夜が明けると、神楽寮の役人たちが続々と白玲山に集まった。手負いの玄は、帝都に報せに戻れるような容体ではなかったのだけれど、そもそも鵠の関与が疑われていたこと、花津月の祭礼を怪異が襲うほどの龍脈の乱れをもはや見過ごせなかったことから、酒井が強硬な調査に踏み切ったということだった。
水鏡郷に到着した役人たちは、いつもなら外部からの客を容易に迎え入れない郷にもかかわらず、彼らを押し止める者が誰もいないことを不審に思った。
恐る恐る郷の家々の戸を叩いたところ、瘴気の塊に襲われて精気を吸い取られて倒れている村人たちが発見されて大騒ぎになった――その慌ただしい気配は、寝殿の奥で玄の手当てをしていた瑞穂にも届いた。支え合いながら現れたふたりを見て、役人たちはいっそう驚き慌てた。そして、ふたりの証言があってやっと、事件の全容が明らかになった。
* * *
百花大社の奥の寝殿に、芳の高く澄んだ声が響く。
「水鏡郷の者たちは、何も気づいていなかったし、おかしいとも思わなかった――『鵠様』が守ってくださるから安心と信じ込んでいた、ですって? まったく、間の抜けた話ね!」
唇を尖らせた女神から漂う香りは、今日は香辛料のように少々刺激的だ。彼女が司る花津月の祭礼を台無しにされたことが、よほど腹に据えかねているらしい。
村人たちの治療と聞き取りにはそれなりの時間を要したから、中庭の例の大木は、もうとうに葉桜になっている。それでも太い枝には力がみなぎり、青々とした葉の鮮やかな緑は陽光を集めて輝いている。東雲の国の龍脈は、再びつつがなく巡り始めているようだ。
「郷の人たちが何か言ったからとしても、鵠様は聞き入れてくださらなかったでしょうが……鈴香様も、鵠様が恐ろしくて従った、と」
鈴香も、治療を受けた者の中のひとりだった。瘴気の塊の中で何があったのか、髪も肌も瑞々しさが失せて、一夜にして何十歳も年老いてしまったような有り様だったけれど。
もとが美しい少女だっただけに、さぞ恐ろしく悲しいことだろうし、瑞穂なんて姿を見るのも嫌に違いない。だから、あの夜以来一度も顔を合わせていないままだ。……たぶん、それがお互いにとって最善なのだろう。
「巫女の中でも、鈴香様は特に鵠様を慕っていましたし。だからなおさら、ということなのだと思います」
苦く悲しい思いを堪えて微笑む瑞穂も、季節と同じく、ひとつところで踏みとどまってはいない。今日も、百花大社の楽巫女たちと歌舞の練習をしてきたところだ。玄は、彼女の声を褒めてくれるけれど――どうせなら、もっとちゃんと学びたいし、上達したい。彼と共にあることの喜びと幸せを、全身で伝えられるようにしたかった。
ちなみに、芳が巫女たちの練習に混ざるのを許してくれたのは、時々は百花大社に歌舞を奉納すると瑞穂が約束したからだ。玄は、瑞月を独り占めしようとした鵠とは違う。彼女が何をしようとも、「一番」で「特別」なのは彼なのだと、ちゃんと分かってくれているのだ。
「甘いわね、瑞穂」
練習でかいた汗を流して、さっぱりとした単姿の瑞穂に向かって、芳は少々意地悪げな笑みをにんまりと浮かべた。
「捻じれた性根の者は、自分の記憶や想いまでも歪めて気付きもしないものよ。その鈴香という娘の本音は――まあ、想像がつくけれど、お前が知る必要はないことね」
芳は、鈴香に会ったこともないのだけれど。華奢な指で菓子を摘まむ麗しの女神は、なぜかうんうんとうなずいている。鈴香の本音とやらについて、よほど確信があるようだ。
「芳様……?」
神様の前で、堂々と菓子に手を伸ばすこともできず、詳しく問いを重ねることもできず。首を傾げる瑞穂に気づいて、芳はぐいと身を乗り出してじっと彼女を見つめてきた。
「念のため、だけど。鵠に対しても悪かった、なんて思う必要はないのよ? お前はもちろん、瑞月もね。鵠が勝手に拗らせたのがいけないのだもの」
「は、はい。承知しています。……そうだと、思うのですが」
花のような可憐な薄桃色にもかかわらず、芳の視線は意外にも鋭い。畏れ多さと、それに、心の奥底のわだかまりを言い当てられた落ち着かなさに、瑞穂はそっと目を伏せた。そこへ、芳の憂いを帯びたため息が降る。
「鵠様鵠様と持ち上げられるうちに、人間を見下すようになってしまったのでしょう。人間『ふぜい』に影響されるなんて、神の風下にも置けないわね!」
「そ、そうですか……」
そういえば、玄が言っていた。芳は、人の命の短さを割り切って、花を愛でるように付き合うのだとか。
散れば悲しいと思うし、雨や風に萎れないよう心を配りもする。虫がつけば――怪異が人の世に仇なすことがあれば、退治してくれることもあるのだろう。でも、それだけだ。
花に心捕らわれるあまり、世界の理を曲げてまで咲かせ続けようとはしない。散ったらそれまで、また次の春を待つのが芳なのだろう。鵠よりもよほど、神として人の営みを高みから眺めている方なのかもしれない。
(でも、優しい方だわ。それも間違いない)
ただの花――それも、野に咲く雑草の花だろう――に過ぎない瑞穂を気遣って、話し相手に選んでくださるのだから。通りすがりに目を留めるだけでも良いのだろうに、これはとても過分な琴ではないかと思う。
「まあ、神といっても色々だしね。特に若い神なら、人と親しく交わることがあっても良いのでしょう」
ほら。玄のことを匂わせて、華やかな笑顔を見せてくれたのだって芳の優しさの表れだ。
「短い命の人間を、長々と引き留めるものではないわね。――そろそろ行きなさい。玄が待ちかねて押しかけてきても困るわ」
そう――瑞穂と玄は、これから東雲の国を巡る旅に出る。まずは梓の待つ稲盛村に顔を出して、その先は目的を定めずに流れるままに。
これまで定まった社を持たなかった玄も、珠の巫女を迎えるならさすがに考えを改めたほうが良い。その下見として、良い土地がないかを見て回るのが目的のひとつ。そしてもうひとつは――もっとずっと単純に、ふたりきりで色々な景色を見てみたいから、というものだ。
「はい。そろそろ失礼いたします。またお目にかかる時にはお土産を持って伺いますので」
「あら、お前の歌舞が上達することが何よりの土産よ? 各地で見たもの、聞いたもの――玄との色々。すべて糧になさいな」
「はい……!」
頬が熱くなるのを感じながら、瑞穂は大きくうなずいて――そして、百花大社を後にした。
水鏡郷に到着した役人たちは、いつもなら外部からの客を容易に迎え入れない郷にもかかわらず、彼らを押し止める者が誰もいないことを不審に思った。
恐る恐る郷の家々の戸を叩いたところ、瘴気の塊に襲われて精気を吸い取られて倒れている村人たちが発見されて大騒ぎになった――その慌ただしい気配は、寝殿の奥で玄の手当てをしていた瑞穂にも届いた。支え合いながら現れたふたりを見て、役人たちはいっそう驚き慌てた。そして、ふたりの証言があってやっと、事件の全容が明らかになった。
* * *
百花大社の奥の寝殿に、芳の高く澄んだ声が響く。
「水鏡郷の者たちは、何も気づいていなかったし、おかしいとも思わなかった――『鵠様』が守ってくださるから安心と信じ込んでいた、ですって? まったく、間の抜けた話ね!」
唇を尖らせた女神から漂う香りは、今日は香辛料のように少々刺激的だ。彼女が司る花津月の祭礼を台無しにされたことが、よほど腹に据えかねているらしい。
村人たちの治療と聞き取りにはそれなりの時間を要したから、中庭の例の大木は、もうとうに葉桜になっている。それでも太い枝には力がみなぎり、青々とした葉の鮮やかな緑は陽光を集めて輝いている。東雲の国の龍脈は、再びつつがなく巡り始めているようだ。
「郷の人たちが何か言ったからとしても、鵠様は聞き入れてくださらなかったでしょうが……鈴香様も、鵠様が恐ろしくて従った、と」
鈴香も、治療を受けた者の中のひとりだった。瘴気の塊の中で何があったのか、髪も肌も瑞々しさが失せて、一夜にして何十歳も年老いてしまったような有り様だったけれど。
もとが美しい少女だっただけに、さぞ恐ろしく悲しいことだろうし、瑞穂なんて姿を見るのも嫌に違いない。だから、あの夜以来一度も顔を合わせていないままだ。……たぶん、それがお互いにとって最善なのだろう。
「巫女の中でも、鈴香様は特に鵠様を慕っていましたし。だからなおさら、ということなのだと思います」
苦く悲しい思いを堪えて微笑む瑞穂も、季節と同じく、ひとつところで踏みとどまってはいない。今日も、百花大社の楽巫女たちと歌舞の練習をしてきたところだ。玄は、彼女の声を褒めてくれるけれど――どうせなら、もっとちゃんと学びたいし、上達したい。彼と共にあることの喜びと幸せを、全身で伝えられるようにしたかった。
ちなみに、芳が巫女たちの練習に混ざるのを許してくれたのは、時々は百花大社に歌舞を奉納すると瑞穂が約束したからだ。玄は、瑞月を独り占めしようとした鵠とは違う。彼女が何をしようとも、「一番」で「特別」なのは彼なのだと、ちゃんと分かってくれているのだ。
「甘いわね、瑞穂」
練習でかいた汗を流して、さっぱりとした単姿の瑞穂に向かって、芳は少々意地悪げな笑みをにんまりと浮かべた。
「捻じれた性根の者は、自分の記憶や想いまでも歪めて気付きもしないものよ。その鈴香という娘の本音は――まあ、想像がつくけれど、お前が知る必要はないことね」
芳は、鈴香に会ったこともないのだけれど。華奢な指で菓子を摘まむ麗しの女神は、なぜかうんうんとうなずいている。鈴香の本音とやらについて、よほど確信があるようだ。
「芳様……?」
神様の前で、堂々と菓子に手を伸ばすこともできず、詳しく問いを重ねることもできず。首を傾げる瑞穂に気づいて、芳はぐいと身を乗り出してじっと彼女を見つめてきた。
「念のため、だけど。鵠に対しても悪かった、なんて思う必要はないのよ? お前はもちろん、瑞月もね。鵠が勝手に拗らせたのがいけないのだもの」
「は、はい。承知しています。……そうだと、思うのですが」
花のような可憐な薄桃色にもかかわらず、芳の視線は意外にも鋭い。畏れ多さと、それに、心の奥底のわだかまりを言い当てられた落ち着かなさに、瑞穂はそっと目を伏せた。そこへ、芳の憂いを帯びたため息が降る。
「鵠様鵠様と持ち上げられるうちに、人間を見下すようになってしまったのでしょう。人間『ふぜい』に影響されるなんて、神の風下にも置けないわね!」
「そ、そうですか……」
そういえば、玄が言っていた。芳は、人の命の短さを割り切って、花を愛でるように付き合うのだとか。
散れば悲しいと思うし、雨や風に萎れないよう心を配りもする。虫がつけば――怪異が人の世に仇なすことがあれば、退治してくれることもあるのだろう。でも、それだけだ。
花に心捕らわれるあまり、世界の理を曲げてまで咲かせ続けようとはしない。散ったらそれまで、また次の春を待つのが芳なのだろう。鵠よりもよほど、神として人の営みを高みから眺めている方なのかもしれない。
(でも、優しい方だわ。それも間違いない)
ただの花――それも、野に咲く雑草の花だろう――に過ぎない瑞穂を気遣って、話し相手に選んでくださるのだから。通りすがりに目を留めるだけでも良いのだろうに、これはとても過分な琴ではないかと思う。
「まあ、神といっても色々だしね。特に若い神なら、人と親しく交わることがあっても良いのでしょう」
ほら。玄のことを匂わせて、華やかな笑顔を見せてくれたのだって芳の優しさの表れだ。
「短い命の人間を、長々と引き留めるものではないわね。――そろそろ行きなさい。玄が待ちかねて押しかけてきても困るわ」
そう――瑞穂と玄は、これから東雲の国を巡る旅に出る。まずは梓の待つ稲盛村に顔を出して、その先は目的を定めずに流れるままに。
これまで定まった社を持たなかった玄も、珠の巫女を迎えるならさすがに考えを改めたほうが良い。その下見として、良い土地がないかを見て回るのが目的のひとつ。そしてもうひとつは――もっとずっと単純に、ふたりきりで色々な景色を見てみたいから、というものだ。
「はい。そろそろ失礼いたします。またお目にかかる時にはお土産を持って伺いますので」
「あら、お前の歌舞が上達することが何よりの土産よ? 各地で見たもの、聞いたもの――玄との色々。すべて糧になさいな」
「はい……!」
頬が熱くなるのを感じながら、瑞穂は大きくうなずいて――そして、百花大社を後にした。



