九月まで残り一週間と二日。
私はまだ、あの日記帳に何も書けないでいる。けれどそれでもいい。私は最後に思った言葉を綴ると決めたから。
あっくんに「悲しいと思う分、一緒にありがとうって伝えよう」と言われて、閃いたことがある。
一人でも多くのお客さんに喫茶「しぐれ」の閉店を知ってもらって、「ありがとう」とおじいちゃん達とそして「しぐれ」に伝えてもらうことだ。
そんなことをあっくんに相談すると、若者が訪れるきっかけになった動画サイトで紹介してもらうのはどうかと言う話になった。年配の方たちに向けては、自分たちで作ったチラシを商店街やスーパーに許可を貰い貼り付けた。
初日から結果が出るなんて思っていなかったけれど、なんと、さっそく奇跡が起きた。
日記帳の一ページ目にメッセージを書いてくれた、恵子さんが閉店一週間前に来店してくれたことだ。
「まあ!お久しぶりね恵子ちゃん!」
おばあちゃんはとっても嬉しそうで、若い頃に戻ったようにはしゃいでいる。そんな二人を見ながら珈琲を入れるおじいちゃんも、すごく嬉しそう。
「孫がね、動画を見せて教えてくれたのよ。久しぶりの遠出の旅先がしぐれで嬉しいわ。しーちゃん、マスター、ありがとう」
恵子さんは、娘夫婦と暮らすために引っ越して以来、初めて来店したみたいだった。感謝の言葉を言われているおじいちゃん達の姿を見て、私も嬉しく思う。
昔よく来ていたという子連れのお父さんや、
前に近くのスナックでバイトしていて休憩時間を「しぐれ」で過ごしていた大学生、
一度しか訪れたことはないけれど閉まる前にもう一度来たかったと言うカップル。
古くから知ってくれてる人から、最近知った人まで。
残りの一週間で、恵子さんを皮切りに、たくさんの人が「しぐれ」を訪れ、ありがとうとお疲れ様でしたを口にした。
そんな姿をあっくんとふたりで見守っていると、あっくんは私に耳打ちをした。
「やっぱり愛されてるね、マスターとしーちゃん」
自分が言われた訳では無いのに、心の底から嬉しくなった。
これは、おじいちゃんとおばあちゃんが、四十年間、真心込めて「しぐれ」と向き合ってきた結果だ。
そして喫茶「しぐれ」は、あっという間に過ぎていった最後の一週間で、歴代最高の来客数を更新した。
*
ついに、明日。
九月一日に、喫茶「しぐれ」は閉店する。
私の嫌いな九月がついにそこまで来てしまった。
二階の自分の部屋で空白の日記帳と向き合っていると、携帯が鳴った。あっくんだ。
「もしもし」
「ねえなっちゃん、ちょっと今から連れていきたいところあるんだけどさ」
「え?今から?」
「うん」
真夏と言っても、夜八時となるとだいぶ暗くなり始めている。
「いいけど…今どこ?」
「ん?下にいる」
「下?」
窓の網戸を開けて下を覗くと、自転車に跨っているあっくんがいた。
明日が終われば、あっくんは自分の街に帰るのに、あまりにも当たり前に居るから、私はなんだか笑いそうになった。
自転車であっくんの後を着いていく。
見慣れた道、見慣れた信号。
あっくんが漕ぐのを止めたのは、喫茶「しぐれ」の前だった。
「なんでここ?」
「ほら、みて」
夜八時なのに、小さな明かりがついている店内を、私たちは何故か隠れて覗く。
するとそこには、ふたりで珍しくワインを飲むおじいちゃんとおじいちゃんの姿があった。店内からは微かに、普段は流れていない外国の音楽が聞こえる。
これは、私が幼い頃に一度、ふたりが思い出の曲だと言って聴かせてくれた曲だ。
ふたりはゆっくりと向かい合い、音楽に合わせて揺れたり、時に抱き合ったり。まるで甘い恋人同士のような時間を過ごしていた。
「あっくんなんで」
「さっきここを通りかかってさ。素敵だな、なっちゃんに見せたいなって思ったんだ」
あっくんが優しく笑うから、私も釣られて笑った。
ふたりの姿を見ていると、終わってしまう現実が切なくて胸が苦しくなる。でも同時に、私も将来、こんなふうになりたいとも強く思う。
ふたりは、ふたりの人生の区切りを、けじめを、つけた。
ふたりが納得する形で、幸せな思い出にして。
私も、私なりの向き合い方で明日を迎えたいと思った。
家に帰り、白紙の日記帳に向かって想いを綴る。
書き終えると、心が軽くなった。
そして、明日から始まる九月を、少しだけ楽しみなしている自分がいた。
*
「マスター・しーちゃん!四十年間、本当にお疲れ様でした!」
九月一日。
閉店当日は、小さなパーティーが開かれた。と言っても、おじいちゃんは相変わらず珈琲を淹れている。
今日が、「しぐれ」の珈琲が飲める最後の日。
見慣れた客たちは、それを噛み締めながら珈琲を口に運ぶ。
そんなみんなの姿を見て、私も一口飲んでみる。
「…にがい」
やっぱり、私にはまだ苦いみたい。
「大丈夫!飲めなくても、なっちゃんはちゃんと大人になれるさ」
私の姿を見て、おじいちゃんは笑いながらそう言った。
目の前にはおじいちゃんとおばあちゃん。
憧れのふたりと、大好きな場所。
そして、横には好きな人。
「しぐれ」がなくなっても、場所や名前が変わっても、大好きな人達がそこにいたら、それでいい。
そんなみんなの居場所を、私も作りたい。
「私ね、将来ふたりみたいになりたい。時間はかかるかもしれないけど、喫茶店がやりたい。それで、そこにはおじいちゃんとおばあちゃんが居て、窓際には好きな人もいる。そんな居場所を作るよ」
私がそう言うと、ふたりは顔を見合せて照れながら笑い合った。
横にいるあっくんが、勢いよく私を抱きしめるから、私は驚きながらも嬉しくて、最後もやっぱり泣いてしまった。
─────────────────────────
居場所でいてくれてありがとう。
次は私が、みんなの居場所になるよ。
「しぐれ」大好き。ありがとう。またね。
2026/8/31 木下夏月
─────────────────────────
【終】
私はまだ、あの日記帳に何も書けないでいる。けれどそれでもいい。私は最後に思った言葉を綴ると決めたから。
あっくんに「悲しいと思う分、一緒にありがとうって伝えよう」と言われて、閃いたことがある。
一人でも多くのお客さんに喫茶「しぐれ」の閉店を知ってもらって、「ありがとう」とおじいちゃん達とそして「しぐれ」に伝えてもらうことだ。
そんなことをあっくんに相談すると、若者が訪れるきっかけになった動画サイトで紹介してもらうのはどうかと言う話になった。年配の方たちに向けては、自分たちで作ったチラシを商店街やスーパーに許可を貰い貼り付けた。
初日から結果が出るなんて思っていなかったけれど、なんと、さっそく奇跡が起きた。
日記帳の一ページ目にメッセージを書いてくれた、恵子さんが閉店一週間前に来店してくれたことだ。
「まあ!お久しぶりね恵子ちゃん!」
おばあちゃんはとっても嬉しそうで、若い頃に戻ったようにはしゃいでいる。そんな二人を見ながら珈琲を入れるおじいちゃんも、すごく嬉しそう。
「孫がね、動画を見せて教えてくれたのよ。久しぶりの遠出の旅先がしぐれで嬉しいわ。しーちゃん、マスター、ありがとう」
恵子さんは、娘夫婦と暮らすために引っ越して以来、初めて来店したみたいだった。感謝の言葉を言われているおじいちゃん達の姿を見て、私も嬉しく思う。
昔よく来ていたという子連れのお父さんや、
前に近くのスナックでバイトしていて休憩時間を「しぐれ」で過ごしていた大学生、
一度しか訪れたことはないけれど閉まる前にもう一度来たかったと言うカップル。
古くから知ってくれてる人から、最近知った人まで。
残りの一週間で、恵子さんを皮切りに、たくさんの人が「しぐれ」を訪れ、ありがとうとお疲れ様でしたを口にした。
そんな姿をあっくんとふたりで見守っていると、あっくんは私に耳打ちをした。
「やっぱり愛されてるね、マスターとしーちゃん」
自分が言われた訳では無いのに、心の底から嬉しくなった。
これは、おじいちゃんとおばあちゃんが、四十年間、真心込めて「しぐれ」と向き合ってきた結果だ。
そして喫茶「しぐれ」は、あっという間に過ぎていった最後の一週間で、歴代最高の来客数を更新した。
*
ついに、明日。
九月一日に、喫茶「しぐれ」は閉店する。
私の嫌いな九月がついにそこまで来てしまった。
二階の自分の部屋で空白の日記帳と向き合っていると、携帯が鳴った。あっくんだ。
「もしもし」
「ねえなっちゃん、ちょっと今から連れていきたいところあるんだけどさ」
「え?今から?」
「うん」
真夏と言っても、夜八時となるとだいぶ暗くなり始めている。
「いいけど…今どこ?」
「ん?下にいる」
「下?」
窓の網戸を開けて下を覗くと、自転車に跨っているあっくんがいた。
明日が終われば、あっくんは自分の街に帰るのに、あまりにも当たり前に居るから、私はなんだか笑いそうになった。
自転車であっくんの後を着いていく。
見慣れた道、見慣れた信号。
あっくんが漕ぐのを止めたのは、喫茶「しぐれ」の前だった。
「なんでここ?」
「ほら、みて」
夜八時なのに、小さな明かりがついている店内を、私たちは何故か隠れて覗く。
するとそこには、ふたりで珍しくワインを飲むおじいちゃんとおじいちゃんの姿があった。店内からは微かに、普段は流れていない外国の音楽が聞こえる。
これは、私が幼い頃に一度、ふたりが思い出の曲だと言って聴かせてくれた曲だ。
ふたりはゆっくりと向かい合い、音楽に合わせて揺れたり、時に抱き合ったり。まるで甘い恋人同士のような時間を過ごしていた。
「あっくんなんで」
「さっきここを通りかかってさ。素敵だな、なっちゃんに見せたいなって思ったんだ」
あっくんが優しく笑うから、私も釣られて笑った。
ふたりの姿を見ていると、終わってしまう現実が切なくて胸が苦しくなる。でも同時に、私も将来、こんなふうになりたいとも強く思う。
ふたりは、ふたりの人生の区切りを、けじめを、つけた。
ふたりが納得する形で、幸せな思い出にして。
私も、私なりの向き合い方で明日を迎えたいと思った。
家に帰り、白紙の日記帳に向かって想いを綴る。
書き終えると、心が軽くなった。
そして、明日から始まる九月を、少しだけ楽しみなしている自分がいた。
*
「マスター・しーちゃん!四十年間、本当にお疲れ様でした!」
九月一日。
閉店当日は、小さなパーティーが開かれた。と言っても、おじいちゃんは相変わらず珈琲を淹れている。
今日が、「しぐれ」の珈琲が飲める最後の日。
見慣れた客たちは、それを噛み締めながら珈琲を口に運ぶ。
そんなみんなの姿を見て、私も一口飲んでみる。
「…にがい」
やっぱり、私にはまだ苦いみたい。
「大丈夫!飲めなくても、なっちゃんはちゃんと大人になれるさ」
私の姿を見て、おじいちゃんは笑いながらそう言った。
目の前にはおじいちゃんとおばあちゃん。
憧れのふたりと、大好きな場所。
そして、横には好きな人。
「しぐれ」がなくなっても、場所や名前が変わっても、大好きな人達がそこにいたら、それでいい。
そんなみんなの居場所を、私も作りたい。
「私ね、将来ふたりみたいになりたい。時間はかかるかもしれないけど、喫茶店がやりたい。それで、そこにはおじいちゃんとおばあちゃんが居て、窓際には好きな人もいる。そんな居場所を作るよ」
私がそう言うと、ふたりは顔を見合せて照れながら笑い合った。
横にいるあっくんが、勢いよく私を抱きしめるから、私は驚きながらも嬉しくて、最後もやっぱり泣いてしまった。
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居場所でいてくれてありがとう。
次は私が、みんなの居場所になるよ。
「しぐれ」大好き。ありがとう。またね。
2026/8/31 木下夏月
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【終】



