いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 気が付くと、瑞穂は板敷の床に横たわっていた。鼻先に届くほのかな檜の香りは、とても馴染みのあるものだ。白玲山(はくれいざん)(くぐい)の寝殿で、瑞穂は何度となく磨き抜かれた床にはいつくばって鈴香や村人になじられたものだ。

(白玲山――さっきまで帝都にいたのに……?)

 花津月(はなつづき)の祭礼のために、(かおる)にそれは美しい振袖を着せてもらったはずだった。玄と屋台を見て回って――とても嬉しい言葉をもらった。あれは、すべて都合の良い夢だったのだろうか。

 ……違う。夢ではない証拠に、恐ろしい悲鳴や、不安や恐れが一気に瑞穂の胸に押し寄せる。

(黄泉の国の化物! 玄様は、百花大社(ひゃっかたいしゃ)は……!?)

 状況を確かめようと、瑞穂はぱっ、と目を見開いた。同時に身体も起こそうとして、けれど、激しくむせる。

(何これ、苦し……っ)

 沼に沈められた、と思ったのも夢ではなかったらしい。喉を塞ぐ粘りのある泥だか何かに呼吸を遮られているのだ。何度か咳き込むうちに、瑞穂の口から何か黒っぽいものが吐き出される。

 不気味な粘液は、幸いに檜の床を汚すことはなく、溶けるように消えた。とはいえ、それこそ瘴気のようなモノの残滓が漂っていると思うと、気味が悪くてならなかった。

(鈴香様は、龍脈って――あんな、汚らわしい泥沼のようなものが?)

 意識を失う直前のことも、徐々に蘇ってきた。なぜか帝都に現れた鈴香に、鵠が大変だからと言われて――白玲山まで、一瞬だと。

「鵠様……っ!?」

 霊山の主、今となっては疑いも抱いてしまうけれど、それでも瑞穂を育ててくれた美しい神。そのお方が大変、というのはいったい何ごとなのだろう。確かめようと、瑞穂は慌ただしく首を振って、辺りの様子を確かめようとした。すると――

「おかえり、瑞穂」

 聞き覚えのある涼やかな声が降ってきた。

 声の源へ顔を向けるころには、瑞穂も寝殿のどの部屋にいるかを把握していた。水鏡のような澄んだ池を望む、鵠の居室――玄に攫われて白玲山を後にしたあの夜にもいた、まさにあの部屋だ。

 鵠も、あの夜のように脇息にもたれている。新雪のような純白の髪も金色の瞳も、輝かしいばかりに整った顔も、変わりなく美しい――と、思う。

(何が『大変』なの……?)

 心の片隅で不思議に思いながら、瑞穂は平伏し直した。考えるまでもなく、鵠の前ではそうするものだ、という倣いは彼女の身体に染みついていた。

「鵠様……あの、お身体は大丈夫なのですか? 瘴気が障ってはいませんか……!?」

 頭を垂れる前にちらりと見えたけれど、鵠の隣に控えた鈴香は、やはり憔悴した様子だった。それに――鵠は、ついぞ見たことのない歪んだ笑みを浮かべていたような。本当に何もないとは、思えないのだけれど。

「瘴気? ……ああ。この通り、変わりない」

 ほら、瑞穂の狼狽えた呼びかけに応えてくすくすと笑う声も、なぜか刺々しく、いたぶるような響きが潜んでいる。

「私が大変だと聞いて駆けつけてくれたのだね。帝都の浮ついた風に染まり切ってはいないようで安心した」

 鵠が続けたことも、事実とは少し異なる。
 瑞穂は確かに驚いたし狼狽えた。鵠を助けたいとも思っていた。けれど、鈴香に突き飛ばされて、気付いたら白玲山にいた、というのは駆けつけたとは言えないと思う。

(鈴香様が、嘘の報告を……?)

 でも、鈴香が瑞穂について良いように報告するなんてあり得ない気もする。けれど、それなら鵠が誤解した理由が分からない。

 鵠や鈴香の表情を窺いたいけれど、顔を上げたら叱責されるかもしれない。迷う瑞穂は、衣擦れの音にも、視界に落ちる影にもしばらく気付かなかった。――鵠が、彼女の間近に膝をつき、白い指先で顔を上向かせるまでは。

「化粧もしているのか。まったく、誰に教わったのか」

 小さく舌打ちしながら、鵠は瑞穂の頬を掌で包み、親指で唇をなぞる。さらに首筋までも撫でられて、瑞穂は小さく悲鳴を上げた。

「鵠様……!?」

 ざわざわとした感覚に、思わず身体を引いてしまう。もはや神の御前でひれ伏しているのではなく、単にへたり込んでいるような恰好だ。無礼だし、みっともないだろうに――けれど、鵠は手を半端な高さに浮かせたまま、満足そうににやり、と笑った。

「その様子では、玄の餌食(えじき)になったわけではないようだな。無垢なままで戻ってくれて、良かった」
「ど、どういう、ことでしょうか……?」

 鵠の意図が、瑞穂には何も分からない。でも、混乱しながらも、何か良くない意図で触れられたことだけは理解できた。

(……怖い)

 先ほど、百花大社の鎮守の森で、玄に手を握られた時はもっとずっと強い力だったのにこんなことはなかった。けれど今は、肌が粟立っているのが分かる。

 瑞穂が自らを守るように身体をかき抱く間に、鵠はまた席に戻っていた。しどけなく――というよりはだらしなく脇息にもたれると、彼は軽く眉を顰めて煩わしげに手を振った。

「その着物は芳の趣味か。お前には派手過ぎて似合わないな。――鈴香」

 名を呼ばれて、鈴香は素早く立ち上がった。そして、大股に瑞穂に歩み寄ると、振袖の襟を乱暴に掴む。多くを言われるまでもなく、鵠の意図を察するのは、水鏡郷の者なら誰でもできることだ。瑞穂は、長年そうやって虐げられてきた。

「ほら! 脱ぎなさい、早く!」
「嫌、止めてください……っ」

 でも、着物を剥ぎ取られたことは一度もない。それに、今まとっているのは芳に見立ててもらったとても美しい振袖だ。もう汚れてしまったかもしれないけれど、脱げと言われて大人しく従うことなどできなかった。

「鵠様のお言いつけよ。さっさとなさい!」

 瑞穂の反抗に、鈴香は苛立ったようだった。手荒く突き飛ばされ、踏みつけられると、繊細な生地が破れる音が聞こえた。

(ひどい……)

 瑞穂の頬を涙が伝い、抗う力も弱まってしまう。その隙を鈴香は見逃さず、笑いながら帯にも手をかけていく。これも手加減も容赦もせず、瑞穂の髪を引っ張ったり小突いたりしながら、それは楽しそうに。

「お前なんかがねえ、こんなもの着てはいけないのよ!」

 振袖を脱がされた瑞穂は、襦袢一枚で震えた。鈴香が戦利品のように掲げる振袖は、無残にしわくちゃになり、裂け目もできている。涙でぼやけた視界に、花車の華麗な模様が滲んでいた。

「瑞月に似ているのは良いが、やることまでも似ては困りものだ」

 乱暴狼藉の一幕など見えていないかのように、鵠がぼそりとつぶやく。

「けばけばしい色柄、薬臭く安っぽい染料、手足を露出した洋装! あまつさえ、帝都で会ったばかりの男に心も身体も許すとは……!」

 鵠の声には、深い嫌悪と怒りが滲んでいた。
 帝都の若い女性はそんな恰好をすることもあるのは、瑞穂も見ている。でも、振袖姿の瑞穂に対して言うのはおかしい。

(まさか……?)

 頼りなく心細い恰好にも構わず、瑞穂は閃きを口にした。

「それは――私の母のことですか。それに、父の……?」

 知らない母の姿を、瑞穂はまた知ったのかもしれない。巫女姿だけではなくて、普通の女性のように洋装を楽しんだこともあったのかもしれない。そうして、父と出会ったのかもしれない。

 玄を見つめ合った時の世界の輝きを、母も見たのかも。そして、その輝かしい世界はどうなってしまったのか、瑞穂は何も知らないままだ。

「お前も母と同じで誘惑に弱い。帝都で寄せられる賞賛に、すっかり気を好くしていたのだろう。……手遅れになる前で、良かった」

 顔を顰めて吐き捨てる鵠は、瑞穂の疑問に直接答えてくれてはいない。それに、またとても気になることを言った。

「母については手遅れになった、ということでしょうか」

 神に対して問いを重ねる無礼にも、構ってはいられなかった。瑞穂は、重ねた畳の上に座した鵠のほうへ身を乗り出す。

「私……母がなぜ死んだかも、父のことも何も知りません。知らないのに、気にしないように育てられました」

 声が、激しい感情によって揺れる。悲しみと疑問。知ろうとしなかった後悔と、そうさせられたことへの怒り。鵠のことを信じていたし、信じていたかった。でも、この状況のおかしさや違和感から目を背け続けることはできなかった。

「帝都で聞いた話は、鵠様から伺ってきたのとはまったく違っていて――どちらが本当なのですか? なぜ、帝都の神々も人も、母が亡くなっているのを知らなかったのですか……!?」

 言い終えるか否かのうちに、横から強い衝撃があって瑞穂は体勢を崩した。鈴香に突き飛ばされた、と理解したのは、床に打ち付けられてから。そして、罵声と共に踏みつけられる痛みを感じてからやっと、だった。

「瑞穂! 鵠様を疑うの!? なんて無礼な――黙りなさい!」

 鈴香は、いつもは艶やかな髪を自慢にして丁寧に梳いていた。でも、頭を庇って掲げた腕の間から見る今の姿は、ぼさぼさの髪を振り乱した悪鬼の形相で、山姥(やまんば)か何かのよう。

(どうして、こんな……?)

 暴行についてひどいとか怖いとか思うよりも、怪しむ気持ちのほうが大きくて、瑞穂は眉を顰めた。

 床に落ちた影によって、鵠が手を軽く挙げ、それによって鈴香を制したのが分かった。けれどそれは、瑞穂を哀れんだとか暴行を見かねたというわけではないだろう。

「瑞穂。お前の父は、神楽寮に勤める役人だった。幼いお前を連れて、瑞月とその男は私に願い出たのだ。三人で暮らすことを許して欲しい、とな……!」

 鵠は、美しく清らかな姿に似合わない、呪詛のような声で言い放ったから。そこにこもっているのは、怒りと嫌悪と――怨みと、嫉妬。
 龍脈を守護する神が、ただの人間の巫女とその伴侶を怨み妬み続けているという、告白だった。