いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

「あ、あの。玄様。それは、どういう……?」

 おずおずと尋ねる、瑞穂の頬も熱い。春を通り越して、真夏の熱気の中にいるのではないかと思うほど。暑くなったり、寒くなったり、花津月の祭礼の日だというのに、春の心地好さは今日の瑞穂には縁遠い。

 玄が感じているのは、暑さなのか寒さなのか。赤く染まっていた頬が、みるみるうちに強張っていく。瑞穂を見つめるまなざしもどこか苦しそうで、縋るような気配がある。

「言葉通りだ。俺は、また痛みと悲しみを味わうことになる。いや――俺のことより。お前の儚い生を、俺に縛り付けようとしている。正しいことではないと、分かっているのだが……」

 玄も、瑞穂の反応が怖くて堪らないのだ、と不意に気付いた。神と人の違いを考えれば、一緒にいないほうが良い。でも、そうはっきりと告げたくはないと思っている。だから、瑞穂にそんなことはないと言って欲しい……のだと、思う。

(玄様。そこまで……?)

 瑞穂のことなど考えず、手中に収めることもできたはず。珠の巫女というのは、そもそも掌中の珠、の意味だから。大切な宝物として扱われるだけでも、人間には過ぎた光栄だ。
 なのに、玄は瑞穂の心まで望んでくれている。

 瑞穂の中を、温かく香り高い風が吹き抜けた、気がした。芳の御前で舞って、老木に花をもたらした時の感覚に似ている。けれど、もっとずっと強くて美しい。

 世界の何もかもが色鮮やかさを増した。より明るく、より輝かしく。木々の梢を越えて聞こえる祭りの喧騒も、より華やいで。太陽が地上に近づいてきたのではないかと思うほどに何もかもがまぶしくて――鮮烈な感覚に圧倒される瑞穂の耳に、懐かしい声が蘇る。

『歌も舞も、その想いを伝えるためのもの。楽巫女とは、世界を等しく愛し慈しむものなのよ』

 母の瑞月が、幼い瑞穂に語って聞かせた時の声だ。その通りだと、素直に受け止めてきた言葉。

『でも――』

 そして、まったく正しいはずのその言葉を覆した先に、母は何を言ったのか――ずっと思い出せなかった。ずっと不思議に思っていた。でも、今なら分かる。

(ああ、母様。分かりました。あの言葉の続き。世界よりも愛しい存在ができた時にこそ、世界はより美しく輝かしくなる……!)

 母は誰からも愛されたし、母も世界を愛したのだろう。でも、世界全体に向けた愛は、たったひとりの特別な存在に向けるそれには及ばない。
 母もきっと、こんな思いをする相手に出会って、そして瑞穂が生まれたのだ。

「は、玄様。私――」

 この美しく尊い感覚を、なかったことにして諦めるなんて考えられない。玄にも、同じ思いを感じて欲しい。分かち合いたい。そう伝えようと、瑞穂はもつれる舌を必死に動かした。

 でも――祭礼に似合わない悲鳴が、瑞穂の言葉を遮った。
 ひとりだけの声ではない、群衆がいっせいに驚きや恐怖の声を上げて、花吹雪舞う麗らかな空を、不穏の暗雲で翳らせる。瑞穂が感じた輝かしさも、霧が解けるように消えてしまった。

(何なの……!?)

 瑞穂も玄も、ほとんど同時に跳ねるようにして立ち上がった。悲鳴の源は、屋台が立ち並んでいるほうだ。その原因は――顔を顰めた玄が、教えてくれる。

「瘴気の臭い――こんな時に、化物どもか!」
「そんな。百花大社の境内に……!?」

 以前、夜の山中で遭った異形の化物を思い出して、瑞穂は震えた。あんなモノがこの人出のさ中に現れたら、大混乱が起きる。押し合いへし合いしで転びでもしたら、あの黒い化物の餌食となってしまう。

(花津月の祭礼を、黄泉の国の化物なんかで穢させるなんて……!)

 そんなことは、あってはならない。強い危機感に駆られて、瑞穂は玄に向き直った。

「玄様。私をお連れください。どうか……!」

 怪異の出現を警戒していたとはいえ、人間ができる範囲でのことだ。たくさんの人を安全に避難させるには、玄の力が必要だろう。そして、黄泉の国の瘴気にあてられた怪異には、玄も苦戦していたのを瑞穂は見ている。

(また歌います。貴方のために……!)

 言わずとも、瑞穂の覚悟は伝わったのだろう。玄の表情が明らかに揺れた。

「瑞穂――」

 玄は最初、(たしな)める調子で呼びかけた。危ないから止めろ、とでも言おうとしたのだろうか。けれど、それでは瑞穂が納得しないとすぐに気づいたのだろう。玄は、瑞穂の肩に両手を置いて、真剣な声と表情で言い聞かせる。

「お前は悲鳴を避けて本殿に走れ。歌うなら、芳の傍で良い。大社を守るべく、ほかの巫女たちと力を合わせてくれ」

 それは、逃げろ、とほぼ同じ意味だった。危険に飛び込む彼について行くことは許さないという、拒絶。それもまた、瑞穂が簡単に受け入れられるものではなかったけれど――

「……はい。どうかご武運を」

 押し問答をしている時間がないのは、分かる。だから瑞穂は、短くうなずくに留めた。

「……くれぐれも気をつけろ。話の続きを、ちゃんとしたい」
「はい……!」

 瑞穂の返事を聞いたかどうかのうちに、玄の影は溶けるように揺らいだ。すると、そこにいるのは巨大な黒い狼。尖った耳をぴんと宙に立て、敵の気配を窺うようにぴくぴくと動かしたかと思うと、後ろ脚で力強く地を蹴って空へ翔けていく。

(ご無事で……!)

 玄への心配は尽きず、いっぽうで、話の続きを、と言われたことはこの上なく嬉しい。不安と喜びの両方によって破裂しそうな心臓を押さえて、瑞穂は本殿を目指そうとした――その、彼女の行く手を、ゆらりと現れた華奢な人影が塞ぐ。

「――瑞穂」
「鈴香様……!?」

 呼びかけてきた相手を見て、瑞穂は思わず足を止めて叫んでいた。
 そこにいたのは、白玲山にいるはずの鈴香だったのだ。今ごろは婚礼も終えて、鵠の珠の巫女として片時も離れず傍にいるのだろうと思っていたのに。

「どうして帝都(ここ)に……!?」
「どうでも良いでしょう、そんなこと!」

 鈴香の甲高い怒鳴り声を浴びせられると、これまで受けてきた仕打ちが蘇る。鞭打たれたように首を竦めて固まってしまう瑞穂の手をしっかりと掴んで、鈴香は進もうとしていたのとは逆の方向に彼女を引っ張った。

「来なさい。早く!」
「あ、あの。今、ここは危ないんです。瘴気の化物が――鈴香様も、芳様のもとへ行かないと」

 危うく転びそうになりながら、それでも瑞穂は必死に訴えた。迂闊に動いては、化物に見つかってしまうかもしれない。それに、なぜか帝都にいることだけではなくて、鈴香の様子は明らかにおかしかった。

(鈴香様……いつもお綺麗だったのに。鵠様と幸せに過ごしているのではなかったの……?)

 鈴香の髪はほつれて乱れ、目の下には隈が刻まれている。顔色も悪くて、まるで病み上がりか、何日も寝ていない時のよう。しかも、そのままろくに身支度も整えずに外に出たかのよう――まるで、かつての瑞穂と出で立ちが逆転してしまったかのよう。

「うるさいわね、黙りなさい!」

 怪訝な思いが、きっと瑞穂の声や表情に滲んでいたのだろう。鈴香は、まなじりを吊り上げると瑞穂の頬を打った。

「……鵠様以外の神の名を出すなんて、やっぱり尻軽ね。帝都でちやほやされて調子に乗って、白玲山のことなんて忘れていたんでしょう」
「そ、そんなことは……」

 最初は痺れたように感じた打たれた箇所から、じわじわと痛みと熱さが広がっていく。そして同時に、恐怖と後ろめたさが。

(ちやほやだなんて、そんな……)

 そんなことはない、と言い切ることはできなかった。芳に見立ててもらった、分不相応に豪奢な振袖を見れば、そういわれても仕方ないと思ってしまう。母が罪人でなくて安心していたのも、鵠への裏切り――と言えば、そうなってしまうのだろうか。

「じゃあ、ついてきなさい。鵠様のことを忘れてないなら」

 瑞穂が萎縮したのを見て取ってか、鈴香は勝ち誇るように笑った。そしてまた、瑞穂の腕をぐいと引っ張る。

「それとも、卑しい罪人の娘は、育てていただいたご恩なんて知ったことではないのかしら!?」

 鈴香の力は強く、振袖越しに爪が肌に刺さるのではないかと思うほどだった。腕にも走る痛みよりも、でも、鈴香の言葉のほうが瑞穂にとっては衝撃だった。

「鵠様に、何か……!? 瘴気は、白玲山にも及んでいるのですか!?」

 龍脈の乱れ、ひいては鵠の異変は、瘴気の影響かもしれない、と思ったところだった。もしかしたら、母を失った傷心を瘴気につけ込まれたからこそ、瑞穂にもひどい仕打ちをしていたのではないか、と。

(この化物の襲撃も、それで……!?)

 人々が逃げ惑う悲鳴や怒号は、まだ聞こえて来ている。乾いた爆竹のような音は、警官が携えている拳銃のものだろうか。

(玄様はご無事なの……)

 この変異の原因が龍脈の乱れなら、白玲山も無縁ではいられないのかもしれない。鈴香は、帝都に助けを求めに来たのかもしれない。

「鈴香様、いったい何が……!?」

 瑞穂の問いかけに、鈴香はひどく厭なものを見るかのように顔を顰めた。これまで何度となく向けられた表情ではあるけれど、そこに浮かぶ嫌悪も怒りもかつてなく強い気がするのは、いったいなぜだろう。

「鵠様は――大変なことになっている。瑞穂、お前が勝手に出て行ったせいでね!」
「そんな――」

 よほどの事態が起きているのか、と思って瑞穂は絶句した。棒立ちになった彼女の身体を、鈴香は強く突き飛ばす。

「きゃ……!?」

 固い地面に叩きつけられる、と思って瑞穂は身を固くした。けれど、彼女の身体を受け止めたのは、どろり、ぬるりとした不気味な感触だった。底なしの泥沼に、呑み込まれていくかのような。

(何、これ……!?)

 手足を絡めとる泥状のモノから逃れようと、瑞穂はもがいた。けれど、叶わない。

「さあ、早く――龍脈に乗れば白玲山まで一瞬よ。鉄道も自動車も敵わない。……鵠様のお力は、すごいんだから」

 全身が泥沼――のようなものに呑まれ、瑞穂の意識は遠のいていく。最後に聞こえた鈴香の笑い声はひどく罅割れて、澄んだ歌声の面影など欠片もなかった。