寝台に横になって、玄の声の近さや手の温もりを思い出しては噛み締めているうちに、瑞穂はどうやら眠っていたらしかった。
「瑞穂さん、おはようございます! そろそろ到着なので、身支度を――」
「は、はい。急ぎます!」
扉を叩く音と共に聞こえたのは、神楽寮の役人の誰かの声だろう。瑞穂が慌てて跳ね起きると、窓の外にはもう青空が広がっていた。
(いよいよ帝都――いったい、どれほど栄えているのかしら。怖い人や悪い人がいたりはしない……?)
梓たちが持たせてくれた柘植の櫛で梳くと、瑞穂の髪はみるみるうちに艶を増していった。指に感じる滑らかな感触は、我ながらうっとりするくらい。帯も着物ももちろん清潔で、季節に合わせた可愛らしい桜の模様で、不安に高鳴る瑞穂の心臓をそっと包んでくれる。
そうして、瑞穂が人前に出られる恰好を整えた時――列車はちょうど、赤いレンガの美しい駅舎に停車した。
「ひ、人が――」
駅舎の中、大通り、神楽寮に手配された馬車に乗るまで――どこに行っても視界を埋め尽くす人の波、彼ら彼女らがまとう服の色鮮やかさやが瑞穂の目をくらませた。
さらに、ささやきから怒鳴り声まで、高さも調子も様々な声に、馬車や自動車、種々の車が行き交う音が一気に押し寄せて、瑞穂の頭を揺さぶる。
よろめきそうになった瑞穂の腕を捉えて支えながら、玄がささやく。
「はぐれるなよ。しっかり掴まっていると良い」
「は、はい……!」
もう、恥ずかしいとか畏れ多いとか言っている場合ではなかった。瑞穂は、玄の服の袖をしっかりと握りしめて標にする。
「あの、玄様のような服の人はあまりいないんですね……?」
「ああ、これは西洋の軍装を参考にしているからな。動きやすくて気に入っている」
「そうだったんですね」
そんなやり取りをしながら、瑞穂はどうにか車に落ち着いた。
鉄道とはまた違った揺れと速さで眺める帝都の喧騒は、やはり目が回りそうな賑やかさと華やかさだった。でも――白玲山で聞いていたような、空虚で浮ついた、退廃的な空気は感じない。
(むしろ、活気に満ちている? みんな、楽しそうで――花津月の祭礼が近いからかしら)
やはり、実際に見て、聞いてみなければ分からないことは多い、と。隣に座る玄を意識しながら、瑞穂はまた世界の広さを実感した。
* * *
ほどなくして到着した神楽寮は、西洋風の石造りの建物だった。東雲の国の祭祀を司る官庁なのに少し不思議だけれど、思えば役人たちも洋装だったから、これも時代の流れなのかもしれない。ただ、どこかに神木や清水の流れが設けられているのか、さわやかな水や緑の香りをかすかに感じるのが、瑞穂にとっては心地好かった。
絨毯の敷かれた廊下の、慣れない感触に戸惑いながら、瑞穂は建物の奥の一室に通された。稲盛村から同行していた役人たちはそれぞれの部署に戻り、同行しているのは玄だけだ。
(うう、緊張する……)
応接室だというその部屋も、西洋風の設えだった。重厚な木材の卓が厳めしく、に、革張りの椅子の座面は、どこまでも沈み込んでしまいそうなほど柔らかい。
並んでかけた瑞穂と玄の前には、良い香りのお茶らしいものが出されたけれど、それも見慣れない琥珀色。取っ手のついた繊細な器はどう触れて良いか分からなくて手のつけようがない。
両手を膝にそろえたまま、動けないでいる瑞穂を見かねたのか、玄が茶器を持ち上げて手本を見せてくれた。
「神楽寮の司――長官の酒井が間もなく来る。神との折衝や巫女の扱いにも慣れた者だから、心配いらない」
「は、はい」
玄の茶器から漂う芳しい湯気のお陰で、瑞穂がほんの少しだけ気を緩めた時――精緻な彫刻をほどこした扉が、勢い良く開いた。
「貴女が瑞穂――瑞月の娘か!」
瑞穂が椅子から跳び上がるほどの大声で入室してきたのは、口ひげを蓄えた恰幅の良い初老の紳士だった。神楽寮のほかの役人や玄とは違って、昔ながらの袴姿だ。瑞穂にとっては馴染みのある装いで、話しやすくはあるだろうか。
とはいえ、立ち上がった瑞穂に、挨拶を述べる暇などなかった。彼女が口を開く前に、酒井は立て板に水とばかりに滔々とまくし立てたのだ。
「確かに母上によく似ているな。懐かしい――会えて良かった。覚えているかな、神楽寮の境の小父さんだ。だいぶ老け込んだが、ひげは変わっていないだろう? 瑞月が白玲山に里帰りする時に、貴女を連れて挨拶に来てくれたんだが」
酒井は、満面の笑みで瑞穂を覗き込んでくる。節ばった指でしきりに口ひげを引っ張るのは、瑞穂の記憶を蘇らそうと頑張ってくれているのだろうか。
瑞穂が知るこの年配の男性は、彼女を見ると必ず顔を顰めて何かしらの理由で叱るのが常だった。こんなに嬉しそうに語りかけてくれる人を、喜ばせてあげたいのは山々なのだけれど――いくら記憶を探っても、瑞穂には帝都での思い出なんてひとつも見つからなかった。
「い、いえ。申し訳ありませんが――」
「そうか、残念だ……」
しょんぼりと肩を落とした酒井は、瑞穂が首を振ったのが、よほど寂しくて悲しかったようだ。
(神楽寮の長官で、偉い方のはずなのに……)
玄が心配いらないと言った通りだった。どうやら酒井は、瑞穂に会うのを本当に楽しみにしていたし、歓迎してくれているらしい。それは、良かったけれど――瑞穂の胸に渦巻く疑問は、深まるばかりだ。
もう一度腰を下ろす余裕などないまま、瑞穂は懸命に言葉を探す。
「あの、里帰り、というのは? 母は帝都で……ええと、困窮して白玲山に逃げ帰ったと聞いていました。だから、何かあったのだろうと思っていたのですが」
鵠や郷の者たちの口振りから、瑞穂は母は悪い男に騙されて何か――とてもひどいことをされたか、ひどい境遇に落ちぶれたのだと思っていた。それが何なのか、彼女には具体的にはよく分からなかったけれど、それはきっととても痛ましくて、同時に恥ずべきことなのだろう、と。
でも、それなら母は、逃げ帰るような形で白玲山に辿り着いたはずだ。酒井がさらりと言った里帰りとは、かなり印象が違う。
「困窮……? いや、そんなことはなかったが」
瑞穂の言葉を聞いて、酒井は眉根を寄せた。どうしてそんなことを言うのか分からない、とでも言いたげな表情に、瑞穂の胸には嫌な予感が暗雲のように広がる。
「玄様からも伺ったが、瑞月がもう亡くなっているというのは本当なのか? 鵠様は、そのようなことはひと言も……!」
「は、はい。私が小さいころには、もう」
瑞穂と酒井、ふたりの視線を受けても玄は表情を変えず、何も言わなかった。話の食い違いについては人間同士で解決しろ、とでも言うかのようだった。
瑞穂と見つめ合うことしばし――酒井は深々とため息を吐いて目を伏せた。
「鵠様も何とお冷たい。瑞月と別れを惜しみたい神も人も多いのを、よくご存じだろうに……!」
母の瑞月は、優れた巫女だった。鉄道の開通に当たっても、線路で住まいを侵される神々を歌舞で宥めた――酒井の言葉は、玄が夜行列車で語ったことと符合する。
(じゃあ――鵠様は嘘を吐いていた? なぜ、そんなこと……!?)
瑞穂の中で、曇りなく美しいと思っていた鵠の姿が、不吉に翳る。……違う。鵠も、母の力は認めていた。だから、酒井が冷たいと嘆いた仕打ちにも、何か理由があるはずだった。
「……母は、鵠様の珠の巫女になるはずでしたから。多くの方に想われたというのは――あの、光栄ではあるのでしょうが、鵠様にとってはご不快だったのではないか、と……」
「独占欲、ということか」
玄がぼそりと漏らしたひと言が、瑞穂の胸を刺した。鵠の、母への想いが深かったからこそ、と言いたかったのに。
(そんな――だって、珠の巫女に選ばれるのは光栄で。鵠様の寵愛を裏切った母様が悪い……のでしょう……?)
とうに列車から降りたというのに、瑞穂はずっと頭が揺さぶられているような気分だった。
鵠の言葉は彼女にとって絶対だった。美しく清らかなあの方は常に正しく、間違っていたのは母だった。だからその娘である瑞穂も虐げられて当然――そう、信じてきていたというのに
「思い出や、忘れ形見までも我らには分けてくださらぬとは。我ら人間のことを顧みられないのはまだしも、同じ神々にまで……」
嘆かわしげに首を振った後、酒井は瑞穂の表情が強張っているのに気付いたようだった。取りなすような笑みを浮かべると、彼は瑞穂の肩にそっと手を置く。
「鵠様は、清廉な白鳥の化身と伝えられている。そのお方をして、これほどまでに深く愛され、忘れがたいと思われるのだ。それだけ貴女の母上は優れた楽巫女だったのだよ」
「え――」
鵠は、独占欲ゆえに瑞月の死を秘していたのだ、と。玄の説を、酒井は信じたようだった。そしてその説に沿って、瑞穂を慰めようとしてくれているらしい。
「瑞月が生きていたなら、後進の巫女の指導もして欲しかったし、今回の件でも助力を乞いたかったのだが。いや、残念だ」
でも、それは少し違う気がする。鵠の、瑞月への想いがそれほどまでに深いなら、罪人扱いしたりはしないのではないだろうか。
「あの、母は――」
瑞穂が違和感を説明しようとした時――部屋の中に、濃く甘い香りがふわり、と漂った。嗅いだだけでとても美しい花が満開に綻ぶ様が思い浮かぶような、華やかな香り。それはいったいどこから、と思う間もなく、香りと同じくらいに甘やかな声が高く響いた。
「酒井! 龍脈の乱れをいつまで放っておくの!? 私の花が咲かないじゃない!」
驚きに見開いた瑞穂の目に、美しい姫君が映っていた。酒井が入った後、扉は閉められていたはずなのに。香り高い風に乗って現れた、としか思えないくらい、その美しい方はごく自然に瑞穂たちのすぐ傍に凛と立っていた。
色鮮やかな衣を何枚も重ねた、古風な装束。緩く波打って流れ落ちる髪も、酒井をきっ、と睨め付ける瞳も、花のような淡い桃色。赤い唇も花びらのように可愛らしく艶やかで、そもそも顔立ちも地上のものとは思えないくらいに美しく整っている。
突然現れた美姫に見惚れながら、瑞穂は考えた。
(もしかして、この方も……?)
姫君の尋常でない――神々しい美しさは、鵠や玄と同じ種類のもの。それなら、この方はきっと花か何かの女神だろう。
「芳様、突然のお出ましで――」
案の定、酒井はその美姫に対して恭しく礼拝した。けれど、花霞そのもののような美しい方は、不機嫌そうに眉を吊り上げ、ますます声を荒らげる。
「このままでは花津月の祭礼が台無しよ!」
「瑞穂さん、おはようございます! そろそろ到着なので、身支度を――」
「は、はい。急ぎます!」
扉を叩く音と共に聞こえたのは、神楽寮の役人の誰かの声だろう。瑞穂が慌てて跳ね起きると、窓の外にはもう青空が広がっていた。
(いよいよ帝都――いったい、どれほど栄えているのかしら。怖い人や悪い人がいたりはしない……?)
梓たちが持たせてくれた柘植の櫛で梳くと、瑞穂の髪はみるみるうちに艶を増していった。指に感じる滑らかな感触は、我ながらうっとりするくらい。帯も着物ももちろん清潔で、季節に合わせた可愛らしい桜の模様で、不安に高鳴る瑞穂の心臓をそっと包んでくれる。
そうして、瑞穂が人前に出られる恰好を整えた時――列車はちょうど、赤いレンガの美しい駅舎に停車した。
「ひ、人が――」
駅舎の中、大通り、神楽寮に手配された馬車に乗るまで――どこに行っても視界を埋め尽くす人の波、彼ら彼女らがまとう服の色鮮やかさやが瑞穂の目をくらませた。
さらに、ささやきから怒鳴り声まで、高さも調子も様々な声に、馬車や自動車、種々の車が行き交う音が一気に押し寄せて、瑞穂の頭を揺さぶる。
よろめきそうになった瑞穂の腕を捉えて支えながら、玄がささやく。
「はぐれるなよ。しっかり掴まっていると良い」
「は、はい……!」
もう、恥ずかしいとか畏れ多いとか言っている場合ではなかった。瑞穂は、玄の服の袖をしっかりと握りしめて標にする。
「あの、玄様のような服の人はあまりいないんですね……?」
「ああ、これは西洋の軍装を参考にしているからな。動きやすくて気に入っている」
「そうだったんですね」
そんなやり取りをしながら、瑞穂はどうにか車に落ち着いた。
鉄道とはまた違った揺れと速さで眺める帝都の喧騒は、やはり目が回りそうな賑やかさと華やかさだった。でも――白玲山で聞いていたような、空虚で浮ついた、退廃的な空気は感じない。
(むしろ、活気に満ちている? みんな、楽しそうで――花津月の祭礼が近いからかしら)
やはり、実際に見て、聞いてみなければ分からないことは多い、と。隣に座る玄を意識しながら、瑞穂はまた世界の広さを実感した。
* * *
ほどなくして到着した神楽寮は、西洋風の石造りの建物だった。東雲の国の祭祀を司る官庁なのに少し不思議だけれど、思えば役人たちも洋装だったから、これも時代の流れなのかもしれない。ただ、どこかに神木や清水の流れが設けられているのか、さわやかな水や緑の香りをかすかに感じるのが、瑞穂にとっては心地好かった。
絨毯の敷かれた廊下の、慣れない感触に戸惑いながら、瑞穂は建物の奥の一室に通された。稲盛村から同行していた役人たちはそれぞれの部署に戻り、同行しているのは玄だけだ。
(うう、緊張する……)
応接室だというその部屋も、西洋風の設えだった。重厚な木材の卓が厳めしく、に、革張りの椅子の座面は、どこまでも沈み込んでしまいそうなほど柔らかい。
並んでかけた瑞穂と玄の前には、良い香りのお茶らしいものが出されたけれど、それも見慣れない琥珀色。取っ手のついた繊細な器はどう触れて良いか分からなくて手のつけようがない。
両手を膝にそろえたまま、動けないでいる瑞穂を見かねたのか、玄が茶器を持ち上げて手本を見せてくれた。
「神楽寮の司――長官の酒井が間もなく来る。神との折衝や巫女の扱いにも慣れた者だから、心配いらない」
「は、はい」
玄の茶器から漂う芳しい湯気のお陰で、瑞穂がほんの少しだけ気を緩めた時――精緻な彫刻をほどこした扉が、勢い良く開いた。
「貴女が瑞穂――瑞月の娘か!」
瑞穂が椅子から跳び上がるほどの大声で入室してきたのは、口ひげを蓄えた恰幅の良い初老の紳士だった。神楽寮のほかの役人や玄とは違って、昔ながらの袴姿だ。瑞穂にとっては馴染みのある装いで、話しやすくはあるだろうか。
とはいえ、立ち上がった瑞穂に、挨拶を述べる暇などなかった。彼女が口を開く前に、酒井は立て板に水とばかりに滔々とまくし立てたのだ。
「確かに母上によく似ているな。懐かしい――会えて良かった。覚えているかな、神楽寮の境の小父さんだ。だいぶ老け込んだが、ひげは変わっていないだろう? 瑞月が白玲山に里帰りする時に、貴女を連れて挨拶に来てくれたんだが」
酒井は、満面の笑みで瑞穂を覗き込んでくる。節ばった指でしきりに口ひげを引っ張るのは、瑞穂の記憶を蘇らそうと頑張ってくれているのだろうか。
瑞穂が知るこの年配の男性は、彼女を見ると必ず顔を顰めて何かしらの理由で叱るのが常だった。こんなに嬉しそうに語りかけてくれる人を、喜ばせてあげたいのは山々なのだけれど――いくら記憶を探っても、瑞穂には帝都での思い出なんてひとつも見つからなかった。
「い、いえ。申し訳ありませんが――」
「そうか、残念だ……」
しょんぼりと肩を落とした酒井は、瑞穂が首を振ったのが、よほど寂しくて悲しかったようだ。
(神楽寮の長官で、偉い方のはずなのに……)
玄が心配いらないと言った通りだった。どうやら酒井は、瑞穂に会うのを本当に楽しみにしていたし、歓迎してくれているらしい。それは、良かったけれど――瑞穂の胸に渦巻く疑問は、深まるばかりだ。
もう一度腰を下ろす余裕などないまま、瑞穂は懸命に言葉を探す。
「あの、里帰り、というのは? 母は帝都で……ええと、困窮して白玲山に逃げ帰ったと聞いていました。だから、何かあったのだろうと思っていたのですが」
鵠や郷の者たちの口振りから、瑞穂は母は悪い男に騙されて何か――とてもひどいことをされたか、ひどい境遇に落ちぶれたのだと思っていた。それが何なのか、彼女には具体的にはよく分からなかったけれど、それはきっととても痛ましくて、同時に恥ずべきことなのだろう、と。
でも、それなら母は、逃げ帰るような形で白玲山に辿り着いたはずだ。酒井がさらりと言った里帰りとは、かなり印象が違う。
「困窮……? いや、そんなことはなかったが」
瑞穂の言葉を聞いて、酒井は眉根を寄せた。どうしてそんなことを言うのか分からない、とでも言いたげな表情に、瑞穂の胸には嫌な予感が暗雲のように広がる。
「玄様からも伺ったが、瑞月がもう亡くなっているというのは本当なのか? 鵠様は、そのようなことはひと言も……!」
「は、はい。私が小さいころには、もう」
瑞穂と酒井、ふたりの視線を受けても玄は表情を変えず、何も言わなかった。話の食い違いについては人間同士で解決しろ、とでも言うかのようだった。
瑞穂と見つめ合うことしばし――酒井は深々とため息を吐いて目を伏せた。
「鵠様も何とお冷たい。瑞月と別れを惜しみたい神も人も多いのを、よくご存じだろうに……!」
母の瑞月は、優れた巫女だった。鉄道の開通に当たっても、線路で住まいを侵される神々を歌舞で宥めた――酒井の言葉は、玄が夜行列車で語ったことと符合する。
(じゃあ――鵠様は嘘を吐いていた? なぜ、そんなこと……!?)
瑞穂の中で、曇りなく美しいと思っていた鵠の姿が、不吉に翳る。……違う。鵠も、母の力は認めていた。だから、酒井が冷たいと嘆いた仕打ちにも、何か理由があるはずだった。
「……母は、鵠様の珠の巫女になるはずでしたから。多くの方に想われたというのは――あの、光栄ではあるのでしょうが、鵠様にとってはご不快だったのではないか、と……」
「独占欲、ということか」
玄がぼそりと漏らしたひと言が、瑞穂の胸を刺した。鵠の、母への想いが深かったからこそ、と言いたかったのに。
(そんな――だって、珠の巫女に選ばれるのは光栄で。鵠様の寵愛を裏切った母様が悪い……のでしょう……?)
とうに列車から降りたというのに、瑞穂はずっと頭が揺さぶられているような気分だった。
鵠の言葉は彼女にとって絶対だった。美しく清らかなあの方は常に正しく、間違っていたのは母だった。だからその娘である瑞穂も虐げられて当然――そう、信じてきていたというのに
「思い出や、忘れ形見までも我らには分けてくださらぬとは。我ら人間のことを顧みられないのはまだしも、同じ神々にまで……」
嘆かわしげに首を振った後、酒井は瑞穂の表情が強張っているのに気付いたようだった。取りなすような笑みを浮かべると、彼は瑞穂の肩にそっと手を置く。
「鵠様は、清廉な白鳥の化身と伝えられている。そのお方をして、これほどまでに深く愛され、忘れがたいと思われるのだ。それだけ貴女の母上は優れた楽巫女だったのだよ」
「え――」
鵠は、独占欲ゆえに瑞月の死を秘していたのだ、と。玄の説を、酒井は信じたようだった。そしてその説に沿って、瑞穂を慰めようとしてくれているらしい。
「瑞月が生きていたなら、後進の巫女の指導もして欲しかったし、今回の件でも助力を乞いたかったのだが。いや、残念だ」
でも、それは少し違う気がする。鵠の、瑞月への想いがそれほどまでに深いなら、罪人扱いしたりはしないのではないだろうか。
「あの、母は――」
瑞穂が違和感を説明しようとした時――部屋の中に、濃く甘い香りがふわり、と漂った。嗅いだだけでとても美しい花が満開に綻ぶ様が思い浮かぶような、華やかな香り。それはいったいどこから、と思う間もなく、香りと同じくらいに甘やかな声が高く響いた。
「酒井! 龍脈の乱れをいつまで放っておくの!? 私の花が咲かないじゃない!」
驚きに見開いた瑞穂の目に、美しい姫君が映っていた。酒井が入った後、扉は閉められていたはずなのに。香り高い風に乗って現れた、としか思えないくらい、その美しい方はごく自然に瑞穂たちのすぐ傍に凛と立っていた。
色鮮やかな衣を何枚も重ねた、古風な装束。緩く波打って流れ落ちる髪も、酒井をきっ、と睨め付ける瞳も、花のような淡い桃色。赤い唇も花びらのように可愛らしく艶やかで、そもそも顔立ちも地上のものとは思えないくらいに美しく整っている。
突然現れた美姫に見惚れながら、瑞穂は考えた。
(もしかして、この方も……?)
姫君の尋常でない――神々しい美しさは、鵠や玄と同じ種類のもの。それなら、この方はきっと花か何かの女神だろう。
「芳様、突然のお出ましで――」
案の定、酒井はその美姫に対して恭しく礼拝した。けれど、花霞そのもののような美しい方は、不機嫌そうに眉を吊り上げ、ますます声を荒らげる。
「このままでは花津月の祭礼が台無しよ!」



