いわれなき罪で虐げられた巫女は、孤高の狼神の掌中の珠

「玄様、あ、あの。私――」

 瑞穂は、慌てて地面の上に正座してかしこまった。玄は、彼女を捕まえにきたに違いないと思ったから。誰にも気付かれずに抜け出したつもりが、早々に見つかっていたらしい。

(きっと、お怒りだわ……!)

 迎えを待て、という言葉に背いて、逃げようとした。しかも、神である御方に、捜索の手間をかけさせたなんて。厳しい叱責が降るのを覚悟して、瑞穂は首を縮めた。

「良かって良かった。心配したぞ……!」

 でも、狼姿の玄は、口を大きく開いて笑顔のような表情をしてみせた。鋭い牙が並ぶのが覗くけれど、なぜか怖いとはまったく思わない。

(心配……?)

 玄は、確かにそう言った。瑞穂の勝手な真似に怒るのではなくて? いったいどうして、瑞穂なんかをそこまで気に懸けてくださるのだろう。

 意外なほどに優しい言葉に瑞穂が戸惑っていると、また軋むような声が耳を擦った。

「ミコ。ウマそうナミコ。ヨコセ……!」

 瘴気が凝った異形も、瑞穂を追ってきたのだ。玄の姿を見ても戦意は衰えず、威嚇するかのように、歪な全身をさらに膨らませている。

「……あれは?」
「わ、分かりません。歌っていたら、現れて――」

 瑞穂の、説明にもなっていない説明を聞いて、玄は低く唸った。それが狼の笑い声なのだと、声の調子で分かる。

「確かに聞き逃しようのない歌だった。鵠よりも耳が良いらしい」
「玄様っ!?」

 軽口なのか、鵠への当てこすりなのか。それとも――瑞穂の歌を褒めてくれたのか。分からないまま、狼狽えた声を上げた瑞穂に構わず、玄は頭を低くして身構えた。

「黄泉の国の瘴気が、溢れてきたか。現世でここまで実体を持つとは」

 言われてようやく、瑞穂は思い出した。梓と話していた時にも胸を過ったこと。鵠の寝殿で、玄が語ったことを。

『……東雲の国を巡る龍脈の流れに、乱れが生じている』

 そして、各地で怪異や妖が騒がしい、とも言っていた。

(これが――でも、黄泉の国って?)

 龍脈は、大地を巡る力の流れ。それが乱れれば、地底深くにあるという黄泉の国と通じてしまうことでもあるのだろうか。

(でも、鵠様がいながら、どうしてそんなことに――)

 龍脈の要は、ひとつではない。白玲山以外にも、国の各所に存在する。そのどれかを守る神に、何かあったのだろうか。

 考えごとに気を取られかけた瑞穂は、けれど、異形と狼、ふたつの巨体がぶつかる鈍く大きい音に我に返り、首を竦めた。

 玄の鋭い牙が、黒い泥の塊のような化物に突き立てられる。玄が大きく首を振ると、化物の身体は千切れ、飛び散った破片が湿った音を立てて地面に落ちた。
 でも、少し身体を削られたくらいでは化物の勢いは止まらない。むしろ、食い千切られたところをさらに凹ませて、玄を取り込もうとする。

「玄様……!」

 玄が太い前足で殴っても、化物の泥状の身体にはさほどの痛手ではないようだった。玄の艶やかな毛並みが粘つく泥で汚されるのを見て、瑞穂は悲鳴を上げる。と、黒い狼は首を巡らせて彼女のほうを見た。

「歌ってくれ。さっきの歌を、俺のために」
「歌、って――な、なぜですか……?」

 問いかけへの答えは、与えられなかった。化物はさらに変形し、玄の頭を包み込もうとしたから。それを避けつつ噛みつく隙を探すのに忙しくて、言葉を発する暇はないのだろう。

(なぜかは分からない、けど……!)

 命じられたら、断る選択肢を瑞穂は持たない。しかも、玄の望みは彼女に取って嫌なことでも苦しいことでもまったくない。歌っても良い、と言われるのは初めてのことで――そして、こんな状況ではあるけれど、とても嬉しいことだった。

「鏡山 呼ばうなる声すなり 声すなり 世に栄ゆべき 影ぞみゆらし……!」

 だから、瑞穂はお腹に力を込めて、喉を震わせた。山中の鳥も獣も起きれば良い、という気持ちで、声を張り上げた。

 瑞穂が歌い終えるか否かのうちに、戦いの形成は明らかに逆転した。

「ギッ、ギぃ――ギャアアアァッ」
「ゥアオーーーオォン」

 化物の声は、もはや意味をなさない悲鳴と唸り声の混ざったもの。そして、玄の遠吠えは、気の早い勝どきの声だった。

 玄の気迫のこもった声に圧倒されたかのように、黒い毛並みを包み込もうとしていた粘液が、じわりと後退する。その隙を逃さず、玄の牙が粘液の奥の奥まで潜り込む。

 どろりとした化物の見た目にそぐわない、ぱきん、という音が聞こえた。硬い何かが砕け散ったような音が。

「ギャ――」

 ひと際高い悲鳴を上げて、化物の身体はどろりと溶け崩れた。見あげるほどの巨体がみるみる縮んでいく。崩れ落ちる巨体から、玄が素早く飛びのくと、形を保てなくなったらしい粘液があたりに飛び散った。

 そして――ほんの数秒の後には、山には本来の夜が戻っていた。暗く恐ろしくても、地上の普通の生きものたちが息づく、ただの山の夜に。

 先ほどまで違うことがあるとしたら、ただひとつ。

「瑞穂。無事か? 怖かっただろう……!」

 瞬く間に人の姿に戻った玄の、神々しさと凛々しさだ。神様は自ら光を放つというのか、夜明けはまだだというのに、整った顔も、そこに浮かべた優しい笑みも、瑞穂の目にはっきりと映る。

「は、はい」

 呆然として答えてから――瑞穂は、地面にへたり込んだままだったことに気付いた。神様と対するのに、なんて失礼な恰好だろう。

「す、すみません。私……!」

 今のこの恰好も、そもそも逃げ出したことも。謝らなければいけないことばかり。玄も、問い質したいことが山ほどあるだろうに。

「立てないか。では、村までこうして運んでやる。狼の姿は、恐ろしいだろう」
「玄様……!?」

 なのに、玄は無造作に瑞穂を抱え上げた。戦いの疲れなんて欠片も見せず、泥だらけであろう彼女を、躊躇いなく。

「お前の歌がなければ、もっと苦戦していただろう。礼を言う」
「い、いえ……そんな……」

 瑞穂の足が、宙に浮いている。頬を寄せることになった玄の胸は逞しく温かく、ささやかれる言葉はとても近い。

(御礼……!? 私なんかに、なぜ……?)

 御礼を言われるなんて、瑞穂にとっては初めてのことかもしれない。水鏡郷の人々からももらえなかった言葉を、会ったばかりの神様にいただいてしまうなんて。それも、歌のことで!

「私の、歌……なんて」

 いつもの謙遜を口にしようとした時、空にまばゆい光が射した。いつの間にか、夜明けが近づいていたらしい。太陽はまだ上り切っていなくても、山の稜線は赤く染まり、美しい朝焼けが夜の闇をはらいつつある。

 その、最初の光に照らされた玄の顔の、輝かしいこと。そして、瑞穂を見下ろす眼差しの優しいこと。

「わ、私……っ」

 わけの分からない恥ずかしさに襲われて、瑞穂は玄の胸に顔を埋めた。
 心臓は、梓の屋敷を抜け出した時や化物と対峙した時よりもずっとずっと速く脈打っている。破裂しそうな胸を押さえるのに精いっぱいで、村に着くまでの間、彼女は何も言うことができなかった。