僕らのノイズ ※最後の願いは、よく考えたうえで送信してください。

 あんな風に、それも大勢の人たちのなかで酷く泣き崩れたのは、生まれて初めてのことだった、と思う。

 自分では追いつけないくらい、めまいとは違う、知っているけれど、触れてはいけないもの、腫れ物のようなものが、私の世界を覆い尽くして、溺れてしまいそうだった。
 ただ、校長先生の話を聞いていて、少ししんどくなったくらいのことなのに。
 泣き叫ぶなんて子どもじみたこと、思い出せば出すほど、耳が熱くなって、次第に頬が温かみを増していく。

 そういえば、校長先生が最後に言おうとしたことって、なんだったんだろう。
 事件に関することだよね、文脈からして。それなら、私は、自分の衝動性を自覚して、耐えて、最後まで聞くべきだったんじゃないか。

 私は初めて、今までは自分も退屈を感じていたはずの校長先生の話を、聞きそびれたことを悔やんだ。けれど、今更聞きに戻るのもそれはそれで目立つから嫌だ。

「あの、神田先生」

 教員同士なら事前共有されているかもしれない、と思った。

「校長先生が私たちに伝えたかったことって、なんだったんでしょうか」
「んー……。その前に、これはあくまで養護教諭としての、独断、メンタル的な配慮って意味で聞くんだけど……」
「独断? メンタル的な、配慮?」
「そう。校長もそういう意味で、最初に生徒に退出するかどうかを選ぶよう、促したんだろうけどね」
「それと同じことですか?」
「似たようなものかな、同じとまでは言い切れないかもしれないし」
「どういうこと?」
「一言で、トラウマ・インフォームド・ケアっていうところかな」

 はい、これ。神田先生にそう言われて、空になったコップと物々交換されたのは、「大きなできごとがあった後に~こころやからだのために知っておいてほしいこと~" あたりまえのこと "編(※1)」と題されたパンフレットだった。

「私、トラウマなんてありません」
「そっか、まぁ、とりあえずいったんそれを読んでみて、思ったこと、話したいと思ったらなんでもいい、話してみて。」

 そう言われて、私はパンフレットに目を落とした。
 
 私はパンフレットにざっと目を通したあと、なんとなく、思い当たることがいくつかあって、心にすとんと落ちる感覚を覚えた。

「神田先生」

 腑に落ちたものを外に出したくなって、声をかけた。

「なに?」
「変なんです。こう、みぞおちの奥がぬるくて、少しずつ温度を上げてくるような感じがして。吐き気とも少し違って」

 うまく説明できず、手を揉んでは広げる。

「どのあたりを読んでそう感じ始めた?」
「ボーっとしている、忘れたり、思い出せないことがある、不安で集中できない、小さな物音に驚いたり(※1)……でも、本当に、私はトラウマなんてないんです」

 パンフレットを膝に置いて、神田先生に訴えかけた。

「少しくだいて説明を加えるね。トラウマになるような出来事を見聞きするだけでも、似たようなことが起きるの」
「見聞きするだけで?」
「見聞きするだけで。私も初めて知ったときはとても驚いたわ。大学時代はまだ、今よりトラウマの分野自体が発展していなかったのもあって、体にも影響を及ぼして、時には生活に支障をきたすなんて知らなかったも同然でね……」

 神田先生はコーヒーを一口飲んで、ふぅと一息ついた。

「でもね、佐々木さんは小さかっただろうから覚えているか分からないけれど、東日本大震災ってあったでしょう? その前にも有名なものだと、阪神・淡路大震災。大きく挙げるとしたらこの二つの災害かな、トラウマ分野でよく取り上げられる震災っていうと。震災だけではなくて、事件や事故に遭ったり、巻き込まれたりしたときもそう」

 どちらの震災も、日本史の授業で、教科書の最後のほうで目にしたことがあった。地震をはじめとした、さまざまな災害が起きて、多くの被害が出たこと、震災の話になると、どの先生達もうまく説明できないようだったことを思い出す。その様子を見るたびに、これ以上は深入りできない、してはいけない、いわゆる世代間のあらゆる――差みたいなものを感じていた。

「そういえば一月から三月にかけて、震災に関するニュースとか多くなるなって感じてました。担任の先生とかに聞いても、ちゃんとは教えてもらえない、教えにくいことなのかもなって自然と私も避けがちになっていって」

「理由はわからないけれど、トラウマとは切っても切り離せない部分があった可能性はあったかもしれないし、なかったかもしれない。深入りすることでもっと傷つけてしまう可能性もあったとすれば、佐々木さんの行動や考えも、間違いではないと思う」

 神田先生のその言葉に胸をなでおろした。

「詳しい人たちのなかには、もっと日常のなかで、その個人にとっては衝撃的と感じる出来事のあとに起こりえるさまざまな症状を、トラウマとみて考える場合もあるんだけどね。まぁ、詳しいことは、佐々木さんが自分のペースで知っていくほうがいいかも。話を戻すと、今、佐々木さんのなかで起きていることは、何もおかしいことじゃないし、変なことでもない。人間が必死に生き延びようとする機能の正しい働き、それが今言えるすべてかな。きっと、校長先生もそういうことを伝えたかったのかもね」

 さてと、と神田先生はパソコンを閉じて立ち上がった。ドアを少し開けて体育館の様子を見ている。ドアを閉めると、私のほうを向いて、こちらに向かって歩いてきた。

「校長先生、だいぶ前に話し終わったみたい。教室、戻れそう?」
「はい」

 私はパンフレットをベッドに置いて立ち上がった。制服の乱れた部分を手で伸ばし、ちょうどいいところで終わりにしてドアに向かって歩き出した。そのとき、神田先生が「あ、ちょっと待って」とすれ違いざまに肩を軽く叩いてきた。

「このパンフレット、持って行く? ネットでもあとから見れるけれど。リンク、タブレットの個人チャットで共有しておこうか?」

 少しお節介に感じる。でも、私は、そのお節介に今はただ、甘えたくなっていた。

「個人チャットに共有してほしいです。紙だとなくしそうだし」

 自信なさげな声で、小さく呟いた。神田先生は私のその声を、そっと大切に拾い上げてくれた。

 その後、体育館を出るときに地面をなんとなく見たら、体育館の外壁に沿うようにして、一輪の花がまっすぐ咲いていた。
 私はしゃがんで、太陽に向かって優しく強く咲いている、その花を見つめた。

 シオン。

 小学生の頃、理科の授業の調べ学習、図書館で読んでいた植物図鑑のページに書かれていた花の名前を思い出した。
 確か、花言葉は、

「あなたを、忘れない」

 気づけば、私の口はそう呟いていた。目の奥から鼻先にかけて、じんと熱くなる。誰かに抱きしめられたように、背中が温かくなる。両腕をクロスさせて、涙が出てこないようにじっと耐えた。

 ……この花を誕生花とする日付は、確か、

 九月、二十日。

 あなたを――――

 忘れない。