いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 狼の神だとかいう洋装の青年が瑞穂を連れ去って、ひと月ほどが過ぎた。もともと嫌われ者の罪人の娘が攫われたからといって悲しむ者も案じる者もなく、白玲山ではつつがなく鵠と鈴香の婚礼が執り行われた。

 今や鈴香は、水鏡郷で最高の楽巫女というだけでなく、鵠の伴侶にもなった。人の娘として望み得る最高の地位と名誉を手にして、彼女は幸せの絶頂にいる――かというと、そんなことはなかった。

 鈴香は、鵠の寝殿の廊下を、ひとりしずしずと進んでいた。両手に捧げ持つのは、酒肴を載せた三宝(さんぼう)。用意した(くりや)の者は、鈴香が鵠とふたりきり、水入らずの時を過ごすのだと疑っていないだろう。……というか、鈴香がそう信じ込ませるように振る舞った。

(だって。言えるはずないじゃない。本当のことなんて……!)

 鵠の居所に近づくにつれて、鈴香の足取りは重くなる。酒肴の重さはさほどではなくても、心に渦巻く黒い想いが、彼女の手足に絡みつくかのようだった。

 鈴香が寝殿の奥に足を踏み入れると、鵠は池に張り出した渡殿の欄干にもたれて、鏡のような水面に見入っていた。敷物と脇息を用意した上に、酒肴を運ばせたところからして、長居をすると決め込んでいるようだ。

 水鏡郷の名の通り、澄んだ水面を見つめる鵠は、けれど、自身の美貌に見蕩れているわけではない。彼に酒肴を献じた鈴香は、傍らに端座すると池に目をやり――予想通りのものが映っているのを見て、眉を顰めた。

「鵠様。『また』帝都ですか……?」
「ああ。瑞穂は今日も楽しそうだ」

 鈴香には目もくれずに水面を覗き込んだまま、鵠はうっとりとした笑みを浮かべている。彼の神力によって、水面は彼方の出来事を映し出しているのだ。

 遙かな帝都の街並み。高い建物の間を行き交う人々。華やかな装いの彼ら彼女らが笑いかけ、話しかけるのは――瑞穂だ。

(なんで、瑞穂なんかが……!?)

 はにかんだように微笑んで、手を振ったり何やら渡そうとしたりする人々に応対する少女は、可憐だった。
 ついこの間まで痛んでくすんでいた髪は、今は艶やかな鴉の濡れ羽色で、珊瑚でできた花の簪がよく映える。痩せて顔色も悪かったのに、新雪のように輝く肌になって、頬もふっくらとして。
 化粧もしていないようなのに唇はほのかに赤く、浮かべる笑みは幸せそうで花が綻んだよう。

(着物も帯も、質の良いものばかり。瑞穂のくせに……!)

 瑞穂がこんなに可愛らしいのを、鈴香はずっと知らなかった。
 鈴香の着物に見惚れているのに気付いた時は、はしたない浅ましいと罵ってやったのに。簪だけでなく、細かな桜を散らした振袖も、緞子の帯も、水鏡の中の瑞穂がまとうのは、彼女が持つどの品よりも美しく華やかで高価だった。

(ここにいたら、剥ぎ取ってやるのに。お前にはそんなもの似合わない……!)

 手が届かないことも、今の瑞穂には衣装に負けない輝かしい愛らしさがあるのも承知の上で、鈴香は歯軋りした。鵠にはとても見せられない形相になっているだろうけれど、その鵠はこちらを一瞥もしていないのがまた悔しい。

「芳め、面白がって瑞穂の評判を帝都中に広めたな。百花大社の霊木に花をもたらした希代の巫女をひと目見ようと、神々も人間の名士も、次々にあの娘を招いている……」

 この構図は、このひと月の間に何度も繰り返されてきたこと。だから、鵠のつぶやきの端々から鈴香も何が起きたかを知らされている。

(信じられない。あり得ない。こんなの何かの間違いよ……!)

 瑞穂の歌舞が、帝都に名高い百花大社の女神に認められただなんて。あの玄という狼神に寄り添われて、行く先々で歓迎されているだなんて。神楽寮の巫女も役人も、瑞穂に丁重に接し、下にも置かぬ扱いをしているなんて。

 何より――鵠が、そんな瑞穂の姿をずっと見ているのが耐えられなかった。

「鵠様! 貴方様の珠の巫女はこの私です!」

 鈴香と鵠は、婚礼を挙げたばかりなのに。巫女はあくまでも神に仕えるものであって、普通の人間の夫婦とは話が違うのだけれど――それでも、これは浮気と言って良いはずだ。それも、よりによって瑞穂なんかに!

「瑞穂は、貴方様を裏切った罪人の娘! 母親と同じく浮ついた目立ちたがりだと、今の有り様を見れば明らかではありませんか!」

 苛立ちに任せて、鈴香は渡殿から身を乗り出し、手を伸ばして水面を乱した。すると、水鏡に映る瑞穂の姿もさざ波の間に消える。瑞穂の顔がぐしゃりとと歪んだことに少しだけ溜飲を下げながら、鈴香は喉が裂けんばかりの大声で喚く。

「なぜ、いつまでも瑞穂なんかを気に懸けられるのですか!? 帝都でおだてられて調子に乗っているのを、どうして捨て置かれるのですか!? 早く連れ戻して、罰してやらないといけないのでは!?」

 巫女として修業を積んだ彼女の声は、よく通る。声だけでも水面をかき乱すことができたのではないかと思うほどだ。でも、鵠は眉を寄せて水面に目を落としたままだ。まるで、瑞穂が見えなくなったのを惜しむかのよう。鈴香なんてこの場にいないかのよう。

 見捨てられたかのような疎外感に打ちひしがれて、鈴香はひんやりとした板張りの床に崩れ落ちた。

「鵠様。なぜ、私を――私を、見てくださらないのですか……!?」

 涙混じりに訴えてやっと、鵠は鈴香のほうを向いた。その表情は、珠の巫女に向けるものとは思えないほど冷たく険しく、金色のまなざしが鋭く彼女に突き刺さる。

「私に指図するというのかな、鈴香」
「い、いいえ! そのようなことは――」

 慌ててひれ伏した鈴香の頭に、鵠のくすくすと笑う声が降ってくる。おかしかったり楽しかったりして笑うのではない、嘲りの声だった。

「お前のそういうところは醜いね。ずっと見るに堪えないと思っていたが」
「鵠、様……?」

 恐る恐る上目遣いをした鈴香を、鵠は蔑みの目で見下した。水鏡郷の住民たちが、瑞穂を見る時によくしていた目つきだ。どうしてそんな汚らわしいものを見るまなざしが、鈴香に向けられるのだろう。

「目立ちたがりはお前のほうだろう、鈴香? 誰よりも美しく、誰よりも歌舞に秀で、さらには神に愛される――そんな自分が大好きで大好きでしょうがない。この私さえも、自らを飾る道具にしようとしたのだろう?」
「ち、違います! 私はそのようなことは、決して!」

 まなざしだけではない、鵠の声の冷ややかさ、ひと言ひと言の残酷な鋭さが、鈴香の胸をずたずたに引き裂いた。

(違う……違う! 私は、巫女として鵠様に、ひたむきにお仕えして――)

 必死に言い訳しようとしても、分かってしまう。鵠は、彼女の本心を見透かしている。

 珠の巫女に選ばれて喜んだのは、ほかの娘たちの誰よりも抜きんでたと思ったからだ。美しい鵠の傍らにいられる自分は、優れた尊い存在なのだと信じられたから。
 舞う姿や歌の声を褒められるのは心地好く、年配の者でさえ彼女に丁重に接してきたのは誇らしかった。

 ざあっと血の気が引く音が、鈴香の頭の中で響いた。一瞬にして指先が冷えて、震えるほどの寒さが彼女を襲う。それとも、本心を暴かれた羞恥や恐怖による震えだろうか。

 全身ががくがくと震えて、鈴香はまともに座っていられなくなる。床に手をついてうなだれる彼女を、鵠は容赦なく嬲り続けた。

「お前の歌も、押し付けがましくて耳障りだった。瑞穂がこっそり歌ってくれた歌がなければ、私はおかしくなっていただろうね。知っているか? 瑞穂は、どれだけ詰られ禁じられても、誰に認められることがなくても、歌や舞を止めることはしなかった」

 鈴香の耳に、玄という狼神の声が蘇った。

『お前が良いなら、趣味をとやかく言う気はないが――』

 しょせん獣の神だから芸術や雅を解する耳がないのだと思っていた。でも、鵠はあの狼の言葉を肯定したも同然だ。

(瑞穂の歌!? あんな、耳で聞き覚えただけの下手な鼻歌が、私よりも上ですって!?)

 鈴香は、瑞穂が小声で口ずさむのを見つけるたびに叱責していた。だって、罪人の娘なんかの歌で鵠の耳を汚すわけにはいかないから。

 鈴香は、そしてたぶんほかの者たちも、鵠を口実に瑞穂を虐げていた。すべては鵠様の御為に、と。でも、当の鵠は、さざ波の収まった水鏡に映る瑞穂に熱いまなざしを注いで、陶然と語る。

「自らへの賞賛を求めるのではなく、想いを捧げるための歌舞――あれこそ、楽巫女のあるべき姿だ」
「嘘。嘘です! それならなぜ、私を――いえ、瑞穂にあんな仕打ちを!?」

 鵠の言葉を否定するなんて非礼にもほどがある。ほかの者がしていたら、鈴香は厳しく断罪していただろう。でも、そうとしか思えなかった。鵠が望むと思ったからこそ、鈴香もほかの村人も、瑞穂を虐げてきたのだ。

「母の轍を踏ませないためだ。何度も言ってきただろうに」

 けれど、鵠は美しい笑みで迷いなく答える。一応は鈴香を向いて、それでも目の端ではしっかりと水鏡に映る瑞穂を捉えながら。

「自らの才と価値を教えぬように。瑞月のように、多くの賞賛を集めることのないように。この白玲山の外に出ようなどと思いついてはならないし、私なしで生きていけるなどと考えてはならぬのだ」
「では、なぜあの時見過ごされたのですか……? 瑞穂は今も、帝都で――」

 瑞穂は、水鏡郷ではついぞ見たことのない晴れやかな笑顔を玄に向けていた。鈴香にとっては腹立たしく苛立たしいことこの上なく、そして不可解でもあった。
 白玲山の外で、帝都の人々にもてはやされ、鵠なしでも迷うことも怯えることもなく――これでは、鵠が言うのとは真逆の有り様だ。

「一度希望を与えてから奪ったほうが、『効く』からだ」

 と、眉を寄せる鈴香のほうへ、鵠が不意に身を乗り出した。目の前に迫った金色の双眸に貫かれて、鈴香は身動きできなくなる。

「長年かけて叩き込んだ『躾』を、そう簡単に忘れるものか。私の慈悲があってこその命だと、瑞穂に思い出させなければ」

 鵠が浮かべる笑みはとても美しく、けれど同時にとても怖かった。声も、優しいのにどこまでも冷ややかで。

「そのための、手伝いを――引き受けてくれるね、鈴香?」

 依頼の形を取ったその言葉は、有無を言わせぬ命令だった。鈴香は、うなずくことしかできはしない。

「は、はい。鵠様……何なりと、仰せのままに」

 だって、鈴香は身勝手で傲慢な本性を暴かれたばかり。鵠の忠実な巫女だと主張したいなら、彼の言葉に首を振るなど許されるはずはなかった。