人の姿に戻った玄は、瑞穂の手を引いて村で一番大きな屋敷の門を叩いた。
「まあ、玄様……!」
「よくいらっしゃいました」
「婆様も喜びますよ」
「さあさ、どうぞ億へ――」
畑仕事に、家畜の世話。火を熾したり水を汲んだり――働く者たちの朝は早いから、家人が起床していること自体は当然だった。瑞穂が驚いたのは、玄の姿を見るなり、誰もが満面の笑みで歓迎したことだ。
(神様だって、皆さん知ってる……のよね? なのに、こんなに気軽に声を掛けるなんて
……)
水鏡郷の住民も、もちろん誰もが鵠を敬っていた。でも、郷に住まわせていただけるからといって、なれなれしく振る舞うなんてできるはずもない。罪人の娘だからと頻繁に声をかけていただいた瑞穂は、まれな例外だったのだ。
もちろん、それも教え導くためであって、決して鵠は彼女を甘やかしたわけではないのだけれど――なぜお前なんかが、という思いは、瑞穂への視線や言葉をいっそう険しくしていた。
『鵠様に目をかけられているからと、調子に乗るな』
『あれほどお気にかけていただいて、そのていどか。不出来な娘だ』
『すべて、お前の母の罪のせいだ。分かっているのだろうな!?』
もの心ついたころから浴びせられてきた罵倒を思い出して俯く瑞穂は、長身の玄の陰に隠れるてしまっていたのだろう。
ほとんど注目されたり声を掛けられたりすることはないまま、玄に導かれるまま、彼女は古く広い屋敷の廊下を進み――いつの間にやら、奥の座敷で品の良い老婦人と対面することになっていた。
村のまとめ役のような立場なのだろうか、老婦人がまとう着物は仕立ての良い紬で、白が目立つ髪には鼈甲のかんざしがとろりとした艶の煌めきを放っている。早朝から隙なく身支度を整えているあたり、とても勤勉な人なのだろうと窺えた。
「朝早くに騒がせてすまないな、梓」
厚みのある座布団に腰をおろして胡坐をかいた玄は、寛いだ表情で老婦人に微笑みかけた。鵠に対しては怖いほどに厳しい声やまなざしで接した御方の思わぬ表情に、瑞穂は思わず目を真ん丸にしてしまった。
(ここは、玄様のお社なのかしら。でも、白玲山と水鏡郷とは違って、普通の人間の村みたい……?)
神の御座所だというなら、もっと清らかな空気を湛えているだろうし、壮麗な建物を築きそうなものなのだけれど。
この場所が何なのか、以上に、瑞穂にも座布団が用意され、茶と干し柿が出された理由も分からなかった。
朝一番に沸かした湯に、昨年の秋の実りを大切に保存した、貴重な残り。神に捧げる供物として玄に出すのは当然として、瑞穂なんかにはもったいないものだと思うのに。
湯気を立ち上らせる湯呑に、触れても良いのかどうか。かじかんだ指先を半端に伸ばした瑞穂が戸惑っていると、梓というらしい老婦人は、おっとりと微笑んだ。
「玄様でしたら、いついかなる時でも歓迎いたしますよ。……そちらのお嬢さんは?」
「あ、あの。申し訳ありません……!」
茶のもてなしは、やはり瑞穂が手を伸ばして良いものではなかったのだ。慌てて畳に手をついた瑞穂に、梓は不思議そうな声を漏らす。
「……いいえ? ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」
「い、いえ。そんな……」
恐る恐る、目線だけを上げて様子を窺うと、梓は細い眉をわずかに寄せて、小首をかしげていた。何も悪くない――悪いのは常に瑞穂のはずだから――のに謝ることになったのだ。きっと気分を害しただろう。でも――
「玄様。何があったのですか。こんなに怯えて、可哀想に」
梓は、確かにまなじりを決して語気を強めた。けれどそれは玄に対してのこと、瑞穂を咎めているようではない。
「訳あって帝都に連れて行くところだった。名は――瑞穂、だったな」
そして、玄が瑞穂に問いかけた時のまなざしも、穏やかなものだった。行きがかり上とはいえ、彼が連れている娘が無作法を犯したのだから、叱責しても良いところなのに。
「は、はい。瑞穂です」
「そう、瑞穂さん。私は梓と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「……はい、どうか……」
声は上ずって、目はおどおどと泳いで、姿勢も中途半端なままで。湯呑を倒さなかったのが上出来なくらいの、とてもみっともない受け答えにも、梓は優しく笑ってくれた。
こちらが恥ずかしくなるほど綺麗な所作でお辞儀をされて、瑞穂がぎこちなくお辞儀を返すと、玄はこれで良し、と言いたげにうなずいた。
「か弱い娘に、俺の背にしがみつき続けろというのは酷だろう。俺がひとりで帝都に駆けて、そして神楽寮の迎えを連れてくる。それまで――十日くらいだろうな、この娘をあずかって欲しい」
そして彼がさらりと告げたのを聞いて、瑞穂は思わず腰を浮かした。
「そんな……っ」
知らない人たちの間に置き去りにされる。十日も不安な日々に耐えた後は、鵠のいる白玲山からさらに離れた帝都に連れていかれる。神楽寮というからには、東雲国の役人に囲まれて――そして、瑞穂は何をされるのだろう。
「承知いたしました。玄様のお言いつけなら、喜んで。――よろしくね、瑞穂さん」
なのに梓は、なぜか嬉しそうにうなずくと、瑞穂にも微笑みかけてくれる。押し付けられた娘が何者なのか、深く聞きもしないで。彼女の衣食住について、代価の話が何もでないのはおかしなことだと、世間知らずの瑞穂にも分かるというのに。
「わ、私……あの、帰らないといけなくて」
玄と梓の間では、話はもう決まったかのような空気の中、瑞穂なんかが異を唱えるのはとても勇気が要った。瑞穂は、鵠様に監督される身なのだ。母のように罪を犯すことがないよう水鏡郷の人々に厳しく見張ってもらわなければならないのに。
「若い女の子に、こんな扱いをするところに? いったいどうして?」
でも、瑞穂が身の上を説明する前に、梓は身を乗り出して彼女の手を取った。冬の間の水仕事で、すっかり荒れて、あかぎれだらけの痩せた手を。さらに梓は、瑞穂の痛んだ髪を梳き、頬を両手で包み込んでじっと覗き込んできた。梓の枯れて乾いた手は、けれど柔らかくて温かくて――触れられると、安心する。
「人さらいにでも遭ったのかしら。それとも、売られるところだった? ――分かったわ、妖の生贄にされるところを、玄様に救っていただいたんでしょう!」
「いえ、そんな」
白玲山は、母の故郷で瑞穂がもの心つく前から暮らした場所。そこにいるのは、美しく慈悲深い白鳥の神と、その御方に仕える選ばれた民。決して、賊の住処や妖の巣窟ではない。
「違うんです、あの」
「玄様のなさりそうなことよ。瑞穂さん、良いこと? 貴女がどんなところにいたかは詮索しないけれど、無理に帰る必要なんてないの」
ひどい誤解を解きたいのに、梓は口を挟む隙を与えてくれない。助けを求めて玄を見ても、面白がるような面持ちでふたりを眺めるだけだ。
「無理だなんて……ええと、私に、そんなに良くしていただくような価値は――」
「ほら! 価値のない子なんているものですか。そんなことを言う人たちのところへなんか、返すわけにはいかないわ」
梓がぎゅっと瑞穂を抱きしめたところで、玄は声を立てて笑った。我慢しきれなくなって思わず、といった風情の飾らない笑顔からは、鵠と対峙した時に鋭さや怖さはなくなっている。
(この方――こんな顔もなさるのね……)
明るくて、親しみやすくて――そしてやっぱり、とても綺麗。威厳がなくなるなんていうことは全然なくて、春の陽射しの温もりを浴びた時のように心が緩む。
「大丈夫そうだな。よろしく頼む」
「まあ、玄様はもうお発ちに? せめて朝餉をお出ししたいのに」
見惚れた瑞穂が言葉を失っている間に、玄は素早く立ち上がった。梓も、瑞穂を抱える腕の力を弱めながら、残念そうな声を漏らす。
(朝餉――神様と!?)
白玲山ではあり得ない事態に、瑞穂はこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。たとえ給仕だけでも、精進潔斎して臨まなければならない畏れ多いお務めだ。さらりと言い出す梓も、もしかしたら同席しなければならないのかも、という想像も、瑞穂を恐れおののかせたけれど――
「それは、瑞穂に出してやってくれ。ずいぶん怖がらせてしまったからな。俺がいては味わうところではなくなってしまうだろう」
赤くなったり青くなったりしているであろう瑞穂の顔を見下ろして、玄は悪戯っぽく笑った。それもまた、神様らしからぬ、けれどとても素敵な表情だった。
「さすが、お優しい。瑞穂さんには、私が責任をもってしっかり食べさせますからね」
「ああ、頼む」
初めてのこと、分からないこと、信じられないことがあまりにも立て続けに起きて、瑞穂は口を利くことはおろか、身動きすることもできなくなってしまった。
瑞穂が石像のように固まっている間に、またも狼の姿になった玄は、東の空へと駆けていった。そして、残された瑞穂には、梓が請け合った通りに食べきれないほどの炊き立てのご飯と良い香りのみそ汁、各種の漬け物や煮物やら卵焼きが出されたのだった。
「まあ、玄様……!」
「よくいらっしゃいました」
「婆様も喜びますよ」
「さあさ、どうぞ億へ――」
畑仕事に、家畜の世話。火を熾したり水を汲んだり――働く者たちの朝は早いから、家人が起床していること自体は当然だった。瑞穂が驚いたのは、玄の姿を見るなり、誰もが満面の笑みで歓迎したことだ。
(神様だって、皆さん知ってる……のよね? なのに、こんなに気軽に声を掛けるなんて
……)
水鏡郷の住民も、もちろん誰もが鵠を敬っていた。でも、郷に住まわせていただけるからといって、なれなれしく振る舞うなんてできるはずもない。罪人の娘だからと頻繁に声をかけていただいた瑞穂は、まれな例外だったのだ。
もちろん、それも教え導くためであって、決して鵠は彼女を甘やかしたわけではないのだけれど――なぜお前なんかが、という思いは、瑞穂への視線や言葉をいっそう険しくしていた。
『鵠様に目をかけられているからと、調子に乗るな』
『あれほどお気にかけていただいて、そのていどか。不出来な娘だ』
『すべて、お前の母の罪のせいだ。分かっているのだろうな!?』
もの心ついたころから浴びせられてきた罵倒を思い出して俯く瑞穂は、長身の玄の陰に隠れるてしまっていたのだろう。
ほとんど注目されたり声を掛けられたりすることはないまま、玄に導かれるまま、彼女は古く広い屋敷の廊下を進み――いつの間にやら、奥の座敷で品の良い老婦人と対面することになっていた。
村のまとめ役のような立場なのだろうか、老婦人がまとう着物は仕立ての良い紬で、白が目立つ髪には鼈甲のかんざしがとろりとした艶の煌めきを放っている。早朝から隙なく身支度を整えているあたり、とても勤勉な人なのだろうと窺えた。
「朝早くに騒がせてすまないな、梓」
厚みのある座布団に腰をおろして胡坐をかいた玄は、寛いだ表情で老婦人に微笑みかけた。鵠に対しては怖いほどに厳しい声やまなざしで接した御方の思わぬ表情に、瑞穂は思わず目を真ん丸にしてしまった。
(ここは、玄様のお社なのかしら。でも、白玲山と水鏡郷とは違って、普通の人間の村みたい……?)
神の御座所だというなら、もっと清らかな空気を湛えているだろうし、壮麗な建物を築きそうなものなのだけれど。
この場所が何なのか、以上に、瑞穂にも座布団が用意され、茶と干し柿が出された理由も分からなかった。
朝一番に沸かした湯に、昨年の秋の実りを大切に保存した、貴重な残り。神に捧げる供物として玄に出すのは当然として、瑞穂なんかにはもったいないものだと思うのに。
湯気を立ち上らせる湯呑に、触れても良いのかどうか。かじかんだ指先を半端に伸ばした瑞穂が戸惑っていると、梓というらしい老婦人は、おっとりと微笑んだ。
「玄様でしたら、いついかなる時でも歓迎いたしますよ。……そちらのお嬢さんは?」
「あ、あの。申し訳ありません……!」
茶のもてなしは、やはり瑞穂が手を伸ばして良いものではなかったのだ。慌てて畳に手をついた瑞穂に、梓は不思議そうな声を漏らす。
「……いいえ? ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」
「い、いえ。そんな……」
恐る恐る、目線だけを上げて様子を窺うと、梓は細い眉をわずかに寄せて、小首をかしげていた。何も悪くない――悪いのは常に瑞穂のはずだから――のに謝ることになったのだ。きっと気分を害しただろう。でも――
「玄様。何があったのですか。こんなに怯えて、可哀想に」
梓は、確かにまなじりを決して語気を強めた。けれどそれは玄に対してのこと、瑞穂を咎めているようではない。
「訳あって帝都に連れて行くところだった。名は――瑞穂、だったな」
そして、玄が瑞穂に問いかけた時のまなざしも、穏やかなものだった。行きがかり上とはいえ、彼が連れている娘が無作法を犯したのだから、叱責しても良いところなのに。
「は、はい。瑞穂です」
「そう、瑞穂さん。私は梓と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「……はい、どうか……」
声は上ずって、目はおどおどと泳いで、姿勢も中途半端なままで。湯呑を倒さなかったのが上出来なくらいの、とてもみっともない受け答えにも、梓は優しく笑ってくれた。
こちらが恥ずかしくなるほど綺麗な所作でお辞儀をされて、瑞穂がぎこちなくお辞儀を返すと、玄はこれで良し、と言いたげにうなずいた。
「か弱い娘に、俺の背にしがみつき続けろというのは酷だろう。俺がひとりで帝都に駆けて、そして神楽寮の迎えを連れてくる。それまで――十日くらいだろうな、この娘をあずかって欲しい」
そして彼がさらりと告げたのを聞いて、瑞穂は思わず腰を浮かした。
「そんな……っ」
知らない人たちの間に置き去りにされる。十日も不安な日々に耐えた後は、鵠のいる白玲山からさらに離れた帝都に連れていかれる。神楽寮というからには、東雲国の役人に囲まれて――そして、瑞穂は何をされるのだろう。
「承知いたしました。玄様のお言いつけなら、喜んで。――よろしくね、瑞穂さん」
なのに梓は、なぜか嬉しそうにうなずくと、瑞穂にも微笑みかけてくれる。押し付けられた娘が何者なのか、深く聞きもしないで。彼女の衣食住について、代価の話が何もでないのはおかしなことだと、世間知らずの瑞穂にも分かるというのに。
「わ、私……あの、帰らないといけなくて」
玄と梓の間では、話はもう決まったかのような空気の中、瑞穂なんかが異を唱えるのはとても勇気が要った。瑞穂は、鵠様に監督される身なのだ。母のように罪を犯すことがないよう水鏡郷の人々に厳しく見張ってもらわなければならないのに。
「若い女の子に、こんな扱いをするところに? いったいどうして?」
でも、瑞穂が身の上を説明する前に、梓は身を乗り出して彼女の手を取った。冬の間の水仕事で、すっかり荒れて、あかぎれだらけの痩せた手を。さらに梓は、瑞穂の痛んだ髪を梳き、頬を両手で包み込んでじっと覗き込んできた。梓の枯れて乾いた手は、けれど柔らかくて温かくて――触れられると、安心する。
「人さらいにでも遭ったのかしら。それとも、売られるところだった? ――分かったわ、妖の生贄にされるところを、玄様に救っていただいたんでしょう!」
「いえ、そんな」
白玲山は、母の故郷で瑞穂がもの心つく前から暮らした場所。そこにいるのは、美しく慈悲深い白鳥の神と、その御方に仕える選ばれた民。決して、賊の住処や妖の巣窟ではない。
「違うんです、あの」
「玄様のなさりそうなことよ。瑞穂さん、良いこと? 貴女がどんなところにいたかは詮索しないけれど、無理に帰る必要なんてないの」
ひどい誤解を解きたいのに、梓は口を挟む隙を与えてくれない。助けを求めて玄を見ても、面白がるような面持ちでふたりを眺めるだけだ。
「無理だなんて……ええと、私に、そんなに良くしていただくような価値は――」
「ほら! 価値のない子なんているものですか。そんなことを言う人たちのところへなんか、返すわけにはいかないわ」
梓がぎゅっと瑞穂を抱きしめたところで、玄は声を立てて笑った。我慢しきれなくなって思わず、といった風情の飾らない笑顔からは、鵠と対峙した時に鋭さや怖さはなくなっている。
(この方――こんな顔もなさるのね……)
明るくて、親しみやすくて――そしてやっぱり、とても綺麗。威厳がなくなるなんていうことは全然なくて、春の陽射しの温もりを浴びた時のように心が緩む。
「大丈夫そうだな。よろしく頼む」
「まあ、玄様はもうお発ちに? せめて朝餉をお出ししたいのに」
見惚れた瑞穂が言葉を失っている間に、玄は素早く立ち上がった。梓も、瑞穂を抱える腕の力を弱めながら、残念そうな声を漏らす。
(朝餉――神様と!?)
白玲山ではあり得ない事態に、瑞穂はこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。たとえ給仕だけでも、精進潔斎して臨まなければならない畏れ多いお務めだ。さらりと言い出す梓も、もしかしたら同席しなければならないのかも、という想像も、瑞穂を恐れおののかせたけれど――
「それは、瑞穂に出してやってくれ。ずいぶん怖がらせてしまったからな。俺がいては味わうところではなくなってしまうだろう」
赤くなったり青くなったりしているであろう瑞穂の顔を見下ろして、玄は悪戯っぽく笑った。それもまた、神様らしからぬ、けれどとても素敵な表情だった。
「さすが、お優しい。瑞穂さんには、私が責任をもってしっかり食べさせますからね」
「ああ、頼む」
初めてのこと、分からないこと、信じられないことがあまりにも立て続けに起きて、瑞穂は口を利くことはおろか、身動きすることもできなくなってしまった。
瑞穂が石像のように固まっている間に、またも狼の姿になった玄は、東の空へと駆けていった。そして、残された瑞穂には、梓が請け合った通りに食べきれないほどの炊き立てのご飯と良い香りのみそ汁、各種の漬け物や煮物やら卵焼きが出されたのだった。



