いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 瑞穂が恐る恐る視線を上げると、玄の顔が思いのほかに間近にあって、息が止まりそうになった。彼女と同じく石に腰かけていたはずの彼が、ぐっと身を乗り出してきている。

「そうだ、最初からだ。あの歌には似合わない扱いで不思議に思っていた。鵠のやり方は明らかに不当だったから連れ出してやりたかったし、もっと堂々と――のびのびとして欲しいと思った」

 玄が語る声は力強く、どこか必死な響きがあった。何かに怯えているのではないか、と思うほど。眉を顰めているのも不快や怒りを表してではなく、真剣な思いを伝えようとしているからこそ、のように見える。

「瑞月が罪人などいうのもおかしな話で――鉄道のことも芳の前で歌わせたのも、お前の励みになればと思ってのことだった」
「玄様……」

 いったいなぜ、玄はこんな顔でこんなことを、と――不思議に思ったところで、瑞穂は気付く。

(……私の、ため? 私を励まそうとしてくださっている……?)

 母の影があまりに重く大きすぎると打ち明けたから、だろうか。
 白玲山なら、母の罪から逃げるなと罵られただろう。ここ帝都でも、あんな素晴らしい巫女を母に持ちながら、と言われるのだろう。

 言わないほうが良いのは明らかで、だから、瑞穂も躊躇ったのに。玄からの叱責を恐れながら、それでも口を滑らせてしまったのは――

「誰がどう言おうと、俺はお前だからこそ大切だと思う。それでは不足か……?」

 玄の優しさに、甘えたかったからだ。彼なら、瑞穂を見捨てたり嫌ったりしないと、心のどこかで信じていたからだ。

 でも、貫かれるような真摯なまなざしで、こんなにも熱くささやいてくれるなんて。それも、痛くなるほど強く手を握りながら。ここまでしてくれる――して欲しいなんて、そんな図々しいことまでは考えてもいなかった。

「玄様。どうしてそこまで。私なんかに……?」

 手を離してもらおうともがいても、玄は力を緩めない。否が応でもますます近い漆黒の瞳を受け止めるのが怖くて、瑞穂また俯いた。

(玄様は孤高にして流浪の神。社も――珠の巫女も持たないお方)

 頭を過ぎった珠の巫女、という言葉を、慌てて首を振って追いやる。玄の珠の巫女――伴侶に、だなんて大それた願いだ。少し優しくしてもらったからといって、そんなことを望んで良いはずがない。そう、これはただ疑問に思っただけ。

『ええ。この稲盛村を御座所にして欲しいと、何度もお願いしたのだけれど、ねえ』

 梓の穏やかな語り口が、耳に蘇る。

『どうしても聞いてくださらなくて。巫女としてお仕えしたいと思ったのに! でも、同じことを言う村も娘も多いのでしょうから、キリがないのでしょうねえ』

 強く美しく優しい玄のことを、慕う娘は多いはず。東雲の国のあちこちに、彼のたまの訪れを待つ娘がいるのだろう。
 瑞穂もきっと、そんな娘のひとりになる。どこに落ち着くことになるのか、母のように巫女になるのかはまだ分からないけれど。どこでどうなるにしても、玄は彼女の心の特別な場所に居続けるのだろう。

「梓様から伺いました。玄様は強く優しい神でいらっしゃる。でも、ひとつところに留まってはくださらない、と。私は――あの、今は、とても気に懸けていただいていますが……」

 玄は、白玲山での瑞穂の扱いを見かねただけだ。そして、帝都に慣れない田舎娘を哀れんでくれているだけ。母のことでも義理を感じてくれているのだろう。

(縋ってはいけない。頼り切ってはいけないわ。今だけのことのはずだもの。そう……でしょう……?)

 玄に、はっきりと否定して欲しいのか。それとも、またも甘やかしてくれるのを期待しているのか――鵠なら、後者に違いないと断じて浅ましいと詰っていただろう。瑞穂だって、どちらの気持ちが大きいのか分からないくらいなのだから。

「俺は――」

 言いかけてから、玄は瑞穂の手を握りしめていることを思い出したらしい。慌てて手を引っ込めながら、彼はどこか遠くを――遙かな過去を見るまなざしをした。

「もともと人に拾われた狼の子だった。村を守ることと引き換えに肉を与えられ、家族のように慈しまれた。……あの巫女が狼ではなく犬と言ったのは、そう間違ってはいなかったな」
「そんなこと……!」

 玄が最初に白玲山を訪ねた夜、神楽寮の使いだと知って鈴香が言い放ったことだ。でも、たとえもとは本物の狼だったとしても、そのころから玄は優しく賢く、人に寄り添ってくれていたに違いないのに。

「――ある日、村を襲ったのは獣ではなく妖だった。そいつに牙を立てた瞬間に、身体に力がみなぎり、人間に近い感情と知性と理性が芽生えたのが分かった――あの瞬間に、『俺』は生まれたのだろう」
「玄様は、ずっと人間を守ってくださったのですね……」

 玄が息を継いだ隙に、瑞穂は口を挟んだ。獣だの犬だのと見下したりはしない、優しい心のお方だと分かっていると、伝えたかったのだ。

「そうだな。それでも、何百年も昔の話だ。その村もとうになくなってしまった」

 けれど、瑞穂の言葉など届かなかったのかもしれない。玄は、さみしげな微笑で端正な顔を曇らせた。

(何百年……)

 東雲という国が、今の形になるずっとずっと前のことだ。たとえ子孫が生きているとしても、そんな時代の人たちの面影を今の世で見出すことはできないだろう。稲盛村の梓ももう髪に白いものが混ざっているし、瑞穂だってせいぜいあと五十年ちょっとしか生きられない。珠の巫女として神の伴侶になったとしても、人の寿命を超えられるわけではない。

「神ならば、誰でも人間との寿命の違いは思い知っている。芳などは、花を愛でるように短い間の付き合いだと、割り切ることにしたようだが」
「……芳様らしいです」

 芳は、春そののものような女神。花が散るのを惜しみはしても、翌年に新たな花が咲くのを楽しみにすることができる。人との出会いと別れも、花とのそれのようなものと思えるのかもしれない。

「だろう」

 何気なくうなずきながら、玄の表情は硬い。瑞穂もきっと同じようなものだろう。玄が何を言おうとしているか、分かってきてしまったから。

「だが、俺にはそれはできそうにない。梓の稲盛村のように、一度でも関われば捨て置くこともできないのだが。心を寄せた者たちが、瞬きする間に老いて、そして死んでいくのを見るのは耐えがたい」

 ほら、やっぱり。玄はやっぱりとても優しい神様だ。だから、人間を守ってくれるけれど、共に生きることはできないのだ。これまで彼が出会ってきた多くの人々と同じく、瑞穂も彼を置き去りにしてしまうだろうから。

(玄様が、優しいからこそ。私を、少しは――大事に思ってくれるからこそよ。喜ぶべきだわ)

 そう、自分に言い聞かせて、瑞穂は胸の痛みを堪えようとした。最初に育てられた村のこと、これまで出会った人々のことは、玄にとっては大切な思い出なのだろうに。それを分けてくれただけで、瑞穂は彼にとって――何か、意味のある存在のはずだ。

 でも――玄の話は終わりではなかった。

「そう、思っていた――思い知ったはず、なんだが」

 だが、と。そう言った後、彼は時ならぬ夕焼けのように頬を真っ赤に染めた。