いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 瑞穂が白玲山から攫われて――あるいは、帝都に発つ玄を見送って、五日経った。稲盛(いなもり)村と教えられた場所で、その村長の母だという梓のもとでの瑞穂の日課も、安定してきた。

 朝、夜明けとともに起きるのは、白玲山にいたころと同じ。けれど、その後は大きく違う。

 隙間風の入ってこない部屋に敷かれた、柔らかい布団の傍に用意されているのは、清潔な着物。
 誰かが使っていたことがあるものなのは分かるけれど、仕立ても質も良いし、日によって違う花や鳥の模様も色とりどりで目に楽しい。帯も、色柄に合わせたものを梓が選んでくれているようで、毎朝目が覚めるのが楽しみだった。

 その後は、厨房で野菜を洗ったり米を炊く火の番をしたりの簡単な手伝い。温かい朝ご飯をいただいた後も、任せられるのは屋内でできることばかりだった。掃除だとか繕いものだとか――若い衆に振る舞うぼた餅作りの手伝いに至っては、味見が許されるのだからご褒美としか思えなかった。

 それに、梓だけでなく、屋敷の中や、ちょっと外に出た時に顔を合わせる村人たちの誰もが、瑞穂に優しく声をかけてくれる。

『おはよう、瑞穂ちゃん』
『髪も肌も色つやが良くなってきて! 安心したよ』
『この村の野菜は美味いだろう』

 にこやかな挨拶や気遣いは、瑞穂がいつも遠目に見て憧れていたものだった。水鏡郷の人々も、彼女以外には優しく互いに仲が良く、助け合って暮らしていた。ただ、瑞穂はその輪の中に入ることが許されなかっただけで。

 ぎこちなくも笑みをまとって挨拶を返しても、生意気だとか調子に乗っているだとか言われない。どもってばかりで気の利いたことも言えないのに、言葉を交わしただけで馴染んでくれて良かった、と言ってくれる。

 飢えることも寒いこともなく、善意と優しさに包まれて――でも、瑞穂は喜んではいけない、と自分い言い聞かせていた。

(玄様が連れてきた娘だからよ。だから、おろそかにはできないだけ。それに、私のことを何も知らないから)

 詮索しない、という梓の意思が村人たちにも伝わっているのか、誰も瑞穂の素性を尋ねてきたりはしなかった。だから、瑞穂は白玲山のことも、鵠のことも言い出せないでいる。……彼女が罪人の娘だということも。

(この村の人たちも、神を敬っている。珠の巫女に選ばれたのに、鵠様を裏切った……そんな罪人の娘だと知られたら……!)

 不誠実だと分かっているのに、村人たちから嫌悪や非難の目で見られるのが怖くて打ち明けられない瑞穂は、狡い。ほんの数日で、自分の立場、身のほどというものを忘れてしまいそうになるなんて。
 やはり瑞穂は、鵠が叱ってくれないとすぐに楽に流れて怠けてしまうのだろう。だから早く、白玲山に戻らないと。

 ――瑞穂が焦りを募らせていることに、誰も気付いていないようだった。今日も、村長の屋敷の奥座敷で瑞穂が針仕事をしていると、梓がほう、と感嘆の息を漏らした。

「瑞穂さんは働き者ねえ。のんびりしていて良いのに」

 当の梓は、銀縁の老眼鏡をかけて、何やら帳簿らしい帳面をめくっている。女主人として屋敷の采配に忙しくしているのは、短い間でもよく分かった。

 だから瑞穂は即座に大きく首を振った。

「そんな。お世話になって、何もしないというわけには……」

 梓は最初、話し相手になってくれれで良い、なんて言っていた。瑞穂が簡単すぎる、楽すぎると思うていどの仕事でさえも、こちらから頼み込まなければもらえなかっただろう。

 針を摘まみ直しながら、瑞穂は任されていた生地をそっと撫でた。村で婚礼があるということで、花嫁衣裳の刺繍に針を加えて欲しいとのことだった。多くの人の手が携わったほうが、祝福になるから、と。

(とても、綺麗。幸せな花嫁になりますように)

 鶴などの吉祥の紋様を施した絹の生地は、見るだけ、触れるだけでも心が浮き立つ。瑞穂自身は婚礼に縁がないし、手伝わせてもらえるのは光栄でしかなかった。

「もっと働かなくて、本当に良いのですか? 水仕事でも、力仕事でも――慣れているから大丈夫です」
「そんな華奢な手足で力仕事なんて。適材適所というものがあるでしょうに」

 もっと大変な仕事でも引き受けます、と言いたかったのに。
 梓はころころと笑って受け流す。困った瑞穂が俯くと、桜色の生地に蝶が舞う、可愛らしい着物の柄が目に入る。今日、着せてもらっているのも、とても素敵な一枚だった。

「……お着物だって。こんなに綺麗なのを着せていただかなくても良いんです。泥だらけになっても構わないような、そんなものがあれば、そのほうが――」

 借り物の着物で力仕事を申し出るのも図々しかった、と反省しながら瑞穂が食い下がると、梓はにこやかな笑顔のままで首を振った。

「気にする必要はないのよ、本当に。娘は嫁いだし、孫も男の子ばかりだから、若いころの着物を着てもらえて嬉しいくらい」
「これ、梓様のだったんですか……!?」

 誰かのものとは察していたし、大事に保管されていたものなのだろうとは分かっていた。でも、梓の――村長の家に嫁ぐような方のものとなると、思っていた以上に高価なものではないだろうか。

(ぬ、脱いだほうが良い……!? でも、この場で下着姿になるわけにも……)

 帯に手をかけたところで固まってしまった瑞穂の慌ただしさが、面白かったのだろうか。梓はさらに軽やかな笑い声を響かせ――そして、何か大切なものを見るかのように目を細めた。

「それは、玄様に助けていただいた時に来ていたのよね。懐かしいわ」
「え――」

 さらに意外なことを言われて固まった瑞穂に、梓はさらに微笑むと、干菓子を盛った鉢を手元に引き寄せ、首を傾げた。
 休憩しながらおしゃべりしましょう、という意味だと察して、瑞穂は針を針山に刺すと、梓の傍に座り直した。

「助けていただいたっていうのは、私が若いころの話よ。そこの近くの山にね、大蛇の妖が棲みついたのよ……!」

 梓が目で示したほうに山があるのは、瑞穂ももう知っていた。薪や山菜、キノコや木の実を求めて、村人たちがよく立ち入ることも。

 その日も、梓は村の娘たちと連れ立って山菜取りに出かけていた。大きな何かの影を見た、という噂はあったけれど、昼日中、おしゃべりの声を絶やさなければ、獣が近づくことはないだろうと、彼女たちは高をくくっていたのだ。

「牛も丸ごと呑み込めそうな大蛇だったわ。ほかの娘たちを先に逃がして――私は、もう駄目だと思ったものよ。そいつの目も口の中も真っ赤で、怖くて……」

 でも、そうはならなかった。娘たちの悲鳴と大蛇の妖気を察知した玄が、そいつの首を噛みちぎってくれたのだ。
 神々しくも猛々しい黒い狼の神に、稲盛村の者たちはもちろん深く感謝した。玄も、助け出した梓のことを気に懸けてくれて、時折様子を見に来てくれるようになった。そんなことが、もう五十年も続いているらしい。

「では――玄様は、ここにお住まいというわけではないのですね……」

 鵠は常に白玲山にいて、龍脈と山と郷とを守り、人からは日々祈りを捧げられている。神と人との関係はもっと密で、けれど接し方としては玄のあり方のほうがずっと気さくだ。

(神様によって、色々なのね……)

 星々の間を駆けながらの、玄の言葉が思い出された。

『お前はもっと広い世界を見るべきだ』

 確かに、瑞穂が知らないことは多い、のだろう。

(玄様は、私に世界を見せるために……?)

 それも、彼女を帝都に連れていく理由なのだろうか。でも、玄は母の瑞月の名も口にしていた。それから――何か、不穏なことも言っていたような。

「玄様は、社を持たない孤高の神。ひとつところに留まらない代わり、人が求める声に応じてくださる。神楽寮の頼みを聞き入れてくれる神様なんて、そうそういらっしゃらないわ」
「孤高の――でも、優しい御方なのですね……?」

 思い出しかけた不吉な予感は、でも、梓へ慌てて相槌を打った時にどこかに消え去ってしまった。

「ええ。この稲盛村を御座所にして欲しいと、何度もお願いしたのだけれど、ねえ」

 だって、懐かしそうに語る梓はほんのりと頬を染めていて、とても可愛らしかったから。少女時代の彼女の目には、玄はさぞ輝かしく颯爽と見えたのだろう。まだあの方に恐れを感じる瑞穂でも、姿かたちの端正さには見蕩れてしまうから、よく分かる。

「どうしても聞いてくださらなくて。巫女としてお仕えしたいと思ったのに! でも、同じことを言う村も娘も多いのでしょうから、キリがないのでしょうねえ」
「そう、だったんですか……」

 巫女、と聞いて心臓の鼓動が速まるのを感じながら、瑞穂はうなずいた。大丈夫、梓は思い出話を語っているだけだ。目の前の娘が、神の御座所の神山からやって来た、巫女の娘だなんて知る由もない。

「だから、玄様は瑞穂さんとも似たようなことがあったんでしょう。『留守番』は不安でしょうけれど、必ず戻ってくださるわ」
「は、はい」

 梓は、どうやら、瑞穂を励ましてくれようとしたらしい。玄がふらりと姿を消すのはいつものことだから、と。

(違うんです。私が怖いのは――)

 気遣いなのは分かるから、打ち明けられない。瑞穂は、玄が戻ることこそを恐れているのだと。帝都にて待ち受けること、そもそも白玲山と鵠からさらに離れてしまうことを考えるだけで、不安に震えてしまうのだということを。

「帝都までは――神楽寮が馬か車を出してくれるのかしら。それとも、鉄道を使うのかしら。いずれにしても、楽しみでしょう。ちょうど花津月(はなつづき)の祭礼のころだもの」

 花津月の祭礼は、春の到来を寿ぎ、平和で豊かな一年を祈願するためのものだ。帝都ではひときわ盛大に行われて、地方から見物に訪れる者も多いのだと聞く。
 花の女神に捧げる楽巫女たちの神楽舞に、供物に応じて女神が見せてくださる綾錦のような色とりどりの花の美しさ――瑞穂が何の後ろめたさも持たない身だったら、確かに是が非でも見たいと思っていただろうけれど。

(馬や車に乗せられてしまったら、もう逃げられない……!)

 梓が進めてくれた干菓子は、瑞穂の口の中でほろりと解けた。和三盆の優しい甘さは、けれどなぜか苦く感じる。

 玄の言葉が確かなら、彼の帰還、つまり次の出発までにはもう五日もない。それまでに、白玲山に戻る方法を何とか考えなければならなかった。