いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 鵠の気迫に圧されてか、鈴香は瑞穂を殴ったり蹴ったりするのを止めて、平伏している。
 瑞穂も、もちろん鵠の声に滲む暗い情念は、怖い。けれどその恐怖を押さえこんで、瑞穂は顔を上げ、ついこの間までこの上なく尊崇していた美しい神を、睨んだ。

「父と母に、何をなさったのですか。許してくださったのでは、ないのですね……!?」

 人間なんかに事細かに教える必要はないからだろう、鵠は例によって瑞穂の問いかけに応えたわけではなかった。でも、察するには十分だ。

「あの者たちは、鵠様は本当は慈悲深いお方だから云々と言っていた。神に対して、話せば分かる、とでも思っていたならそれこそ無礼だ。人間の都合や感情になど、この私が遠慮する必要があるはずはないだろう?」

 唇を歪め、顔を顰める鵠の表情もまた、瑞穂が見たことがないものだった。そもそもが整った顔立ちだからこそ、浮かべる表情の醜悪さがいっそう際立ってしまう。

「瑞月の歌舞は、私だけに捧げられるべきだ。それ以外の道などあり得ない。――そう、言い聞かせようとしたのだが。ふたりとも『死ぬまで』心が変わらなかったのは残念なことだ」

 鵠は、他人事のように語った。けれど、瑞穂の両親の死に、彼が無関係であるはずはない。
 瑞穂が言い聞かされて育った通りだ。鵠は母が父を愛したのを自分への裏切りと捉えた。そして、その罪を罰したのだろう。

「ひどい……!」

 瑞穂が非難を込めて叫ぶと、鵠は静かに立ち上がった。鈴香のように乱暴するつもりか、と思って身構えた瑞穂を放って、彼は庭――鏡のような水面が広がるのほうへ足を進める。

「無論、すぐに後悔した。人間は脆いものであったと――罰するなら、男のほうだけで良かったものを」

 鵠の金色の目は、瑞穂ではなく静かな水面を見つめていた。

 瑞穂はどれだけの間意識を失っていたのか、時刻はもう夕暮れ時を迎えているようだった。照明が灯された室内から外に目を向けると、水面は黄昏時の暗い赤や紫の空を映して燃えるよう。

 美しいけれどどこか不吉な光の揺らめきは、歪んだ微笑を浮かべた鵠の顔も妖しく照らした。にい、と三日月型の弧を描く唇も、紅を刷いたようで。

「だから、瑞穂。お前は生かしておいたのだ。瑞月の轍を踏まぬよう、外の世界など見ようともしないように。私の言葉を絶対と信じて従うように」
「すべてを知った以上は、もう貴方には従いません!」

 嫌な予感に胸がざわめくのを感じながら、瑞穂は声を張り上げた。言葉に出すことで、自分自身に言い聞かせたかった。

「今の私には、母の想いが分かります。たとえ神でも、美しく力あるお方でも。育てていただいた恩があっても! たったひとり、誰よりも大切な方への想いには敵いません!」

 玄への想いを自覚した時の世界の輝きが、彼女の心を照らしてくれていた。黄昏時のほの暗く禍々しい炎の色も、あの輝きなら圧倒してくれる。……だから、怖くない。怯まない。

「本当にお前は瑞月に似ている……」

 強い決意を浮かべているであろう瑞穂の顔を見つめて、鵠は嫌そうに顔を顰め――そして、気を取り直したように破願した。

「そんなに似ているなら、母の『器』になれるだろう」
「何を……?」

 眉根を寄せた瑞穂を余所に、鵠は池のほとりに膝をつき、指先を水面に伸ばした。そこに映っていた黄昏の空の色が乱れ、いっそう危うく妖しい光の氾濫を生む。

「玄――あの(けだもの)は、そもそも龍脈の乱れの調査に来たのだろう。白玲山に泥まみれの足で踏み入られるのは不快だったから、あえてお前を攫わせたのだ。お前を連れ戻す算段は十分にあったし、な」

 そうだ――あの夜、鵠を攻撃したように見えた玄を、瑞穂はひどいと思ったのだ。でも、今の言い方だと、鵠は意図があって引き下がったということになる

(玄様に調べられたら良くないことがあった……? それって……!)

 これはもう、自白も同然だ。
 鵠には罪の意識はないようだし、瑞穂からの糾弾なんて気にも留めないのだろうけれど。でも、実際に化物を目にし、祭礼に浮かれていた人々が一転して悲鳴を上げるのを聞いた身としては、黙ってはいられない。

「やはり鵠様のせい、なのですか? 各地を騒がせる怪異も、花津月の祭礼を襲った化物も……? 晴れがましい祝祭の日に、いったいなぜ、そんなことを」
「芳が目立ちたくてやっていることだろう。あとは、騒ぎたい人間の都合か。私が配慮すべきことではないな」

 案の定、というか。ごくあっさりと言ってのけた鵠は、瑞穂に視線を向けることさえしない。ただ、鏡のような水面を見続けている。

「……神楽寮も帝都の神々も、鵠様を疑っています。こうなっては、白玲山(ここ)にもっと強硬な調査の手が入るのは時間の問題かと」

 神楽寮が鵠に抗議する、なんて本当にあり得るのかどうか分からない。鵠がそれを聞き入れる義理もないのだろう。

(でも、芳様もご不快のご様子で――ほかにも、お困りの神もいらっしゃるのではないの……?)

 人間の都合など神には関係ない、とはもはや言えない状況だと思うのに。東雲の国のすべてを、神々までも敵に回して鵠が何をしたいのか、瑞穂にはさっぱり分からない。

「……母の選択を受け入れがたいのは、お察しします。ですが、美しく清らかな御身に似つかわしくないご乱心は、どうか、もう……!」

 思いつくとしたら、母に裏切られたこと、あるいは怒りにまかせて――殺めてしまったことへの八つ当たり、のようなものだろうか。鈴香なら、不機嫌や苛立ちを瑞穂にぶつけることもままあった。神である鵠なら、同じことを世界に向けてやるのかも、とも思ったのだけれど――

「安易に察する、などと口にするな。人間が、神に対して僭越である」

 眉を上げながら立ち上がった鵠の顔には、心外、と大きく書いてあるかのようだった。図星を突かれた怒りや狼狽など感じられない。
 それどころか、うっすらと浮かべた微笑は、かつて瑞穂が仰ぎ見た時のまま、穢れなく美しかった。――けれど、だからこそ恐ろしくておぞましい、と思ってしまう。

「それに、私は乱心などしていない。まったくもって正気で、冷静だ」

 鵠は滑らかに語る隙に、瑞穂もゆっくりと立ち上がった。鈴香の暴行によって全身が痛むけれど、構ってはいられない。

(鵠様――何かなさろうとしている……!?)

 鵠を見据えたまま、瑞穂はじりじりと後退しようとした。同時に、この寝殿の間取り図と水鏡郷の地図を頭に思い浮かべる。ただでさえ寝殿の最奥に位置するこの部屋から、郷を抜けて、山を下りることができるかだろうか。それも、郷の者たちは皆、鵠の味方をして瑞穂を追うに決まっているのに。

(無理……? ううん、やるしか、ない……!)

 帝都に鵠の変貌を報せるために。今も黄泉の国の化物と戦っているのかもしれない玄のために。――彼とまた会って、あの話の続きをするために。

「……死が絶対の離別なのは、人間にとってだけだ」

 瑞穂の決意を読み取った上で、それを無駄だと嗤ったのだろうか。鵠の唇が描く弧が深まった。
 白い指が宙に伸べられ、赤く燃える空を映して妖しく色づいた唇が、歌うように告げる。

「私なら、黄泉の国にも手が届く。龍脈の流れを捻じ曲げて、死の世界にも通じさせれば。瑞月の魂を探し出して連れ戻す。今度こそ逃がしはしない」
「そんなこと――」

 できるはずがない、と言おうとして、瑞穂は目を瞠り、息を呑んだ。鏡のように平らかだった池の水面が、妖しく激しく波立っている。まだ夕映えの色に染まっているから、まるで血の池が沸騰しているかのよう。

「時間はかかったが、『繋がった』。――瑞穂。血の繋がったお前の肉体なら、瑞月も喜んで入るだろう……!」

 鵠が高らかに叫ぶと同時に、巨大な水柱が宙に噴き上がった。その色は、本来の清らかな水のものでも、夕映えの赤や紫でもない。瑞穂がかつて対峙した化け物と同じ、淀んだ黒。

 神聖なる霊山、白玲山に、黄泉の国との扉が開いてしまったのだ。