いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 (かおる)、というらしい女神様は、麗しい顔に苛立ちを浮かべたまま室内をぐるりと見回した。その花の色の瞳は、瑞穂などいないかのように素通りする――けれど、玄の姿を捉えるなり、ぱあっと明るく輝いた。

「玄! 戻っていたのね? 白玲山に行っていたのでしょう? (くぐい)は何をしていたの? 瑞月との蜜月で務めをおろそかにしているのではないでしょうね? こんなことなら、瑞月を返してもらわないといけなくなるわ!」
「……今、ちょうどその話をしようとしていたところだった」

 美しい女神は、声も美しかった。けれど、いくら甘く蕩けるような声でも、立て続けの問いかけの圧に押されたのだろう、玄は軽く顔を顰めながら答えた。

「白玲山では、鵠の婚礼の支度の最中だった。相手は瑞月ではない、ひどく不出来な巫女だった」
「まあ……では、瑞月はどうしているの?」

 まただ。鵠が選んだ鈴香のことを、玄はまた悪しざまに言った。芳も、酒井と同じく陶然のように母の瑞月が生きているかのように語る。

 居心地悪く身じろぎする瑞穂をちらりと見てから、玄は花のように艶やかな女神に向き直って続けた。

「龍脈の乱れについて質したところ、瑞月を亡くした傷心ゆえだと(うそぶ)いた。で、新たな珠の巫女を得たから安心せよ、と」
「信じられないわ、そんなこと! 龍脈は歪んで世の理は乱れる一方、この私が春をもたらすのにもたらすのに苦労しているくらいないのよ? 鵠は瑞月を隠しておきたいだけなのではなくて?」

 相変わらず瑞穂を視界にも入れないまま、芳は可愛らしく唇を尖らせた。
 彼女の背丈は玄よりも低いけれど、手を腰に当ててつんと顎を反らす姿は強気なものだった。鵠に対しても遠慮のないもの言いをするあたり、高位の神様なのかもしれない。

 事実、玄は小さくため息を吐くと、降参、とでも言うかのように両手を軽く挙げた。

「そういうことを言う者がいるだろうと思っていた。まあ、俺も逆の立場ならそうしていただろう。だから証人を連れ帰ってきたのだ」
「証人、ですって?」

 玄に示されて初めて、春をもたらすという女神の目が瑞穂を捉えた。優しく柔らかいはずの薄桃色の瞳には、けれど、この娘は何なの、と言いたげな不審をありありと浮かんでいる。

 そんな胡乱な視線にはかまわず、玄は瑞穂に微笑みかけた。

「瑞穂。こちらは芳。春と花を司る神で、帝都に名高い百花大社(ひゃっかたいしゃ)祭神(さいじん)でもある」
「百花大社……!?」

 百花大社といえば、帝都でももっとも古い社のひとつ。長い歴史を通して民の信仰を集め、心の寄る辺となってきた場所だ。

(そうだ、さっき花津月、って……!)

 春を寿ぐ盛大な祭礼は、もちろん百花大社にて行われる。瑞穂は、春そのものを象徴する方の目の前にいるのだ。

「お、お会いできて光栄です……!」

 お辞儀くらいでは、敬意を表すのにとうてい足りない。瑞穂は、慌ててその場に平伏した。すると、ふふ、という満足そうな笑い声と、とても甘い香りが降ってくる。その名の通り、芳の一挙一動には馥郁たる芳香が伴うらしい。

「礼儀は弁えているようね。でもねえ、玄。先にその娘を私に紹介するのが筋ではなくて? どうして順番を間違えたの?」

 神である自分に、はるかに格下である人間の小娘を紹介する形にするのが筋だろう、と。刺を持つ薔薇のような芳のやんわりとした糾弾に、けれど、玄はまったく動じなかった。

「証人だと言っただろう。この娘は、俺が白玲山から連れてきた。瑞穂という――瑞月の娘だということだ」
「瑞月の、娘?」

 絨毯にひれ伏したまま、動くことができない瑞穂の耳に、芳の不思議そうな声が降ってくる。そして、酒井の袴が奏でる衣擦れの音が。

「玄様にはたいへん非礼ではあったのですが、私も正直半信半疑でした。ですが、この瑞穂は確かに瑞月の面影があります」
「ふうん? ねえ、瑞穂とやら、顔を上げてくれる?」

 神楽寮の長官の口添えに、芳も興味を持ったようだった。

「は、はい……」

 瑞穂が恐る恐る身体を起こすと、女神の薄桃色の瞳は、今度は興味深げな色を湛えて彼女をしげしげと見つめている。

「幼いころに会ったことがありますから、間違いはないかと」
「俺も、歌を聞いて確信した。その瑞穂が、母は確かに死んだと言っている。そして鵠は――」

 酒井に加えて、玄も補足した。

(いよいよ、本題に入るのかしら……!?)

 鵠が守護するはずの、龍脈の乱れについて。母について、瑞穂と玄たちの認識の違いについて。また、それらが関係しているのかどうか。玄は、その辺りに話を繋げようとしているはずだ。

(何が明らかになっても、受け止めないと……!)

 緊張と覚悟によって、瑞穂は唇を噛み締めた。でも――

「じゃあ、この娘でも良いわ!」
「は?」

 蕾が弾けて花開くような華やかな笑顔を見せたかと思うと、芳はぱん、と両手を打ち合わせた。そうすると、いっそう強く甘い芳香が立ち上る。

「神楽寮の巫女が役に立たないのよね。捻じれ歪んだ龍脈の流れを整えて、春の気を呼び込んでちょうだい。瑞月の娘ならできるでしょう!」

 芳は瑞穂の手を取ると、強引に立ち上がらせた。華奢な身体つきなのに意外にも力は強く、気が付くと、薄桃色の瞳が瑞穂の目の前で試すように微笑んでいる。

「わ、私は、そんな――」

 慌てて首を振りながら、瑞穂は気づく。
 玄や酒井の話は、この方にとってはどうでも良かったのだ。ただ、花津月の祭礼を無事に行えるかどうかだけが芳の関心事だったのだ。

(私、ちゃんと練習したこともないのに……!)

 歌と言っても、聞き覚えたものを口ずさんだだけ。舞も似たようなものだ。早くそれを説明して、どうにか許してもらわなくても。

「そうか、それなら話は早いな」
「玄様!?」

 でも、玄は瑞穂の焦りと不安を無視してうなずいてしまった。抗議を込めた悲鳴も、涼やかな笑みで受け流される。

「芳を納得させれば、何かとやりやすくなる。百花大社の繚乱は、花津月の祭礼に不可欠だ。民も楽しみにしているだろう」
「そんな、畏れ多いです……!」

 玄の言葉は真実で、だからこそ瑞穂を怯えさせた。帝都全体が待ちわびる、東雲の国の一年の豊穣を願う祭礼――そんな重大なことの成否を瑞穂に託すなんて、どう考えても間違っている。

「心配いらない。お前なら、できる」

 なのに玄は、不安も疑問も欠片も抱いていないかのように、晴れやかに笑った。