いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 その夜――瑞穂は人が寝静まった真夜中にこっそりと梓の屋敷を抜け出した。玄が戻るのは、予定通りなら明日のはず。裏口の場所や、人が絶対に通らない時間を探っていたら、こんなにギリギリになってしまった。

 それでも、じっくり調べた甲斐はあったのだろう。無事に外に出た瞬間、瑞穂は大きく安堵の息を吐いた。

「……ごめんなさい。とてもお世話になったのに」

 闇に沈む屋敷、その中で眠っているはずの梓たちに向けて深々と頭を下げる――瑞穂は、白玲山から攫われた時にも着ていた、彼女自身の着物をまとっている。挨拶もせずに逃げ出そうという時に、梓の思い出の着物を着るわけにはいかなかった。

(私には、やっぱりこれが相応しいわ……)

 襟の擦り切れた感じだとか、着古して薄くなった生地は、肌によく馴染んで落ち着いた。このみすぼらしい姿なら、盗賊や人さらいもわざわざ瑞穂に目をつけない、かもしれない。

 足音を殺して、村の家々の閉ざされた戸口の前をこっそりと進みながら、瑞穂は夜空を黒く切り取る山影を見上げた。かつて玄が退治した大蛇が棲みついていたというその山は、一日の終わりに夕日が沈むところでもある。それもまた、瑞穂はあらかじめ確かめていた。

(帝都は、東のほうにあるって。それなら、白玲山は西――日没の方向……!)

 あまりにも大ざっぱな指針なのは、分かっている。神である玄に乗って、空を駆けてきた道のりを、歩いて戻ろうというのが無茶なのも。瑞穂は何しろ世間知らずだし、お金も持っていないのに。でも、躊躇っている場合ではない。

(道中、働かせてもらえれば良いのよ。白玲山に近づけば、鵠様に知らせてくれる人もいるはず……!)

 そうして、鵠に分かっていただかなくては。瑞穂は母とは違うのだ、と。決してあの方を見捨てることなく、たとえ攫われても必ず戻る。稲盛村で、優しい扱いをされたからといって、それに甘えることはしないのだ。

 強く決意したつもりでも、山中に入ると、夜の闇はいっそう濃く暗く感じられて瑞穂を怯えさせた。村人がよく入るといっても、山道は平坦ではなく、石や木の根っこにつまづくこともある。虫なのか鳥なのか獣なのか、時折茂みを騒がせる気配や物音も恐ろしくて。

(玄様が立ち寄られる村の近くだもの、妖の類いはいないはず……)

 自分に言い聞かせながら、瑞穂はそろそろと足を進めた。夜が明ければ、逃げ出したことが露見してしまう。村人たちに見つかる前に、距離を稼いでおかなければならない。

(……村からは、もう十分離れたはず、よね)

 夜空には星が輝いてはいても、瑞穂が這うように進む山の中はどこまでも暗い。闇に押し潰されてしまいそうな恐怖に耐えられず、瑞穂はそっと唇を開いた。

「鏡山 呼ばうる声すなり――」

 ここまで来れば、声を出しても稲盛村には聞こえないだろう。
 世の栄えを祈念するおめでたい歌だ。歌い続ければ、何のものだか分からない恐ろしい音や鳴き声も、歌詞と同じく祝福の意味が込められているのだと、思い込めるかもしれない。

『東雲は、美しい国。空も地も川も、そこに棲むものすべて、なんて愛おしいのかしら』

 歌いながら、瑞穂は母の言葉を噛みしめた。闇の中に棲むものも、美しく愛おしいはずだ。あの言葉を言ったころの母なら、まだ巫女としての心を持っていただろうと思いたい。

(やっぱり歌ってすごい。元気が出てくるみたい)

 詞と調べに励まされたからだろうか、歌っていると、瑞穂の歩みは明らかに速まった。
 不思議と、木や草が道を開けてくれるような感覚さえする。この調子なら、太陽が昇るまで歩き続けることができそうだ。

「世に栄ゆべき 影ぞみゆらし――」

 弾む息に歌を乗せて、瑞穂はまた一歩、足を踏み出そうとした――彼女の眼前に、けれど、いっそう濃く黒い、巨大な影が立ちふさがった。

(何……?)

 熊か何かと鉢合わせしてしまったのか、と一瞬思った。でも、それにしては、様子がおかしい。
 かすかな星明かりの下とはいえ毛並みが見えないし、見あげるほどの体躯はあまりに大きすぎる。輪郭もどこかいびつで、どの獣とも思えない歪んだ凹凸があって。

 恐れと疑問に、瑞穂が声もなく棒立ちになっていると――びちゃり、と。泥を引きずるような音が聞こえた。

「――っひ」

 「それ」が瑞穂のほうへと身を乗り出したことで、全容が分かってしまった。
 大ざっぱに四つ足の獣の姿はしているけれど、熊とも犬とも猪ともつかない。身動ぎするたびに輪郭が揺れ動くのは、泥と粘土を捏ねて作った下手な人形が、まだ固まり切っていないかのよう。
 ――違う、「それ」を構成するナニカそのものが、動き続けているのかもしれない。頭や背や手足――と、思しき部分が、絶え間なく膨らんだり弾けたりしぼんだりして、その度にさっきの粘りある水音を立てる。

(泥、というか……瘴気、というもの? 降り積もった(けが)れが(こご)って、獣に取りついた……!?)

 白玲山は、もちろん瘴気も穢れも無縁だから、瑞穂も漠然とした知識しかない。でも、絶対におかしな事態だった。
 たとえ神山を離れた場所だとしても、稲盛村の人々は真面目に朗らかに生きていた。瘴気の原因となるような退廃とは、無縁の場所だと思うのに。

 気付けば、辺りは異様なほどに静まり返っていた。獣の動く気配はおろか、風が草葉をそよがせる音さえ聞こえない。山全体が、恐ろしい穢れの存在に怯えて、息を潜めているかのようだった。

 聞こえるのは、瑞穂自身の激しい心臓の鼓動だけ。闇が、どろりとした粘液に変わったようで、身動きも呼吸もできなくなってしまう。――そんな、行き詰まる緊張と膠着状態を破ったのは、「それ」が発する声だった。

「ウタ……ミコのウタダ――」

 どこからどうやって人の言葉らしきものを出しているかは分からない。恐らくは無理があるのだろう、やすりを擦り合わせるような、耳障りな声だった。とても聞き取りづらいけれど――喜んでいること、瑞穂に対して舌なめずりをしている気配は、嫌というほど伝わってくる。

「クワセロ!」
「嫌あっ」

 「それ」の身体が大きく膨れ上がった、かと思うと、瑞穂を目がけて粘りある塊が襲いかかる。間一髪、跳び退ることには成功したけれど、道を外れた瑞穂は、斜面を転がり落ちることになってしまった。

「痛……っ」

 闇の中、上下も分からないけれど、下生えの枝で顔や手足が切り裂かれたのは、鋭い痛みが教えてくれる。身体も、何度も地面に打ち付けられて息が止まる。

「……っ」

 落ち切ったところで、地面にへばりつくような恰好で瑞穂は呻いた。痛い。意識を喪わなかったのは、不運としか思えなかった。瘴気が凝った「あれ」に食べられるその瞬間を、味わわなければならないのだから。

(嫌。怖い……!)

 木々の枝葉の間を通って辛うじて届いていた星明かりが、遮られた。黒い影が間近に覗き込んでいるのを感じて、瑞穂は目を瞑り、ぎゅっと手足を縮こまらせた。でも――

「瑞穂! そこにいたか!」

 聞こえたのは、化け物の耳障りな声ではなく、凛と響く力強い声だった。それも、瑞穂が知っている方の。どろりと淀んでいた空気を一掃するような、涼やかなその声の主は――

「は、玄様……!?」

 瑞穂の呼びかけに応じて、狼の高らかな遠吠えが夜の山を揺らした。痛みをこらえて顔を上げ、目を凝らせば、見えてくる。闇の中に、同じ色の三角の耳がふたつ、ぴんと立っている。星の光でも艶やかに輝く毛並みに、強靭な四肢。狼の姿の玄が、瑞穂のすぐそばに降り立っていた。