地球の果ての島の物語

(夏椎)
 
 コーヒーのいい匂いが漂っている。
 父さんの朝はコーヒーから始まる。コーヒーの淹れ方にもこだわっていて、父さんが吟味を重ねに重ねた器具たちはキッチンから独立した小さな棚に鎮座している。

 そんなことを思い出しながら、俺はただ呆然と目の前の男の子ふたりを見つめていた。

 ひとりは、頭の上に耳が生えている。たぶん、犬の耳⋯⋯?髪と同じ薄いブラウンの耳がピコピコ揺れていて、その後ろにはふさふさの尻尾が見えた。
 犬の⋯⋯人間?なんか、映画のキャラクターみたいだ。日本語を話しているし、もしかしてコスプレだったりするのかな。日本ってオタク文化の国だと聞くし。
 
 もうひとりは、耳は生えていないけどひたすらに真っ黒だった。髪も目も服も黒い。生気のなさそうな顔をしていて、瞬きも忘れてじっとこちらを見つめてくるので居心地がとても悪い。
 
 だいたい、ここはどこだろう。俺の家は?スマホ、まだ2階に取りに行ってない。今の時間も分からない。

 スクールバスに、間に合わない?

 ⋯⋯新学期早々、遅刻かぁ。

「⋯⋯あの」
「ねぇ、誰ってなに?どういうこと?」

 泣き腫らした瞼の、犬の男の子の声が震えている。

 誰、って言葉通りの意味だ。

 天井で巨大なプロペラが回っている。空気を巡回させるためだろうか。ブゥン、と重く鈍い音だけがこの空間にゆったりと響いている。

「俺は君たちのこと、知らないけど⋯⋯」

 いつまでも黙っていたって仕方がない。俺は先に口を開いた。
 限りなく思い出せる範囲を探ってみたけど、ふたりのことなんて全く記憶にない。犬の耳と尻尾が生えた男の子と、不思議な影を操る男の子なんて、まるでSFの世界だ。俺は夢でも見ているんだろうか。
 
 だけど、触れた体温は確かに温かかった。
 
 夢じゃないなら、これが現実なら、きっとふたりが言っているのは自分ではなく別の人間のことだ。
 同名の同い年くらいの少年なら、他にもいそうだ。責めるつもりはないけれど、勘違いでよく分からない場所に連れてこられたのはちょっと⋯⋯いや、かなり困る。
 可能ならば早く帰して欲しい。じゃないと、心配性の父さんがパニックを起こしてしまいそうだ。

「えっ⋯⋯」

 犬耳の男の子が、まん丸の瞳を更に見開いた。

「夏椎⋯⋯だよね?」
「⋯⋯えっと、夏椎だけど」
「志賀夏椎だよね?」

 驚いた、この子が言う夏椎という人は名字まで一緒だったのか。

「うん、志賀夏椎⋯⋯だけど」
「っ⋯⋯だよね!?俺、匂い間違えるわけないもん!ずっとずっと探してた匂いだもん⋯っ」
「⋯⋯えぇ?」

 今度は俺が目を丸くする番だった。
 
 同姓同名で?
 犬耳の男の子が言うには、匂いも一緒で?

「⋯⋯じゃあ、俺、なんで知らないの⋯?」

 犬耳の男の子の言う夏椎が、本当に自分のことなら。
 俺、めちゃくちゃひどいやつじゃないか⋯⋯?

「小さい頃だから覚えてないの?俺、夏椎がもっともっと小さい時に拾ってもらったんだよ。ほら!」

 ぼん、と煙をたてて犬耳の男の子が姿を消した。
 
 代わりに、俺の太ももの上にちょこんと座るのは、ポメラニアンだった。茶色い毛並みで、とても素晴らしくもふもふしている。これはいいポメラニアンだ。

「可愛い⋯っ」
「ありがと!ね、何か思い出さない!?」
「ん―――」

 俺は頭を抱える。小さい頃?ポメラニアン?思い返してみても犬は飼ったことがない。
 幼少期のアルバムなんてこの歳になったらそうそう見返すことはない。果たしてアルバムに残っているのだろうか、ポメラニアンと自分が。
 いや、見たことないはずだ。父さんから犬の話なんて聞いたこともない。
 こんな愛らしくもふもふでつぶらな瞳のもふもふ、俺だったら絶対父さんに連れて帰りたいとお願いして家で思う存分もふもふしている。

「晃?」

 突然、ポメラニアンが顔を上げる。俺もつられて顔を上げると、もうひとりの黒い男の子が立ち上がったところだった。
 黒い男の子は返事もせず、振り返ることもなく扉を開けて外へ出ていく。リンリン、と鈴の音が響き渡って、またプロペラの音だけが空間を満たした。

「もー。なんか言って行けばいいのに」
「⋯⋯怒らせたよな」
「いや、大丈夫だよ。晃が夏椎に怒るわけないもん」

 あっけらかんとした口調でポメラニアンが言う。
 晃。あの子は晃さんと言うのか。ポメラニアンはもふっとした体をくるりと回転させて、俺の胸元へ小さな手を乗せた。

「おれねぇ、翔真って言うの!夏椎が付けてくれたんだよ」
「そう⋯⋯なんだ?」
「おれはね、この島がもっと昔のもっと人間が多かった頃、夏椎の通ってた幼稚園に捨てられてたんだよ。夏椎以外は棒で追いかけたり、食べ物くれなかったり優しくなかった。優しかったのは夏椎だけ」

 すり、とポメラニアンが手に擦り寄ってくる。その柔らかい毛並みを、思わず抱きしめてしまいそうになってしまう。
 でも、それは出来なかった。そんな大切に想ってくれているのに、想われている張本人は微塵も覚えていない⋯⋯かもしれない、薄情な奴だから。

「あれ、晃くんは?」

 晃さんが出て行ったのと反対側の扉から、背の高い金髪の女性が入ってきた。
 喫茶店の制服らしい洋装を着ている。腰まで伸びた長い髪を1つに結わえて、腰にはサロンエプロンを巻いている。女性に向かってポメラニアンの翔真さんがパタパタと尻尾を左右に振るので、知り合いなのだとすぐに分かった。

「マスター!晃出てっちゃったよ」
「何で?」
「拗ねちゃったんだよ、きっと。夏椎、俺達のこと覚えてないんだって⋯⋯」

 しょぼんと小さくなるポメラニアンが、俺の庇護欲をぎゅうぅと掻き立てる。
 でも我慢。抱っこしたいけど我慢。万が一思い出したと勘違いさせては可哀想だ。

「そうなんだ。全く?」
「⋯⋯はい」
「まぁ、そうだろうねぇ。晃くんが言うには君と過ごしたのは4、5歳くらいの時らしいから、覚えてなくても不思議はないよね」

 うんうんとマスターと呼ばれた女性が納得したように頷く。

「じゃあこの島のことも知らないんだよねぇ」
「島⋯⋯?」
「そう。ここは君が住んでた場所とは次元が違うんだ」

 次元?

「⋯⋯とは?」
「つまり、この島は人間が圧倒的に少なくて、僕みたいな存在が多いのさ」

 マスターさんがパチンと指を弾くと、瞬く間に赤い炎が現れた。
 俺はぎょっとする。今のは手品なんだろうか。まさか、魔法?そんなファンタジーの世界みたいな。
 父さんが出た映画にもそんな設定はあったけど、まさか現実で見ることになるとは。

「翔ちゃんも人間ではないしね」
「うん!俺は犬人間だよ!」

 再びぼん、と音がするとポメラニアンが煙に包まれた。
 瞬間、足の上がとたんに重くなる。人の姿に戻った翔真さんは「んしょっ」と言いながら俺の上から降りると、俺の前に立ってにこりと笑った。

「この島は不思議な力で守られてるから、通常は人間が入ってくることはないんだよ。中から招かれた椎ちゃんみたいな人は別だけどね」
「な⋯⋯なるほど?」

 マスターさんが指を弾くと、今度はふわふわと雪の結晶が舞った。なんだか手品師みたいだ。一気に色んなことが起こりすぎて、思考が追いつかない。
 追いつかない、けど。

「⋯⋯あっ!学校!」

 これだけは何とか思い出した。今日から新学期!こんな悠長にしていたらハイスクールバスに間に合わなくなる!

「俺、帰らなきゃ。父さんが心配する。学校は⋯⋯どうか分かんないけど」

 なんせ自由が売りのアメリカなので、あんまり心配されてなさそうだ。それでも単位を落とすのは好ましくはない。

「えー⋯⋯。じゃあ、俺もついて行く」
「それは⋯⋯。まぁ、いいか。ひとりくらい増えても誰も気にしなさそうだし」
「やった!夏椎の家も見たい!」

 ぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねる翔真さんが、マスターさんに笑顔を向けた。

「マスター!ゲート開いて!」
「はいはい」

 マスターさんが、テレビに向かって指を鳴らす。
 それにしても、何で次元の入口がテレビなんだろう。しかもテレビ、壁掛けテレビだし。あそこまで跳ぶのは無理だから、脚立借りなきゃな⋯⋯。
 ぼんやり考えていると、翔真さんがまた抱きついてきた。このスキンシップの激しさは生来の犬所以かな。別に嫌ではないけれど、単純にちょっと重い。

「夏椎、今はどこに住んでるの?」
「ニューヨークだよ。2階建てで、静かなところ」
「俺、犬になって走っても大丈夫!?」
「⋯⋯あれ?」

 俺と翔真さんが話していると、マスターさんが怪訝な声を出した。
 2人が首を傾げる。マスターさんはうーん、と唸りながら、何度か指を鳴らしているけど、テレビの見た目は何も変わらないように見える。

「⋯⋯ねぇ、椎ちゃん」
「はい」
「ごめんだけど、晃くん探してきてくれない⋯⋯?どうやらあの子、ゲートの核持ってっちゃったみたい⋯⋯」
「ゲートの核?」
「つまり、このままだと帰れないんだよねぇ」
「え」

 笑いながらさらりと言われ、俺は言葉を失う。

「影の手を入れた時にたまたま持ってっちゃったのかなぁ。それか椎ちゃんが帰りたいと言うのを阻止したのか⋯⋯」
「後者じゃない?」
「まぁ僕もそう思うけどね」

 え⋯⋯困る。それは困る。かなり困る!

「その核って言うのがないとダメなんですか!?」
「うーん、日本なら近いから当てずっぽうでも行けるかもしれないけど、アメリカは遠いし広いでしょ?」
「遠いし広いです⋯っ!」
「だよねぇ。翔ちゃんにお願いされてから、椎ちゃんのポイントに繋がるのに5年近く費やしたもん。またイチから探し直すとなるとそれくらいはかかるかも⋯⋯」
「ご、5年⋯⋯!?」

 なんてことだ。成人してしまう。
 そんな長い間父親に会えないなんて、父親が無理だ。何するか分からない。冗談ではなく世界中の人に迷惑をかけてしまう。
 あの人ならメディアを使って世界中の警察を動かすし、なんかよく分からない俺の本とか写真とかが出回るような気がする。

 嫌だ。それは絶対嫌だ!!

「その核って言うの、どんなのですか!?」
「親指くらいの大きさで、紫色の宝石みたいな感じだよ」
「ちなみに、時間の流れって次元が違うと変わるんですか!?」
「頻繁に島の外と中で行き来してる人もいるし、変わらないみたいだよ」

 マスターさんの言葉に俺はほっとする。良かった。浦島太郎のようなことにはならなさそうだ。

「俺、探してきます!」

 俺は慌てて晃さんの出ていった扉を目指して走り出した。