学校のチャイムが鳴ると、私は誰よりも早く教室を出る。夏のセーラー服を靡かせながら、自転車に跨った。
急坂を立ち漕ぎで登り、太陽が反射してキラキラしている川を見ながら橋を渡る。
シャッターの閉まった商店街、主婦が集まる八百屋、そして眠っているスナックを通り抜けると、私の大好きな喫茶店「しぐれ」が見えてくる。
「おかえりなっちゃん」
お店の前に自転車を停めると、横から聞き慣れた声がした。おばあちゃんだ。
「ただいま〜今日も暑いね〜」
「そうね〜お店でアイス出してあげるよ」
「いいの〜!やった!」
お店の中に入ると、おじいちゃんが慣れた手つきで珈琲を淹れていた。
「いい香り〜」
「ほんとなっちゃんは珈琲の香り好きだな。飲めないのに」
「いいもん、大人になったら飲めるようになるもん」
おじいちゃんはいつも意地悪なことを言ってくるけど、そばに居ると安心感があるし、おばあちゃんはいつも褒めてくれて愚痴も聞いてくれる。そんなふたりが経営するこの喫茶店「しぐれ」が、私は世界で一番大好き。
「夏休みも毎日来るんでしょ?」
「もちろん!おじいちゃんに、珈琲の淹れ方教えてもらう約束したし!」
「飲めないのになー?」
「もう!うるさいな!私はふたりに飲んでほしいから淹れられるようになりたいんだってば!」
そんな小競り合いをしていると、奥のテーブルから子供の泣き声が聞こえた。
最近、流行りの動画サイトで紹介され、喫茶店「しぐれ」は若いお客さんが増えた。平日のこの時間は、赤ちゃんを連れている若いお母さんが集っていたり、私みたいな放課後を迎えた学生たちが息抜きをしにやってくる。もちろん、常連客もチラホラ。
古くさいビルの一階で静かに歩んで来た「しぐれ」は、かれこれ今年で開業四十周年らしい。
私のお母さんが産まれた年に、おじいちゃんがこのお店を始め、おばあちゃんの名前である詩紅(しぐれ)と名付けた。
私は生まれて初めて歩く瞬間を、ここ「しぐれ」で迎えたらしい。お水以外を口にしたのも、アイスクリームを食べたのも、はじめてのおつかいも、全てこの喫茶店「しぐれ」だった。
そんな、あって当たり前の「しぐれ」は、永遠に続いていくものだと、この時の私は何故かそう思ってしまっていた。
*
夏休み一日目の昼過ぎ。宿題を詰めたトートバッグを持ち、当たり前のように「しぐれ」に入ろうとした時だった。
「まさかここが九月に無くなるなんてね〜」
「しょうがないよ、老朽化進んじゃってるし」
「でも私、意外だったわよ?しーちゃんもマスターも、都市開発とか絶対反対すると思ったのに」
「私も思ってた。こんな素敵な場所なくして大型施設作るなんて、ありえないわよ」
常連客のおばちゃん達が、カウンター越しのおじいちゃん達に向かって話している。
老朽化?都市開発?大型施設?
何を言ってるのかさっぱり分からない。
「ねえ、今のなんの話?」
私の声に驚き、おばちゃん達は戸惑いの表情を浮かべた。おじいちゃんとおばあちゃんは、私の顔を表情一つ変えずに見つめる。
「なっちゃんあのね」
一番早く口を開いたのはおばあちゃんだった。
「ここね、九月に閉めることにしたのよ。このビル、取り壊されるみたいでね。それで決めたの」
あまりの出来事に、下唇を噛んでしまう。
「まあ、なんだ。この夏休みは一緒に過ごせるわけだし、ここが閉まったって、思い出が無くなる訳じゃないぞ」
おじいちゃんのその言葉に、私は全く安心感を感じなかった。
私はそのまま何も言えず、「しぐれ」を飛び出した。真っ先に向かったのは、在宅勤務をしている母の元。
「ねえ!しぐれが無くなるってどういう事?!」
勢いよく書斎に入ると、母は驚いて珈琲を零していた。
「ちょっと!入る時はノックしてよね?!あーあ、服に零れちゃったじゃない」
中身が減ったコップを机に置き、書斎を出ていく母を、私は小さい子供のように追いかけた。
「ねえどういう事?取り壊しってなに?」
「あのビルね、築五十年なんだって、だからしょうがないのよ。それに、二年前ぐらいから都市開発の話も来てたみたいで、それで決めたってさ」
「しょうがないって…お母さんはしぐれが無くなるの嫌じゃないの?!」
母は新しい洋服に着替えると、汚れたシャツを持って洗面所に向かう。私はまたその後を追いかけた。
「これはね、嫌とか嫌じゃないとかの話じゃないの。時代が変わると、起こり得る自然なことなの」
「じゃ、じゃあさ、別の場所で続けるとかって言う手もあるよね?!」
珈琲の染み抜きを始めた母は、私の言葉に手を止めた。
「続けないって、ふたりが決めたの。私はその気持ちを尊重したい。四十年頑張ってきたんだもん、後はゆっくり過ごして欲しいじゃない」
両親を思う娘の顔。母はそのまま視線を汚れたシャツに向けた。
なんで?あのビルが無くなるのなら、別の場所でやればいいじゃない。いや、そもそも、老朽化で取り壊しなんて納得いかない。「しぐれ」が無くなるなんて、信じられない。
都市開発に賛成?ありえない。
大型施設なんて必要ない。
あの場所だけは、「しぐれ」だけは、絶対に無くなっちゃだめなの。
*
夏休み十日目の朝。
私は静かに「しぐれ」の扉を開けた。珈琲の香りが鼻に届いてホッとする。
「なっちゃん…!」
おばあちゃんが、心配そうな顔をして駆け寄り、私の両手を掴んだ。
「ごめんねえ、なっちゃん。ちゃんと言えてなくてごめんねえ」
おばあちゃん達が私に黙っていた理由を知っている。最後の中体連にテスト期間、負けて沈んでいた姿やテスト勉強を頑張っている私を見ていたから、動揺させることは言わないようにしてくれていたと、母が言っていた。
握られた両手を見て思う。
母も、何かあると必ず両手を握ってくる。怒る時、謝る時、褒める時。いつもこうだ。
なんでも、感情は手から伝わるらしい。母が前に、これはおばあちゃんの受け売りだと言っていたことを思い出した。ちゃんと、伝わってくる。おばあちゃんの温もりと、ごめんねの気持ち。
「ううん。私も、出て行ったきり来れなくてごめん。しぐれが無くなるなんて、寂しくて。今も、納得できてない」
「そうだよねえ。なっちゃんがここを大好きでいてくれたから、続けてこれたんだよ」
おばあちゃんがそう口にすると、暖簾の奥からおじいちゃんが顔を出した。すると私を見て安心したように笑うから、私は涙が溢れて止まらなくなった。
いつものように宿題を広げて、りんごジュースを飲んでいると、懐かしい顔が「しぐれ」の扉を開けた。
「中川さん?」
「おー!なっちゃん!久しぶりー!大きくなったね!」
中川さんは私が小学一年生の頃まで、この「しぐれ」に来ていた常連客。よく遊んでもらっていたから、顔も名前もよく覚えていた。
「僕の奥さんと、息子のレンだよ」
「こんにちは。わぁ、ちっちゃいね」
まだ生まれて日が浅そうな赤ちゃんが、奥さんに抱かれて眠そうにしている。中川さんに気がついたおじいちゃんは、とても嬉しそうにカウンターから出てきて、大きくて手を広げて抱きしめた。
「いやー、また来てくれて嬉しいよ。東京に住んでるんだろ?こんな小さい子連れて、大変だっただろうに」
「いえいえ、閉まるなんて聞いたら、這ってでも来ますよ!「しぐれ」は僕にとっても大切な場所ですから!」
「あら、中川さんじゃない!お久しぶりね!」
「しーちゃん!わあ、全然変わらないね!」
「やだもう、そっちも相変わらずね〜」
おばあちゃんもおじいちゃんもすごく嬉しそう。私は邪魔をしないようにそっと座った。眠たそうな赤ちゃんと目が合った気がして、微笑んでみる。
私もこうやって、母に抱かれてこの「しぐれ」に来ていた。幼少期のアルバムには、そんな写真ばかり。
時が経ち、ここが無くなる日が来るなんて、思ってもみなかった。昔の自分を思い出して、心底羨ましくなった。
中川さんはあの頃と同じで、ナポリタンを食べている。赤ちゃんはベビーカーに寝かせられ、奥さんが食べているのは私の大好きなオムライス。2人して楽しそうに食事をする姿は、私の心とは裏腹で、少しだけ暑苦しい。
「なーに、なっちゃん。険しい顔して」
中川さんはナポリタンを頬張りながら話しかけてきた。
「…別に。ただ、随分楽しそうだなと思って」
「えー?久しぶりに来たからそりゃ楽しいし、思い出に浸りたくもなるよ」
「来月ここ無くなるのに?」
「あ、分かった。なっちゃん寂しいからずっと眉間にシワ寄せてるんでしょ」
「…!私は!まだ納得してないんだよ。私の力でどうこうなる話じゃないことくらい分かってるけど、しぐれが無くなるのは避けたいの。でもどうしたらいいか分かんなくて、困ってるんだよ」
シャープペンを、カチカチ鳴らす。すると中川さんは食事の手を止めて、私の目の前に座った。
「な、なに」
「なっちゃんさ、ひとつ良い事教えてあげる」
「良い事?」
「僕もね、しぐれが閉店するって聞いて寂しかった。理由がビルの老朽化なんてさ、納得いかないよね。分かる。でもさ、しぐれは終わっても、無くなる訳じゃないよ」
「終わると無くなるは同じことじゃん」
「ううん。僕は違うと思う。ここに何度も来たことある人、年に数回の人、一度きりの人。その人達の中で、しぐれはずーっと存在し続ける。確かにお店は解体されて、ここの温もりも珈琲の匂いも無くなる。けど、しぐれは今まで沢山の人に愛されてきた。それは変わらない」
「ほら、僕だって子供産まれて間もないけど、奥さんに頼み込んででも、行きたいと思うくらいしぐれが好きだし、その思いは絶対無くならないよ」
りんごジュースの氷が溶けて、カランと音を立てた。
中川さんが言ってること。私も本当は分かってる。頭では分かってるのに、気持ちが全然ついてこない。
母が言っていた、「時代が変わると、起こり得る自然なこと」ってのも、理解できるのに、納得できない。「でも」とか「だって」が出てきて、止められない。
いつも前を通り過ぎる、シャッターが閉まっている商店街は、私が幼い頃、もっと賑わっていた。通っていたパン屋は閉店したし、母と行った裁縫屋さんも閉まった。
何らかの理由で閉店して、またそこに新しいお店が入ったり、入らなかったりして。そうやって時代は進んでいくし、都市開発も進む。より良い街、住みやすい街になっていく。それが当たり前。
古くなったら新しいものにする。
洋服だって、自転車だって、シャープペンだってそう。
動かなくなって困る前に、新しいものにして、着れなくなったら捨てて新しいものを買う。
自分だって今まで当たり前にしてきたのに、どうしてこうも納得がいかないんだろう。どうして私だけ、こんなに子供なんだろう。
中川さん夫婦を見送ってお店に戻ると、やっぱり珈琲の香りがしたから、私は覚えていたくて深く息を吸った。
急坂を立ち漕ぎで登り、太陽が反射してキラキラしている川を見ながら橋を渡る。
シャッターの閉まった商店街、主婦が集まる八百屋、そして眠っているスナックを通り抜けると、私の大好きな喫茶店「しぐれ」が見えてくる。
「おかえりなっちゃん」
お店の前に自転車を停めると、横から聞き慣れた声がした。おばあちゃんだ。
「ただいま〜今日も暑いね〜」
「そうね〜お店でアイス出してあげるよ」
「いいの〜!やった!」
お店の中に入ると、おじいちゃんが慣れた手つきで珈琲を淹れていた。
「いい香り〜」
「ほんとなっちゃんは珈琲の香り好きだな。飲めないのに」
「いいもん、大人になったら飲めるようになるもん」
おじいちゃんはいつも意地悪なことを言ってくるけど、そばに居ると安心感があるし、おばあちゃんはいつも褒めてくれて愚痴も聞いてくれる。そんなふたりが経営するこの喫茶店「しぐれ」が、私は世界で一番大好き。
「夏休みも毎日来るんでしょ?」
「もちろん!おじいちゃんに、珈琲の淹れ方教えてもらう約束したし!」
「飲めないのになー?」
「もう!うるさいな!私はふたりに飲んでほしいから淹れられるようになりたいんだってば!」
そんな小競り合いをしていると、奥のテーブルから子供の泣き声が聞こえた。
最近、流行りの動画サイトで紹介され、喫茶店「しぐれ」は若いお客さんが増えた。平日のこの時間は、赤ちゃんを連れている若いお母さんが集っていたり、私みたいな放課後を迎えた学生たちが息抜きをしにやってくる。もちろん、常連客もチラホラ。
古くさいビルの一階で静かに歩んで来た「しぐれ」は、かれこれ今年で開業四十周年らしい。
私のお母さんが産まれた年に、おじいちゃんがこのお店を始め、おばあちゃんの名前である詩紅(しぐれ)と名付けた。
私は生まれて初めて歩く瞬間を、ここ「しぐれ」で迎えたらしい。お水以外を口にしたのも、アイスクリームを食べたのも、はじめてのおつかいも、全てこの喫茶店「しぐれ」だった。
そんな、あって当たり前の「しぐれ」は、永遠に続いていくものだと、この時の私は何故かそう思ってしまっていた。
*
夏休み一日目の昼過ぎ。宿題を詰めたトートバッグを持ち、当たり前のように「しぐれ」に入ろうとした時だった。
「まさかここが九月に無くなるなんてね〜」
「しょうがないよ、老朽化進んじゃってるし」
「でも私、意外だったわよ?しーちゃんもマスターも、都市開発とか絶対反対すると思ったのに」
「私も思ってた。こんな素敵な場所なくして大型施設作るなんて、ありえないわよ」
常連客のおばちゃん達が、カウンター越しのおじいちゃん達に向かって話している。
老朽化?都市開発?大型施設?
何を言ってるのかさっぱり分からない。
「ねえ、今のなんの話?」
私の声に驚き、おばちゃん達は戸惑いの表情を浮かべた。おじいちゃんとおばあちゃんは、私の顔を表情一つ変えずに見つめる。
「なっちゃんあのね」
一番早く口を開いたのはおばあちゃんだった。
「ここね、九月に閉めることにしたのよ。このビル、取り壊されるみたいでね。それで決めたの」
あまりの出来事に、下唇を噛んでしまう。
「まあ、なんだ。この夏休みは一緒に過ごせるわけだし、ここが閉まったって、思い出が無くなる訳じゃないぞ」
おじいちゃんのその言葉に、私は全く安心感を感じなかった。
私はそのまま何も言えず、「しぐれ」を飛び出した。真っ先に向かったのは、在宅勤務をしている母の元。
「ねえ!しぐれが無くなるってどういう事?!」
勢いよく書斎に入ると、母は驚いて珈琲を零していた。
「ちょっと!入る時はノックしてよね?!あーあ、服に零れちゃったじゃない」
中身が減ったコップを机に置き、書斎を出ていく母を、私は小さい子供のように追いかけた。
「ねえどういう事?取り壊しってなに?」
「あのビルね、築五十年なんだって、だからしょうがないのよ。それに、二年前ぐらいから都市開発の話も来てたみたいで、それで決めたってさ」
「しょうがないって…お母さんはしぐれが無くなるの嫌じゃないの?!」
母は新しい洋服に着替えると、汚れたシャツを持って洗面所に向かう。私はまたその後を追いかけた。
「これはね、嫌とか嫌じゃないとかの話じゃないの。時代が変わると、起こり得る自然なことなの」
「じゃ、じゃあさ、別の場所で続けるとかって言う手もあるよね?!」
珈琲の染み抜きを始めた母は、私の言葉に手を止めた。
「続けないって、ふたりが決めたの。私はその気持ちを尊重したい。四十年頑張ってきたんだもん、後はゆっくり過ごして欲しいじゃない」
両親を思う娘の顔。母はそのまま視線を汚れたシャツに向けた。
なんで?あのビルが無くなるのなら、別の場所でやればいいじゃない。いや、そもそも、老朽化で取り壊しなんて納得いかない。「しぐれ」が無くなるなんて、信じられない。
都市開発に賛成?ありえない。
大型施設なんて必要ない。
あの場所だけは、「しぐれ」だけは、絶対に無くなっちゃだめなの。
*
夏休み十日目の朝。
私は静かに「しぐれ」の扉を開けた。珈琲の香りが鼻に届いてホッとする。
「なっちゃん…!」
おばあちゃんが、心配そうな顔をして駆け寄り、私の両手を掴んだ。
「ごめんねえ、なっちゃん。ちゃんと言えてなくてごめんねえ」
おばあちゃん達が私に黙っていた理由を知っている。最後の中体連にテスト期間、負けて沈んでいた姿やテスト勉強を頑張っている私を見ていたから、動揺させることは言わないようにしてくれていたと、母が言っていた。
握られた両手を見て思う。
母も、何かあると必ず両手を握ってくる。怒る時、謝る時、褒める時。いつもこうだ。
なんでも、感情は手から伝わるらしい。母が前に、これはおばあちゃんの受け売りだと言っていたことを思い出した。ちゃんと、伝わってくる。おばあちゃんの温もりと、ごめんねの気持ち。
「ううん。私も、出て行ったきり来れなくてごめん。しぐれが無くなるなんて、寂しくて。今も、納得できてない」
「そうだよねえ。なっちゃんがここを大好きでいてくれたから、続けてこれたんだよ」
おばあちゃんがそう口にすると、暖簾の奥からおじいちゃんが顔を出した。すると私を見て安心したように笑うから、私は涙が溢れて止まらなくなった。
いつものように宿題を広げて、りんごジュースを飲んでいると、懐かしい顔が「しぐれ」の扉を開けた。
「中川さん?」
「おー!なっちゃん!久しぶりー!大きくなったね!」
中川さんは私が小学一年生の頃まで、この「しぐれ」に来ていた常連客。よく遊んでもらっていたから、顔も名前もよく覚えていた。
「僕の奥さんと、息子のレンだよ」
「こんにちは。わぁ、ちっちゃいね」
まだ生まれて日が浅そうな赤ちゃんが、奥さんに抱かれて眠そうにしている。中川さんに気がついたおじいちゃんは、とても嬉しそうにカウンターから出てきて、大きくて手を広げて抱きしめた。
「いやー、また来てくれて嬉しいよ。東京に住んでるんだろ?こんな小さい子連れて、大変だっただろうに」
「いえいえ、閉まるなんて聞いたら、這ってでも来ますよ!「しぐれ」は僕にとっても大切な場所ですから!」
「あら、中川さんじゃない!お久しぶりね!」
「しーちゃん!わあ、全然変わらないね!」
「やだもう、そっちも相変わらずね〜」
おばあちゃんもおじいちゃんもすごく嬉しそう。私は邪魔をしないようにそっと座った。眠たそうな赤ちゃんと目が合った気がして、微笑んでみる。
私もこうやって、母に抱かれてこの「しぐれ」に来ていた。幼少期のアルバムには、そんな写真ばかり。
時が経ち、ここが無くなる日が来るなんて、思ってもみなかった。昔の自分を思い出して、心底羨ましくなった。
中川さんはあの頃と同じで、ナポリタンを食べている。赤ちゃんはベビーカーに寝かせられ、奥さんが食べているのは私の大好きなオムライス。2人して楽しそうに食事をする姿は、私の心とは裏腹で、少しだけ暑苦しい。
「なーに、なっちゃん。険しい顔して」
中川さんはナポリタンを頬張りながら話しかけてきた。
「…別に。ただ、随分楽しそうだなと思って」
「えー?久しぶりに来たからそりゃ楽しいし、思い出に浸りたくもなるよ」
「来月ここ無くなるのに?」
「あ、分かった。なっちゃん寂しいからずっと眉間にシワ寄せてるんでしょ」
「…!私は!まだ納得してないんだよ。私の力でどうこうなる話じゃないことくらい分かってるけど、しぐれが無くなるのは避けたいの。でもどうしたらいいか分かんなくて、困ってるんだよ」
シャープペンを、カチカチ鳴らす。すると中川さんは食事の手を止めて、私の目の前に座った。
「な、なに」
「なっちゃんさ、ひとつ良い事教えてあげる」
「良い事?」
「僕もね、しぐれが閉店するって聞いて寂しかった。理由がビルの老朽化なんてさ、納得いかないよね。分かる。でもさ、しぐれは終わっても、無くなる訳じゃないよ」
「終わると無くなるは同じことじゃん」
「ううん。僕は違うと思う。ここに何度も来たことある人、年に数回の人、一度きりの人。その人達の中で、しぐれはずーっと存在し続ける。確かにお店は解体されて、ここの温もりも珈琲の匂いも無くなる。けど、しぐれは今まで沢山の人に愛されてきた。それは変わらない」
「ほら、僕だって子供産まれて間もないけど、奥さんに頼み込んででも、行きたいと思うくらいしぐれが好きだし、その思いは絶対無くならないよ」
りんごジュースの氷が溶けて、カランと音を立てた。
中川さんが言ってること。私も本当は分かってる。頭では分かってるのに、気持ちが全然ついてこない。
母が言っていた、「時代が変わると、起こり得る自然なこと」ってのも、理解できるのに、納得できない。「でも」とか「だって」が出てきて、止められない。
いつも前を通り過ぎる、シャッターが閉まっている商店街は、私が幼い頃、もっと賑わっていた。通っていたパン屋は閉店したし、母と行った裁縫屋さんも閉まった。
何らかの理由で閉店して、またそこに新しいお店が入ったり、入らなかったりして。そうやって時代は進んでいくし、都市開発も進む。より良い街、住みやすい街になっていく。それが当たり前。
古くなったら新しいものにする。
洋服だって、自転車だって、シャープペンだってそう。
動かなくなって困る前に、新しいものにして、着れなくなったら捨てて新しいものを買う。
自分だって今まで当たり前にしてきたのに、どうしてこうも納得がいかないんだろう。どうして私だけ、こんなに子供なんだろう。
中川さん夫婦を見送ってお店に戻ると、やっぱり珈琲の香りがしたから、私は覚えていたくて深く息を吸った。



