定演前最後のリハーサルを終え、私は控室の廊下の壁にもたれかかりながら、無機質な目の前の壁を見つめていた。
歌うことだけを考えていて、勉強がおざなりになった中学時代。
朋美と一緒にニコイチだと呼ばれていた高校一年生の頃。
大事な大会前に、自己中心的な考えで突っ走って、周りを巻き込んでしまったうえ、事故で居場所を失ったこと。
大好きで、大切だと思い込んでいたはずの存在に、いじめられるようになったこと。
「もう全部どうでもいい、どうにでもなればいい」と投げ出し、すべてを諦めていたこと。
そして――タツさんのこと。
守りたかったのに、助けたかったのに。
私は結局、タツさんを助けられず、最後の願いも自分の都合を優先させたこと。
" 自分を偽らずに素直に生きて、愛されたい "
最後に、そう願ったこと。
今、その最後の願いを叶えている途中だということ。
この選択が正しいかどうかなんて、今はわからない。
ただ一つ、言い切れると思うこと。それは、私が選んだその選択の正しさがどうであれ、あの場所で私が――私たちが生きていたことは何も変わらないということ。
私が、私の人生を生き続けるためには、そうであってほしいと思う。
タツさんに出会っていなければこんなことを思うことは、決してなかった。
進学したら、私は、二度と人前では歌わない生活になる。そう、決めている。
実習で忙しいと聞いている資格を取得する以上、サークルや同好会には参加している余裕がないだろうから。
「……歌い続けたかったな」
特定の誰に宛てるでもなく。でも、もしかしたら、将来の自分に向けて呟いたのかもしれない。
天井を見上げながら自然と発した言葉は、私がいくら手を伸ばそうとしても、決して届きそうにない高いところへ、消えていった。
本番十分前のブザーが廊下に鳴り響く。
私は、控室から次々に部員が出てきて、その後ろ姿をしみじみと眺めていた。
「夕夏、何してるの?」
朋美がローファーのつまさきを床に当て、トントンと履き心地を整えていた。
胸元には、制服用のリボンではなく、合唱部がステージ上の衣装として身に付けることになっている、紺色と金色のボーダー柄リボン。
一番上を目指すための、願掛け。
顧問の先生がそう言って、私たちが高校一年生の秋頃に変えられてしまった、ステージ用の衣装リボン。
芝学は、それまでの紺色を基調とした深緑色のボーダーリボンから願掛けに走ったと、陰で馬鹿にされた時期があった。
本当の意味での " 一番 " は、なんだったんだろう。
まだ、私はわからない。
たとえば、金賞は目に見えてわかりやすい。
けれど、どうも、それとは違うような。
「考えごと。いろいろあったなあ、って」
「……寂しいんでしょ」
朋美は私の左側にまっすぐ立って、腕を組んでいつものように少し偉そうにしている。
ああ、いつもの朋美だ。
プライドが高くて、負けず嫌いなところ。
そして、リーダーシップがあるから、自然とみんなが朋美についていく。
そして、実は、私のことをこれでもかと理解してくれている、大切な――幼なじみだ。
私の気持ちを言い当てることが得意なのは、朋美だからだろう。
私ではなく、朋美が部長に選ばれたことも、今なら納得できる。
あの事故と、その後のいじめさえなければ、きっとみんなで歌えていた。
朋美にはすごく負担をかけたと思う。苦労もさせた。
大会に出られなくて、ただでさえ、どこにぶつけたらいいのかわからない気持ちにとっては、私が復帰して元気な姿を見せたことは、地雷でしかなかった。
私がもう少し、みんなのこと、朋美や那月、陸たちの悔しさや負担を想像できていれば、十月の引退までは合唱部を辞めずにいられた。そんな気がして、少しだけ、涙が込み上げてくる。
「寂しいよ」
朋美と一緒に歌えるのは、今日が最後。
今日で、最後。心に穴があきそうで、私は咄嗟に、朋美を抱きしめた。
朋美は、私の体を離すことなく、むしろ、強く抱きしめ返してきた。
「うちも寂しい……とか言ってみちゃった!」
えへへと、抱きしめられたままで、バシンバシン背中を叩かれる。
あの事故で負った怪我はすでに治ったけれど、古傷が痛むような気がして、私は朋美から体を離して、軽く朋美を睨んだ。
「冗談だってば」
ごめんごめん、と朋美が今度は肩をすりすりとさすってきた。
ああ、そういえば、と朋美が呟く。
「夕夏は考えてきた? 先生に頼まれた、あれ」
顧問の先生に「歌い終わった後、アンコールの最後で部長とエース組代表の2人に、集大成として最後の言葉を話してもらうから」と頼まれた、あれ。
「まだ、最後だけ悩んでる」
「同じだね」
「うん、同じ」
朋美も、私と同じように壁に背中を預けた。
「いっそのこと、本番一発勝負にしちゃう?」
朋美が少し歯をのぞかせながら、いたずらっぽくにやりと笑う。
「私たちの人生は、いつだって本番一発勝負」
私は朋美を励ましたくなって、朋美の左手と私の右手で拳を突きあい、そう宣言した。
本番五分前のブザーが、廊下中に響いてきた。
多くの卒業生をはじめ、サポートに徹する部員の保護者たちが、忙しなく動き回っては、小道具や楽器の準備をしている。
なかには、廊下を駆け回っている案内役のスタッフもいるようで、「これだけたくさんの人に、芝学の合唱部や吹奏楽部、箏曲部は支えられて活動しているんだな」と、心の奥からありがたい気持ちが溢れてきそうになる。
さて、と制服を両手で少し下に伸ばして、皺を直していた。そして、私を置いて、先にステージ裏へ行ってしまった。
私も朋美を追いかけるように、早足気味に歩き出した。
歌うことだけを考えていて、勉強がおざなりになった中学時代。
朋美と一緒にニコイチだと呼ばれていた高校一年生の頃。
大事な大会前に、自己中心的な考えで突っ走って、周りを巻き込んでしまったうえ、事故で居場所を失ったこと。
大好きで、大切だと思い込んでいたはずの存在に、いじめられるようになったこと。
「もう全部どうでもいい、どうにでもなればいい」と投げ出し、すべてを諦めていたこと。
そして――タツさんのこと。
守りたかったのに、助けたかったのに。
私は結局、タツさんを助けられず、最後の願いも自分の都合を優先させたこと。
" 自分を偽らずに素直に生きて、愛されたい "
最後に、そう願ったこと。
今、その最後の願いを叶えている途中だということ。
この選択が正しいかどうかなんて、今はわからない。
ただ一つ、言い切れると思うこと。それは、私が選んだその選択の正しさがどうであれ、あの場所で私が――私たちが生きていたことは何も変わらないということ。
私が、私の人生を生き続けるためには、そうであってほしいと思う。
タツさんに出会っていなければこんなことを思うことは、決してなかった。
進学したら、私は、二度と人前では歌わない生活になる。そう、決めている。
実習で忙しいと聞いている資格を取得する以上、サークルや同好会には参加している余裕がないだろうから。
「……歌い続けたかったな」
特定の誰に宛てるでもなく。でも、もしかしたら、将来の自分に向けて呟いたのかもしれない。
天井を見上げながら自然と発した言葉は、私がいくら手を伸ばそうとしても、決して届きそうにない高いところへ、消えていった。
本番十分前のブザーが廊下に鳴り響く。
私は、控室から次々に部員が出てきて、その後ろ姿をしみじみと眺めていた。
「夕夏、何してるの?」
朋美がローファーのつまさきを床に当て、トントンと履き心地を整えていた。
胸元には、制服用のリボンではなく、合唱部がステージ上の衣装として身に付けることになっている、紺色と金色のボーダー柄リボン。
一番上を目指すための、願掛け。
顧問の先生がそう言って、私たちが高校一年生の秋頃に変えられてしまった、ステージ用の衣装リボン。
芝学は、それまでの紺色を基調とした深緑色のボーダーリボンから願掛けに走ったと、陰で馬鹿にされた時期があった。
本当の意味での " 一番 " は、なんだったんだろう。
まだ、私はわからない。
たとえば、金賞は目に見えてわかりやすい。
けれど、どうも、それとは違うような。
「考えごと。いろいろあったなあ、って」
「……寂しいんでしょ」
朋美は私の左側にまっすぐ立って、腕を組んでいつものように少し偉そうにしている。
ああ、いつもの朋美だ。
プライドが高くて、負けず嫌いなところ。
そして、リーダーシップがあるから、自然とみんなが朋美についていく。
そして、実は、私のことをこれでもかと理解してくれている、大切な――幼なじみだ。
私の気持ちを言い当てることが得意なのは、朋美だからだろう。
私ではなく、朋美が部長に選ばれたことも、今なら納得できる。
あの事故と、その後のいじめさえなければ、きっとみんなで歌えていた。
朋美にはすごく負担をかけたと思う。苦労もさせた。
大会に出られなくて、ただでさえ、どこにぶつけたらいいのかわからない気持ちにとっては、私が復帰して元気な姿を見せたことは、地雷でしかなかった。
私がもう少し、みんなのこと、朋美や那月、陸たちの悔しさや負担を想像できていれば、十月の引退までは合唱部を辞めずにいられた。そんな気がして、少しだけ、涙が込み上げてくる。
「寂しいよ」
朋美と一緒に歌えるのは、今日が最後。
今日で、最後。心に穴があきそうで、私は咄嗟に、朋美を抱きしめた。
朋美は、私の体を離すことなく、むしろ、強く抱きしめ返してきた。
「うちも寂しい……とか言ってみちゃった!」
えへへと、抱きしめられたままで、バシンバシン背中を叩かれる。
あの事故で負った怪我はすでに治ったけれど、古傷が痛むような気がして、私は朋美から体を離して、軽く朋美を睨んだ。
「冗談だってば」
ごめんごめん、と朋美が今度は肩をすりすりとさすってきた。
ああ、そういえば、と朋美が呟く。
「夕夏は考えてきた? 先生に頼まれた、あれ」
顧問の先生に「歌い終わった後、アンコールの最後で部長とエース組代表の2人に、集大成として最後の言葉を話してもらうから」と頼まれた、あれ。
「まだ、最後だけ悩んでる」
「同じだね」
「うん、同じ」
朋美も、私と同じように壁に背中を預けた。
「いっそのこと、本番一発勝負にしちゃう?」
朋美が少し歯をのぞかせながら、いたずらっぽくにやりと笑う。
「私たちの人生は、いつだって本番一発勝負」
私は朋美を励ましたくなって、朋美の左手と私の右手で拳を突きあい、そう宣言した。
本番五分前のブザーが、廊下中に響いてきた。
多くの卒業生をはじめ、サポートに徹する部員の保護者たちが、忙しなく動き回っては、小道具や楽器の準備をしている。
なかには、廊下を駆け回っている案内役のスタッフもいるようで、「これだけたくさんの人に、芝学の合唱部や吹奏楽部、箏曲部は支えられて活動しているんだな」と、心の奥からありがたい気持ちが溢れてきそうになる。
さて、と制服を両手で少し下に伸ばして、皺を直していた。そして、私を置いて、先にステージ裏へ行ってしまった。
私も朋美を追いかけるように、早足気味に歩き出した。

