いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 深夜に突然白玲山(はくれいざん)を騒がせた(はるか)が「神様」だと分かると、水鏡郷の村人たちは掌を返したように恭しく接した。
 武器を持って取り囲んだ非礼を詫びる者がいるいっぽう、慌てふためいた遣いが(くぐい)に来客を報せ――そして玄は、すぐに郷の中央の寝殿に通されることになった。

 その部屋からは、郷の名と同じく鏡のように澄み渡った池が望めた。
 満天の星を映し出す水鏡は、さやかな光を倍にも輝かせ、寝殿全体を神秘的な輝きで照らしている。
 冷たい夜の空気と室内を隔てるのは、絹の几帳(きちょう)だけ。夜景が透けるほどの絹に散らされた白い鳥が、星の海を泳いでいるかのよう。けれど寒さを感じることがないのは、鵠の神力に守られているからだ。

 一年を通じて快適な室温に保たれ、四季折々の花鳥風月に彩られ、もちろん調度は趣味良く品も良く、塵ひとつ掃き清められた、鵠の居室――その片隅に、なぜか瑞穂も座っていた。

「わざわざこの山奥に来てくれて礼を言うぞ、玄」

 脇息にもたれた寛いだ恰好で、鵠は神々しい笑みを浮かべている。彼と、その傍らに寄り添う鈴香。それに、客人の玄には、もちろん金銀で縁どった畳がそれぞれ席として敷かれていた。
 対して、瑞穂は板張りの床に直接正座している。室内が輝くばかりに美しく、昼間のように明るいからこそ、擦り切れた着物でいる場違いさが申し訳なく、硬い木材は痩せた足に痛い。

(なぜ、私まで……?)

 玄に酒肴を供した女が退出するのについていけたら、どんなに良かったか。けれど、瑞穂に声がかかることなんてなかったから、黙ったまま俯いていることしかできなかった。

「出迎えた者が不調法(ぶちょうほう)で、礼を失したな」

 不調法な者とはもちろん彼女のことだから、瑞穂はますます小さく縮こまった。では、この居た堪れない思いは、みすぼらしい恰好を客人に見せたことへの罰なのかもしれない。

「いや。期せずして清らかな歌での出迎えになった。さすが、白玲山は良い楽巫女を揃えている」

 白玲山の雪解け水から作った神酒《みき》を満たした盃を傾けながら、玄はちらりと瑞穂に目を向けたようだった。
 清らかな空間に落ちた一点の汚れのような、ドブネズミ同然の姿を見てどう思ったのか――静かな声からは窺えなかった。ただ、思いもよらぬ言葉を聞いて、瑞穂の心臓が小さく跳ねる。

(清らかな歌。良い楽巫女、って――私を、褒めてくださった……!?)

 鵠の手前、白玲山の住人を悪く言うことなどできないからだ。そう思おうとしても、頬が熱くなるのを止められなかった。赤面しているのが見つかったら、調子に乗ったと叱られるのは目に見えているから、瑞穂はこっそりと両手で頬を覆い隠した。――その時だった。

「歌……?」

 小さくつぶやいた鵠の声に、はっきりと不快と苛立ちのさざなみを聞き取って、瑞穂は震えあがった。ささやかな高揚は一気に冷めて、真冬に雪の中に追い出されたような心地になる。

 鵠は、どうしてお前が客人に歌を聞かせたのか、と言外に詰っていた。その糾弾を素早く察知したのだろう、鈴香が鋭い声を上げる。

「その者は、楽巫女ではありません! 鵠様のお情けで養われているだけの、卑しい罪人の娘です!」

 叫んだだけでは足りず、鈴香は立ち上がってずかずかと瑞穂のほうへと近づいてくる。巫女装束から着替えた、豪奢な花模様の打掛が目の前で躍ったかと思うと、慣れ切った罵声と蹴りが降ってくる。

「瑞穂。さっきの件の後でまだ歌うなんて。お前、どれだけ図々しいの……!?」
「も、申し訳――」
「覗き見を咎められたばかりなのに! 寿いでる、だなんて言って! やっぱり口先だけね!」
「……っ」

 違います、と訴えたくても、口を挟む隙はなかった。それに、こうなった鈴香は聞く耳を持たない。瑞穂が何を言おうと、言い訳としか思ってもらえないのだ。

「鈴香。客人の前ではしたない」

 それでも、今宵のこの場には玄がいる。何も知らない、黒い狼の化身の御方が息を呑む気配に、鵠が溜息混じりに鈴香を(たしな)めた。

「瑞穂も浮かれることくらいあるだろう。たとえ手ひどく叱責された後だとしても」
「……はい、鵠様」

 鵠の声は優しいようでいて、刺があった。

(祝福の歌とは、信じていただけないのね……)

 心と身体の痛みに呻きながら、瑞穂が座り直したのを見て、満足したのだろうか。鈴香は、しなやかな衣擦れの音と共に鵠の隣に戻った。

「そちらが、お前の新たな珠の巫女か」

 (つがい)の白鳥のような、美しくも似合いの姿に、玄も鈴香が何者か分かったようだった。
 先ほどまでの激高ぶりを感じさせない淑やかさとにこやかさで、鈴香は玄のほうへ三つ指をついた。

「はい。鈴香と申します。婚礼のお祝いにお出ましいただき、たいへん嬉しく存じますわ、玄様」

 非の打ちどころのない挨拶に、けれど玄は軽く眉を寄せた。

「いや、俺は婚礼のことなど知らなかった」
「え……?」
「鵠。瑞月はどこにいる。白玲山に戻ったはずだが」

 瑞月――母の名が紡がれるなり、その場の空気がぴしり、と凍りついた。まるで、季節が真冬に戻ったかのように。けれど玄は気づかないのか、鵠を見据えて言葉を続ける。

「瑞月の後に、『こんな』娘を珠の巫女に選ぶとは信じがたい。そもそも、彼女が教えてこの有り様とは、どういうことだ?」
「な――」

 鈴香の整った顔が、瞬く間に赤く――ううん、いっそどす黒く染まっていく。珠の巫女――鵠の伴侶として相応しくない、と言われたも同然だから無理もない。相手が神で客人とはいえ、怒鳴り散らしてしまわないか心配になるほどだ。

(鵠様……!)

 鵠が伴侶を宥めてくれるよう、瑞穂は切に祈った。彼女が余計な気を回すまでもなく、白玲山の美しい主は、伴侶への侮辱を聞き捨てたりはしないだろうけれど。
 でも――

「瑞月は、死んだ。俗世で子を儲けたりなどするからだ」

 怒りに唇をわななかせる鈴香とは裏腹に、鵠はどこまでも穏やかに微笑んでいた。彼の金色の目が、部屋の隅に控える瑞穂を示したのに気づいたのだろう、玄は軽く目を見開いた。

「罪人の娘、というのは――」
「そう。瑞穂は瑞月の娘。稀なる楽巫女を堕落させ穢した罪の象徴。だから母の罪を日々思い知らせてやらなければならないし、同じ轍を踏まぬように厳しく躾けてやらねばならない」

 そして、名を呼ばれた瑞穂が小さく身動ぎしたのが目障りだとでも言うかのように、鵠は初めて声を冷ややかに尖らせた。

「母が褒められたからといって喜ぶなよ、瑞穂。郷の外にも名が届くほどの巫女を、お前の存在が喪わせたのだ」

 鵠は、決して声を荒らげたわけではないし、端然と座った姿勢を少しも乱していない。けれど、鈴香の罵倒や暴力よりもよほど、彼の静かな糾弾は瑞穂にとって恐ろしかった。

「申し訳、ございません……!」

 そうだ、母が優れた巫女なのは知っていた。だからこそ鵠は珠の巫女に望んだのだ。
 瑞穂の記憶にかすかに残る優しい笑みも美しい歌も、それほどの楽巫女なら何の不思議もなかった。その、すばらしい巫女が今はもういないのは、瑞穂のせい。鵠を捨てて、外の世界に魅入られたから。

(鵠様は優しい。見るも汚らわしいはずの私を見捨てず、白玲山に置いてくださる。根気よく導いてくださる)

 鵠の気遣いがなければ、村の者たちは瑞月の娘を、瑞穂を許さなかっただろう。瑞穂が生きていられるのは鵠のお陰――何度も何度も言い聞かされて、分かっていたはずなのに。そんな立場で、鈴香の心配なんて図々しいにもほどがある。

「わ、私、鵠様の教えは骨身に染みて――」
「許しもなく口を開くのも傲慢で無作法だ、瑞穂。それも、客人の前だというのに」

 がくがくと震えながら、か細い声で訴えようとした瑞穂を、鵠はさらりとした言葉で黙らせた。そして、改めて玄に向き直ると、首を傾げる。すると、輝く新雪の色の髪が揺れて、室内に光を振りまく。

「で、お前の用件というのは? せっかくだから、このまま逗留して婚礼にも出席して欲しいものだが」

 玄は、鵠と鈴香、そして瑞穂を交互に見て、何かもの言いたげにしていた。けれど、諦めたように小さく息を吐くと、鵠だけを見据えて、口を開いた。

「……東雲の国を巡る龍脈の流れに、乱れが生じている」
「ほう?」

 玄の声も視線も鋭く、夜の色の髪と瞳とは裏腹に、抜き身の白刃を思わせた。龍脈の乱れは、国の乱れにも通じるはず。だから確かに、ただ事ないというのは分かるのだけれど。

「各地で怪異や妖が騒がしく、民の暮らしを脅かしている。力弱い神の中には社を追われかねない者もいるし、国が行う祭祀にも滞りが生じかねない状況だ」
「まあ、恐ろしい。水鏡郷は、鵠様のご加護があって本当に良かった……!」

 先ほどの侮辱を根に持っているのだろう、鈴香の相槌には刺があった。とはいえ、彼女の言葉自体は正しい。

(白玲山は、鵠様の御座所。白鳥の化身である御方がおわす、聖なる地……)

 だから、玄が語った怪異やら妖やらは、水鏡郷には無縁の話のはず。彼の突然の来訪の理由はやはり謎のままで、瑞穂は不安な思いで眉を寄せたのだけれど――

「龍脈の要のひとつであるこの白玲山を預かりながら、この有り様を見過ごすとはどういうことか、瑞月がいるのではなかったのか――お前の様子を確かめるために来たのだ」

 玄は、今やはっきりと鵠を睨んで、問い質していた。