いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

(怖い……寒い……!)

 ただでさえ冷たい初春の夜風は、上空だと身を切るような鋭さだった。玄が宙を翔ける――駆ける? 速さは、流れ星に乗っているのではないかと思うほど。乱れた髪が瑞穂の頬や肩に当たるのも、鞭で打たれるような強さと激しさで、痛い。

「落ちるなよ。助けてやることはできるが、恐ろしい思いをすることはない」

 見た目よりも長く、そして柔らかい玄の毛並みにしがみついていると、人間の姿の時と変わらない、冷静な声が聞こえた。

「しっかり掴まっていろ。とりあえず鵠の手の届かぬところまで駆け抜ける」

 どういう仕組みなのかは分からないけれど、神様だけに狼の姿でもしゃべれるらしい。夜の闇に紛れる三角の耳は、どうやらぴこぴこと動いて瑞穂の様子を窺っているようで、気遣ってくださっているのが分かる。

 けれど、瑞穂が真っ先に感じたのは、感謝ではなくいっそうの恐怖だった。

(鵠様と、離れてしまう……!)

 罪人の娘である瑞穂なんかを、ずっと守って導いてくださった方なのに。行くな、戻れと言ってくださった声は、とても悲しそうだった。あの美しく優しい御方を、瑞穂は傷つけてしまったのだ。

「戻って――帰してください! お願いします!」

 息をするのさえ難しい、激しく冷たい風の渦のただ中にあって、瑞穂は必死に声を張り上げた。でも、その間にも玄は駆け続ける。闇の中にうっすらと見える山の稜線は刻一刻と変わり、白玲山から離れていってしまっていることを瑞穂に突きつける。

 このまま、帝都に攫われてしまうのだろうか。母を堕落させた、恐ろしい場所に。そこで、何をされるのだろう。不安と恐怖と、それらを上回る申し訳なさに駆られて、瑞穂は玄の毛並みに顔を埋めた。

「鵠様に、ひどいことを……どうして、あんな」

 鵠に膝をつかせた玄のことだけではない。瑞穂自身が、あの御方にとてもひどいことをしてしまった。
 玄の牙も巨体も、鵠と離れることに比べれば恐ろしくないはずだったのに。高さに怯んだりしないで、思い切って飛び降りていれば、馴染んだあばら屋で今宵も眠ることができたかもしれないのに。

 瑞穂の頬を伝った涙は、玄の毛並みを濡らしたのかどうか。巨大な狼は、少しだけ頭を持ち上げて、背中の瑞穂を窺う仕草を見せた。どこから発せられているのか、不思議そうな声が聞こえる。

「ひどいことをされていたのは、お前のほうだと思うが」

 違う、と言いたくて、瑞穂は泣きながら首を振った。会ったばかりの玄がどう思ったとしても、あれは瑞穂に相応しい扱いなのだ。

 鈴香に叱責されるのは、彼女が不出来だから当然のこと。鵠だって、母の罪にもかかわらず、瑞穂を養ってくれたのだから。彼らが満足するように振る舞えない、瑞穂こそが悪いのだ。

「私、は――」

 吹きつける強い風に口の中が乾くのを感じながら、瑞穂は舌をもつれさせた。伝えたいこと、説明したいことはある。けれど、どう言えば良いか、そもそも玄が聞く耳を持ってくれるのかが分からない。

 水鏡郷でも、誰も彼女の言葉を聞いてくれなかった。それでも、縮こまって頭を下げていれば何とかやり過ごせたのだけれど――この狼の神様は、怒ったり瑞穂を責めたりしているわけではないようだから、どうすれば良いのだろう。どうすれば、瑞穂を鵠のもとへ返してくれるのだろう。

「わ、私。あの……っ」

 叫んだ拍子に、瑞穂の身体は大きく傾いだ。

(落ちる……!?)

 全身の血が逆流する思いをしたのは、けれど一瞬のことだった。玄は空を駆ける速度を緩め、瑞穂が体勢を整える猶予を作ってくれた。
 瑞穂がどうにか狼の背の上で安定した居場所を確保すると、玄はまた駆け始めた。地面もなにもない空の上なのに、四肢を動かす動作はするのは、いったいどういう理屈なのだろう。でも、気遣いなのか、風も揺れも最初よりいくぶんか収まったような気もする。

「目を瞑ってじっとしていろ。余裕があるなら、顔を上げると良いと思うが」
「え――」

 そして、かけられた声も、もう冷静なだけではなく、温もりが感じられた。なぜ、という疑問に瑞穂が恐る恐る顔を上げると――

「……綺麗」

 目に映るのは、夜空いっぱいに輝く無数の星々だけだった。地上から見上げるだけでも美しい煌めきが、今は手が届くのではないかと思うほど近い。恐ろしいとばかり思っていた暗い夜空が、こんなにも美しいなんて。

「たとえ白玲山でも、決して見ることのできない光景だ。幸運と思って堪能すれば良い」

 瑞穂の短いつぶやきに込められた驚きと感動と喜びを感じ取ったのか、玄の声に嬉しそうな響きが宿った。思った通り、とでも言うかのような。

「玄、様。あの……」

 では、この御方は瑞穂を喜ばせようとしたのだろうか。鵠にひどいことをして、恐ろしい帝都に彼女を攫おうというのに。なのに、なぜ。

(ありがとう、ございます……?)

 玄の心遣いと、何よりもこの美しい光景を見せてくれたことに対して、御礼をいわなければ。でも、分かっていても、疑問と戸惑いが先に立って舌が上手く動いてくれない。とても無礼で無作法なことだと思うのに――でも、玄は咎めなかった。

「お前はもっと広い世界を見るべきだ」

 そう言った切り、黒い狼は無言を保ち、夜空を駆け続けた。そして東の空が朝焼けに染まるころ、とある山のふもとの小さな村に着地した。
 彼方に見える山々のうち、どれが白玲山なのか。それとも、そもそももう視界にも入らない遠くにまで来てしまったのか――瑞穂には、分からなかった。