地球の果ての島の物語

(夏椎)

 俺が喫茶店から外へ飛び出すと、そこは、よく晴れた青空が広がる何の変哲もない街並みだった。
 舗装された道路。建ち並ぶ家々。アパートのようなものもあるし、お店が入っているビルもあった。
 広い道路には車も走っている。色とりどりの車は、アメリカと比べて比較的小さなものが多い。
 
 しかし、歩いている人達は風貌が違った。
 
 耳が顔の横ではなく、頭の上の人。
 飛んでいる翼の生えた人。
 そもそも顔が動物の人。
 姿形が人ならざる、肌が緑や紫の者もいた。

「⋯⋯っ」
「夏椎」

 まるでスクリーンの中の世界に俺が立ちすくんでいると、後ろから翔真さんが追いついた。

「靴のサイズなに?」
「えっ?⋯⋯24cm」
「おれのじゃちょっと大きいかな。とりあえずこれ履きなよ」

 翔真さんがスリッパを地面へ置いた。言われてみれば、俺は靴下のままだ。父さんが家では靴を脱ぎたいと言うから、その習慣が俺にも根付いていた。
 コンクリートの地面はなだらかで痛みは少ないけど、靴下で走り回るわけにはいかない。
 とはいえ、スリッパで走り回るのもどうかと思うけど。俺は微妙に複雑な思いを抱えながら、素直にスリッパへ足を通した。

「よし、まずは靴買いに行こっか」
「いや、靴より晃さんを探さないと」
「晃は影に入れるから闇雲に探したって絶対見つからないよ。それより、人の多いところに行った方がいいんじゃないかな」
「なんで?」
「なんでも!」

 どん、と胸をたたく翔真さんの笑顔を見て、俺はなんだか妙にほっとした。
 翔真さんは何故か自分の味方なのがよく分かる。それは思い出の残滓があるからなのか、翔真さんの持つ明るさのお陰なのか、今の俺にはとても有難かった。

「ニールに行こっか。靴屋も入ってるし、他にも色々揃ってるよ」
「ニールって?」
「大きなショッピングモールのこと!」

 ショッピングモール、は知っている。翔真さんは俺の手を取って、ゆっくりした歩調で歩き出した。
 スリッパで歩いていると、チラチラと見られている気がする。翔真さんは鼻歌をうたって、スキップでもするように軽やかに足を運んでいた。

「夏椎とお出かけ楽しいな♪」
「お出かけではないけど⋯⋯」
「よく昔一緒に散歩したよね!幼稚園から出て、ぐるっと一周するだけだったけど楽しかったなぁ」

 幼稚園。そう言われても、幼稚園に通っていたことも覚えていない。
 今まで考えたことなかったけど、5歳より以前の記憶がぽっかりとなくなってしまったようだ。空白、空洞、知らんでいる脳の中には引き出しすら存在しない。

 翔真さんと歩道を歩いていると、ベビーカーを押す女性とすれ違った。
 顔も体も普通の人間だ。翔真さんがさっと俺を押して避けると、女性はぺこりと頭を下げて通り過ぎて行った。

「翔真さんは優しいね」
「やだー!翔真さんってなに!翔真って呼んでよ!」
「し、翔真」
「晃のことも晃でいいよ!夏椎、敬語禁止なんだからね!」

 さん付けは敬語ではないと思うけど。
 拗ねたような顔で犬の耳をピコピコさせながら、翔真の尻尾が揺れている。

「翔真」

 また呼ぶと、尻尾の揺れる速度が速くなった。嬉しいんだ。分かりやすい態度に和んでしまう。

「もう、おれで遊んでるでしょ」

 今度はピタッと尻尾が止まってしまった。
 でもまた動き出す尻尾が可愛い。翔真は人でもしっかりポメラニアンの面影がある。

「くそーぅ!素直な体が憎い!」
「ふふ。翔真にとっては楽しいお散歩なんだね」
「帰りたいって言ってるのにごめんね!でも久しぶりで嬉しいんだもん!」

 可愛いポメラニアンを連れてお散歩するなんて、昔の俺は贅沢なやつだ。
 思い出せたらいいのにな。自然とそう思ったことに驚きながら、先を歩く翔真の揺れる尻尾の後をついて行った。


 ★★★★★


 飛び出した喫茶店から20分ほど歩いた場所に、ニールと言う名前のショッピングモールがあった。
 薄橙色の壁に覆われた複合施設で、駐車場も完備されていてかなり大きい。入口の自動ドアの側にはフロアガイドが備えられていて、靴屋に電気屋、フードコートまで入っていた。

「違う世界から来た人もいるし、もちろん人間も働いてるんだよ。通貨は日本円なんだ」
「日本⋯⋯」

 日本には馴染みがある。父親が話したがる言語で、俺の得意料理も和食が多い。
 店内には音楽がかかっていて、ザワザワと騒々しい。
 白いタイルの上をスリッパで歩く。キョロキョロしながら歩いていると、甘い匂いが漂ってきた。目を向けるとシュークリーム屋さんがある。

「何でもあるんだね」
「夏椎、楽しい?」
「色んな店があって⋯⋯迷子になりそう」
「大丈夫、はぐれてもおれが夏椎を見つけるから!」

 翔真は自分の鼻を指さした。

「おれ犬だからね!鼻には自信があるよー」
「ポメラニアンだもんね」
「そうそう!あ、靴屋さんは2階だよ。エスカレーターで上がろう」

 白いタイルの上はピカピカに磨かれている。俺は翔真に手を引かれながら、言われるがまま歩いていく。
 スリッパを履いているのでうまくスピードが出せない。それでも、翔真はずっと歩調を合わせてくれている。

「翔真はいい人だな」

 俺はつい呟いた。アメリカでは小さい日本人の自分に合わせてくれる人なんてほとんどいない。だから俺もついて行く気もなかったし、向こうもついてきてると思ってもいなかっただろう。

「夏椎にだけだよ」

 犬は耳もいい。エスカレーターに乗って、翔真は俺を振り返った。

「犬はご主人様の役に立ちたいんだよ。おれにとってそれが夏椎だから、おれは夏椎を世界一大切にするし、何があっても守るんだ」
「⋯⋯⋯」
「夏椎にとっては初めましてでも、おれはずーっと昔から死ぬまで一緒にいるんだって決めてるから。人間の姿が嫌なら犬になるし、一生犬のまんまでもいいよ。夏椎を探すのに便利だったから人型なだけだもん」

 翔真は‪笑う。
 嬉しそうだ。そんなに大切なんだ、―――俺のことが。
 覚えてないのに。
 薄情な人間なのに。
 そこまでしてもらえる何かが、自分にはあるのだろうか。思い出せない記憶の底の幼い俺が、翔真にしてあげたこととは一体何なんだろう。

「早く思い出せるように頑張るから」

 不意に、口をついて出た。
 応えたいと思った。翔真の思いに。
 応えなければならないと思った。それは自分が自分として生きるためにも。
 志賀龍司の息子として恥じるような生き方はしたくないから。

「うん!」

 翔真の声が急に遠くなる。

「!?」

 いきなり、背後から思い切り引っ張られる感覚。
 落ちる。
 身体が宙に浮く。エスカレーターから叩きつけられる。

「夏椎!」

 でも、覚悟していたはずの衝撃は柔らかかった。

「晃ナイス!」

 視界の上で、翔真がエスカレーターの手すりを伝って走っている。その勢いで、赤い何かに蹴りを入れた。
 呆然とする俺の目の前に、青い足が伸びてくる。それを、細く黒い手が払い落とした。あの手は、そうだ、テレビから伸びてきたあの黒い手だ。

「晃⋯⋯?」
「じっとしてろ」

 晃は言うなり、思い切り頭を押さえつけてきた。



 気がつくと、エスカレーターから引っ張られて、晃が受け止めてくれた。
 かと思えば、ぐにゃりとした感触の何かに押し込められた。
 そして、ここはどこだ。

「何も見えない⋯⋯」

 視界が、ない。
 暗闇。光がないので、自分の姿も認識できない。完全な闇の中で、それでも、俺は何故か落ち着いていた。
 
 だって、嫌な感じがしないからだ。
 
 怖くもない。もうここから出られないのではないのかなんて、そんな恐怖は微塵も感じなかった。
 それは恐らく、覚えていないなりに、記憶の深いところに晃がいるからだ。

(たぶん、ふたりの探している『志賀夏椎』は間違いなく俺のことなんだろうな⋯⋯)

 そんなことあるわけないなんて、今はもう思えなくなってきていた。
 今の俺にとって、晃も翔真も知らない人だ。
 けれど、大事にされていたのは分かる。あの2人の言葉に、嘘がないのは分かるから。

(⋯⋯別に、アメリカに住んでたいわけじゃないんだよなぁ)

 何もすることがないので、きちんと思考を整理してみようと思った。
 暗闇の中。自分の身体の輪郭も曖昧な中、俺は腕を組んで考えてみる。

(父さんがアメリカで仕事してるから俺も一緒にいるわけで、今日だって父さんはドイツに行ってしまったし、しばらくひとり暮らしだ。晃から核を返してもらって、自宅とここで行き来ができるならここから学校に通ったって問題ない)

 うんうんと俺はひとりで納得する。

(と言うか、翔真と晃にアメリカに来てもらうのもアリなのか。部屋がひとつ余ってるし、⋯⋯翔真は出来たら犬がいいなぁ。可愛かったな。でも、3人でゲームするのも楽しそうだ)

 ふ、と俺は笑った。
 たった一時間ほど。時間にすれば知り合ってそれくらいしか経っていないのに、俺はこんなこと思うんだな。

(なんだ、心はちゃんと覚えてる)

 記憶はなくても。
 大丈夫。分かるよ。必死で探してくれてたんだよな。
 
 俺がまたいなくなると思って隠れた晃も。
 俺の世界についてくると言った翔真も。
 
 いつ出会って、いつ別れて、その時に何があったのかは思い出せないけれど。

(2人と、きちんと話そう)