稲盛村に戻った玄と瑞穂は、ふたり揃って梓に説教されることになった。
「夜中に玄様がいらっしゃったのよ。瑞穂の歌が山の中から聞こえるのはどういうことか、って」
瑞穂だけでなく玄までも正座させて、梓は憤然として口を動かし続けている。お陰で、瑞穂は屋敷を抜け出た後に何があったかを知ることができた。
神楽寮の役人を連れた玄は、山ひとつ越えたところで宿泊していたという。明るくなってから出発して稲盛村に到着するはずだったところ、瑞穂の歌を聞きつけたため様子を確かめにきた、というのだけれど――
(そんな距離から、歌が聞こえたの? いくら本性は狼でいらっしゃるからって――それでは、ほかの物音もうるさくて仕方ないんじゃ……?)
瑞穂は、横目でそっと玄の様子をうかがった。悄然として目を伏せ、梓の怒りを受け止める彼は、雄々しい遠吠えで怪異を祓った強く美しい神様と同じ御方とはとても思えない。
(それに……たとえ耳が良いのだとしても。私の歌を聞き分けるなんて。おかしいと思って、駆けつけてくださるなんて)
怪異との戦いの中で、瑞穂に歌えと命じたのには、どんな意味があったのだろう。玄の耳には、彼女の歌はどう聞こえているのだろう。
とても、気になるのだけれど――面と向かって尋ねるなんて、恥ずかしくて恐れ多くてできそうにない。何より、今はよそ見することなく、梓の言葉をひとつひとつ噛み締めなければならない。
「もちろん、瑞穂さんなら寝ているはずですが、と言ったわ? でも、部屋を覗いてみたら、もぬけの殻じゃない! まったく、心臓が止まるかと思ったわ!」
「す、すみませんでした……」
ようやく口を挟む隙を見つけて、瑞穂はしょんぼりと謝罪の言葉を述べた。
すみません、ごめんなさい、申し訳ありません――水鏡郷では、何百回も何千回も口にして舌に馴染んだ言葉だけれど、こんな気持ちで紡いだのは初めてだった。
だって、梓は瑞穂に対して怒っているだけではないと、気付いてしまったから。梓の目は、涙に潤んでいる。声が大きくなっているのは、それだけ心配が大きかったことの現れだ。瑞穂の軽率な行いは、梓を驚かせ粟てさせ、悲しませてしまったのだ。
「私――梓様のお気持ちを、考えていませんでした。自分のことばかりで……」
瑞穂がいなくなって、誰かが死にそうなくらい胸を痛めてくれる、だなんて、まったく想像できなかったのだ。そんな人は、これまでいなかったから。どうしてのうのうと生きている、郷からいなくなれば良いのに。そんな言葉ばかり、浴びせられてきたから。
「……分かってくれたなら、良いわ」
瑞穂の反省が伝わったのか、梓は少し語気を緩めてうなずいてくれた。でも、次の瞬間にはきっ、と鋭く玄を睨みつけた。
「玄様も玄様です。それは、瑞穂さんの事情は詮索できないと思いましたよ? どう見ても、とても深いわけがあるに決まっていますもの。でも、玄様が何も説明していらっしゃらなかったなんて、思ってもみませんでした!」
そう――不思議なことに、梓の怒りは主に玄に向いているようなのだ。
(た、確かに、もっと説明してくださったら良かったけど……)
玄に対していっさい容赦しない梓の剣幕に、瑞穂はひたすら目を瞠る。
神様を叱る、だなんて水鏡郷ではあり得なかった。鵠と言葉を交わすだけでもこの上ない光栄と、誰もが考えていただろう。今の梓と同じことを鵠に対してやったなら、村人たちに叩き殺されても文句は言えない。
「いや、帝都に連れて行くとは言ったから……それで十分かと思っていたんだが」
でも、これもまた信じられないことに、玄は気まずそうに背を丸めて、ぼそぼそと言い訳するだけなのだ。
まるで、子供が祖母か母親に叱られているところのよう。見た目は若々しく美しくても、玄は梓よりもずっとずっと長い年月を生きてきたのだろうに。
「瑞穂さんは、着の身着のままだったではありませんか。着替えや食べ物、どこに滞在するか――気になることがいくらでもあるに決まっていますでしょう。まったく、いまだに人間の暮らしを分かってくださらないなんて!」
梓の言葉のひとつひとつにうなずきたいような。そんなことはありません、と玄を庇って差し上げたいような。でも、そんなことを言える立場ではないような。
「そんなに帝都が恐ろしかったか。真夜中に逃げ出すほど……あそこに帰りたいと思うほどに?」
と、梓と玄の間でおろおろと首を左右に振るだけで何も言えない瑞穂の顔を、玄はそっと覗き込んできた。眉を顰めた表情から、彼にとっては白玲山は良い場所ではないのだろう。鵠のことも、好きではないのかもしれない。
でも、あの場所は瑞穂の故郷。鵠は、大切な主だった。それに、何より――玄の真摯なまなざしに、その場しのぎの嘘を吐くことはできなかった。
「……は、はい。申し訳ございません、勝手な真似を……」
目を伏せ、震えながら。瑞穂はか細い声で答えた。玄の意に反することを述べた以上、怒りや呆れや失望の言葉が返るのだろうと、恐れたから。
「いや。確かに俺が悪かった。人は神を仰ぎ見るもの、敬いつつも恐れるものだ。……分かっていたはずなのにな」
そう、確かに。神は――玄は、綺麗で頼もしいけれど、同時に恐ろしい。あの鋭い牙なら、瑞穂の身体を苦もなく噛みちぎってしまえるだろう。でも、そんな御方が、申し訳なさそうに眉尻を下げている。取るに足らない――それどころか罪人の娘である、瑞穂に対して。
「玄様……」
重ねて謝罪すべきか、それとも、過分の心遣いに対して、感謝の言葉を述べるべきか。玄を見つめ、その名を呼んだきり瑞穂が続ける言葉を見つけられないでいると――三人のいた座敷の襖が、すっと開いた。
「お話し中失礼いたします。神楽寮の方々がお見えになりました」
声をかけてきた女性は、屋敷の使用人のひとり。瑞穂とも仲良くしてくれて、帰った時には梓と同じく泣きながら怒ってくれた人だ。玄と見つめ合う恰好の瑞穂を見て、口元を緩めた気がするのは――どういうことだろう。
(あ、あれ。近かった、かも……)
そういえば、玄が覗き込んできた分、下がらなかったのは無作法だったかもしれない。いくら背中に乗せてもらったり、抱きかかえてもらったりしたからといって、人間風情が神になれなれしくしてはいけなかっただろうに。
「ああ、追いついたか」
羞恥に熱くなる頬を押さえる瑞穂を余所に、玄はさらりと言った。同時に、襖を開けた女性のほうへ向き直ってくれたから、黒曜石のまなざしから逃れることができて、ほっとする。
ようやくまともに呼吸できるようになった瑞穂が顔を上げれば、女性の背後には数人の男性が控えていた。いずれも洋装をしているのが瑞穂にとっては物珍しい。さすが、帝都の役人ともなると近代的な服装をしているらしい。
「玄様。遅れまして申し訳ございません」
「いや、人間が俺に追いつけるはずもないからな」
入室する役人たちと、彼らに座布団や茶を出す使用人とが行き交って、座敷の中はにわかに狭苦しくなった。
「怪異の気配を嗅ぎ取ったとの仰せでしたが――やはり、例の?」
「ああ。黄泉の国の瘴気が地上に流れ込んできている。龍脈の乱れがいよいよ深刻だな」
その間にも、玄と役人たちは何やら深刻な話をするものだから、瑞穂は遠慮して座敷の隅に退いた。知らない人たちに気後れしたからでもある。でも――
「それでは、そちらのご令嬢が――」
話が一段落つくと、役人のひとりが瑞穂を視線で示しながら玄に尋ねた。息を潜めて口を噤んでいても、見逃してはくれなかったらしい。
「……ああ。白玲山から連れてきた娘だ」
「あ、あの。瑞穂と申します……」
玄から紹介されて、俯いているわけにはいかない。瑞穂は、声が震えないよう、お腹に力を入れて自らの名を名乗った。といっても、彼女は巫女ではないし、もはや水鏡郷の民かどうかも怪しい。
(罪人の娘、と……言ってしまったほうが良いのでしょうか……?)
視線で助けを求める瑞穂に、玄は小さくうなずいた。そのうなずきはいったいどういう意味なのか――疑問に思う間もなく、彼は役人たちに告げる。
「――瑞月の、娘ということだ」
母の名を聞いた役人たちは、揃って目を見開き、驚きの声をもらした。
「おお――」
「『あの』瑞月の!?」
「こんなところで……」
彼らの大仰な驚きようは、瑞穂も驚かせ、しかも怯ませた。
(母様は、帝都でいったい何を……?)
役人たちの誰もが、説明されるまでもなく母がどのような人だったか知っているとしか思えない。それは、母の罪を知っているということなのか、それとも……?
「怒られたばかりだからな、ちゃんと教える。ただ――実際に見た上で、のほうが分かりやすいだろうから。帝都に着くまで、少し待ってもらえるか?」
「は、はい」
と、瑞穂の顔と身体が強張ったのに気付いたのか、玄がぽん、と彼女の頭に手を置いてくれた。背の高い玄のこと、掌も大きくて――そして、温かい。
「ありがとう、ございます……!」
その温もりに励まされて、瑞穂はようやく言うべきことを口にすることができた。
「夜中に玄様がいらっしゃったのよ。瑞穂の歌が山の中から聞こえるのはどういうことか、って」
瑞穂だけでなく玄までも正座させて、梓は憤然として口を動かし続けている。お陰で、瑞穂は屋敷を抜け出た後に何があったかを知ることができた。
神楽寮の役人を連れた玄は、山ひとつ越えたところで宿泊していたという。明るくなってから出発して稲盛村に到着するはずだったところ、瑞穂の歌を聞きつけたため様子を確かめにきた、というのだけれど――
(そんな距離から、歌が聞こえたの? いくら本性は狼でいらっしゃるからって――それでは、ほかの物音もうるさくて仕方ないんじゃ……?)
瑞穂は、横目でそっと玄の様子をうかがった。悄然として目を伏せ、梓の怒りを受け止める彼は、雄々しい遠吠えで怪異を祓った強く美しい神様と同じ御方とはとても思えない。
(それに……たとえ耳が良いのだとしても。私の歌を聞き分けるなんて。おかしいと思って、駆けつけてくださるなんて)
怪異との戦いの中で、瑞穂に歌えと命じたのには、どんな意味があったのだろう。玄の耳には、彼女の歌はどう聞こえているのだろう。
とても、気になるのだけれど――面と向かって尋ねるなんて、恥ずかしくて恐れ多くてできそうにない。何より、今はよそ見することなく、梓の言葉をひとつひとつ噛み締めなければならない。
「もちろん、瑞穂さんなら寝ているはずですが、と言ったわ? でも、部屋を覗いてみたら、もぬけの殻じゃない! まったく、心臓が止まるかと思ったわ!」
「す、すみませんでした……」
ようやく口を挟む隙を見つけて、瑞穂はしょんぼりと謝罪の言葉を述べた。
すみません、ごめんなさい、申し訳ありません――水鏡郷では、何百回も何千回も口にして舌に馴染んだ言葉だけれど、こんな気持ちで紡いだのは初めてだった。
だって、梓は瑞穂に対して怒っているだけではないと、気付いてしまったから。梓の目は、涙に潤んでいる。声が大きくなっているのは、それだけ心配が大きかったことの現れだ。瑞穂の軽率な行いは、梓を驚かせ粟てさせ、悲しませてしまったのだ。
「私――梓様のお気持ちを、考えていませんでした。自分のことばかりで……」
瑞穂がいなくなって、誰かが死にそうなくらい胸を痛めてくれる、だなんて、まったく想像できなかったのだ。そんな人は、これまでいなかったから。どうしてのうのうと生きている、郷からいなくなれば良いのに。そんな言葉ばかり、浴びせられてきたから。
「……分かってくれたなら、良いわ」
瑞穂の反省が伝わったのか、梓は少し語気を緩めてうなずいてくれた。でも、次の瞬間にはきっ、と鋭く玄を睨みつけた。
「玄様も玄様です。それは、瑞穂さんの事情は詮索できないと思いましたよ? どう見ても、とても深いわけがあるに決まっていますもの。でも、玄様が何も説明していらっしゃらなかったなんて、思ってもみませんでした!」
そう――不思議なことに、梓の怒りは主に玄に向いているようなのだ。
(た、確かに、もっと説明してくださったら良かったけど……)
玄に対していっさい容赦しない梓の剣幕に、瑞穂はひたすら目を瞠る。
神様を叱る、だなんて水鏡郷ではあり得なかった。鵠と言葉を交わすだけでもこの上ない光栄と、誰もが考えていただろう。今の梓と同じことを鵠に対してやったなら、村人たちに叩き殺されても文句は言えない。
「いや、帝都に連れて行くとは言ったから……それで十分かと思っていたんだが」
でも、これもまた信じられないことに、玄は気まずそうに背を丸めて、ぼそぼそと言い訳するだけなのだ。
まるで、子供が祖母か母親に叱られているところのよう。見た目は若々しく美しくても、玄は梓よりもずっとずっと長い年月を生きてきたのだろうに。
「瑞穂さんは、着の身着のままだったではありませんか。着替えや食べ物、どこに滞在するか――気になることがいくらでもあるに決まっていますでしょう。まったく、いまだに人間の暮らしを分かってくださらないなんて!」
梓の言葉のひとつひとつにうなずきたいような。そんなことはありません、と玄を庇って差し上げたいような。でも、そんなことを言える立場ではないような。
「そんなに帝都が恐ろしかったか。真夜中に逃げ出すほど……あそこに帰りたいと思うほどに?」
と、梓と玄の間でおろおろと首を左右に振るだけで何も言えない瑞穂の顔を、玄はそっと覗き込んできた。眉を顰めた表情から、彼にとっては白玲山は良い場所ではないのだろう。鵠のことも、好きではないのかもしれない。
でも、あの場所は瑞穂の故郷。鵠は、大切な主だった。それに、何より――玄の真摯なまなざしに、その場しのぎの嘘を吐くことはできなかった。
「……は、はい。申し訳ございません、勝手な真似を……」
目を伏せ、震えながら。瑞穂はか細い声で答えた。玄の意に反することを述べた以上、怒りや呆れや失望の言葉が返るのだろうと、恐れたから。
「いや。確かに俺が悪かった。人は神を仰ぎ見るもの、敬いつつも恐れるものだ。……分かっていたはずなのにな」
そう、確かに。神は――玄は、綺麗で頼もしいけれど、同時に恐ろしい。あの鋭い牙なら、瑞穂の身体を苦もなく噛みちぎってしまえるだろう。でも、そんな御方が、申し訳なさそうに眉尻を下げている。取るに足らない――それどころか罪人の娘である、瑞穂に対して。
「玄様……」
重ねて謝罪すべきか、それとも、過分の心遣いに対して、感謝の言葉を述べるべきか。玄を見つめ、その名を呼んだきり瑞穂が続ける言葉を見つけられないでいると――三人のいた座敷の襖が、すっと開いた。
「お話し中失礼いたします。神楽寮の方々がお見えになりました」
声をかけてきた女性は、屋敷の使用人のひとり。瑞穂とも仲良くしてくれて、帰った時には梓と同じく泣きながら怒ってくれた人だ。玄と見つめ合う恰好の瑞穂を見て、口元を緩めた気がするのは――どういうことだろう。
(あ、あれ。近かった、かも……)
そういえば、玄が覗き込んできた分、下がらなかったのは無作法だったかもしれない。いくら背中に乗せてもらったり、抱きかかえてもらったりしたからといって、人間風情が神になれなれしくしてはいけなかっただろうに。
「ああ、追いついたか」
羞恥に熱くなる頬を押さえる瑞穂を余所に、玄はさらりと言った。同時に、襖を開けた女性のほうへ向き直ってくれたから、黒曜石のまなざしから逃れることができて、ほっとする。
ようやくまともに呼吸できるようになった瑞穂が顔を上げれば、女性の背後には数人の男性が控えていた。いずれも洋装をしているのが瑞穂にとっては物珍しい。さすが、帝都の役人ともなると近代的な服装をしているらしい。
「玄様。遅れまして申し訳ございません」
「いや、人間が俺に追いつけるはずもないからな」
入室する役人たちと、彼らに座布団や茶を出す使用人とが行き交って、座敷の中はにわかに狭苦しくなった。
「怪異の気配を嗅ぎ取ったとの仰せでしたが――やはり、例の?」
「ああ。黄泉の国の瘴気が地上に流れ込んできている。龍脈の乱れがいよいよ深刻だな」
その間にも、玄と役人たちは何やら深刻な話をするものだから、瑞穂は遠慮して座敷の隅に退いた。知らない人たちに気後れしたからでもある。でも――
「それでは、そちらのご令嬢が――」
話が一段落つくと、役人のひとりが瑞穂を視線で示しながら玄に尋ねた。息を潜めて口を噤んでいても、見逃してはくれなかったらしい。
「……ああ。白玲山から連れてきた娘だ」
「あ、あの。瑞穂と申します……」
玄から紹介されて、俯いているわけにはいかない。瑞穂は、声が震えないよう、お腹に力を入れて自らの名を名乗った。といっても、彼女は巫女ではないし、もはや水鏡郷の民かどうかも怪しい。
(罪人の娘、と……言ってしまったほうが良いのでしょうか……?)
視線で助けを求める瑞穂に、玄は小さくうなずいた。そのうなずきはいったいどういう意味なのか――疑問に思う間もなく、彼は役人たちに告げる。
「――瑞月の、娘ということだ」
母の名を聞いた役人たちは、揃って目を見開き、驚きの声をもらした。
「おお――」
「『あの』瑞月の!?」
「こんなところで……」
彼らの大仰な驚きようは、瑞穂も驚かせ、しかも怯ませた。
(母様は、帝都でいったい何を……?)
役人たちの誰もが、説明されるまでもなく母がどのような人だったか知っているとしか思えない。それは、母の罪を知っているということなのか、それとも……?
「怒られたばかりだからな、ちゃんと教える。ただ――実際に見た上で、のほうが分かりやすいだろうから。帝都に着くまで、少し待ってもらえるか?」
「は、はい」
と、瑞穂の顔と身体が強張ったのに気付いたのか、玄がぽん、と彼女の頭に手を置いてくれた。背の高い玄のこと、掌も大きくて――そして、温かい。
「ありがとう、ございます……!」
その温もりに励まされて、瑞穂はようやく言うべきことを口にすることができた。



