いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 その後は、玄は影のようにぴったりと瑞穂に付き添って、守ってくれた。
 図らずも有名になってしまった彼女の顔を見つけて、あるいは母の面影を重ねて声をかけてくる人はやはり絶えなかったけれど、玄を押しのけてまで瑞穂に話しかけたり手を握ったりしようとする人はさすがにいなかった。

 だから、瑞穂は花津月の祭礼の賑わいを、心行くまで五感で堪能した。
 青空に映える花吹雪の美しさ、道行く人々の晴れ着の煌びやかさ。
 おだやかな風は寝殿の奥から芳の甘い香りを届け、花畑のただ中を歩くかのよう。そこに混ざる屋台の菓子や軽食の香りも、どれもこれも美味しそうで目移りしてしまう。

 中でも瑞穂が夢中になったのは、綿菓子だった。
 雲のように淡雪のように儚く甘く、ふんわりとした見た目も可愛らしい。特に今日は、花津月の祭礼とあってか、色粉で桜色に染められているからうっとりしてしまう。まるで、春そのものを口にしているかのようで、お腹の中まで花霞で満たされるかのよう。

 とはいえ、綿菓子は油断するとべたついてしまうもの。芳が見立ててくれた花車の振袖も、道行く人の一張羅も汚すわけにはいかない。なので、瑞穂は鎮守の森の奥まったところ、人気(ひとけ)のない一角で休んでいた。

 屋台の列はとうに途切れ、神楽舞台も木々に阻まれて見えない場所だから、ここまで来る人はほとんどいない。普段なら修行を終えた巫女が憩うこともあるのだろうか、小さな流れのせせらぎが祭礼の喧騒を和らげ、腰かけ替わりの苔むした石を蝶と分け合うような――そんな、静かで清らかな場所だった。

「玄様も、どうぞ」

 屋台で求めた綿菓子は、ひとつだけではなかった。人ごみの中、崩さないように大事に守ってきたそれを、瑞穂はそっと玄の口元に差し出した。棒の先にまとわりつかせる形だから、祭りで浮かれた心持ちだからこそできる、大胆な真似だった。

「ああ。……甘いな」

 祭礼のために持ち寄られた菓子などは、人間の祝福の想いがこもっている。だから、人間にとっては縁起が良く、神々にとっては供物にもなって甘美なものなのだとか。それはあながち言い伝えでもないのか、綿菓子を口にした玄は、満足そうに目を細めていた。

(可愛らしい表情もなさるのね)

 いつもは凛々しい印象の彼の、珍しいほどうっとりとした表情に、瑞穂は密かに見蕩れる。神様も甘味はお好きなのだ、と思うと少し面白くて楽しい。

 雲のような綿菓子を食む、玄の形良い唇。軽く上がった口角。小さく動く喉。まじまじと見つめるのは恥ずかしいし不躾だから、瑞穂はそっと目を伏せて記憶に刻もうとした。
 この近しい距離は、花津月の祭礼だからこその特別なもの。今日が終われば、二度とはないものだと思ったから。

 瑞穂は、呼吸も気配も殺していたつもりだった。でも――いつの間にか玄は綿菓子を食べ終えていたし、見られているのは彼女のほうだった。緩み切った顔になっていた瑞穂を見下ろして、玄はくすり、と笑う。

「気が晴れたようだな。良かった」
「玄様! あの――」

 見つめているのを気付かれた、と思って瑞穂は慌てた。玄や芳が特別に親しみがあるだけで、神様の顔を見て口を利くなんて、本来は無礼なことなのに。
 弁明しようと、慌てて口をぱくぱくさせる瑞穂に、玄は気にするな、とでも言うかのように軽く首を振った。

「ここのところ、人に囲まれ続けて疲れただろう。芳は派手好きだし、注目されるのにも慣れている――むしろ喜ぶ質だからな。瑞穂には負担ではなかったか?」
「そんな――負担なんて、とても」

 玄は、どうやら先ほどの老婦人とのやり取りから、瑞穂を案じてくれたらしい。受け答えのぎこちなさを、気付かれの現れだと解釈してくれたようだ。
 そうと気付いて、瑞穂は肩の力を抜いた。

(疲れは――しているかも、しれないけれど)

 神々にも社交というものはあるようで、ここ最近、芳は瑞穂を様々な神や人に引き合わせてくれた。目が回るような思いだったのは分かるし、話のタネにされた面もあるのだろうけれど、華やかで陽気な女神に悪意がないのは分かった。瑞月の娘、と聞くと誰もが笑顔になって喜んでくれたし――感謝こそすれ、不満なんて持ってはいけない。

「お気遣いいただいて、嬉しいです。ありがとうございます」

 瑞穂は、笑って答えることができたはずだった。けれど何かおかしなところでもあったのか、玄は軽く眉根を寄せた。

「ただでさえ気に懸かることも多いだろうし、な。……まだ白玲山(はくれいざん)に帰りたいか……?」

 いまやとても――物理的にも気持ちの上でも――とても遠くなってしまった故郷の名を聞いて、瑞穂は身体を強張らせた。玄は、思った以上に彼女のことを見ていて、心の奥底も察してくれていたらしい。

「……はい。――いえ、帰りたいというのは、少し違うかもしれません」

 玄が白玲山を訪ねたそもそもの理由である、龍脈の乱れについてはいまだ解決できていない。玄の後に贈られた神楽寮の使いも、鵠には会えずに門前払いされているとか。今日の祭礼でも、万が一にも怪異が群衆を脅かすことがないよう、警官や神職が巡回している。

 そんな有り様だから、龍脈の乱れはやはり鵠に原因があるのでは、という疑いは日に日に濃厚になっていっている。改めて、今度はもっと強硬に白玲山を問い詰めるべきでは、と主張する者もいるという。

(鵠様は、何か間違ったことをなさっているのかも。でも……)

 玄は、それでも鵠の味方をするのか、と言いたいのだろう。彼を心配させないよう、綿菓子の串を手巾に包んで懐にしまいながら瑞穂は言葉を選んだ。

「鵠様は、やはり母を喪ったご傷心が癒えていないのではないでしょうか。だから、龍脈が乱れてしまっているのかもしれません。もしも、私の歌が母に似ているというなら、お力を取り戻すお手伝いができれば、と……」

 罪人の娘として詰られたいわけではないのだ、と伝えたつもりだった。けれどそれでは足りなかったらしく、玄の眉間にはますます深い皴が刻まれた。

「あんな仕打ちを受けていたのに、優しいな」
「瘴気の影響で、ということもあるのかもしれません」

 憤ってくれているらしい玄を宥めるため、瑞穂は苦笑した。物心ついた時から、鵠は彼女にとっての「絶対」だった。いくら疑わしいといっても、何か理由があるのでは、と思ってしまう――思いたいのだ。
 黄泉の空気に瘴気によって翼が汚れてしまった白い鳥を思い浮かべると、助けて差し上げたいと思う。それに――

「帝都で母のことを伺って、無理もない、と思いました」

 誰からも罵られ嫌われる日々は、辛かった。母が罪を犯したからだと自分に言い聞かせようとしても、どうして、とも何度も思った。けれど、今は納得している。

 神である芳も、神楽寮の長である酒井様も。通りすがりの人でさえ、母の瑞月を褒めたたえるののだから。母を伴侶と見込んでいた鵠ならなおのこと、瑞穂を憎むのは当然だ。

 玄は、黙って瑞穂が打ち明けるのを聞いてくれている。煮え切らない態度に見えるだろうに。苛立っても良いだろうに。心の中の醜さを吐き出すのは、恐ろしいし恥ずかしいけれど――彼の優しさに甘えたくて、つい、瑞穂は舌を動かしてしまう。

「帝都に来て、母を悪く言う人がいなくて、最初は嬉しかったんです。いえ、今も嬉しいですし、名誉だとは思っています。……それで、良しとするべきなのでしょうが」

 そこから先を続けるのはさすがに躊躇われて、瑞穂は一度口を噤んだ。かすかに聞こえる祭礼の喧騒に、のどかなせせらぎの音や小鳥のさえずりに。いったい何をしているのだろう、とちらりと思う。世界は美しく愛すべきもの――母の言葉の通りなのに、その言葉に逆らう思いを、娘である彼女は抱いてしまっている。

「どこまでいっても、私は『瑞月の娘』でしかないのだと――そう思うと、少し……少しだけ、寂しくて悲しい、です」

 これは、嘘だ。寂しさも悲しさも少しどころではない。
 素晴らしい母を誇れば良いのに。罪人ではなくて良かったと、素直に喜べば良いのに。瑞月の娘と呼ばれて、扱われて嫌だと思ってしまうのは、母の優しく美しい思い出への裏切りだとも思うのに。

(私は、何なの。何者でもないの……?)

 俯くと、手指に力がこもっているのにも気付く。せっかくの華やかな着物に、皴を作ってはいけないのに、堪えることもできないなんて。

「瑞穂」

  玄の呼びかけにも、応えられない。顔を上げれば、ひどい顔を晒してしまうのが分かっているから。彼はきっと、母の素晴らしさを語って瑞穂を(たしな)めるのだろうから。
 だから、無礼を承知で、顔を伏せたままでいることしかできない。でも――

「俺は、最初からお前の歌に惹かれていた。あの声が聞こえるところに真っ直ぐに降り立った。瑞月の娘だと、知る前に!」

 玄の力強い呼びかけは、どこまでも深い泥沼に沈み込みそうになる瑞穂に差し伸べられた、救いの手だった。暗く閉ざされていく心を照らす、ひと筋の光のような――縋らずにはいられない頼もしさがあった。