深夜――水鏡郷の中でももっとも粗末なあばら屋で、瑞穂は眠れずにいた。
寒さも、残り物を少しだけしかもらえなかった空腹も、いつものことだから、耐えられる。そんなことよりも彼女を夢の世界から遠ざけているのは、先ほどの一幕だった。
鈴香や村人たちの怒りに、鵠のため息。心からの思いが信じてもらえなかったこと。明日への不安。
どれも瑞穂の胸を締めつけるけれど、何よりも彼女を悩ませるのは母の瑞月に関する疑問だった。
(母様は、優しい方だった。歌う声も綺麗で清らかで――巫女のよう……ううん、それどころか鵠様の珠の巫女になれるはずだったのに)
母はどうして、美しく慈悲深い鵠の思いを拒んだのだろう。
どうして、水鏡郷を出たのだろう。
『楽巫女とは、世界を等しく愛し慈しむものなのよ。でも――』
あの言葉の続きは、いったい何だったのだろう。
村人たちが言うように、愚かで傲慢な恩知らずだったなら、あんなに綺麗な声で歌い、あんなに優しい笑みを浮かべることができるだろうか。
(……分からない)
答えの出ない問いを考えることに疲れて、瑞穂は寝床を抜け出した。
郷の中には、まだ眠らずに働いているものもいるらしく、白玲山の山頂に残る雪が、篝火を映してほのかに赤い。それでも、郷のはずれに位置するあばら屋のあたりは静かで人影もない。
(少しくらいなら、大丈夫)
眠るのを諦めて、瑞穂はそっと寝床から抜け出した。戸外に出たとたん、初春の夜の冷たい風が彼女の全身に突き刺さる。でも、もとから身体は冷え切っていたから構わない。
まだ練習は続いているのだろうか、管弦の調べが風に乗ってかすかに聞こえてくる。
(私も、お祝いしたいのです。本当なのです)
唇がかじかんで動かなくなる前に、瑞穂は深く息を吸った。肺が凍りつくような痛みを越えて湧きあがるのは、心からの祝福の思い。それを込めて、紡ぐのは、管弦に合わせた慶賀の歌の一節だ。
「花盛りかも、白雲の――」
偽りのない思いを込めた歌は、婚礼の妨げにはならないと信じたかった。
密かに歌った歌が、鵠と鈴香の未来を寿いでくれると良い。祈りと願いを込めて――続きを歌おうと、瑞穂は再び息を吸った。
その、時だった。
星が煌めく夜空の一角を、黒い影が切り取った。
「え――」
目を見開いて空を見上げる瑞穂を目がけて、その影はぐんぐん近づいてくる。
黒い流星のように駆けるその影は、どうやら巨大な狼の姿をしているようだった。白玲山に住む茶色や灰色の狼たちよりもずっと大きく力強く――それに、美しい。
(恐ろしいはずなのに……なぜ……?)
鵠が守護する白玲山に、妖の類いはそうそう入ってこれないのは分かっている。
でも、そんな理屈ではなくて。その狼にはひれ伏したくなるような存在感――神々しさがあった。闇の色の毛並みでさえも、不思議な光を放っているようで。
瑞穂の目の前に降り立った漆黒の狼は、ぐにゃりと輪郭を歪ませた。え、と思って瞬きしたほんの一秒に満たない間に、そこには端正な容貌の青年が立っていた。
瑞穂にとっては初めて見る種類の美だった。たおやかで優美な鵠とは違って、猛々しさや凛々しさを真っ先に感じる――しなやかで、野性的な。
狼の姿の時と同じく、闇が凝ったような深い黒の髪に、黒い目。そこに宿る光の鋭さは、研ぎ澄ませた刃を思わせる。
彼がまとっているのも、水鏡郷ではめったに見ない、西洋風の衣装だった。これもまた、殿方の神と目の色と同じく黒を基調に、細やかな金銀の刺繍や装飾が施されていた。
古式ゆかしい狩衣や袴姿のようなゆったりとした典雅さはない代わり、機能性を重視しているように見える。剣を佩いていることからして、武士の装束ではないかと思われた。身体の線を隠さない造りは筋肉の線までも浮かび上がらせ、その青年の精悍な印象をいっそう強調していた。
(すごい……きっと、名のある社や聖地を守護する神様だわ)
供も先ぶれもいなかったけれど、気高い存在に対峙していることを疑わず、瑞穂はおずおずと尋ねた。
「あ、貴方様は……?」
尊い御方を、相応しい礼節でもってお迎えするためにはお名前を伺いたかったのに。瑞穂の問いには答えず、青年は視線を宙にさまよわせた。狼が、耳をぴんと立てて獲物の気配を探る様にも少し似ている。
「越天楽の調べ――婚礼、か……?」
「は、はい。鵠様は珠の巫女をお迎えになります。郷を挙げて、準備をしているところです」
「ほう、鵠が。では、『傷心』は癒えたのかな」
青年の独り言めいた問いかけに、瑞穂は慌てて答えた。すると、夜の色の目が彼女に向けられて、悲鳴を上げそうになる。
(わ、私なんかがお出迎えしてしまって……水鏡郷が貧しいと思われてしまったらどうしよう)
この郷でみすぼらしいのは瑞穂だけ、それも、躾の一環として華美を戒められているだけであって。鵠が治める山も郷も、どこも美しく整えらえているのだ。
その点を弁明しようと、瑞穂は慌てて言葉を接ごうとしたのだけれど――
「ということは、『花嫁』は貴女か?」
「ええ……っ!?」
思ってもみない、鵠にも鈴香にも失礼過ぎる問いかけに、ぶんぶんと首を激しく振ることしかできなくなってしまう。
「わ、私なんかがとんでもない! 鈴香様はもっとずっとお綺麗で、巫女としてもとても優れた御方です……!」
「だが、今の歌と声は――」
夜の化身のようなその青年は、怪訝そうに眉を寄せ――擦り切れた着物をまとい、髪も肌も艶のない瑞穂の姿を見て、何かを納得したようだった。
「……鵠も、見る目がない――いや、聞く耳がないというか」
瑞穂から目を逸らしてつぶやいた青年の声はどこか尖っていて、彼女を竦み上がらせた。彼が、鵠を平然と呼び捨てにしたのも、怖い。
「あ、あの。貴方様は――」
やはりこの御方は、とても尊い神様なのだ。鵠とも交流があるくらいの。郷を挙げて歓迎するのが当然のところ、出迎えたのが瑞穂なんて貧相な小娘だったから、きっとご機嫌を損ねてしまわれたのだ。
(どうしよう。私、私……!)
ただでさえ混乱して、卒倒寸前だった瑞穂の頭を、さらにいくつもの怒鳴り声が揺さぶった。
「瑞穂! またお前か!」
「さっきの怪しい影は何ごとだ!?」
「お前が妖を招き入れたのか……!?」
松明や――鉈や猟銃を手に手に、村人たちが現れたのだ。いずれも険しく緊張した面持ちで、侵入者を退治する構えで乗り込んできたのは明らかだった。
(違う。違うんです)
事情を説明しようにも、説明できるほどの事情は瑞穂には分からない。そもそも、恐怖に喉が締め上げられて、声が出せそうにない。
弱々しく首を振ることしかできずによろめいた彼女は、けれど凍った地面に倒れることにはならなかった。
黒い狼から変化した青年が、彼女を支えてくれたのだ。たくましい彼の身体は山からの風をも防ぎ、いまだかつて感じたことのない温かさと安心感を与えてくれる。
(な、なぜ……?)
どうして、瑞穂なんかを。疑問と戸惑いを込めて見上げると、青年はあの刃のような鋭い目で村人たちを見据えていた。
「水鏡郷といえば、神山を守る重責を帯びた、選ばれし者の住まう地のはずだが――神と妖の区別もつかなくなったか。鵠はいったい何をしているんだ」
鵠の名は、村人たちに対しても効果てき面だった。呼び捨てに顔色を変える者もいたけれど、そんなことができる存在は何ものか、に思い至ったらしい者も多い。
「神、だと……」
「ま、まさか」
ざわめいて顔を見合わせ、手に構えた武器を下ろす村人たちに、青年はにやりと笑った。狼が牙を剥く様を思わせる、獰猛な雰囲気の笑みだった。
「鵠に伝えよ。黒曜の玄が訪ねてきた、と」
そうして、彼――玄は誇り高く毅然として告げた。
「社を持たず、人の願いに応じて現れ、世を乱すものを打ち砕く――孤高にして流浪の戦神だ。白玲山の主には聞きたいことが山ほどある」
寒さも、残り物を少しだけしかもらえなかった空腹も、いつものことだから、耐えられる。そんなことよりも彼女を夢の世界から遠ざけているのは、先ほどの一幕だった。
鈴香や村人たちの怒りに、鵠のため息。心からの思いが信じてもらえなかったこと。明日への不安。
どれも瑞穂の胸を締めつけるけれど、何よりも彼女を悩ませるのは母の瑞月に関する疑問だった。
(母様は、優しい方だった。歌う声も綺麗で清らかで――巫女のよう……ううん、それどころか鵠様の珠の巫女になれるはずだったのに)
母はどうして、美しく慈悲深い鵠の思いを拒んだのだろう。
どうして、水鏡郷を出たのだろう。
『楽巫女とは、世界を等しく愛し慈しむものなのよ。でも――』
あの言葉の続きは、いったい何だったのだろう。
村人たちが言うように、愚かで傲慢な恩知らずだったなら、あんなに綺麗な声で歌い、あんなに優しい笑みを浮かべることができるだろうか。
(……分からない)
答えの出ない問いを考えることに疲れて、瑞穂は寝床を抜け出した。
郷の中には、まだ眠らずに働いているものもいるらしく、白玲山の山頂に残る雪が、篝火を映してほのかに赤い。それでも、郷のはずれに位置するあばら屋のあたりは静かで人影もない。
(少しくらいなら、大丈夫)
眠るのを諦めて、瑞穂はそっと寝床から抜け出した。戸外に出たとたん、初春の夜の冷たい風が彼女の全身に突き刺さる。でも、もとから身体は冷え切っていたから構わない。
まだ練習は続いているのだろうか、管弦の調べが風に乗ってかすかに聞こえてくる。
(私も、お祝いしたいのです。本当なのです)
唇がかじかんで動かなくなる前に、瑞穂は深く息を吸った。肺が凍りつくような痛みを越えて湧きあがるのは、心からの祝福の思い。それを込めて、紡ぐのは、管弦に合わせた慶賀の歌の一節だ。
「花盛りかも、白雲の――」
偽りのない思いを込めた歌は、婚礼の妨げにはならないと信じたかった。
密かに歌った歌が、鵠と鈴香の未来を寿いでくれると良い。祈りと願いを込めて――続きを歌おうと、瑞穂は再び息を吸った。
その、時だった。
星が煌めく夜空の一角を、黒い影が切り取った。
「え――」
目を見開いて空を見上げる瑞穂を目がけて、その影はぐんぐん近づいてくる。
黒い流星のように駆けるその影は、どうやら巨大な狼の姿をしているようだった。白玲山に住む茶色や灰色の狼たちよりもずっと大きく力強く――それに、美しい。
(恐ろしいはずなのに……なぜ……?)
鵠が守護する白玲山に、妖の類いはそうそう入ってこれないのは分かっている。
でも、そんな理屈ではなくて。その狼にはひれ伏したくなるような存在感――神々しさがあった。闇の色の毛並みでさえも、不思議な光を放っているようで。
瑞穂の目の前に降り立った漆黒の狼は、ぐにゃりと輪郭を歪ませた。え、と思って瞬きしたほんの一秒に満たない間に、そこには端正な容貌の青年が立っていた。
瑞穂にとっては初めて見る種類の美だった。たおやかで優美な鵠とは違って、猛々しさや凛々しさを真っ先に感じる――しなやかで、野性的な。
狼の姿の時と同じく、闇が凝ったような深い黒の髪に、黒い目。そこに宿る光の鋭さは、研ぎ澄ませた刃を思わせる。
彼がまとっているのも、水鏡郷ではめったに見ない、西洋風の衣装だった。これもまた、殿方の神と目の色と同じく黒を基調に、細やかな金銀の刺繍や装飾が施されていた。
古式ゆかしい狩衣や袴姿のようなゆったりとした典雅さはない代わり、機能性を重視しているように見える。剣を佩いていることからして、武士の装束ではないかと思われた。身体の線を隠さない造りは筋肉の線までも浮かび上がらせ、その青年の精悍な印象をいっそう強調していた。
(すごい……きっと、名のある社や聖地を守護する神様だわ)
供も先ぶれもいなかったけれど、気高い存在に対峙していることを疑わず、瑞穂はおずおずと尋ねた。
「あ、貴方様は……?」
尊い御方を、相応しい礼節でもってお迎えするためにはお名前を伺いたかったのに。瑞穂の問いには答えず、青年は視線を宙にさまよわせた。狼が、耳をぴんと立てて獲物の気配を探る様にも少し似ている。
「越天楽の調べ――婚礼、か……?」
「は、はい。鵠様は珠の巫女をお迎えになります。郷を挙げて、準備をしているところです」
「ほう、鵠が。では、『傷心』は癒えたのかな」
青年の独り言めいた問いかけに、瑞穂は慌てて答えた。すると、夜の色の目が彼女に向けられて、悲鳴を上げそうになる。
(わ、私なんかがお出迎えしてしまって……水鏡郷が貧しいと思われてしまったらどうしよう)
この郷でみすぼらしいのは瑞穂だけ、それも、躾の一環として華美を戒められているだけであって。鵠が治める山も郷も、どこも美しく整えらえているのだ。
その点を弁明しようと、瑞穂は慌てて言葉を接ごうとしたのだけれど――
「ということは、『花嫁』は貴女か?」
「ええ……っ!?」
思ってもみない、鵠にも鈴香にも失礼過ぎる問いかけに、ぶんぶんと首を激しく振ることしかできなくなってしまう。
「わ、私なんかがとんでもない! 鈴香様はもっとずっとお綺麗で、巫女としてもとても優れた御方です……!」
「だが、今の歌と声は――」
夜の化身のようなその青年は、怪訝そうに眉を寄せ――擦り切れた着物をまとい、髪も肌も艶のない瑞穂の姿を見て、何かを納得したようだった。
「……鵠も、見る目がない――いや、聞く耳がないというか」
瑞穂から目を逸らしてつぶやいた青年の声はどこか尖っていて、彼女を竦み上がらせた。彼が、鵠を平然と呼び捨てにしたのも、怖い。
「あ、あの。貴方様は――」
やはりこの御方は、とても尊い神様なのだ。鵠とも交流があるくらいの。郷を挙げて歓迎するのが当然のところ、出迎えたのが瑞穂なんて貧相な小娘だったから、きっとご機嫌を損ねてしまわれたのだ。
(どうしよう。私、私……!)
ただでさえ混乱して、卒倒寸前だった瑞穂の頭を、さらにいくつもの怒鳴り声が揺さぶった。
「瑞穂! またお前か!」
「さっきの怪しい影は何ごとだ!?」
「お前が妖を招き入れたのか……!?」
松明や――鉈や猟銃を手に手に、村人たちが現れたのだ。いずれも険しく緊張した面持ちで、侵入者を退治する構えで乗り込んできたのは明らかだった。
(違う。違うんです)
事情を説明しようにも、説明できるほどの事情は瑞穂には分からない。そもそも、恐怖に喉が締め上げられて、声が出せそうにない。
弱々しく首を振ることしかできずによろめいた彼女は、けれど凍った地面に倒れることにはならなかった。
黒い狼から変化した青年が、彼女を支えてくれたのだ。たくましい彼の身体は山からの風をも防ぎ、いまだかつて感じたことのない温かさと安心感を与えてくれる。
(な、なぜ……?)
どうして、瑞穂なんかを。疑問と戸惑いを込めて見上げると、青年はあの刃のような鋭い目で村人たちを見据えていた。
「水鏡郷といえば、神山を守る重責を帯びた、選ばれし者の住まう地のはずだが――神と妖の区別もつかなくなったか。鵠はいったい何をしているんだ」
鵠の名は、村人たちに対しても効果てき面だった。呼び捨てに顔色を変える者もいたけれど、そんなことができる存在は何ものか、に思い至ったらしい者も多い。
「神、だと……」
「ま、まさか」
ざわめいて顔を見合わせ、手に構えた武器を下ろす村人たちに、青年はにやりと笑った。狼が牙を剥く様を思わせる、獰猛な雰囲気の笑みだった。
「鵠に伝えよ。黒曜の玄が訪ねてきた、と」
そうして、彼――玄は誇り高く毅然として告げた。
「社を持たず、人の願いに応じて現れ、世を乱すものを打ち砕く――孤高にして流浪の戦神だ。白玲山の主には聞きたいことが山ほどある」



