いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 帝都で過ごす日々は慌ただしく、あっという間に花津月(はなつづき)の祭礼の当日になった。
 百花大社(ひゃっかたいしゃ)の境内には帝都中の民が押しかけ、彼ら目当ての屋台が並んでいる。石畳が見えないほどの人ごみに、歓声や笑い声。小物や菓子を売り込む声に、神楽に備えて音を合わせる楽の音も響く。晴れがましく賑やかな人の営みの上には青い空が広がり、さらにめでたく満開を迎えた桜の花びらが舞い散って彩る――春を祝う日に相応しい、美しい日だった。

 夜に予定されている神楽舞では、(かおる)も民の前に姿を見せることになっている。けれど、拝殿横に設えられた大舞台に出番が来るのはまだ先だ。美しい春の女神は、いまだ自らの寝殿で寛いでいる。

 帝都の民が、憧れと敬意を込めて見つめる、その寝殿の最奥で――瑞穂は、ほかならぬ女神そのお方の手によって、見事な振袖を着付けられていた。

 桜だけでなく、牡丹に芍薬、藤の花――春から初夏の花々をこぼれんばかりに散らした、豪華な花車の模様。花弁の白に、淡い赤や桃色や紫色、葉の若草色が溶け合って、とてもまばゆく華やかだ。
 帯は、金糸銀糸で涼しげな流水紋をあしらった緞子。そこへ、花と水に誘われたかのように、七宝焼きの蝶の帯留めが留まる。

「どう? 気に入ったかしら」

 芳に鏡を見せられて、そこに映った可憐な少女が自分自身だとは信じられなくて――瑞穂は、数秒の間、瞬きして息を止めることしかできなかった。けれど、やがて胸の奥からこみ上げる喜びのまま、弾んだ声が瑞穂の唇からこぼれる。

「私が、こんな素敵な――本当によろしいのですか!?」
「もちろんよ。この私が花津月の日のために口にしたことを違えるはずがないでしょう」
「ありがとうございます……!」

 両手を胸の前で組み合わせて礼を述べる瑞穂を、芳は見分するかのように頭のてっぺんからつま先までじっくりと見た。

「あ、あの……?」

 薄桃色の瞳に宿る光がやけに真剣で、瑞穂が不安になり始めたころ――芳は合格、とでも言うかのように大きくうなずいた。

「髪も肌も、だいぶ色つやがマシになってきたわね。これなら着物に負けることはないでしょう」
「そんな――芳様こそとてもお綺麗で」

 祭りの日に、人々の祝意を一身に受けているからだろうか、今日の芳はひときわ美しく香り高かった。

 金の冠を戴き、光が流れる滝のようになるまで丁寧に髪を梳き、重たげな十二単(じゅうにひとえ)をまとった姿は、陽光を浴びて輝く花霞そのもののようで。

 言葉を尽くして褒めたたえなければならないと思うのに、綺麗、のひと言しか紡ぎだせないほどの輝かしさだった。

「当然でしょう。神と美で張り合うものではないわ」

瑞穂の短い言葉にこもった賛辞を汲み取ったのか、芳は満面の笑みを浮かべて、むせるような甘い香りをこぼれさせた

「でも――人の娘としてなら、今の貴女は相当なものよ、瑞穂。うん、懐かしい。やっぱり瑞月に似ているわね……!」

 そして、同性の瑞穂でもぼうっとしてしまうような綺麗な笑みを浮かべると、部屋の隅で見守っていた玄のほうへ振り返る。

「玄もそう思うでしょう?」
「……ああ」

 唐突に振られて目を瞠ったのも一瞬のこと、玄はうなずいた。その躊躇いのない肯定に、瑞穂の頬は熱くなる。化粧もしてもらったのに、必要以上に赤くなってしまっていないだろうか。

「とても似合っている。綺麗だ」

 そう言って笑う玄の顔も、とても綺麗。春と花の女神である芳のような華やかさではないのだけれど――瑞穂の目には、とてもまぶしい。真っ直ぐに見つめていると、目がつぶれてしまうのではないかと思うほどだ。舌も唇も固まってしまって、言葉を紡ぐのも難しくなってしまう。

「玄様。ありがとうございます……」

 恥ずかしいほど上ずって震える声で瑞穂が伝えると、芳はなぜかとても嬉しそうにぱん、と両手を合わせた。

「さ、ふたりで楽しんでいらっしゃいな。春がここまで盛りを迎えているのだもの、大社の巫女たちの神楽でも十分だから」

 瑞穂は玄と一緒に過ごすこと、を含めて芳の命令なのだ。決して有無を言わせぬ圧と勢いで、芳はふたりを祭りの賑わいに送り出した。

      * * *

 玄は、今日も西洋の軍装だという黒い衣装に身を包んでいた。きりりとした黒一色は彼に似合うけれど、せっかくの祭礼の日だから違う装いも見たかった――と、瑞穂は密かに思っていたのだけれど。彼の判断は正しかったことは、すぐに分かった。

 百花大社の参道に出て、屋台を見物しようと足を踏み出した瑞穂は、すぐに帝都の民に囲まれることになったから。

「瑞穂様! 瑞穂様でしょう!?」
「花を咲かせてくれてありがとう」
「これ、どうぞ! 帝都一の甘酒です!」

 瑞穂が捧げた歌舞によって大社の奥の桜が花開き、春が無事に訪れた――その話は、芳が帝都中の神々や巫女や高貴な人々に広めていた。聞いた者の口から口へ、時には手紙で、噂はあっという間に帝都中に行き渡り、今や瑞穂はちょっとした有名人になっていたのだ。

「団子もどうだい?」
「後でうちの店にも寄ってくださいな」
「神楽舞には出ないんですか!?」

 売り物を渡そうとしてきたり、あるいは単に話しかけたり。中には、瑞穂の姿を見ようと、人の流れを無視して近づいてくる者、不躾に手を伸ばして来る者もいる。
 動きやすい軍装姿の玄が庇ってくれなかったら、瑞穂は転ぶか斃れるかして、せっかくの振袖を汚してしまっていたことだろう。

「あ、あの――」
「もらっておけば良い」

 瑞穂がどうにか体勢を立て直したところで、玄は穏やかに微笑みかけた。
 彼もまた、人間に心を寄せてくれる神として帝都では名高い。端正な容姿の神様への畏怖の念に加えて、そこらの人間がぶつかってもびくともしない逞しさも兼ね備えているからだろう、玄の姿にも気づいた人々が落ち着いてくれたから、瑞穂はようやくひとりひとりと言葉を交わすことができるようになる。

「ありがとうございます。美味しいです。――はい、後で必ず伺います」

 甘酒や団子を受け取ったり、推薦された店の場所を確かめたり。誰もが笑顔で接してくれることに、瑞穂はまだ慣れていなくて信じ切れていなくて、ぎこちない受け答えだったかもしれないけれど。でも、そのぎこちなさを咎められることもないのが、とても嬉しくて安心する。

「ねえ、可愛らしい巫女様」

 そして――ひとりの老婦人が、おっとりとした笑顔で瑞穂に語りかけてきた。

「瑞月様のご息女だというのは本当ですか?」
「は、はい……」

 落ち着いた色柄の留袖のその女性は、おずおずと頷いた瑞穂の顔をしげしげと見て――嬉しそうに破願した。

「ああ、間近で見ると似ていらっしゃる!」
「母を、ご存じなのですか……?」

 神楽寮の者たちや芳のような神々だけでなく、帝都の民も母のことを覚えているなんて。瑞穂が驚きの声を上げると、老婦人は何度もうなずいた。

「ええ。十と――何年前になるかしら、帝都のあちこちで歌舞を見せてくださったのですよ。もちろん神々に捧げるものだけれど、私たちも招いてくれて――心が洗われる思いでした」

 老婦人の弾んだ声、遠くを見るようなうっとりとしたまなざしから、またも母の瑞月がいかに優れた巫女だったか伝わってくる。
 彼女が見ているのは、目の前にいる瑞穂ではない。瑞穂に語りかけているわけでもない。ただただ、瑞月の面影を懐かしんでいるだけだ。

「巫女様は、どのお社にお仕えするのですか? どこだとしても、東雲(しののめ)も帝都も、ますます栄えることでしょうねえ」
「ええと、それは――」

 笑顔を向けられるのも時に怖いことだと、瑞穂は初めて知った。自分自身ではなく、母として扱われているようで。
 水鏡郷での虐待も、帝都での歓待も、根は同じ。瑞穂は瑞月の娘だから――その、裏と表に過ぎない。

(じゃあ。私は何なの……?)

 麗らかな春の日のはずなのに、不意にとても寒い気がして、瑞穂は凍りついた。周囲は大勢の人で賑わっているはずなのに、荒野にひとりきりでいるような――不安と心細さに襲われて、倒れそうになってしまう。

 傾きかけた瑞穂の身体を、けれど逞しい腕がしっかりと支えてくれた。寄り添うように抱えるように、瑞穂を抱き留めながら、玄は老婦人にきっぱりと述べた。

「瑞穂は、帝都に来たばかりで、先のことは何も決めていない。花津月の祭礼を、楽しませてやってもらえるか」
「ええ、ええ。もちろん! 帝都の春を満喫してくださいませ」

 玄の声には、少し力がこもっていたような気もする。けれど老婦人は気付かなかったようだ。
 玄に引っ張られるようにして足を踏み出しながら。笑顔で手を振る老婦人に、目礼で答えながら。瑞穂はそっと玄の顔を見上げた。

(玄様――私の様子がおかしいのを、察してくださった……?)

 この世界の何もかもを愛し、誰からも愛された母のことを聞かされるのは、娘としては嬉しいことだと、普通なら思うだろうに。強引にでも話を打ち切って、瑞穂を連れ出してくれたということは――玄はそれだけ、彼女のことをよく見ていてくれたのだろうか。

(……まさか。玄様は退屈なさっていたのよ、きっと)

 そうに違いないだろうと、思う。けれど、瑞穂の心にともった喜びは真実だ。そのささやかな灯りを大切に守る想いで、瑞穂は玄の上着の裾をそっと握った。