目が覚める瞬間、身が強張ったのは反射的なものだろう。吉乃は身動きを立てないように、ゆっくりと瞼を開き、瞳だけを動す。
右も左も真っ白な壁。感触からして床はタイルで、天井は黄ばんだ縞模様の穴が開いたジプトーンだ。
言うなれば、古い内装のオフィスの一室。安っぽさと許容範囲の中間点のデザインの中、吉乃の視線は再び目前の者へと舞い戻った。
見上げた顔は品があり、桜色の唇が美しい。中でも目を引くのは、その淡い色合いの虹彩だ。薄いグレーが混じった色は珍しく、思わず見惚れてしまう。
生産された美しさとは違った儚さと気迫は、オーガニックであるが故か。先祖代々、純度二億パーセントの日本人の身からすれば、羨ましい限り。
中性的な顔立ちの中で、長い睫毛がそっと瞬くと、まるでエフェクトが掛かったかのように、七色の光が散った。
こんな状況下で出会ってすらいなければ、推しになっていたかもしれない。いや、やはりそんなことはないだろう。どんな背景があるにしろ、気を失っている人間の喉元に、フォークを突き立てるような狂人とは、関わり合うべきではない。
「……あの、まずは話をしませんか?」
「なんの話?」
「ここがどこなのか、ということと……このフォークはなんなのかな、ってこと」
「ここがどこなのかは知らない。このフォークは、この部屋の中心に置いてあったやつで、これから君の喉を突き破るものだよ」
「交渉の余地はあったりします?」
「どうだろう……可能性は低いけど、五分以内なら聞いてあげてもいいかな」
ふふっと軽く鼻を鳴らした男は、それは愉しげに目を細め、完璧な微笑を浮かべて見せる。そこらで見かける営業用の笑顔とは違った、無邪気な笑みだ。
この超絶ストレス社会の中、いまだにこんな顔で笑える者がいるのか。そう感心するも、同時に対照的な冷酷さに、胸の奥が騒ついた。
『五分』と提示された数字は、ひょっとしなくとも、あちらで点滅している時間のことだろう。壁に埋め込まれたレトロ調の電光掲示板には、『00:05:06』と表示され、一秒ごとに数字が減っている。
時折、前世の記憶を呼び戻し、「冷やし中華」と表示されるのはご愛嬌。さらに、その下にはありがたいことに、この部屋の説明文まで添えられていた。
1、制限時間内に部屋を出ること
2、持ち出せるものは一つのみ
3、入室前の所持品は上記に含まれない
「持ち出せるものって……?」
「僕がこの部屋に入った時、君とフォークが置いてあったから、そのどちらかじゃないかな」
「なるほど……それで、あなたは私じゃなくて、フォークを選ぶってことですか?」
「君にフォーク以上の価値があるとは、思えないからね」
散々な言われようだが、雑な扱いに傷付くほどこちらは若くない。吉乃は喉に突き立てられたフォークを見据え、ふむっと思考を巡らせる。
「価値は、そこそこあると思いますよ」
「たとえば?」
「目の前にあるじゃないですか」
「どれ?」
「シリコンなしの天然Hカップの所持者は、日本でたったの二パーセントです」
「へえ、それを僕の好きにしてもいいってこと?」
「そうは言ってません。あくまでも観賞用です」
抑揚のない返事であっても、しっかりと大事な部分を押さえてくる。セクシャルハラスメントが、公に問題視されるようになった近年。同意のない行為は、回り回って自身の首を絞めることになった。
言質を取りに来たということは、少なくとも、それを理解しているということ。一先ずは、会話のできる相手であることに安堵し、吉乃ははっきりと否定の意を示す。
「観賞用か……よほど自信があるようだけど。それだけで、こちらの気が変わると思ってるのなら、ちょっと頭が弱いな」
「お気持ちは察しますが、それ以上の期待には添いかねます」
「理由は?」
「理由って、言われても……」
「ああ〜なんとなくわかった」
「いやいやいや、待ってくださいよ。まだなにも言ってないんですけど?」
「処女なんだろ?」
「……安易な憶測はやめてください」
ツンっと口を尖らせ、目を逸らしながら頬を紅潮させる。その反応だけでも、肯定を示すには十分過ぎたか。男は中傷的な笑いを落とし、視線を降下させた。
瞳孔の収縮した瞳は鎖骨へ移り、ふくよかな胸元で静止する。その後、少しばかり互いの呼吸音が響き、嫌な沈黙が続いた。
広くも狭くもない部屋の中。やけに顔の良い男と二人。馬乗りの状態で身を抑えられ、喉元にはフォークまで突き付けられている。状況で言えば、やや劣勢。
さてどうしたものかと、思考を巡らせていると、男は盛大な溜め息を突いて、吉乃の鼻を抓った。
「生憎、君の身体には興味ないよ、僕も女だからさ」
「それは………………大変失礼しました」
「こらこら、どこ見て謝ってるんだ」
「いえ、自尊心をへし折ってしまったかと」
「存外失礼なヤツだな。自分で言ってたじゃないか、そのサイズは希少だって。僕が小さいんじゃなくて、君が規格外なんだって」
お世辞にも、盛り上がりがあるとは言えない胸元。故意ではないとはいえ、さすがに不謹慎だったかと敬意を払えば、不満げな舌打ちが返される。
あくまでも「自分のは平均サイズだ」と言いたいのだろうが、こればかりは個人の主張でどうにかなるものではない。
「……それで、交渉は終わり?」
喉に食い込む鉄の感触が増し、腹部に掛かる圧迫感が強まった。
涙ながらに訴えたとて、冷徹さを感じさせる者の前では、却って悪手になりうる。感情的ではなく、もっと、論理的で有効的な交渉を提示せねばならない。
再び視線が重なると、彼、もとい、彼女は、薄っすらと口角を上げて、前髪を掻き上げる。
「ほら、そろそろタイムオーバーだよ」
「ま……待って、まだ」
「あと一分ね」
「っっ~~ッッ!」
馬鹿な会話を交わしているうちに、制限時間は残り僅か。慌てて他の策を考えるも、焦っている時こそ名案は浮かばない。
頼みの綱のAIアシストは、追加モジュールで「俺様ワンマン社長♡深夜のオフィスで朝までワッショイ」に変更したばかり。「顔の良い女に組み敷かれ、フォークで刺されそうになってる」などと伝えれば、「フッ……この俺を差し置いて、激しめのプレイか? ゴムはしろよ」と、強かに吐き捨てられるだけだ。
さてどうしたものか(二回目)と、半ば投げやり気味に周囲を見渡すと、不意に、首筋あたりで違和感を覚えた。
黒い手袋を嵌めた左手が、そっと長い髪を払い、耳元へ触れる。そのままうなじの方まで指を滑らせると、むず痒さに吉乃は「んっ」と、小さく声を漏らした。
「……気が変わったよ、君を連れてく」
「へ……? いいんですか?」
「弾除けにはなるかなって、そのご自慢の胸なら」
「歩くボディアーマーってことですか」
「そうそう」
やけに軽い返答の後、長く押し当てられたフォークが退けられる。四個の点が、くっきりと肌に残っていたが、貫通するよりかはマシだろう。すりすりっと喉元を差する吉乃を見下ろし、女はもう一度だけその耳元へ触れた。
「君、名前は?」
「吉乃です……あなたは?」
「栞だよ。宜しく、吉乃」
ゆったりと目を細めて差し出された左手。警戒心は拭えずとも、進退窮まる状況で、選択肢はさほど残されてはいない。
吉乃はふーっと長く息を吐き出すと、身を起こして栞の手を掴む。戸惑いを残した右手は力強い動きで引き寄せられ、そのまま、隣の部屋へ続く扉へと促された。

