体育館のスピーカーや、校舎の廊下のどこからか、チャイムが聞こえてきた。
私はふくらはぎにぐっと力を入れて立ち上がる。後頭部が少しぐらっと揺れた気がして、それが立ちくらみだと気づく前に、体育館の壁に片手をついた。
一瞬白くなりかけたはずの視界が、少しずつ開けて、体育館の周辺の景色が目に入ってくる。
湿った空気と熱波が同時に体を包んで、じめじめした汗が首を伝った。
まだこんなに暑いのに、九月はもう秋だと、遠い記憶のなかで誰かが言っていた。シルバーウィークが過ぎれば、気温が少しは下がってくれるんだろうか、なんて淡い期待でもしておかないと気が狂いそうになる。
タツさんは、今、どこにいるんだろう。
この暑さを知らない世界で、生きて……タツさんが望んだようにいてくれさえすれば。
無理に「生きていてほしい」なんて言えない。
言いたくなるけれど、もう充分苦しんで、耐えて、私の最後の願いを受け入れてくれたから。
最後。
もはや、この願いは、願いなのかさえ、わからない。
わかる必要なんてない、そんな気がする。
ただ、私は私の人生を、ただ、生きていくしかないから。
そのためには――――。
私は、生徒の集団を「ごめんなさい、前に行かせて」と謝りながら、両手でかきわけ、ある人――朋美を追いかける。
目の前に、何度も見てきて、顔もすぐに思い出せるほどの存在がいるのに、いくら手を伸ばしてもなかなか届かないもどかしさで、人の海に溺れてしまいそうになる。
今、朋美と話さなきゃ。
今、私の気持ちを、本音を、朋美の気持ち、本音を互いに知らなきゃ、一生、このままなんて、
絶対に嫌!
「朋美!」
小さい頃から繰り返し呼んできたその名前を、力いっぱい叫んだ。
朋美が私の声に反応して、でも、睨みながら振り返る。
いくら睨まれようが、嫌なことを言われようが、今はそんなの関係ない。
私は、人間の海から浮き上がるなり、やっとの思いで朋美の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
「ちょっと! あんた何!?」
朋美が目を見開き、両眉を上げて声を張り上げる。
朋美は私の手を振りほどこうとした。けれど、私も負けじと、朋美の腕をそのまま掴んで引っ張る。
「話したいことがあるの! お願いだから一緒に来て!」
周囲の視線が全身に刺さる。痛い、痛すぎる。
それでも、今ここで私が朋美の腕を離してしまったら、それが" 終わり "の合図=私たちの関係に、本当に終止符が打たれてしまう、そんな気がしてしまう。
どんどん速くなる鼓動を無視して、朋美の腕を引っ張ったまま、私たちの居場所――音楽室に駆けだした。
合唱部は朝練があったのか、部室のドアは鍵がかけられていないままだった。
人が行き交う廊下、階段を走ってきたから、私も朋美も、二人で同じように肩を上下させて、汗が滲んだ顔を見つめ合いながら息をきらしている。
「あんた、何様のつもりなの」
朋美が怒りを溶かした声で訊ねてくる。
「何様のつもりでもない、ただ……」
私は、衝動のおもむくままに、無計画に、朋美をここに連れてきたことを初めて自覚した。
「ただ、何よ」
「朋美と話がしたかった」
もうこのまま、自分の考えを、思いをそのまま伝えるしかない気がする。
「うちは話すことなんかない。だいたい、もうあと半年も過ぎれば、うちらは……無関係なんだから」
「だからだよ」
「は?」
半年後、私たちは、それぞれの進路にわかれて、それぞれの人生で生きていくことになる。だから、
「私は朋美とまた、普通に話せるようになりたい」
朋美は目を見開いて、口をぽかんと開けていた。
「私、ずっと寂しかった。事故の後、朋美と昔みたいに話せなくなって、一緒に歌えなくなって、ずっと寂しかった」
朋美が向けてくるまっすぐな瞳が、私の心を奥深くまで突き刺してくるように感じる。その眼差しに、首をぐっと掴まれるような感覚がして、少し息苦しくなった。
「いじめられて心がどんどんすり減っていっても、朋美が何か、私に言いたいけどうまく言えなくて隠しているような気がして、完全には『やめてほしい』と言い出せなかった。朋美の考えが変わることを、私はどこかで願っていたんだと思う」
「隠してなんか」
朋美の左目から、一粒の涙が頬を伝った。
「自分自身にすら隠している本音を自覚したら、そこで崩れてしまう、壊れてしまうかもしれなかった、違う?」
私は、朋美だけではなく、かつての自分に言い聞かせるように告げた。
人間は、どうしようもないくらい、脆くて、弱くて、壊れやすい生きものだから、独りになるのだけは避けようと、あらゆる手段を使って、人と繋がろうとする。そのことに、やっと気がついたから。
「ほんと、昔からあんたのそういうところが……大嫌い」
朋美がぷはっと吹き出し、あはは、と声を出して笑う。
「そういうところ、って」
私がうまく理解できないで混乱しかけていると、朋美がその場で座って「あんたも座りなよ。見下ろされたくない」と私も同じようにするよう、促してきた。
「一言でいうなら、うちより先に行って理解してるところ。勉強じゃなくて、もっとこう、生き方っていうか」
朋美は不器用に手をひらひらさせながら話す。話しながら、小さい頃みたいにいろんなことを話している感覚で、懐かしくなる。
「生き方……」
私は朋美に言われたその言葉を、頭の中で浮かばせた。
「うちは、あんたが……夕夏が羨ましかった。だから、あの事故の話を知ったとき、正直『ざまあみろ、調子乗ってるからだ』って思った。夕夏が復帰するって知ってその気持ちを隠しきれない気がして、退部させようと思った。それで、那月たちを使ってそうさせた」
朋美が泣きながら笑っている。それなのに、どうしても、哀しそうに見えてしまって、まだ「どうにかしたい」と思う。
私は、タツさんが読み上げていた内容と、私がずっと思い悩んで、最後に願ったことを思い出して、前のめりになって口を開けた。
「もう、やめない?」
「え?」
「私、自分だけの力で変われるほど、強くなれてないから、その……」
私は言い出す勇気が、あと一歩足りなくて俯きそうになる。
ぐっと踏みとどまって、顔を上げて朋美の瞳をまっすぐ見つめた。
「一緒に、生きてほしい」
自然とそう告げていた。
不思議と、朋美も同じことを考えているような気がして、私はもう、自分を偽ることはできないと思った。これが正しいかはわからないけれど、これ以外の言葉が今は浮かんでこないから。
「相変わらず、そういうところ」
朋美は口角を上げ、ニヤッと笑った。
「昔から、うちらは結局同じことを考えちゃうんだよね、悔しいけど認めるわ」
私は二回頷いた。
私たちは、二人で一緒にいる時間が、誰よりも一番長くて、あまりにも長すぎて。正反対の性格をした人間、血のつながりもないのに、まるで双子のように似ている部分もあって。気づいたら、私たちは同じことを考えている。
今になってみれば、進路がここまで同じだったのも、ただの偶然ではなくて、必然、そうなる運命だったんだろうとさえ思う。むしろ、そうであってほしい。
「でもさ、すぐには無理かもしんない」
朋美が立ちあがる。
「うちはきっと、これからも夕夏にイライラするだろうし、大嫌いな部分は大嫌いなまま。無理でしょ、嫌いなのに、好きになるなんて」
私は何も言い返せない。その通りだと思った。
「それでも、夕夏が『一緒に』って言うなら」
朋美が左手を私の目の前に差し出してきた。
「ほら、ホームルーム始まっちゃうから、行くよ」
ほら、早く。そう急かされて、私は朋美の手に引っ張られて立ち上がり、音楽室を後にした。
私はふくらはぎにぐっと力を入れて立ち上がる。後頭部が少しぐらっと揺れた気がして、それが立ちくらみだと気づく前に、体育館の壁に片手をついた。
一瞬白くなりかけたはずの視界が、少しずつ開けて、体育館の周辺の景色が目に入ってくる。
湿った空気と熱波が同時に体を包んで、じめじめした汗が首を伝った。
まだこんなに暑いのに、九月はもう秋だと、遠い記憶のなかで誰かが言っていた。シルバーウィークが過ぎれば、気温が少しは下がってくれるんだろうか、なんて淡い期待でもしておかないと気が狂いそうになる。
タツさんは、今、どこにいるんだろう。
この暑さを知らない世界で、生きて……タツさんが望んだようにいてくれさえすれば。
無理に「生きていてほしい」なんて言えない。
言いたくなるけれど、もう充分苦しんで、耐えて、私の最後の願いを受け入れてくれたから。
最後。
もはや、この願いは、願いなのかさえ、わからない。
わかる必要なんてない、そんな気がする。
ただ、私は私の人生を、ただ、生きていくしかないから。
そのためには――――。
私は、生徒の集団を「ごめんなさい、前に行かせて」と謝りながら、両手でかきわけ、ある人――朋美を追いかける。
目の前に、何度も見てきて、顔もすぐに思い出せるほどの存在がいるのに、いくら手を伸ばしてもなかなか届かないもどかしさで、人の海に溺れてしまいそうになる。
今、朋美と話さなきゃ。
今、私の気持ちを、本音を、朋美の気持ち、本音を互いに知らなきゃ、一生、このままなんて、
絶対に嫌!
「朋美!」
小さい頃から繰り返し呼んできたその名前を、力いっぱい叫んだ。
朋美が私の声に反応して、でも、睨みながら振り返る。
いくら睨まれようが、嫌なことを言われようが、今はそんなの関係ない。
私は、人間の海から浮き上がるなり、やっとの思いで朋美の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
「ちょっと! あんた何!?」
朋美が目を見開き、両眉を上げて声を張り上げる。
朋美は私の手を振りほどこうとした。けれど、私も負けじと、朋美の腕をそのまま掴んで引っ張る。
「話したいことがあるの! お願いだから一緒に来て!」
周囲の視線が全身に刺さる。痛い、痛すぎる。
それでも、今ここで私が朋美の腕を離してしまったら、それが" 終わり "の合図=私たちの関係に、本当に終止符が打たれてしまう、そんな気がしてしまう。
どんどん速くなる鼓動を無視して、朋美の腕を引っ張ったまま、私たちの居場所――音楽室に駆けだした。
合唱部は朝練があったのか、部室のドアは鍵がかけられていないままだった。
人が行き交う廊下、階段を走ってきたから、私も朋美も、二人で同じように肩を上下させて、汗が滲んだ顔を見つめ合いながら息をきらしている。
「あんた、何様のつもりなの」
朋美が怒りを溶かした声で訊ねてくる。
「何様のつもりでもない、ただ……」
私は、衝動のおもむくままに、無計画に、朋美をここに連れてきたことを初めて自覚した。
「ただ、何よ」
「朋美と話がしたかった」
もうこのまま、自分の考えを、思いをそのまま伝えるしかない気がする。
「うちは話すことなんかない。だいたい、もうあと半年も過ぎれば、うちらは……無関係なんだから」
「だからだよ」
「は?」
半年後、私たちは、それぞれの進路にわかれて、それぞれの人生で生きていくことになる。だから、
「私は朋美とまた、普通に話せるようになりたい」
朋美は目を見開いて、口をぽかんと開けていた。
「私、ずっと寂しかった。事故の後、朋美と昔みたいに話せなくなって、一緒に歌えなくなって、ずっと寂しかった」
朋美が向けてくるまっすぐな瞳が、私の心を奥深くまで突き刺してくるように感じる。その眼差しに、首をぐっと掴まれるような感覚がして、少し息苦しくなった。
「いじめられて心がどんどんすり減っていっても、朋美が何か、私に言いたいけどうまく言えなくて隠しているような気がして、完全には『やめてほしい』と言い出せなかった。朋美の考えが変わることを、私はどこかで願っていたんだと思う」
「隠してなんか」
朋美の左目から、一粒の涙が頬を伝った。
「自分自身にすら隠している本音を自覚したら、そこで崩れてしまう、壊れてしまうかもしれなかった、違う?」
私は、朋美だけではなく、かつての自分に言い聞かせるように告げた。
人間は、どうしようもないくらい、脆くて、弱くて、壊れやすい生きものだから、独りになるのだけは避けようと、あらゆる手段を使って、人と繋がろうとする。そのことに、やっと気がついたから。
「ほんと、昔からあんたのそういうところが……大嫌い」
朋美がぷはっと吹き出し、あはは、と声を出して笑う。
「そういうところ、って」
私がうまく理解できないで混乱しかけていると、朋美がその場で座って「あんたも座りなよ。見下ろされたくない」と私も同じようにするよう、促してきた。
「一言でいうなら、うちより先に行って理解してるところ。勉強じゃなくて、もっとこう、生き方っていうか」
朋美は不器用に手をひらひらさせながら話す。話しながら、小さい頃みたいにいろんなことを話している感覚で、懐かしくなる。
「生き方……」
私は朋美に言われたその言葉を、頭の中で浮かばせた。
「うちは、あんたが……夕夏が羨ましかった。だから、あの事故の話を知ったとき、正直『ざまあみろ、調子乗ってるからだ』って思った。夕夏が復帰するって知ってその気持ちを隠しきれない気がして、退部させようと思った。それで、那月たちを使ってそうさせた」
朋美が泣きながら笑っている。それなのに、どうしても、哀しそうに見えてしまって、まだ「どうにかしたい」と思う。
私は、タツさんが読み上げていた内容と、私がずっと思い悩んで、最後に願ったことを思い出して、前のめりになって口を開けた。
「もう、やめない?」
「え?」
「私、自分だけの力で変われるほど、強くなれてないから、その……」
私は言い出す勇気が、あと一歩足りなくて俯きそうになる。
ぐっと踏みとどまって、顔を上げて朋美の瞳をまっすぐ見つめた。
「一緒に、生きてほしい」
自然とそう告げていた。
不思議と、朋美も同じことを考えているような気がして、私はもう、自分を偽ることはできないと思った。これが正しいかはわからないけれど、これ以外の言葉が今は浮かんでこないから。
「相変わらず、そういうところ」
朋美は口角を上げ、ニヤッと笑った。
「昔から、うちらは結局同じことを考えちゃうんだよね、悔しいけど認めるわ」
私は二回頷いた。
私たちは、二人で一緒にいる時間が、誰よりも一番長くて、あまりにも長すぎて。正反対の性格をした人間、血のつながりもないのに、まるで双子のように似ている部分もあって。気づいたら、私たちは同じことを考えている。
今になってみれば、進路がここまで同じだったのも、ただの偶然ではなくて、必然、そうなる運命だったんだろうとさえ思う。むしろ、そうであってほしい。
「でもさ、すぐには無理かもしんない」
朋美が立ちあがる。
「うちはきっと、これからも夕夏にイライラするだろうし、大嫌いな部分は大嫌いなまま。無理でしょ、嫌いなのに、好きになるなんて」
私は何も言い返せない。その通りだと思った。
「それでも、夕夏が『一緒に』って言うなら」
朋美が左手を私の目の前に差し出してきた。
「ほら、ホームルーム始まっちゃうから、行くよ」
ほら、早く。そう急かされて、私は朋美の手に引っ張られて立ち上がり、音楽室を後にした。

