嫌われた九月

今日で九月まで残り三週間。九月なんて、このまま来なければいいのに。
あれから一度も、おじいちゃん達と閉店について話していない。私がひとりでただ悶々としているだけ。
ふたりはどちらかと言うといつもより明るくて、そんな姿を私は不思議に思っている。

「よーし、始めるぞ」
「うん、よろしくお願いします」

閉店後、夕日が差し込むまだ明るい店内で、おじいちゃんに珈琲の淹れ方を教わることになった。約束を覚えていないかと思っていたから、声をかけられた時は嬉しかった。

「そうそう、そんな感じ」
「うわ、最初こんな香りなんだ」

私たちの様子をおばあちゃんはカウンターに座りながら見守っている。
私が、ふたりに言いたいことを伝えるタイミング。今かもと思った。

「私さ、このお店継ぎたかったんだ」

珈琲が滴り落ちるのを見ながら、ゆっくりと言葉にしてみる。

「おじいちゃんみたいに美味しい珈琲を淹れられる人になりたかったし、おばあちゃんみたいにこのお店を支えたかった」
「無くなっちゃうなんて考えたこともなくて、やっぱり受け入れられない」

そう言葉にすると、おじいちゃんは意外なことを口にした。

「そうだな、受け入れられないよな。じーちゃんもそうだ」
「え…そうなの?」
「そうさ、ここで四十年、やって来たんだ。この場所が壊されて、大型施設になる?たまったもんじゃない」
「じゃあ、だったら…!」
「でもな、受け入れられないからって現実から目を逸らしていい理由にはならない」

おじいちゃんの綺麗な瞳と目が合った。

「このビルは老朽化が進んでて、次地震が来たら耐えられる保証がない。もしそうなった時、大切なお客さん、しーちゃんやなっちゃんがお店に居たらどうする。じーちゃんは守ってやれない」
「じゃあ取り壊してまたビルを作ればって思うよな。でもそれは、じーちゃん達が決めれることじゃない。これが現実だ」

もう一度告げられた、「しぐれ」が閉店するという現実。珈琲の香りが一段と強く感じる。

「どこか別の場所で続けるとかは?」
「それは、考えてない。しぐれはこの場所だけって決めてるんだ、ごめんな」

そう言われるって分かっていたのに、やっぱり寂しくて、涙が出そうになる。
私は、珈琲の香りがする「しぐれ」が大好きで、学校帰りに寄るのが当たり前だったこの場所に、自分の居場所を感じていた。

仕事が忙しい両親に変わって、ふたりは私の話をこの場所でよく聞いてくれた。
学校で何があったのか、友達と何して遊んだか、嫌なことはないか、好きな子はできたか。
怪我で早退した日は、家じゃなくてこの「しぐれ」に帰ってきたり、友達を連れて放課後に遊びに来たこともあった。
おじいちゃん達の気持ちが理解できる程、私もこの場所が好きで、ふたりがいるこの「しぐれ」が好きだ。

告げられた現実を、やっぱり私はまだ受け入れられない。
カウンターの内側にいる自分を想像し始めたのは小学六年生の頃。将来の夢というテーマで絵を書いた時、私は今見えているこの景色を書いた。
目の前のカウンターにはおじいちゃんとおばあちゃんがお客さんとして座っていて、奥のテーブルには常連のおばちゃん達。そして窓際の席には、私の将来の旦那さん。

おじいちゃんに教わった通りに珈琲を淹れて、ふたりに「美味しいね」って言ってもらいたかった。
それも、この場所でないとダメだったのに。あの絵は幻になってしまったんだ。

「なっちゃん、そろそろ」

おじいちゃんの声で我に返った私は、手元にある初めて淹れた珈琲を一口飲む。

「…にがい」

淹れたての珈琲はやっぱり苦くて、私はまだまだ子供なんだと思った。