を出た後、いつもの如く働いた。
大きな屋敷における家事は、日の出から日没後まで続く重労働である。巳貴の気まぐれで仕事の開始が遅くなってしまったので、より手早く済ませなければならない。
離れにいる絵巳里の世話をした後は、果てしなく続く廊下を雑巾で磨いたり、各部屋の掃除をしたり、花の手入れをしたり、井戸からの水汲み、薪割り、重い膳の運搬なども行う。
何十人もいる使用人たちは、詩乃がやってくれる決まりだからと、雇われているにも拘らずあまり働かない。その分、詩乃の方に仕事が押し寄せている。彼女らは、次期当主のご命令であるというのを免罪符に、詩乃のことはどう扱ってもよいものと思っているのだろう。
詩乃の体は、夕刻を迎える頃には疲労と痛みで鉛のように重くなっていた。
辺りが暗くなり始める頃、よろよろと歩いているうちに、怒声が聞こえて立ち止まる。
廊下の向こうで、巳貴が新入りの女中を冷たい目で見下ろしている。何やら怒っていることは明らかだった。
新入りの女中は怯えて震え、今にも涙が溢れ出しそうである。その様子を見た詩乃は少し心配になり、思わずそこに割って入った。
「どうなさったのですか」
恐る恐る声をかけると、巳貴は手に持っていたものを忌々しげに突き出してきた。それは巳貴が夜の会合で召すはずだった、上質な羽織だった。
「見ろ。袖の辺りが色褪せている。大方、日当たりのいい場所に長時間放置でもしたのだろう。これがどれほどの価値のあるものか、稚児でも分かるはずだが? どう責任を取るつもりなんだ」
巳貴の言葉に、新入りの女中は真っ青になり、震えながら床に額を擦りつけている。
詩乃がその不手際を庇おうと口を開きかけた、その時だった。廊下の奥から、別の女中――巳貴の妾の一人である、千姫が姿を現した。
「お待ちください、旦那様」
千姫は、芝居がかった悲痛な面持ちで歩み寄り、巳貴の傍らにそっと寄り添う。
「どうかこの子を責めないでください。わたし、見ましたわ。奥様が風を通すのだとおっしゃって、この子が止めるのも聞かず、表に出しっぱなしになさったのです。旦那様の大切なお召し物ですのにと、あまりにおいたわしくて、わたしも止めたのですけれど……」
千姫は、潤んだ瞳で巳貴を見上げ、今にも零れ落ちそうな涙をその目に溜めている。
今日は、朝から絵巳里の世話や屋敷中の清掃、庭の手入れをしていただけで、洗濯の方は担当していない。身に覚えのないことだった。
「そのようなこと、私はしておりません」
詩乃は必死に否定した。けれど、千姫は待ってましたと言わんばかりに、さめざめと泣き崩れた。
「奥様は、わたしが嘘をついているとおっしゃるのですか……? あんまりです。わたしはただ、真実を旦那様に伝えようと……それなのに、酷い……!」
「千姫、もういい」
巳貴の腕が、詩乃の前で堂々と千姫の肩を抱き寄せた。巳貴は、泣きじゃくる愛妾を慈しむようにあやすと、冷酷な眼差しを詩乃に向けた。
「自分の過ちも認められないのか。罪人は矜持すら持ち合わせていないようだな」
「違います、私は……っ」
詩乃が弁明しようとした、刹那。
巳貴が詩乃の頬を打った。叩かれた衝撃で、詩乃の体はよろけ、板張りの床へと叩きつけられた。
「……っ!」
床に激突した際、右の足首に凄まじい激痛が走った。
詩乃は短い悲鳴を上げ、痛みに呻いた。足首が不自然な角度に曲がり、瞬く間に熱を帯びていくのが分かる。
「俺に口答えするな。自分の立場を弁えろ。アザモノの分際で」
巳貴は、倒れ伏して動けない詩乃を塵芥でも見るかのような目で見下ろすと、はぁ、と深い溜め息をついた。その手は、再び千姫の肩を優しく抱き寄せている。
そこで詩乃は、言い返す気力を失ってしまった。千姫は巳貴のお気に入りである。詩乃が何を言ったところで、巳貴は詩乃よりも千姫の言うことを信じるだろう。
唇を噛み締め、視線を床に落とす。
千姫は巳貴の胸に顔を埋めながら、詩乃にだけ見えるように、一瞬だけ勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
巳貴は、千姫から別の羽織を受け取って去っていく。詩乃が庇おうとした女中も、一瞬躊躇うように視線を泳がせたが、千姫に付いていなくなってしまった。
◇
夜の帳が下り、詩乃は自室の布団に身を潜めるようにして横たわっていた。
あの後、腫れ上がった足首の激痛で仕事がうまくできず、見かねた老齢の使用人から、ここは引き受けるから下がるようにと耳打ちされたのだ。詩乃は、巳貴が会合で不在なのをこれ幸いと、這うようにして自室へ戻った。
ぼうっと天井を眺めていると、不意に襖が引き開けられた。
そこに立っていたのは、今帰ってきたばかりといった装いをした巳貴だった。
「怪我をしているらしいな」
薄暗い室内に低い声が響く。
どこかから聞きつけたのだろう。詩乃は跳ね起きようとしたが、足首に鋭い痛みが走ったため顔を顰め、布団の上で精一杯背を正した。
「は、はい……お休みしてしまい、申し訳ございません」
激しい叱責を予期し、肩を強張らせて俯いた。
しかし、巳貴は怒鳴る代わりに、詩乃の足を確認し、言葉を重ねる。
「あの時捻ったのか」
「……はい」
「何故あの場で言わない?」
「…………」
あの状況で、誰が声を上げられただろうか。詩乃が喉まで出かかった言葉を飲み込み、沈黙を守ると、頭上からまた、深い溜め息が降ってきた。
「お前は、都合が悪くなるとすぐ黙る」
「……申し訳ございません」
「謝るか黙るか、それしかできないのか。能のない」
巳貴は詩乃の腫れた足首をもう一度見た後、視線を戻して言い放った。
「しばらくは、姉上の世話しかしなくていい。治るまで休め」
あまりに唐突な気遣いだった。
この男は、無慈悲に痛めつけた後、不意にこうした優しさをちらつかせることがある。詩乃は、その予測不能な振る舞いに困惑して、再び言葉を失ってしまった。
「何を黙っている」
「あ、いえ……」
「……ああ」
巳貴は合点がいったように、その口角をゆっくりと持ち上げる。
「俺が他の女の味方をしたから拗ねてるのか?」
巳貴は、詩乃の困惑を自分に都合の良い解釈へとすり替え、満足げに笑う。
「可愛いやつだな」
巳貴の指先が、詩乃の頬を愛おしげになぞる。詩乃が自分への愛情ゆえに傷付いていると思い込み、優越感に浸っているようだった。
(いや、そんなことはないのだけれど……)
詩乃は心の中でそう思ったが、口にするわけにもいかないので、引きつった愛想笑いを返すばかりだった。
「今度、銀座にでも連れて行ってやる」
詩乃の布団の端に腰掛けた巳貴が、詩乃の機嫌を取るかのように、至極満足げな顔でそう告げた。
「お前は行ったことがないだろう。まずは洋食屋で食事でもして、呉服店で反物を見るか、舶来品を見てもいいな。文具や書籍も、欲しいものがあれば何でも買ってやる」
巳貴が得意げに当日の計画を話し始めるので、詩乃は口を挟むこともできなかった。
怪我をしているので、できればあまり外に出かけたくない。歩くだけで痛いのだから、できることなら屋敷にいたい。
しかし、ここで行きたくないなどと口にすれば、巳貴はたちまち機嫌を損ね、この気紛れな優しさも瞬時に暴力へと裏返るだろう。分かっているので、断らなかった。
「……ありがとうございます。楽しみにしております」
力なく微笑む。詩乃は、自分の意思を殺すことでしか、この嵐のような男の隣で生き延びる術を持たなかった。
◇
数日後、巳貴の休日が訪れた。休日と言っても、忙しい彼に本来休日と呼べる日はなく、軍部を脅して無理やり予定を空けた日のようだった。
芯まで凍てつくような北風が近代的な街並みの中を吹き抜けていく。薄く雪の積もった路面に、人力車の轍が線を描いている。
勸工場があるとは聞いていたが、本当に様々なものが売られているようで、一間半ほどの通路の両側に、玩具や絵草紙などを売る、様々な雑貨店が並んでいた。
詩乃は今日、蝶の刺繍が入った楊柳の半衿を多めに見せるように着物を合わせ、巳貴があつらえた厚手の毛織のコートも上に着た。しかし、足元から這い上がってくる冷気までは防げず、少し寒かった。
巳貴の数歩後ろを歩く。一歩踏み出すたび、包帯で固めた足首に鈍い痛みが走る。
あの後、巳貴が呼んだ医者に診てもらい、大したことはない、少し捻っただけであると伝えられたが、歩けばまだ痛みが残っていた。
巳貴は、詩乃の歩みが遅いことを内気な妻の慎ましさと取り違えているのか、上機嫌で煉瓦造りの建物が並ぶ街並みを案内して歩いた。
昼餉のために訪れたのは、高級だと有名な、西洋料理店の銀座支店だった。
白く清潔なテーブルクロスの引かれた窓際の席に座り、食事を待つ。銀の器に盛られたポタージュというスウプや、白身魚のムニエル、カツレツなどが順番に運ばれてくる。巳貴は何度も食べたことがあるのか、ナイフとフォークを器用に使いこなしていた。
「どうだ。銀座には最近できた店なんだ。お前はこのようなもの、食べたことがないだろう」
「……そうですね」
「うまいか?」
「……はい」
詩乃は、西洋料理に慣れていない。鼻をつく濃厚なバターの香りと、詩乃の額を見てひそひそと何やら噂している周囲の富裕層らしき格好の人々からの視線に、眩暈を覚えた。アザモノと並べば嫌な意味で目立つことは理解しているだろうに、巳貴はそのようなことなど気にしていない様子で食事を続けている。
口に運ぶ肉の味など分からない。ただ、向かいに座る夫の機嫌を損ねぬよう、必死に咀嚼を繰り返すだけだった。
物言わぬ詩乃の代わりに、巳貴が仕事の愚痴を喋り始める。
「御三家の連中は、事の重大さを分かっていないのだ。国内は大戦の影響で未曾有の好景気に沸いているが、いずれは反動が来る。国家の地盤を固めるべき今、あいつらの悠長な態度は看過できん」
「……御三家、でございますか?」
ぼうっと巳貴の話を聞いていた詩乃は、聞き慣れない単語に首を傾げた。
巳貴は鼻で笑い、手にしたフォークを皿の縁に小さく当てた。カチン、という硬質な音が、詩乃の胸を小さく突く。
「お前はそんなことも知らないのか」
巳貴はわざとらしく、深い溜め息を吐き出した。
「いいか。神々を祀り、その神力を受け取っている家系は全国にあるが、この帝都において主立って力が強く、国政に関与しているのは御三家……我が蛇神家、そして花神家、山神家だ。それぞれ神の加護を受けていて、人ならざる力が使える」
花神家、山神家。帝都で生きていれば嫌でも名前を聞くので、名家であるのは知っている。
しかし、それらが御三家として束ねられ、蛇神家と同じく異能の力で国を支えているという事実は、詩乃の知る由もない世界の話だった。
「うちのようなお家が、他にもあるのですね……」
「そうだ。しかし、その一角である花の神は、三十年以上前から行方不明。あの家は、居もしない神を祀り続けている」
巳貴はグラスの脚を指先で弄び、口角を吊り上げた。
「誘拐されただの、花神家の陰謀だのと、世間では色々と噂されているが、理由などどうでもいい。この大戦下という重大な局面で、国を守る神力を発揮できぬ役立たずなら、早々に軍の守護家系から除名すべきだ」
巳貴の口調からは、花神家が嫌いであることが窺えた。
自分は昼夜問わず働いているのに、同じ御三家として扱われている家の祀る神が不在ということに納得がいっていないのだろう。
「……そうだったのですね。申し訳ございません。世間知らずで……」
「本当に教養が欠落しているな。まあ、女にそんなものは必要ないが」
しおらしく己の無知を謝罪する詩乃に、ふ、と巳貴が愛おしそうに笑う。
「お前はただ俺の隣で美しく着飾っていればいい。必要なことは、俺が全て教えてやる」
愉しげに言う巳貴に、詩乃は「はぁ……」と生返事をした。



