いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

 神楽寮の役人たちは、梓の屋敷でしばし休憩した後、昼過ぎには出立することになった。

「玄様といい、慌ただしいこと。村を挙げて歓待したいところでしたのに……」
「鉄道の時刻がありますからね。昨日は宿で休めましたし、休暇で来たわけではありませんから」

 少々不満げな梓と親しげに語る者もいて、きっと、これまでにも稲盛村に滞在したことがあるのだろうと窺えた。水鏡郷と違って、この村は閉ざされていない。神と人でも人間同士でも、様々なあり方とかかわり方があるのだと、瑞穂はようやく知った。

(本当に……私の世界は狭かった、のね……?)

 もっと広い世界を見るべきだ、という玄の言葉をまたも噛み締める瑞穂も、もちろん役人たちについて帝都に向かうことになる。とはいえ彼女には荷造りの必要もないから気楽なもの――というのは浅い考えだったと、すぐに判明した。

「帝都での着替えよ。瑞穂ちゃんに似合いそうなのをこっそり選んでおいたの」
「櫛とか鏡とか、身の回りの品も」
「受け取らないで黙って行っちゃうなんて、ひどいんだから!」

 顔なじみになった村の女たちが、両手で抱えるほどの包みを持たせてくれたのだ。見るからに何も持っていない瑞穂を気の毒に思って、帝都で困ることがないように、と。

「皆さん……!」

 麻の葉模様の風呂敷で、綺麗に包んだ荷物は、受け取るとずしりと重い。女たちの思い遣りの重さだと思うと、瑞穂の胸は温かいものでいっぱいになる。

「ありがとうございます。とても嬉しい――大切に、使います」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」

 荷物をぎゅっと抱きしめた瑞穂を見て、梓は満足そうにうなずいた。女たちの計画を主導していたのは、この老婦人だったということらしい。

「秋冬の着物は、包んでないのだけれど。それまでには、顔を見せに来てくれるかしら」

 昨日までの瑞穂なら、梓の言葉に躊躇いなく答えることはできなかっただろう。帝都で何があるか分からないから、自分なんかが来ては迷惑だろうから、とか考えてしまって。

 でも、今は違う。
 神である玄が連れてきたからとか、事情を深く知らないからとかいうことには関係なく、梓たちは瑞穂を大切に思ってくれている。何より、傍で見ていた玄が、頼もしくうなずいてくれている。心配いらない、と。

「はい。必ず。必ず……!」

 うなずきながら、瑞穂の頬には目には涙が滲んでいた。梓たちとの別れがつらく寂しいからだけではない、優しさに触れて心が激しく動いたから流れる涙だ。
 そんな温かい涙があることも、瑞穂は今、初めて知った。

      * * *

 稲盛村を出て、乗合馬車で最寄りの鉄道の駅に着いたのは夕刻だった。玄たちと乗り込んだ列車は、一晩かけて帝都までの道のりを駆けるらしい。

 神楽寮の手回しのお陰か、玄の気遣いか、瑞穂には個室が用意されていた。固い寝台のほかは椅子を置いたらいっぱいになるような狭い空間とはいえ、破格の待遇だろう。ちらりと見た一般の客席は、人がぎゅうぎゅうに詰め込まれていたから。

 列車が動き始めてしばらくの後――玄が、様子を窺いに瑞穂の個室を訪ねてくれた。

「慣れないと、音や揺れが気になるかもしれないが。寝てやり過ごしてもらって――大事な話は明日、帝都に着いてからだ。神楽寮が総出で待ちかねているだろう」

 そんな窮屈な個室に玄がいるのを見るのは、とても不思議な気分だった。

(神様も、鉄道を使うなんて。……でも、狼の姿で走ってついてきてください、というのも失礼なのかしら)

 瑞穂がそんなことを考えるのは、少し身動きしただけで身体が触れ合ってしまいそうな気恥ずかしさをごまかすためだった。……それに、帝都に着いてからのことを、まだ考えたくなかったからでもあるだろうか。

「はい……」

 曖昧にうなずいた瑞穂は、不安を顔に出してしまっていたのかもしれない。個室を去ろうとしていた玄は、彼女を振り向いて軽く首を傾げた。

「といっても、眠れそうにないか」
「いえ! ――ええと、はい、眠くはないのですが、でも、大丈夫です」

 玄が留まりそうな気配を感じて、瑞穂は慌てて首と手を振った。
 このとても綺麗な方、それも神様でもある方と密室でふたりきり、なんて畏れ多い。
 水鏡郷でなら、もっと遅くまで働いて起きていることもあったのだし、寝台は固くても清潔だ。列車の音と揺れは少し怖くても、闇の中に民家の灯りが蛍か星のように流れていくのは綺麗で楽しい。

(玄様に乗せていただいて、空を駆けた時みたい……)

 たとえ眠れなくても、車窓を眺めていれば朝まで――帝都まではすぐだろう。

「では、少し話でもしていくか。気が紛れるかもしれない」

 だから気遣いには及ばない。そう、瑞穂は訴えようとしたのだけれど。玄が椅子に腰を下ろすほうが早かった。薄暗い室内でも輝くような整った顔で、玄は悪戯っぽく微笑んだ。

「この鉄道が開通したのは瑞月の手柄だ、と言ったら驚くか?」
「え――」

 彼が出したのは、瑞穂にとってもっとも気になる母の名前。こうなると、聞かないわけにはいかなくなってしまう。

 膝が触れ合ってしまうことがないよう、瑞穂が寝台のできるだけ端に腰を下ろしたのを待ってから、玄はちらりと視線を床に――というか、列車の車輪が走る線路に?――落とした。

「大地を掘り起こし、時に山を削り川を埋めて線路を通すんだ。その地の神の中には、快く思わない者もいた。それを歌舞で宥めたのが瑞月だったんだ」
「まあ、そんなことが……」

 言われて、瑞穂はようやく気付く。

 確かに、鉄道は山も川も越えて都市と都市とを結ぶもの。神様のおわす場所を使わせていただくことになるのだし、この音や振動、人を乗せた列車が行き来することのうるささを嫌う方がいてもおかしくない。でも――

「歌や舞だけで、神様がたが許してくださったのですか?」

 神々は楽巫女の歌舞を喜ぶというけれど、その喜びはひと時のもの。長い時を生きる神々にとっては、瞬きの間にも満たない時間に感じられるだろう。もっと長年にわたって供物を収めるとか、そういうことが必要になりそうなものなのに。

「瑞月の声、瑞月のあらゆる所作には、神への敬意と人への思い遣りが満ちていた」

 瑞穂の疑問を予期していたのだろう、玄は滑らかに応えた。

「そもそも、人里近くに居を構える神は、人の営みを見守ってきた穏やかな者が多い。瑞月の舞は、鉄道によって栄える民の暮らし、その喜びや華やぎを神々に伝えたのだろう。そして、それを許した神への感謝も忘れることはない、と」

 玄の目の色は、窓の外の闇と同じ、深い黒。けれど、その漆黒の底に、星のような煌めきが宿っている気がして、瑞穂は見蕩れた。
 きっとそれは、瑞月の――母の歌舞が伝えた想い。おぼろな記憶に残る母のまなざしや微笑み、柔らかい声が湛えていたのと同じものだ。

(空も地も川も、そこに棲むものすべてが愛おしい……)

 では、あの言葉は真実のものだったのだ。神々の心をも動かしたのだから。少なくとも、過去のどこかの時点では、母はあの言葉通りに慈愛に溢れた人だったのだ。

「巫女とは、神と人の間を結ぶものだ。単に神を崇め奉り、贄のように歌舞や祈りを捧げるだけではなく、な」

 懐かしさと感傷に胸が締め付けられていた瑞穂は、玄が続けた声音の、どこか冷たい響きに身を乗り出した。

「贄だなんて、そんな――」

 神を讃えるのは当然のこと。喜んでいただくこと、そのための修行や献身や忠誠も。なのに、どうして神である玄がそんな突き放したもの言いをするのだろう。

(巫女は――いえ、私は巫女ではないけど! 私は――贄だなんて、思っていません)

 白玲山では、瑞穂は鵠への尊崇の念を表すことさえできなかった。昨夜は、玄に歌えと言われて偽りなく嬉しかった。そう、伝えたかったのに――瑞穂の胸に渦巻いた思いはあまりに大きくて複雑で、彼女の舌をもつれさせる。

「我らは、いずれ人間には不要の存在になるかもしれないな」

 瑞穂が想いを伝える言葉を見つけられないでいる間に、玄は寂しそうに吐息をこぼした。窓の外の闇が忍び寄ったかのように、彼の顔にも翳りが落ちている。

「人間は支配されるものではないし、加護を与えねば生きていけないほど弱くもない。特に近ごろの進歩がこれほどに目覚(めざ)ましいとあっては……」
「そんなことはありません!」

 弱音なんて、聞きたくなかった。玄には、常に強く凛としていて欲しかった。躊躇っている場合ではないと、瑞穂は言葉を紡ごうとしたのだけれど――

「そんな寂しいことは、どうか――きゃ!?」

 ちょうど、列車の進路が大きく曲がり、車内も大きく揺れた。玄のほうへ身体を傾けていた瑞穂はそのまま均衡を崩してしまう。

「……大丈夫か?」
「は、はい。も、申し訳ありません……」

 気が付くと、瑞穂は玄の腕の中に支えられていた。心配げに見下ろす彼の面には、もう先ほどまでの翳りは見えない。瑞穂をまた寝台に座らせながら、玄は少しだけ口の端を緩めていた。

「……人の世が変わろうと、人に求められ頼られるのを喜ぶ神も多い。俺もそのひとりだ。だから――今の言葉は嬉しい、な」
「畏れ多いことを申しました。私――」

 狭い個室の中、動く余裕なんてほとんどなかったけれど瑞穂は頭を下げようとした。けれど、玄の手が優しく押し(とど)める。

「……玄様?」

 瑞穂の姿勢が安定した後も、玄の手は彼女に触れたままだった。昨夜、今日の昼間と、抱き抱えられたり頭を撫でられたりと、馴染んでしまった温もりが、また傍にいる。

「瑞月は優れた楽巫女で、お前は確かにその血を引いていると思う。神さえ思い遣ることができる優しさが、とても似ている」

 そして、彼の言葉も温かく、瑞穂の胸にじんわりと染みていく。

「お前の歌も、素晴らしかった。俺に向けたものでなくても、山を越えてもはっきりと聞こえるほどに」
「……っ、は、はい。ありがとう、ございます……!」

 だから、玄は来てくれたのだ。勝手に逃げ出した瑞穂なのに、彼女の歌を聞きつけてくれた。彼女の歌だからこそ、彼に届いた――そう思って、良いのだろうか。

「とても、嬉しいです」

 玄の顔を正面から見ることなど、できるはずもない。俯いたままでどうにか絞り出した瑞穂の胸は、ひたすら喜びと恥ずかしさだけで満たされていた。帝都で待ち受けることへの不安は追いやられて――でも、こんなにどきどきしてしまったら、やはり眠ることはできそうになかった。