いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 空を塗り潰す勢いで噴き上がった黒い水柱――黄泉の国の瘴気は、宙で崩れて池に、庭に、鵠の寝殿に降り注いだ。美しく清められていた神の住まいが、どす黒く粘ついた穢れに侵されていく。

(なんてこと――)

 呆然と立ち竦む瑞穂に、瘴気は意思を持つかのように襲いかかった。帝都から連れてこられた時のように、泥のような粘りあるモノが彼女の手足を絡めとる。

「きゃ……!?」

 しかも、この場に出現した瘴気は先ほどのものより悪意があるようだった。瑞穂を包み込んだ上で、じわじわと握り込むかのように締め上げる。巨大な蛇に呑み込まれるネズミは、こんな気分になるのだろうか。

(苦し――)

 胸も腹も締め付けられて呻く瑞穂の耳に、鈴香の高らかな笑い声が届いた。

「良い気味ね、瑞穂! お前も、最初から必要とされていなかったのよ! 死ね! お前なんか跡形もなく消えてしまえ……!」

 そこまで嫌われていたのか、と思うと、鈴香の声は瑞穂の胸を鋭く貫いた。けれどいっぽうで、どうしてそこまで、とも頭を掠める。

(お前『も』……? 鈴香様は鵠様の珠の巫女なのに――)

 場違いかもしれない疑問への答えは、ほかならぬ鵠によって与えられた。

「活きの良い贄だな。化物どもも喜ぶだろう」

 鵠は宙に浮かんで優雅に足を組んでいた。白い鳥の化身だからなのか、それとも瘴気の力を行使しているのか。いずれにしても、蜘蛛の巣のように縦横無尽に宙を埋め尽くした瘴気を背景に、瑞穂たちを見下ろす彼の目はどこまでも冷ややかだった。

「贄――あ、あの。私が……?」

 おずおずと尋ねた鈴香に、鵠はくすくすと嗤った。

「瑞月の魂を捕らえて運ばせるのは少々の手間だ。黄泉の国に渦巻く瘴気には神の威光も言葉も通じないからな。――だから、餌で釣ることにした」

 そして、白い指をすっ、と伸ばして真っ直ぐに鈴香を指す。

「花津月の祭礼に群がった人間ども。それに、『一応は』清らかな巫女も念のために加えようと思ってな。私の役に立てるのだ、嬉しいだろう、鈴香?」

 やはり優雅に首を傾げて、鵠はさらりと鈴香に同意を求めた。

「わ、私。そんなつもりじゃ――そこまで、そんな。言うことを聞いたのに……!」
「媚びを売るため、打算で従っただけだろう。それで私の寵を強請るなど浅ましい」

 狼狽えた鈴香の訴えを、鵠は笑い飛ばした。
 彼の言うこと、というのは瑞穂を帝都から連れ戻したことだろうか。人の身で龍脈に突き落とされるのは怖かったし苦しかった。鈴香は、鵠の命令だからあの思いに耐えたのだろうか。――確かめようにも、瘴気の塊が鈴香めがけて押し寄せたから、問い質す余裕などなかった。

「嫌、来ないで、止めてえええ――」

 鈴香の悲鳴は、どす黒い瘴気の渦に呑み込まれ、そして聞こえなくなった。鈴香を取り込んだ塊はぼこぼこと収縮し、まるで咀嚼しているかのよう。中で何が起きているのか――考えることに耐えられなくて、瑞穂は叫んだ。

「鵠様……!」

 彼女自身も瘴気に締め付けられているから、止めてください、助けてあげてください、と続けることはできない。それでも、想いのこもった悲鳴だろうに、鵠は取り合ってくれない。

 瑞穂を捕らえた瘴気がうねり、彼女を取り込んだまま寝殿の天井を破った。降り注ぐ木材を、目を瞑り首を振ってやり過ごし――瑞穂は池を見下ろす高みに引き上げられていた。悪戯っぽく微笑む鵠が、すぐ傍にいる。

「ご覧、瑞穂」

 鵠は、瘴気で黒く染まり、沸き立つように不穏に波打つ池の水面を示した。黄泉の国に通じてしまっているのだろう、と思うと瑞穂の肌は恐怖と嫌悪で粟立つ。

「白い鳥がこちらに向かっているのが分かるか?」

 けれど、鵠に言われて恐る恐る目をこらせば、確かに白く輝く小さな鳥が、瘴気の泥沼の中でもがいているようだった

「あれは、瑞月の魂。人の魂は死ぬと鳥の形になるの――娘の気配は、やはり恋しいようだな」
「母様……?」

 黒い渦と荒波の中で必死に羽ばたくその鳥を見ると、確かに胸が懐かしさに締め付けられた。健気で美しくて、記憶にある母の印象そのままで。瑞穂の気配を感じてくれているなら、優しさも変わっていないのだろう。

 瑞穂の表情が揺らいだのを見て取って、鵠が笑顔で彼女に迫る。手指が伸ばされ、瑞穂の喉をぐっと掴む。

「さあ、瑞穂、歌え。お前の声を目印に、瑞月はここまで羽ばたくだろう。母とまた会えるのだぞ?」

 瑞穂の声は、遠くまで聞こえるのだという。玄も、山を越えて駆けつけてくれた。けれど、瘴気の中から飛び立とうともがく白い鳥を見ると、ひどい、可哀想という思いが真っ先に浮かぶ。

「鵠様……止めてください! こんなこと……!」

 死者を地上に呼び戻すなんて、無理なことなのだ。母もきっと苦しい思いをしている。鈴香に、帝都の人々。それ以外にも、怪異によって脅かされた者たちが数多いる。そこまでの犠牲を払ってまで望むことではないはずなのに。

 でも、瑞穂の言葉は鵠には届かない。

「歌え。私は瑞月さえ取り戻せればそれで良い。帝都が瘴気に侵されたままで良いのか? 親しい者もできたのだろう?」
「……っ」

 首を掴まれたところからさらに揺さぶられて、瑞穂は呻いた。けれど鵠は容赦も手加減もしてくれず、彼女を言葉でも追い詰める。

「もっとも、芳も酒井もほかの者たちも皆、瑞月の娘だからこそお前をもてはやしたのだろうが。――そうだ、こう考えてはどうだ? お前の肉体で瑞月が蘇れば、あれらも喜ぶだろう。たまには『お前』を連れて帝都に顔を出しても良い」

 美しい花と春の女神、芳。神楽寮の長でにこやかな酒井。ほかにも、帝都で会った人々は多い。彼ら彼女らが皆、二言目には瑞月のことを口にするのは、瑞穂も気付いていた。

(皆、瑞月に似ている、懐かしい、って――)

 それはつまり、瑞穂は母では「ない」ということ、母の偽物だということだ。偽物より本物のほうが良いのは――当たり前のことだ。

 瑞穂の身体から力が抜けた。自身の言葉が効いているのが分かったのだろう、鵠の声と手つきが一転して優しく甘やかすようなものになる。

「瑞月が舞い歌えば、このていどの被害はすぐになかったことになる。そうなれば、お前としても望ましいのではないか?」

 首筋をくすぐられ、耳もとにささやかれても、気持ち悪い、としか思わなかった。鵠の優しさに見えたものは、すべて偽りだったともう分かったから。何もかも、この邪悪な企みがあってのことだったというのだから。

 鵠が見ているのは母の瑞月だけ――でも、無理もないことだということも、瑞穂は思い知っている。

「私、は――」
「『私』などいない。『お前』など誰も必要としていない。帝都に行って、かえって身に染みただろうに」

 ああ、だから鵠は玄が瑞穂を連れ去るのを見逃したのだ。帝都で、至るところで母の影を感じれば、勝手に絶望するだろうから、と。

 瑞穂は、がくりと頭を垂れてうなだれた。

 誰も瑞穂を見ていない。瑞穂でなくて良い。……本当に?

(……違う!)

 闇に沈みかけた瑞穂の胸に、一点の光が点った。蘇るのは、玄の声。世界の何もかもが輝いて見えたまぶしさと愛おしさ。

『俺は、最初からお前の歌に惹かれていた。あの声が聞こえるところに真っ直ぐに降り立った。瑞月の娘だと、知る前に!』

 瑞穂の声は、山を越えても届く。龍脈は、東雲の全土を巡っている。人間の瑞穂でさえ、龍脈に乗って帝都から白玲山まで移動することができた。――それなら。

 瑞穂は大きく息を吸うと、声を限りに叫んだ。

「玄様! 私は――瑞穂はここにいます! どうか、来て――助けてください!」
「な――」

 全身全霊を込めた声の大きさに驚いてか、鵠は大きく眼を瞠った。彼の純白の髪が乱れ、辺り一帯に漂い淀んだ瘴気も揺らめく。まるで、鈴香の声が強い風となったかのよう。

 その声は、その風は帝都まで届いたのだろうか。

 ウアオオーーーオォォーン!

 瘴気の沼の底から、狼の遠吠えが応えた。表面の揺れや波立ちがいっそう激しくなり――そして、それを突き破って巨大な黒い狼が飛び出した。