いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

「玄様……!」

 瑞穂は歓喜を込めて愛しい方の名を呼んだ。応えて、巨大な狼――玄は、再び猛々しく吠えた。

 大気を震わせるその吠え声によって、重い霧のように立ち込めていた瘴気が、束の間薄れる。
 一瞬の後には、また夜の(とばり)よりも黒い影が黄昏時の薄闇をいっそう暗く染めてしまうけれど――それでも、ひとりではないということ、共に鵠に立ち向かってくれる存在がいるということが、瑞穂にとっては何より心強い。

「瑞穂! 探したぞ!」

 狼の姿の玄は、高く跳躍すると瑞穂を捕らえる瘴気の固まりに、ぱくりと噛みついた。

「――っ」

 そして、力強い首のひと振りで、瑞穂は地上へと引きずり降ろされる。天地が回転する勢いと頭を揺さぶる衝撃に、気が遠くなりかける――けれど、堪える。
 彼女が息を整えて気を取り直すころには、玄は鋭い牙でまとわりつく瘴気を食い千切ってくれていた。

「玄様。来てくださると、信じていました……!」

 自由になった両腕で、瑞穂は玄の首筋に飛びついた。黒い毛皮は、彼女の身体が埋もれてしまいそうなほどふさふさだった。そして、こうしてぴたりとくっつくと嫌でも気付く。

 もともとは艶やかで美しいはずの毛並みのあちこちに、不吉な汚れがこびりついていること。土埃や、瘴気の粘液だけではない――鉄の臭いが鼻をついた。瑞穂が恐る恐る掌を見ればべっとりと赤いもので染まっている。

(血――こんな姿で来てくださったの……!?)

 衝撃と不安と心配とで、瑞穂はよろめいた。彼女の顔色で玄の状態を察したのだろう、宙で足を組んだままの鵠が、軽やかな笑い声で嘲る。

「なんだ、満身創痍ではないか。瘴気にあてられた怪異ふぜいに後れを取って、神として恥ずかしくはないのか?」

 高みから見下ろされた恰好の玄は、けれど、口を大きく裂いて笑みのような威嚇のような表情を見せた。真っ赤な口の中と白い牙は、知らない人なら恐ろしいと思うかもしれないけれど、瑞穂の目には美しくて鮮やかに見えた。

「神でありながら、『振られた』のを認められずに世に八つ当たりするお前よりはマシだと思うが? ……やはり、すべてお前の差し金だったか」

 ぐるる、と玄は低く唸った。彼は一度、水鏡の池を望むこの部屋に足を踏み入れたことがある。そもそも鵠は疑われていたのだし、清浄なはずの霊山の最奥が、こうも瘴気に浸食されているのを見ればおおよその察しはついたのだろう。

「だったらどうする?」

 鵠も、もう取り繕ったりごまかしたりはしない。瑞穂と玄を見下ろす目は冷ややかで、唇は嘲笑に歪んでいた。

「言っておくが、先日はわざと見逃してやったのだ。手負いの獣ふぜいに、私が止められると思うなよ」

 瘴気の黒い靄の合間に、白刃の鋭い煌めきを宿した羽根が混ざり、舞う。鵠が操るそれらの白い羽根は、玄はもちろん、瑞穂のか弱い肉体などぼろぼろに引き裂いてしまえるのだろう。でも――

「玄様はおひとりではありません。私もいます」
「瑞穂……?」

 玄を庇って進み出た瑞穂に、鵠は軽く眉を顰めた。嘲るのでも、玄に味方にすることを怒るのでもない。たかが人間の小娘に何ができるのか、という純粋な疑問の表情のようだ。

(……そう。私は弱くて、無力。でも、玄様のためなら……!)

 べっとりとした血を恐れることなく、瑞穂はそっと玄の毛並みを指で梳いた。怖いというなら、彼を失うことのほうがよほど怖い。
 それに――こんな窮地にあっても、大切な存在と並び立てることはこの上なく喜ばしく愛おしい。夜の闇が迫る中、黄泉の国の瘴気が立ち込める中であっても、希望の光は確かに瑞穂の心を照らしてくれる。

「玄様のために歌います。共に戦うことができて、嬉しく思います……!」
「俺もだ。さっき置いていったのを、どれほど悔やんだか」

 玄は、尖った鼻先で瑞穂の頬を突いてくれた。ごく軽く、彼女がよろめいたりしないくらいの力加減からも優しさが伝わってくる。

「お前を案じながらだから爪も牙も鈍ってしまった。今なら心置きなく戦える」

 瑞穂を見つめる玄は、狼の姿をしていても柔らかく微笑んでいるのがはっきりと分かった。そして同時に、鵠にちらりと向けた流し目に、勝ち誇る色合いがあるのも明らかだった。

「馬鹿げたことを……っ」

 鵠は、玄の挑発にあっさりと乗った。瑞穂を――あるいは、瑞穂と重ねた瑞月を、自分のものと考えていたからだろう。見せつけられる形に、矜持が耐えられなかったに違いない。

「引き裂いてやる。瑞穂、お前もだ! 悲鳴で瑞月を呼び寄せろ……!」

 鵠が叫ぶと同時に、漂っていた白い羽根が一斉に瑞穂たちを指した。玄が最初に現れた時と同じ――けれど今は、羽根の数はずっと多く、鋭く迫る勢いはずっと速い。でも――

 羽根の刃の間をすり抜けて跳躍する玄のほうが、ずっとずっと速い。黒い流星のようだと、彼が夜空を駆けるのを見た時に思ったものだ。

「く――」

 鵠にとっても予想外の速さなのだろう、彼は端正な面を焦りで歪め、手を振り上げる。羽根に反転を命じるか、瘴気を操って玄を攻撃する気か――いずれも、させない。

「ちはやぶる 神に祈りの 叶へばや 叶へばや」

 瑞穂は、祈る想いを声に乗せて歌った。祈りを捧げたら神は応えてくれた、という歌。彼女が祈り、想いを託すのは、由緒ある社の名のある神ではなく、たったひとりの孤独な――けれどほかに代えられるもののいない、狼の神。

(どうか……!)

 玄がいるから、瑞穂は瑞穂でいられる。母の影でも身代わりでもなく、彼女自身として生きて良いのだと思える。鋭い牙で、鵠の邪悪な企みも妄執も断ち切って、噛み砕いて欲しい。

「しるくも色の あらはれにけり……!」

 歌い上げた瞬間、玄の牙が鵠の首を捉えた。そのまま、玄は大きく首を振る。先ほど瑞穂を助け出したよりもずっと激しく。同時に前脚の爪の一撃を食らって、鵠はもはや瘴気の渦となった池に落ちる。

 黒い水飛沫(しぶき)が高く上がり、瑞穂の頬にも跳ね飛んだ。鵠に向かった玄か、地上にいる瑞穂か――標的を迷うように揺らめいていた白い羽根は、溶けるように消える。

「おのれ――」

 鵠の白い髪も手足も、瘴気の中に呑まれていく。そもそもは鯉が泳ぐていどの深さのはずの池は、今は底なしの泥沼であるかのよう。きっと、黄泉の国にまで繋がっているのだ。

 ゥオオォーーーーン!

 どこまでも堕ちていけ、とばかりに、玄が吠えた。その吠え声に押されるように、鵠の身体がぐっと沈む。もはや現世(こちら)から見えるのは、顔と、縋るように伸ばした指先だけだ。

 と、鵠の指先に、白い鳥が飛んで近づいた。

(母様……?)

 黄泉の国から呼び寄せられようとした、母の、瑞月の魂だという鳥だ。黒く淀んだ瘴気の中で、その翼の白さはいっそうまぶしい。

「瑞月。私のために……?」

 鵠の顔も、歓喜によって輝いた。でも。

 その鳥は、輝くような純白の翼で鵠の指先を強く打った。そのごく軽いはずの一撃で、鵠の指からふ、と力が抜ける。

「瑞月――」

 喜びから一転した戸惑いと――そして恐らくは絶望によって歪んだ鵠の顔は、すぐに瘴気に呑まれて見えなくなった。

 母は、瑞月が娘を助けてくれたのだ。あんなにも強く美しく気高かった鵠が、最後は死んだ人間の魂のごくささやかな反抗で、黄泉の国に堕ちた。

「母様、私……っ」

 白い鳥の翼の輝きも、もう見えない。現世に近づいたのはあくまでも鵠を止めるため、母自身は人の命の理を曲げるつもりはなかったのかも。父の魂も、黄泉の国にいるからかも。それでも、最後にせめてひと言を伝えたかったのに。

「――終わったな。黄泉の国との扉は閉ざされた。これで、もう現世が脅かされることはない」

 今や、もとの澄んだ水面を取り戻した池に手を伸ばす瑞穂を、玄は後ろから抱きしめた。戦いを終えて、人間の姿になったらしい。逞しい胸は、瑞穂の安堵も悲しみも受け止めて、支えてくれる。

「……はい……!」

 言いながら、瑞穂はくるりと身体を反転させて、玄の顔を見上げた。
 狼の姿だった時は、黒い毛皮のお陰で傷も汚れも目立たなかった。けれど人の姿になった今は、たとえ辺りがすでに闇に沈んでいても、彼の傷の深さがはっきりと見えてしまう。

 鵠の羽根が掠めたのだろうか、玄の頬にすっと走ってひと際目立つ傷に、瑞穂はそっと掌を添えた。

(こんなに傷ついて――でも、私の祈りを叶えてくれた……!)

 傷に触れて、玄を苦しめてしまうことを恐れながら、それでも瑞穂は玄に思い切り抱き着いた。

「……っ」

 玄も、一瞬だけ息を止めてから、瑞穂の背に腕を回してくれる。

「帝都では、巫女たちも歌舞で援護してくれていた。だが、お前の声が聞こえなかったから――何が起きたか、気が気ではなかった」
「玄様は、いつも私の――私だけの声を、聞いてくれるのですね」
「当然だ。お前の声を聞き逃すことなどあるものか。だが――」

 玄は一度言葉を切ると、瑞穂を彼の腕の中に閉じ込めた。息苦しいほど、彼の傷に障らないか心配になるほど強く、彼女を抱え込んで――そして、耳もとに熱くささやく。

「遠くから呼ばれるよりも、近くでのほうがずっと良い。もう二度とこんな想いをしないように。俺の掌中の珠でいて欲しい。――受けてくれるか?」

 それは、瑞穂を玄の珠の巫女に、ということ。彼女の短い生のすべてを欲してくれるということ。どうして首を横に振る必要があるだろう。

「はい! ずっとずっとお傍にいます。絶対に離れません」

 瑞穂が言い終わるか否かのうちに、玄はいっそう強く瑞穂を抱きしめた。

「……幸せだ。今まで永く生きてきたどの瞬間よりも、ずっと」
「私もです。誰かを愛すると、世界はこんなにも美しいのですね」

 玄の肩越しにわずかに見えるのは、満天の星。玄の背に乗って夜空を駆けた時にも間近な輝きに目を瞠ったけれど、今はあの時よりもずっとたくさんの星が、ずっとまばゆく輝いている気がする。夜はこんなに明るいものだったのか、こんなにもたくさんの星が空のどこに隠れていたのかと、驚くほどに。

(玄様が、教えてくれた。世界の広さと――美しさ)

 玄といれば、この先のどの瞬間も、今の星と同じく美しく輝いて見えるのだろう。愛しい存在、ただひとりの伴侶の温もりを抱きしめながら、瑞穂はそう確信していた。