いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 百花大社は、神楽寮からほど近い場所にあった。帝都の中心部でありながら、広く豊かな鎮守(ちんじゅ)の森によって喧騒は遮られて聞こえない。清らかな静謐に包まれたここは、確かに聖域だった。

 鵠の寝殿よりも華やかな調度や装飾で、解放的な雰囲気のある社殿の一角にて、瑞穂は身を清めて巫女装束に着替えていた。

(ずっと、見るだけだった装束だわ……)

 白い小袖。緋色の袴。水鏡郷で鈴香たちが練習するのを陰ながら見ることしかできなかった彼女にとって、真新しくぱりっとした装束に袖を通すのは夢が叶ったようなもの。だから、不思議な感動が胸に湧き上がる。

 帝都に名高い百花大社で、しかもその祭神である芳の前で歌舞を奉納するのだと思うと、感動を上回る不安と緊張も、忍び寄ってくるのだけれど。

「芳様は残酷な方ではない。仮に失敗したとして、お咎めがあることもないだろうから、恐れずのびのびとやりなさい」

 瑞穂が、まだ少し水を含んだ洗い髪を括っていると、神楽寮からついてきた酒井が口を開いた。玄も、同じく付き添ってくれている。

 巫女の控えの間は、精神統一するために飾りけはなく、大事な奉納を控えて茶菓などが供されることもない。神楽寮の長や神様には似つかわしくない場所なのに、芳に強引に連れ出された瑞穂を案じて、付き添ってくれているのだ。

「はい」

 身支度を整え終えて、板敷の間に端座した瑞穂の表情が硬いのに気づいたのか、酒井は少し苦笑した。

「あの方は――春と花を司るだけに、人の賞賛を浴びてこそ本領を発揮されるのだ」
「つまりは、花のように気まぐれで春のように移ろいやすい。楽巫女の歌舞によって捧げられる畏怖や畏敬の念に満足しなければやる気が出ないんだ」

 酒井と玄がそれぞれ述べたのは、なぜ芳への歌舞の奉納が必要なのか、その理由だ。

 春を寿ぐ花津月の祭礼までは、まだ少し猶予がある。けれど、祭礼の当日の神楽舞に先だって、大社では連日のように祭神に歌舞を捧げるものなのだという。
 神楽寮が()りすぐった巫女たちの歌や舞は、美しい春と平穏な一年を願う民の祈りを芳に伝える。芳は、それに応える形で、祭礼にて繁栄と豊穣の予兆として千紫万紅の花を咲かせて、帝都を彩ってくれるのだ。

 けれど、今年に限っては。神楽寮の巫女たちは、芳を満足させていないらしい。酒井や玄のもの言いでは、芳の我が儘のようにも聞こえるけれど、それだけではないのを、瑞穂はもう知ってしまっている。

「龍脈の乱れが、とも仰っていましたが……」

 国や土地にとっての龍脈は、人間にとっての血のめぐりのようなもの。流れが滞れば病んだり力をふるえなくなる。土地に結びついた神々も同様なのだとか。玄が言っていた異変は、花津月の祭礼が行えなくなるくらいに深刻なもの……なのだろうが。

「例年ならば、楽巫女の歌舞が満点でなくとも大目に見てくださるのだが。……近ごろ、怪異の出現が頻発していることは、玄様から聞いているかな」
「はい。私自身も、不気味な化け物に襲われました」

 稲盛村を抜け出そうとした瑞穂の前に現れたのも、想えば龍脈の乱れによって現れた怪異なのだろう。神楽寮の役人たちが、梓の屋敷や帝都までの道中、何やら不安げにささやき交わしていたのも瑞穂は見ている。

「民の不安を宥めるためには、例年にも増して華やかな花を咲かせてやりたい。しかし、それも相応の歌舞を奉納した上でなければ、と――そんなことを考えておいでなのだろう」
「お気遣いありがとうございます。芳様のお考えは当然だと思います」

 瑞穂は大きくうなずいた。酒井を安心させるための方便ではなく、心からの言葉だった。

(何もせず、ただ神様に守っていただくわけにはいかないわ)

 神が人間のためにあるかのような考え方は、傲慢にもほどがある。神の加護は、人間が真摯に(こいねが)い、祈りを捧げるからこそのものだろう。
 神に仕える者としての心構えは、水鏡郷に民なら誰でも心得ている。瑞穂にあえて教えてくれる者はいなくても、あの敬虔な空気の中で育っていれば分かるものだ。

「さすが瑞月の娘だ。……今の巫女は、神々への敬意は当然あっても、想いより技術を重視しがちなのかもしれないな」

 瑞穂が腹を括ったのが伝わったのだろうか、酒井は嬉しそうに微笑んだ――ちょうどその時、室外から声がかかる。

「舞台の用意が整いました。瑞穂様、どうぞ――」
「はい。ただ今参ります」

 年配の巫女の後について、瑞穂は社の中をしずしずと進んだ。行先は、祭礼で用いられる大舞台ではない。社の奥に芳の好む中庭があるそうだから、そこで歌舞を披露せよ、とのことだった。

 大社にはもちろん数多の巫女がいる。彼女たちの品定めの視線や悔しそうなささやきは、意識しなくても瑞穂の肌や耳をちくちくと刺激した。

「白玲山の巫女、ですって」
「あの霊山の……?」
「しょせんは田舎者よ。私たちのほうが練習してるわ」
「いきなり出てきて、芳様の御前で舞うなんて!」

 俯きそうになるのを必死にこらえて、瑞穂は意識して背筋を正し、顔を上げようと務めた。

(先にいた方々が不満を持たれるのは当然のことよ。水鏡郷で言われてきたことに比べれば、何てことない)

 水鏡郷では、瑞穂が何をしても何を言っても、どうせ罪人の娘だから、と言われた。彼女なりにどう励んでも、褒められたり認められたりということがなかった。
 百花大社の巫女たちは、瑞穂に憤る理由がちゃんとある。そして、成功すればきっと認めてくれる。考えを改めてくれる。

 成功できるかどうかについて、瑞穂に自信があるかというと、まったくそんなことはないのだけれど――

(世界は美しく愛すべきもの。人はその美しさを知っていて、感謝して生きている。神々と共にあれることを喜んでいる――そう、伝えて差し上げたい)

 酒井は、芳が無理難題を押し付けたと思っているようだけれど、瑞穂にとってはずっと望んでいた機会を与えていただいたことになる。水鏡郷では、密かに歌を口ずさむことさえ、村人に見咎められないようにしなければならなかったから。

(玄様のお陰だわ。私を帝都に連れ出して――そして、世界を広げてくれた)

 美しくも凛々しい狼の神様は、あの夜の山中では歌えと言ってくれた。そして先ほどは、心配いらないと励ましてくれた。彼の信頼に応えるためにも、瑞穂はできる限りのことをしようと決めていた。

      * * *

 通された(つぼね)では、芳が(うちき)姿で寛いでいた。白玲山の鵠なら、酒肴を楽しんでいるところだっただろう。芳の好みか昼間だからか、今は供されているのは茶菓のようだった。

「そこに、桜の木があるでしょう?」

 春と花の女神は、御前で深く拝礼した瑞穂に、軽やかな声をかけた。ふわりと甘い香りが漂うことで、芳が手を差し伸べたのが分かる。

「はい。見事な大樹です」

 そこには、神酒がひと抱えもありそうな桜の大木がそびえていた。幹も枝もごつごつとして、長くこの大社の春を彩ってきたのだろうと伺える。ただ、今は灰色の枝が宙に伸びるだけで、蕾を結ぶ兆しさえ見えない。

「大地に満ちる春の気を吸い上げて、いち早く花を咲かせる霊木なの。でも、今年は気の流れが滞っているみたい。私が強引にやっても良いのだけれど――それでは雅ではないでしょう? どうにかしてくれるわね?」

 芳の薄桃色の目が、悪戯っぽく輝いていた。瑞穂のことを、心から信じているわけではないだろう。ただ、目新しい催しになりそうだと期待しているだけだろう。神々は気まぐれなものでもあるというから。

「はい。精いっぱいの歌と舞を献上いたします」

 芳のほうへ、深く頭を垂れてから――瑞穂は立ち上がり、桜の大樹のもとに敷かれた毛氈(もうせん)へと進み出た。