いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 瑞穂は、神楽寮が手配してくれた自動車に乗り込んで、レンガ造りの駅舎を目指した。
 帝都の街並みの華やかさ、行き交う人や車の多さに目を回したのも最初だけのことだった。今は、車窓を流れる活気に満ちた営みを微笑ましく眺めることができる。

 旅に備えてまとめた荷物を膝に乗せた瑞穂が、商店を彩る夏の着物に見入っていると、運転手が横目でちらりと振り返ってきた。

「――帝都の名所も、季節の祭礼もまだまだ見ていただきたかったのですが。とはいえ、来年の楽しみに取っておいていただくのも良いのでしょうね」
「ありがとうございます。そうですね、まだ見ていない素敵なものがたくさんあって――目移りするけれど、とても楽しいことだと思います」

 そう、瑞穂は行ったきり帰らないのではない。

 どこを我が家と定めるかは、まだ分からないのだけれど。この帝都はもう、瑞穂に取って大切な人が大勢いる大切な場所になっている。
 いつ戻っても迎えてくれる人がいるということは心強く嬉しく、だからこそ玄は東雲の国のあちこちを流れ続けたのだろう。そう思うと、彼の気持ちがまたひとつ分かった気がして瑞穂の胸に愛おしさがこみ上げる。

「酒井様も、おふたりのお戻りを首を長くして待っていらっしゃいますよ」
「嬉しいことです。心配したり寂しがったりなさらないよう、行く先々で手紙を書きますね」
「それは良い。きっと喜ばれることでしょう」

 運転手が、車体の脇にしつらえられた鏡越しに笑うのは、決してお世辞ではないだろう。
 帝都の者は皆、瑞穂に瑞月の面影を見出しているだけ――なんて、鵠のひどい嘘だった。あるいは、あの方は心からそう思っていたのかもしれないけれど。

(私は、私。私を大切に想ってくださる方が、こんなにたくさんいらっしゃる……!)

 そう、自然に信じることができるようになったのは、瑞穂だからこそ、と最初に言ってくれた玄のお陰だ。彼にとっての特別なのだと真っ直ぐに伝えてくれたことが、瑞穂の心の土台となっている。

(玄様は、私を、私の世界を変えてくれた。私も、同じことができたら――)

 各地に知己がいるといっても、玄にはこれまで定まった居場所がなかった。儚い命の人間が相手だから、情を移してもすぐに喪われることを、彼が恐れていたからだ。

 瑞穂も、人間のひとりに過ぎない。いずれ玄を置いて地上を去ることは決まっている。
 でも。それでも。共に過ごした時間は彼の中に何かを残せるはず。大切な存在と共に見る世界の美しさ、その記憶は永遠に変わらないはず。

 これから出発する旅路は、玄の中に瑞穂の記憶を刻むための第一歩。この先何があっても、どこに行って何を見ても、そこに瑞穂を感じてもらえるようにしなくては。

 瑞穂が車から降りるや否や、愛しい声が彼女を呼んだ。

「――瑞穂!」

 玄は、瑞穂の声をどんな遠くからでも聞きつけてくれる。けれど、彼女にとっても彼の声は特別だ。老若男女の話し声に、車や列車の騒音が混ざっても、聞き落としたりしない。

 顔を上げれば、果たして玄が手を振りながら彼女のほうへ近づいてきている。今回は神楽寮の使いとは関係なく、しかも私用を極めた旅とあって、楽な着流しをまとっている。

(どんな恰好をなさっていても、とても素敵……)

 ああ、やっぱりだ。玄が視界に入るだけで、瑞穂の世界は何段階も明るくまぶしく、輝かしくなる。

「玄様。お待たせしました」
「ああ。もう少しで百花大社まで迎えに行くところだった」

 大きくなってしまった荷物ごと、玄は瑞穂を軽く抱き留めてくれた。見あげる漆黒の瞳がとても近くて、瑞穂は頬が熱くなるのを感じながら、微笑む。

「芳様も、そう仰って送り出してくれたんです」
「あいつの前で『こんなこと』をしたら揶揄われるからな。そう思って我慢した」

 言いながら、玄は瑞穂をぎゅっと抱きしめた。愛しい温もりと重なる心臓の音に、瑞穂の身体はますます熱くなる。

「あ、あの。人が大勢いますから……」

 瑞穂が消え入りそうな声で言うと、玄は抱擁を解いてくれた。けれど、列車の乗場へと向かって瑞穂の手を引きながら、端正な面に浮かべる笑みは悪戯っぽい。

「知っている。見せつけたいんだ」
「え――」

 瑞穂の頬は、いよいよ燃えるように熱い。さらには、絶句して立ち止まって――危うくよろめきそうになった彼女の耳に、沸き立つような歓声が届く。

「玄様だ! 巫女様もいるぞ!」
「玄様が珠の巫女を娶られるなんて――」
「帝都を守ってくれたおふたりだ、なんてめでたい」
「婚礼は、帝都で挙げられるのですか!?」

 そう――花津月の祭礼の日、百花大社を襲った怪異を退けたのはふたりの活躍あってこそだと、すっかり有名になってしまっている。玄様だ、巫女様――瑞穂様だ、という声は瞬く間に広がって、ふたりは野次馬の群れを引き連れるような恰好で列車の扉を目指さなければならない有り様だった。それも、玄にしっかりと手を繋がれたままで!

 列車の時間に間に合うか危うくなってしまうし、恥ずかしくて堪らないのだけれど――でも、瑞穂の胸が弾むのは、急いで駆けているからや、羞恥によってだけでは、ない。燃え立つような喜びも、確かに彼女の全身を巡っている。

(私を――私自身を見てくれる人が、こんなにたくさん……)

 もしかしたら、さすが瑞月の娘、という評判になっていてもおかしくなかったのだろう。そうならなかったのは、「あの」玄がとうとう珠の巫女を見初めた、という吉報が、それだけ驚きと喜びをもって迎えられたからだ。

 今の瑞穂は、もう母の影としてしか見られない、ということはない。玄の珠の巫女――かけがえのない掌中の珠。そんな輝かしい唯一の立場を贈ってもらったことになる。にぎにぎしい出立も、きっとその評判を後押しするのだろう。

(そこまで考えてくださった?)

 玄はもう、一足先に車上の人になっている。乗車場との段差を気遣って、荷物を抱えた瑞穂に手を差し伸べる笑顔からは深謀遠慮は窺えない。でも――きっとそうなのだろう。とても優しい人だから。

 この上なく嬉しい思いは、瑞穂の身体を羽根のように軽くしてくれた。とん、と地を蹴ると同時に、玄の手によって引き上げられて――そして、瑞穂が乗り込んだのとほぼ同時、列車もゆっくりと動き出した。

 窓の外の景色は、すぐに帝都の街並みを抜けて、のどかな田園風景に取って代わった。神楽寮の手配で個室に落ち着いた瑞穂は、ようやく肩の力を抜いた――と、横に座った玄も、大きく息を吐いている。

「――やっと、ふたりきりになれたな」

 こつん、と。額を合わせながら、玄がささやく。

「もう。さっきは見せつけたい、だなんて仰ったのに」

 玄に触れられたところは、どこもかしこも熱くなる。額を押さえながら瑞穂が軽く唇を尖らせると、玄は悪びれずに笑った。

「それはそれ、というやつだな。誰の目も憚る必要がないのが一番に決まっている」
「……はい。私もそう思いますけれど」

 だって、見せつけるにしても、人前でできることには限りがある。節度や慎みを忘れては、神も巫女も品位が下がるというものだ。だから、今ならやっと思った通りのことができる。

 指を絡め合って、見つめ合って――唇を重ねる。そうして、互いの呼吸と温もりを感じる。

(稲盛村まで、どれくらいかかるのだったかしら……?)

 口づけの合間にふと考えて――瑞穂はすぐに、どれだけかかっても良い、と思い直す。

 玄と一緒なら、長い旅路も一瞬だろう。あるいは、長くかかるならその分彼との時間を満喫できるから構わない。

 共にある限り、瑞穂の目に映るものはすべて美しく、聞こえるもの感じる者はすべて心地好い。それは絶対の真実として、変わるはずがないのだから。