いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

(くぐい)様……!」

 白玲山の主、白鳥の化身の神の名を呼んで、瑞穂はいっそう小さく縮こまった。

 何千年もの間、龍脈を守り続けてきたと聞く鵠は、けれど見目麗しい青年の姿をしている。所作のひとつひとつが洗練されて気品があり、軽く首を傾けるだけで、芳しい花の香が漂うかのよう。
 銀糸で刺繍を施した練色(ねりいろ)の狩衣に流れ落ちる御髪(おぐし)の色は、白玲山に降り積もる雪と同じ、穢れない白。神秘的な金の瞳に浮かぶ表情は優しく、鈴香や村人たちや――瑞穂にまで微笑みかけてくださる。

(鵠様……鈴香様の練習をご覧になっていたのね……)

 でも、では。鵠は、先ほどの不揃いな演奏を良しとしていたのだろうか。

(いけない、私ったら……!)

 疑問に捕らわれたのも一瞬だけのこと、瑞穂は慌ててまた額を床にこすりつけた。慈悲で水鏡郷に養われている身に、鵠の輝かしさはまぶしすぎる。直視する非礼は犯せなかった。

「ですが。大切な婚礼に、悪い企みがあっては――」
「瑞穂はそのようなことはしない。そうだろう?」

 なのに、鵠は瑞穂に縮こまることを許してくれない。呼びかけられて恐る恐る顔を上げると、欠けたところのない月のようにまばゆい笑顔が彼女を見下ろしていた。

「お前は瑞月の娘だ。母親が私の珠の巫女になっていれば、と思わない『はずがない』。妬みも恨みも、抱いて『当然だ』。ただ、鈴香のことが羨ましくてならなかっただけに『違いない』」

 鵠の声も言葉も表情も、この上なく優しかった。けれど、それでいて瑞穂の胸をちくちくと責めさいなむ。

「い、いえ! 私はただ、鈴香様の歌を少しでも聞きたくて――あの、素晴らしいお声ですから……」

 母の瑞月は、鵠の珠の巫女として望まれながら、水鏡郷を出奔した。帝都の華やかな、けれど空虚な輝きに目がくらんで、鵠の寵愛を裏切ったのだ。
 路頭に迷って水鏡郷に戻った母は、ほどなくして亡くなった。母のない幼子を哀れんだ鵠によって、郷の片隅に居場所を許された瑞穂は、物心ついたころから言い聞かされてきた。

 与えられたもので満足し、他人や他所を羨んではならない。
 分不相応なものを欲しがってはならない。
 常に鵠への感謝を忘れず、平和で清らかな神山に住める幸運に喜ばなければならない。

 さもなくば、瑞穂も母のように罪を犯すだろう。鵠の慈悲を踏み躙るという、大罪を。

(母の罪は分かっています。私は、思いあがったりしません。いつも、鵠様をお慕いして、感謝して――)

 声に出して訴えることは、母の笑顔が胸を(よぎ)るとできなかった。だから、信じてもらえなかったのだろうか。

「心にもないことを……!」

 鈴香は澄んだ声で叫ぶと、白い足袋を履いた足で瑞穂の痩せた肩を踏みつけた。

「きゃ――」

 一度だけでなく、何度も、何度も。うずくまる瑞穂に、さらに罵倒が浴びせられる。

「見え透いたお世辞でごまかそうとするなんて! 私を妬んで、婚礼を台無しにするつもりだったんでしょう!? 薄情な差異!」
「鈴香」

 まもなく伴侶に迎える巫女の名を、鵠はひどく冷たく呼んだ。鞭で打たれたように身体を跳ねさせて鈴香が口を噤むと、美しい神は美しい笑顔を瑞穂に向けた。

「私は、何も瑞穂を咎めようというのではない。ただ、『正しく』導いてやりたいだけだ。己の『醜い』思いを認めることも大事ではないか?」
「……母の所業にもかかわらず、私を養ってくださった鵠様のご慈悲とご恩は、片時たりとも忘れたことはありません」

 鈴香が羨ましくて妬ましかった。そういえば、鵠は褒めてくれるのだろう。よく正直に認めた、と。
 でも、噓を吐くのもいけないことだと、瑞穂は教えられた。だから、真実しか口にできない。

「だからこそ、お慶び申し上げます。鵠様が珠の巫女を得られることも、鈴香様がその珠の巫女であることも――心から、寿いでおります」

 鵠が眉を顰めると、月が雲間に隠れるように美貌が翳ってしまう。慈悲深い神は、強情な瑞穂に呆れて怒っているのだろうか。悲しませているのだとしたら、と思うだけで、瑞穂の胸は張り裂けそうに痛む。

(でも、分かっていただきたい……!)

 なぜか遮られないことに驚き戸惑いながら、瑞穂は精いっぱい、声を張り上げた。

「信じていただけないのも無理はありません。真心をお伝えしたい、などと言うのもおこがましいのは存じております。でも――お伝えできるよう、行動で示せるよう、誠心誠意、お仕えしたいと思っております」

 みたび、瑞穂が額づくと、彼女の声の残響がふわり、と漂った。神楽の練習場は広く天井も高く、音が響くようにできているのだ。

 どきどきと鳴る自分の心臓の音を聞きながら、瑞穂は鵠と村人たちの反応を待った。ほんの少しだけ、巫女が舞を披露した後の緊張感はこんな感じなのかしら、と思うけれど――そんな図々しい思い上がりは、苛立ちに震える鈴香の声によって打ち砕かれる。

「……口ばっかり上手いんだから。母親に似たのかしら!? 瑞月とかいう女、都で男に媚びて生きていたあばずれなんでしょう!?」
「――っ」

 母を貶めながらの罵倒は、瑞月の心を抉った。

「残念だ、瑞穂」

 さらに、鵠が漏らしたため息が、どんな暴言や折檻よりも激しく彼女を打ちのめす。

「あくまでも認めないとは。――今日も働いてくれたようだね。下がってゆっくりお休み」
「……はい。ありがとうございます、鵠様」

 神のお言葉には、もちろん村人たちは従うほかない。覗き見への罰を免れたのは幸運で、鵠の慈悲といえるだろうか。……瑞穂には、分からない。

「鵠様はあの娘に甘いな」
「母親の面影があるからじゃない?」
「だからこそ甘やかしてはいけないだろうに……!」
「まあ良い。明日からまた性根を叩きなおしてやる」

 陶器の入った桶を抱え直して、とぼとぼと歩き始める瑞穂の背を、忌々しげなささやきが追いかけた。
 分不相応にも鵠に庇われた上に、生意気にも口答えした瑞穂に、村人たちはますます怒りと嫌悪と苛立ちを募らせ、翌日にはさらに辛く当たる。

 とてもよくあることだから、瑞穂には明日の仕事の厳しさがもう分かってしまっていた。