透明な夏

「おはよう」
「おはよう」
 真純の落ち着いた声を教室で聞いたのは数年振りだった。目の下のクマも消え、コケていた頬が少しずつもとの肉付きに戻り始めている。あれから一週間。可純の気配がなくなった。
 あの日はその後、俺は真っ直ぐ家に帰った。玄関で緊張の糸が解け、その場で崩れ落ちたため、母さんは酷く心配した。最終的に行き渋る俺を無理矢理車に乗せ、病院に連れて行かれた。ほんの少し、可純がまた悪さでもしてるのかと疑ったが、医者曰く軽度の熱中症だと診断された。
 真純には事の顛末を伝え(流石に最後の会話を詳しくは伝えてはいないが)、近いうちに可純の墓参りを約束した。電話口で心配そうに俺の話を聞く真純だったが、何事もなく終わったことに安堵していたようだ。無理もない、自分に起きたことが俺に起きるかと思っていたようだった。一人で部屋に残された真純は色んな葛藤をしたのだろう。だが、真純の心配杞憂に終わり、何事も無かったかのように平穏な日常が戻ってきた。
 変わった事といえば、真純の様子だった。復帰早々真純の顔色や態度が急に変わり、教室が騒ついた事だった。急な変化に対応できないクラスメイトが全員構えに構えるぐらいで、真純は何も気にせず貫いた。そんな真純にクラスが馴染むまで時間が掛からなかったし、夏休み明けに開催される文化祭の出し物の意見出しには、率先して参加していた。
 全部、終わった。平穏な日常に戻ったはずだ。真純にとっては良い事だし、可純もあれ以上ここに執着して取り返しのつかない状態にならずに済んで良かったのだと思う。なのに、俺は胸にぽっかり穴が開いてしまい、溜息が増えた。気が付いたらぼうっとして何もない空間をじっと見つめている。ハッとしてもまた直ぐに気の抜けた状態に戻った。身体は元気そのものなのに、気持ちがついていけない。森田や星野と話していても、前のように会話は弾まなくなった。

「今度はお前が塞ぎ込む番かよ」
 ある昼休み、教室で真純が心配そうな顔で声をかけてきた。弁当を持って俺の机に置いたため、昼休み中は逃がさないと言われているようだった。
「……別に。ピンピンしてるって。食欲だってあるし、咳もなければ熱もない」
 カバンから弁当を取り出しながら俺は答える。
「そういう話をしてるんじゃない。自分でも分かってるんだろ?昨日、見たぞ。芦沢神社の階段ぼーっと眺めてるとこ」
 痛いところを突かれ、俺は真純から目を逸らす。
「そんなに気になるなら行って確かめたら良いだろ。俺のとこにはもう来ないだけで、まだ残ってるかもしれない」
「そんな……だいたい、居ても困るだろ?お前初詣も行けねぇじゃん」
「もう全然平気。恵大を盾にすりゃ怖くないね」
「俺を売るな、俺を」
 ただ少し体調が悪いだけだ、と言って追い払おうとしたが真純はしつこい。こういうところは兄弟そっくりだと思う。
「いいから行けよ。何かあったら今度は俺が助ける。絶対、同じ目には遭わせない」
 さっきまで冗談を言っていた顔がすっと引き締まり、真面目な表情をする。そういうのずるいだろって。
「……分かった」
 渋々そう答えると、真純は「何もないが普通だから」と肩をポンと叩く。本当に昔の真純に戻ったのだと、実感する。数ヶ月前の真純の口からはこんなセリフが出てくるなんて考えられなかった。それに内心、後押しされたことが嬉しかった。神社に行く理由を探していたのは間違いない。ただ、真純に何も言わず自分の意思だけで神社に向うのは、良くないと思っていた。


 放課後、コンビニでソーダアイスを一本買った。二本買うか悩んだが、真純言った「何もないが普通」が頭の中に過ぎり、手に持ったもう一本をアイスケースに戻した。
 相変わらず神社へ続く石階段にくると気温差に驚いてしまう。木々の揺れる心地よい音に耳を傾け、俺はゆっくりと階段を上った。
 最後の階段を上がり切り、鳥居をくぐる。ひんやりとした冷たい空気が気持ちいい。あたりをぐるりと見渡すが、誰かがいる気配もない。あの時までなら、鳥居をくぐるとすぐに可純が目に入ったというのに。
 俺は可純と座ったベンチに腰掛け、アイスのパッケージを開けた。涼しげな甘い香りが鼻をくすぐる。取り出して溶け始めているのを確認すると、俺は慌てて齧り付いた。甘酸っぱくて冷たいソーダの味が口いっぱいに広がる。まだ凍っているところが唇に張り付いたり、下から滴り落ちそうになったりと、忙しい。隣で笑う声もない。甘くて好きな氷菓子を一人で噛み締める。視界が歪み、目頭が熱くなった。溢れ出した涙を拭う事もままならず、溶けていくアイスと戦った。
「……あ」
 中心刺さった棒の全体が見え始め、気がついた。
「……五十分の一、今来るのかよ」
 明言のされていない確率を独りごち、鼻を啜る。目に溜まった涙はまだ溢れきれておらず、最後の最後に嗚咽が漏れた。神社の空を覆う木々がわさわさと風に揺らされ音を立てた。なんだか誰かに笑われている気がして、俺は涙を拭う。手の届かない相手を恋しく、愛おしく思うのがこんなにも辛い事かと、ようやく分かった気がした。