昨晩は全く眠れなかった。また可純の声が家の中で聞こえたらと思うと、気が気ではなかったが、家族に心配はかけたくなくて俺はとにかく普通に過ごす事を心がけた。しかし、結局朝になったところで顔色は酷く、目も充血しているのを見られ、母さんに「一日ぐらい休んでも罰は当たらないわよ」と言われ学校を休んだ。幸いな事に、母さんのパートも休みらしい。きっと、この家に俺以外の誰かが居ると入って来れないのだろう。可純の声は全く聞こえなかった。流石に俺の勘違いかもしれないと思ったが、やっぱりあれはハッキリと聞こえていた気がする。でも、まさか。今時変な体験は誰だってしている気がする。SNSを開けば、恐怖体験談なんて五万と見るのだ。きっとそうだ、可純の話を聞き違えたのだ。暑さのせいで変な解釈をし、おかげで家で幻聴まで聞こえた。現に今は頭痛と眩暈が酷い。この不調は全部寝不足のせいだけではないだろう。色んな理由をとにかく並べ、俺は午前中、昨晩の睡眠を取り戻すかのように寝入った。そうしないと、冷静さが保てず、今にも発狂してしまいそうだった。
昼食は黙って素麺を食べた。あんまりにも黙っていたせいか、母さんが「夜は唐揚げでもつくろうか?」と、俺の好物を提案してくる始末だ。夏に揚げ物のリクエストをすると、文句しか返って来ないのがデフォルトだったというのに、それだけ俺が酷い顔をしていたのだろう。俺は首を横に振って「あるもので良い」と答えてから使った食器をシンクに移動させると、また部屋に篭った。
部屋に戻り、ベッド上に放置していたスマホを拾い上げた。メッセージ受信の通知が二件。一件は森田からで、体調を案じるものだった。そしてもう一人の送信者に俺は画面スクロールの手を止めた。
「……真純」
その名前を口にした瞬間から、心臓はまた激しく反応を示す。落ち着こうと深呼吸をしたが、指が震えた。恐る恐るメッセージを開くと『今日の放課後、家に来て欲しい』という短い文章だった。昨日の今日でこのメッセージが届いたのはどういう意図だろうか。急に緊張感が走る。肩に力が入り、スマホを持つ手が震えた。冷房の効いた涼しい部屋の中で身体中の毛穴から発汗し、部屋の中で心臓の音だけが響き渡っている錯覚に陥る。俺は深呼吸を数回繰り返し、震える手を何とか抑えてメッセージを入力した。
『今日は学校休んでる。今からでもいけるけど、どうすればいい?』
送信をし、深く息を吐いた。真純の家は俺の家から三軒先だ。数分もせずに辿り着いてしまう。こんなメッセージを送っておいて、今更二の足を踏む。だが、返事がすぐ来るかも知らないと思い、とりあえず部屋着を脱ぎ着替え始めた。すると、ポコンというメッセージ受信音がし、俺は一呼吸置いてからゆっくりメッセージを開いた。
『じゃあ、今からでもいい?』
ゴクリと唾を飲み込んだ。真純からの連絡に構えてしまう自分が不思議でならなかった。昨日までの俺なら喜んで行っただろうに、足が重い。母さんになんて言おうかと、理由を考えるのが面倒で適当にノートを数冊手に取った。休んでいた間のノートを貸して欲しいと言われたことにでもしよう。冷房を切って部屋を出ると、その物音に反応した母さんが階段下から俺を呼ぶ。
「どこ行くの?」
「……真純のとこ。ノート、貸して欲しいって」
考えたばかりの言い訳を口にする。母さんはやはり何も言わずに「そう。体調悪いんだから、遅くなっちゃだめよ」と言った。体調が悪いのはどちらのことを指しているのだろうか。だが、母さんに真純が学校に来てないことを話していたかが思い出せない。俺は適当な返事をすると、サンダルを突っ掛け家を出た。
三軒先の真純の家に行くだけなのに、地面からの照り返しだけで汗だくになりそうだった。むわっとした空気から早く消えたくて、真純の家の前に着くとインターフォンを躊躇なく押した。
『……はい』
か細い声が聞こえ、直ぐに真純だとわかった。
「……あ、えと……恵大、です」
返事が終わると同時にガチャンという音がして玄関のドアが開く。部屋から漏れた冷気が俺の肌を撫で、外の暑さを一瞬で忘れさせた。
「……久し、ぶり」
目の前に現れた真純を見て、俺はギョッとした。頬はこけ、以前も痩せていたはずの身体が更に痩せている。目の下はクマが酷く、真っ黒だ。その様子に絶句していると、真純は玄関のドアを閉めた。途端にあたりが真っ暗になる。
「……中、入って」
「あ、うん……おじゃまします」
言われるがままに靴を脱ぎ、真純の後を追って二階へ上がった。その時気がついた。真純のあの酷く続いていた咳が出ていない。もしかしたら、もう先週ぐらいには良くなっていて、今日までは様子見だったのかもしれない。そんな事を考えながら通された部屋へ入った。部屋は若干昔と置いてある物が変わったぐらいで、雰囲気は全く変わっていなかった。
「咳、治ったんだな」
「……あぁ、あれね。風邪じゃないし」
真純は座っていいよ、と俺に自分の机の椅子を差し出してお茶を持ってくると言い部屋から出ていった。俺は勧められた通り椅子に腰掛け、部屋を眺める。本棚に並べられた懐かしい漫画本の横には、よく神社で遊んだカードゲームのカードが綺麗なスリーブに入れられ飾られている。
「それ、なに?」
部屋に入り、麦茶の入ったグラスを机に一つ置きながら真純が俺に尋ねた。
「あぁ、授業のノートだよ。母さん誤魔化すために持ってきた。一応置いてく」
「……そっか。ありがとう」
「うん」
沈黙が二人の間に流れる。真純の家で二人きりなのは初めてではない。昔もこうやって真純の部屋に来て、勝手に真純の椅子に座り漫画を読んでいたこともあった。なのに、嫌な緊張感が流れ、俺はそわそわと目線を色んなところへ向けてしまう。
「……あのさ、俺……お前に言ってない事、あって」
先に口を開いたのは真純だった。心なしかその声が震えている。
「今更だろ。お前、最近まで地方いたんだし」
「……それ。その地方に行った理由、ちゃんと言ってないだろ」
心臓がドクンと脈を打つ。聞くのが一瞬怖くなった。
「いやいや、それはちゃんと聞いてるって。おばさんの具合が悪くなったからだろ?」
真純は一瞬黙り込み、首を横に振った。
「それだけじゃ、ない」
そして手に持っていたグラスの麦茶を一口飲むと、下を向き、震えた声で言った。
「……俺が、兄ちゃんを……死なせたから」
心臓がまた強く脈を打ち、喉のあたりが熱くなるのを感じた。
「……待て、死なせた……?いや、その前にお前今……兄って」
俺が困惑しているのも無理はないという顔で真純はゆっくり頷く。
「俺には、六つ上の兄がいたんだよ。恵大は、知らなかったかも……。父さんの連れ子で、なんていうかその……母さんが少し、敬遠しがちで。俺は兄ちゃんのこと好きだったけど、母さんがよく思わないってのは何となく察してたから、兄弟の話は外でしなかったんだ」
真純がいうには、兄の母親は他界し、その数年後に真純の母親と結婚したらしい。ただ、母親と出会った当初の兄は、聞き分けもよく、絵に描いたような良い子だったせいで、真純の母親とは上手くいっているようで、見えない壁があったという。
「それを埋めていたのは自分でいうのもなんだけど、俺で。父さんが兄ちゃんの名前と同じ文字を付けて名付けたところから、母さんの態度は変わったみたい」
少し頬を緩めそう話す真純に、俺は恐る恐る聞いた。
「……兄ちゃんの、名前って……」
もしかして、と言いかけた俺に被せ、真純が答えた。
「可純っていうんだ。七年前に、俺のせいで……死んだ」
共働きの両親にかわり、小学生の真純の面倒を見ていたのは兄の可純だった。小学校低学年のうちに生まれた弟を可愛がるのは当然だと思い、彼の中に小さな正義感もあったのだろう。嫌がることもなく、率先して弟の面倒を見ていたらしい。真純に物心がつく頃、可純の生活も変わっていった。小学校の高学年になると学校のクラブ活動でソフトテニスクラブに所属し、中学に入ればもっと部活中心の生活になった。ただ、その頃になると、真純には恵大という仲の良い友達もおり自宅以外で真純を気にすることは殆どなくなっていた。高校受験を控えた年は塾に通い始め、真純とはすれ違う生活も増えていた。だが、家で顔を合わせれば仲の良い兄弟で、勉強も分からないところは真純が分かるまで付き合ってくれるような優しい兄だった。だが、そんな日々は突然終わってしまった。
その日は可純の高校入学式の日だった。可純が進学したのは近くの進学校で、新入生代表挨拶に選ばれる成績の持ち主を兄に持ち、小学生ながら真純は兄を誇らしく思っていた。
「今日は入学式が終わったらすぐ下校だから、神社で待ち合わせしよう。今日のお昼は僕が作るから」
「うん、わかった!俺も真っ直ぐ帰ってくる」
真純は両親と駅へ向かって歩く兄の後ろ姿を見送った。
始業式と新しいクラス発表が終わると、真純は兄と待ち合わせしている芦沢神社へ急ぎ向かった。当時、学童に通っていた真純も中学年になったので学童を卒業し、その日は夕方から習い事に行くになっていた。帰宅途中、塾の宿題で分からないところがあったのを思い出した。昼食の後に兄に聞けばいいか、と考えながら通学路を歩いていた。
程なくして神社が近づくと、境内へと続く石階段に腰掛け、読書をしている男子学生が一人見えた。
「あ、兄ちゃん!」
兄の姿が見え、真純はその場から走り出した。学童を卒業し、初めての放課後。しかも兄がこれから昼食を作ってくれるという。始業式で校長の話を斜め聞きするぐらい、楽しみで仕方なかった。可純が真純に気が付き、本から顔を上げた。その場ですぐに立ち上がり真純へ何か伝えようと叫びながら石段を降りてくる。持っていた本はその勢いで放り投げられ、真純の意識はそちらへ向いた。兄の珍しい行動に、真純は自分の帰りを楽しみにしていたのだと、そう思いこんだ。そして、サッカーで鍛えた俊足で神社へと勢いよく駆け込んだ。
その時だった。
「待て、止まれ!真純っ!」
悲鳴にも近い兄の声がはっきりと聞こえた。止まれと言われても勢い余って止まることが出来ず、やっと兄が叫んでいる意味が分かった時は目の前が地獄と化していた。
止まる様子のない真純へ駆け寄った兄は、向かい側から真純を突き飛ばし、真純の死角から進行して来た自動車に跳ねられて数メール離れたところへ飛ばされていた。
真純が話し終えても俺はすぐに口を開くことが出来ず、殆ど放心状態だった。入って来た情報の処理がままならず、息をするのがやっとだ。
「……兄ちゃんは俺のせいで死んだんだ。そのショックが強くて、母さんと地方に引っ込んだんだ……」
真純が乾いた笑いを浮かべる。高校で再会してからもほとんど合わなかった視線は、この話をし始めてからもっと合わなくなった。
「……それで、恵大に話したいのはここからで」
ゴクリと唾を飲む。口の中が乾いているのが分かって、貰った麦茶を一口飲んだ。
「待てよ……本当に、今……可純って、え……じゃあ俺……どういうことだよ……」
俺は文字通り頭を抱えた。
「……何かの間違いだろ……?たまたまお前の兄ちゃんと偶然同じ名前の人物と俺が出会っただけで、真純の兄貴とは全く別の……」
そこまで言いかけて、俺は昨日可純の言葉を思い出す。
『大事な弟の名前、忘れる兄がどこにいるのさ?』
顔面から血の気がサーっと引いていくのを感じた。やっと目が合った真純は憐れむように俺を見て首を横に振った。
「実は……こっちに帰ってきて、ずっと兄ちゃんが俺の周りを彷徨いている」
「……は?」
「言っただろ、教室が苦手だって……。俺、入学式からずっと視えていたんだ」
真純の声が震え出す。手に持ってたグラスの麦茶が波打った。
「入学式の日に気がついたんだ。教室に入った途端の空気が気持ち悪くて、肩に何か重いものが急に乗っかってきたみたいな感じがして……。何だろうって思った時、視界には兄ちゃんそっくりの人がぼうっと立っていた。他人の空似かもって思ったけど、そうじゃなかった。兄ちゃんはずっと俺をじっと見ていた。だって、おかしいだろ?入学式で、しかも教室で知り合いに会ったらお前みたいに普通は声かけてくるもんだし……でも兄ちゃんはただ、教室の後方で俺をじっと見ているだけだった」
真純は額に手を当てた。おかしな話をしている自分を認めなくない様子が見えて、俺は黙って話の続きを聞いた。
「その日から、毎日毎日……教室が地獄だった。怖かった。やっぱり恨まれているんじゃないかって、ずっと考えてた。俺が人生を奪った原因だし……何より兄ちゃんは入学式以降、高校生活を送ったことがない。俺ばっかりが人生を進められていることに、不満があっても仕方ないだろ……?だから何かされる前に逃げたかった。でも、せっかく父さんがまた皆んなで暮らしたいって言ってくれて、母さんにも余裕が少しずつ見えてきた時だったから……俺の中に学校に行かない選択肢はなかった」
その話を聞いて、俺は納得した。毎時間、授業が終わると教室から逃げるように出ていくのは、そのせいだったのかと。芦沢神社を避ける理由も、やっと理解できた。
「……話してくれても良かったのに」
その一言に、真純は顔を上げた。
「話したとして、信じたか?」
「……それは」
本心で言ったつもりだったが、信じられたかと聞かれれば、絶対ノーだろう。地方で何かあって、そのショックでおかしくなったと思っても仕方ない。そもそも兄がいたことすら把握していなかったのだ。事情を聞いてもそれをすぐ信じることはできなかったと思う。
「……だから言わなかった」
「だよな……悪い」
真純は首を振る。
「でも、そうは言っていられなくなった。神社に寄り道を誘われた時、俺断っただろ……」
俺は黙って頷いた。あの後、一人で神社へ行き、可純と出会ったのだ。
「あの時、ちゃんと言えば良かったって後悔してる……。理由話して、恵大も遠回りさせて帰れば良かったって」
申し訳なさそうに、真純は言った。
「あの時も……神社の石階段から兄ちゃんが立っているのが視えていたんだ……」
あぁ、だから……。真純の不審な行動理由の意味が分かり、気になっていた靄がまた一つ晴れる。
「本当に……ごめん」
「いや、別に謝ることなんてないだろ……」
たぶん。そう、別に悪いことをしたようには思えない。確かに、真純には可純が視えていたかもしれないが、あの時言われたって全部飲み込めていないだろう。それでも、真純はやはり強く「そんなことない」と言った。
「あの次の日から、教室に現れる兄ちゃんは俺だけじゃなくて、恵大も見ていることが多くてなっていったんだ……」
段々と尻切れになる真純はそのまま項垂れる。俺は奥歯を噛み締めた。驚きと戸惑いで心臓が再びうるさく鳴り始める。ただ、今朝まで感じていたはずの恐怖心が段々と薄れている気がした。
「……可純が、俺を……」
口にすると心臓がドクンと高鳴った。不思議な感覚だった。そしてふと、思い立ち、俺は出された麦茶を一気に飲み干して椅子から立ち上がった。
「恵大……?」
「……話してくる」
「……え?待てよ、もしかして今の話聞いて神社に行くのか?」
真純が俺の手を掴んだ。
「駄目だ、絶対に駄目だっ!お前、俺を見てただろ……?体調だっておかしくなって、何も食べられないぐらいに咳が出て、立つことだってやっとになって……身体に影響が出たんだぞ?絶対駄目だ、然るべきところに相談した方が絶対に良いに決まってる!」
真純の掴む力が強く、俺の顔が歪む。
「そりゃ言ってることはわかるけど」
「なら!」
「でも、もうお前ピンピンしてんだろ。あんなに酷かった咳一つしてないじゃねぇか」
「それは……!」
一瞬、真純が怯み、腕の力が弱まった。その隙に真純の手を振り切ると、体幹まで弱った真純は簡単によろけてその場に倒れ込む。罰の悪そうなその表情に、まだ何かを隠していることを感じ、俺は眉を顰めた。
「……まだ、何か俺に黙ってることあるんだろ」
沈黙は肯定と同じだ。真純は視線を逸らしたまま、小さな声で「行かなきゃ良い……」と呟いた。
「何を隠してる」
「……行かなければ済むことだから」
頑なに何も言わない真純に腹が立った。
「お前さ、俺の身なんて別に案じてないだろ」
しゃがみ込んで、真純の顔を覗き込む。
「そんなこと!」
「なら言えって」
真純は泣きそうな顔で首を再び振った。埒が開かない。俺はむしゃくしゃして髪を掻きむしった。すると、俺の苛立ちに真純は根負けしたのか、奥歯を噛み締め、泣くのを堪えているような情けない顔で口を開いた。
「昨日の、晩だよ……兄ちゃんがこの部屋に来て言ったんだ。『大事な人ができたから、全部返す。その代わり、欲しい物はもらっていくね』って」
可純はそう告げると、部屋から消えて真純の原因不明の咳も発熱も全てぴたりと消えたと言った。
「だから、恵大は行っちゃ駄目なんだ……兄ちゃんの次のターゲットはもう、お前しかいないんだよ!」
俺は絶句したまま唇を噛み締めた。そして、わざとらしく大きく深い溜息を吐く。
「別に良いよ」
「……は?」
真純は目を丸くした。すると、立ち上がって話を聞いていたかと捲し立てるように大きな声で騒ぎ出した。
「聞いてたし、お前の気持ちも十分わかった」
「じゃあ、なんで!」
「可純も俺の友達だから」
真純は目を丸くする。幽霊を友達と言い切ったのはなんだか気恥ずかしいが、間違えたことは言っていない。
「だからまず、その友達の話を聞いてやることにした。お前にしたように」
「……聞いて、どうにかなったらどうすんだ」
「そん時は……。そうだなぁ、めちゃくちゃ有名なお祓い師探して来てよ」
「……ふざけんな」
真純は納得していないようだったが、それ以上俺を止めるようなことは言わなかった。
俺は真純の家を出ると、その足で芦沢神社へと向かった。太陽は少しだけ翳り、さっきまでの刺さるような暑さが緩和されているような気がした。
昼食は黙って素麺を食べた。あんまりにも黙っていたせいか、母さんが「夜は唐揚げでもつくろうか?」と、俺の好物を提案してくる始末だ。夏に揚げ物のリクエストをすると、文句しか返って来ないのがデフォルトだったというのに、それだけ俺が酷い顔をしていたのだろう。俺は首を横に振って「あるもので良い」と答えてから使った食器をシンクに移動させると、また部屋に篭った。
部屋に戻り、ベッド上に放置していたスマホを拾い上げた。メッセージ受信の通知が二件。一件は森田からで、体調を案じるものだった。そしてもう一人の送信者に俺は画面スクロールの手を止めた。
「……真純」
その名前を口にした瞬間から、心臓はまた激しく反応を示す。落ち着こうと深呼吸をしたが、指が震えた。恐る恐るメッセージを開くと『今日の放課後、家に来て欲しい』という短い文章だった。昨日の今日でこのメッセージが届いたのはどういう意図だろうか。急に緊張感が走る。肩に力が入り、スマホを持つ手が震えた。冷房の効いた涼しい部屋の中で身体中の毛穴から発汗し、部屋の中で心臓の音だけが響き渡っている錯覚に陥る。俺は深呼吸を数回繰り返し、震える手を何とか抑えてメッセージを入力した。
『今日は学校休んでる。今からでもいけるけど、どうすればいい?』
送信をし、深く息を吐いた。真純の家は俺の家から三軒先だ。数分もせずに辿り着いてしまう。こんなメッセージを送っておいて、今更二の足を踏む。だが、返事がすぐ来るかも知らないと思い、とりあえず部屋着を脱ぎ着替え始めた。すると、ポコンというメッセージ受信音がし、俺は一呼吸置いてからゆっくりメッセージを開いた。
『じゃあ、今からでもいい?』
ゴクリと唾を飲み込んだ。真純からの連絡に構えてしまう自分が不思議でならなかった。昨日までの俺なら喜んで行っただろうに、足が重い。母さんになんて言おうかと、理由を考えるのが面倒で適当にノートを数冊手に取った。休んでいた間のノートを貸して欲しいと言われたことにでもしよう。冷房を切って部屋を出ると、その物音に反応した母さんが階段下から俺を呼ぶ。
「どこ行くの?」
「……真純のとこ。ノート、貸して欲しいって」
考えたばかりの言い訳を口にする。母さんはやはり何も言わずに「そう。体調悪いんだから、遅くなっちゃだめよ」と言った。体調が悪いのはどちらのことを指しているのだろうか。だが、母さんに真純が学校に来てないことを話していたかが思い出せない。俺は適当な返事をすると、サンダルを突っ掛け家を出た。
三軒先の真純の家に行くだけなのに、地面からの照り返しだけで汗だくになりそうだった。むわっとした空気から早く消えたくて、真純の家の前に着くとインターフォンを躊躇なく押した。
『……はい』
か細い声が聞こえ、直ぐに真純だとわかった。
「……あ、えと……恵大、です」
返事が終わると同時にガチャンという音がして玄関のドアが開く。部屋から漏れた冷気が俺の肌を撫で、外の暑さを一瞬で忘れさせた。
「……久し、ぶり」
目の前に現れた真純を見て、俺はギョッとした。頬はこけ、以前も痩せていたはずの身体が更に痩せている。目の下はクマが酷く、真っ黒だ。その様子に絶句していると、真純は玄関のドアを閉めた。途端にあたりが真っ暗になる。
「……中、入って」
「あ、うん……おじゃまします」
言われるがままに靴を脱ぎ、真純の後を追って二階へ上がった。その時気がついた。真純のあの酷く続いていた咳が出ていない。もしかしたら、もう先週ぐらいには良くなっていて、今日までは様子見だったのかもしれない。そんな事を考えながら通された部屋へ入った。部屋は若干昔と置いてある物が変わったぐらいで、雰囲気は全く変わっていなかった。
「咳、治ったんだな」
「……あぁ、あれね。風邪じゃないし」
真純は座っていいよ、と俺に自分の机の椅子を差し出してお茶を持ってくると言い部屋から出ていった。俺は勧められた通り椅子に腰掛け、部屋を眺める。本棚に並べられた懐かしい漫画本の横には、よく神社で遊んだカードゲームのカードが綺麗なスリーブに入れられ飾られている。
「それ、なに?」
部屋に入り、麦茶の入ったグラスを机に一つ置きながら真純が俺に尋ねた。
「あぁ、授業のノートだよ。母さん誤魔化すために持ってきた。一応置いてく」
「……そっか。ありがとう」
「うん」
沈黙が二人の間に流れる。真純の家で二人きりなのは初めてではない。昔もこうやって真純の部屋に来て、勝手に真純の椅子に座り漫画を読んでいたこともあった。なのに、嫌な緊張感が流れ、俺はそわそわと目線を色んなところへ向けてしまう。
「……あのさ、俺……お前に言ってない事、あって」
先に口を開いたのは真純だった。心なしかその声が震えている。
「今更だろ。お前、最近まで地方いたんだし」
「……それ。その地方に行った理由、ちゃんと言ってないだろ」
心臓がドクンと脈を打つ。聞くのが一瞬怖くなった。
「いやいや、それはちゃんと聞いてるって。おばさんの具合が悪くなったからだろ?」
真純は一瞬黙り込み、首を横に振った。
「それだけじゃ、ない」
そして手に持っていたグラスの麦茶を一口飲むと、下を向き、震えた声で言った。
「……俺が、兄ちゃんを……死なせたから」
心臓がまた強く脈を打ち、喉のあたりが熱くなるのを感じた。
「……待て、死なせた……?いや、その前にお前今……兄って」
俺が困惑しているのも無理はないという顔で真純はゆっくり頷く。
「俺には、六つ上の兄がいたんだよ。恵大は、知らなかったかも……。父さんの連れ子で、なんていうかその……母さんが少し、敬遠しがちで。俺は兄ちゃんのこと好きだったけど、母さんがよく思わないってのは何となく察してたから、兄弟の話は外でしなかったんだ」
真純がいうには、兄の母親は他界し、その数年後に真純の母親と結婚したらしい。ただ、母親と出会った当初の兄は、聞き分けもよく、絵に描いたような良い子だったせいで、真純の母親とは上手くいっているようで、見えない壁があったという。
「それを埋めていたのは自分でいうのもなんだけど、俺で。父さんが兄ちゃんの名前と同じ文字を付けて名付けたところから、母さんの態度は変わったみたい」
少し頬を緩めそう話す真純に、俺は恐る恐る聞いた。
「……兄ちゃんの、名前って……」
もしかして、と言いかけた俺に被せ、真純が答えた。
「可純っていうんだ。七年前に、俺のせいで……死んだ」
共働きの両親にかわり、小学生の真純の面倒を見ていたのは兄の可純だった。小学校低学年のうちに生まれた弟を可愛がるのは当然だと思い、彼の中に小さな正義感もあったのだろう。嫌がることもなく、率先して弟の面倒を見ていたらしい。真純に物心がつく頃、可純の生活も変わっていった。小学校の高学年になると学校のクラブ活動でソフトテニスクラブに所属し、中学に入ればもっと部活中心の生活になった。ただ、その頃になると、真純には恵大という仲の良い友達もおり自宅以外で真純を気にすることは殆どなくなっていた。高校受験を控えた年は塾に通い始め、真純とはすれ違う生活も増えていた。だが、家で顔を合わせれば仲の良い兄弟で、勉強も分からないところは真純が分かるまで付き合ってくれるような優しい兄だった。だが、そんな日々は突然終わってしまった。
その日は可純の高校入学式の日だった。可純が進学したのは近くの進学校で、新入生代表挨拶に選ばれる成績の持ち主を兄に持ち、小学生ながら真純は兄を誇らしく思っていた。
「今日は入学式が終わったらすぐ下校だから、神社で待ち合わせしよう。今日のお昼は僕が作るから」
「うん、わかった!俺も真っ直ぐ帰ってくる」
真純は両親と駅へ向かって歩く兄の後ろ姿を見送った。
始業式と新しいクラス発表が終わると、真純は兄と待ち合わせしている芦沢神社へ急ぎ向かった。当時、学童に通っていた真純も中学年になったので学童を卒業し、その日は夕方から習い事に行くになっていた。帰宅途中、塾の宿題で分からないところがあったのを思い出した。昼食の後に兄に聞けばいいか、と考えながら通学路を歩いていた。
程なくして神社が近づくと、境内へと続く石階段に腰掛け、読書をしている男子学生が一人見えた。
「あ、兄ちゃん!」
兄の姿が見え、真純はその場から走り出した。学童を卒業し、初めての放課後。しかも兄がこれから昼食を作ってくれるという。始業式で校長の話を斜め聞きするぐらい、楽しみで仕方なかった。可純が真純に気が付き、本から顔を上げた。その場ですぐに立ち上がり真純へ何か伝えようと叫びながら石段を降りてくる。持っていた本はその勢いで放り投げられ、真純の意識はそちらへ向いた。兄の珍しい行動に、真純は自分の帰りを楽しみにしていたのだと、そう思いこんだ。そして、サッカーで鍛えた俊足で神社へと勢いよく駆け込んだ。
その時だった。
「待て、止まれ!真純っ!」
悲鳴にも近い兄の声がはっきりと聞こえた。止まれと言われても勢い余って止まることが出来ず、やっと兄が叫んでいる意味が分かった時は目の前が地獄と化していた。
止まる様子のない真純へ駆け寄った兄は、向かい側から真純を突き飛ばし、真純の死角から進行して来た自動車に跳ねられて数メール離れたところへ飛ばされていた。
真純が話し終えても俺はすぐに口を開くことが出来ず、殆ど放心状態だった。入って来た情報の処理がままならず、息をするのがやっとだ。
「……兄ちゃんは俺のせいで死んだんだ。そのショックが強くて、母さんと地方に引っ込んだんだ……」
真純が乾いた笑いを浮かべる。高校で再会してからもほとんど合わなかった視線は、この話をし始めてからもっと合わなくなった。
「……それで、恵大に話したいのはここからで」
ゴクリと唾を飲む。口の中が乾いているのが分かって、貰った麦茶を一口飲んだ。
「待てよ……本当に、今……可純って、え……じゃあ俺……どういうことだよ……」
俺は文字通り頭を抱えた。
「……何かの間違いだろ……?たまたまお前の兄ちゃんと偶然同じ名前の人物と俺が出会っただけで、真純の兄貴とは全く別の……」
そこまで言いかけて、俺は昨日可純の言葉を思い出す。
『大事な弟の名前、忘れる兄がどこにいるのさ?』
顔面から血の気がサーっと引いていくのを感じた。やっと目が合った真純は憐れむように俺を見て首を横に振った。
「実は……こっちに帰ってきて、ずっと兄ちゃんが俺の周りを彷徨いている」
「……は?」
「言っただろ、教室が苦手だって……。俺、入学式からずっと視えていたんだ」
真純の声が震え出す。手に持ってたグラスの麦茶が波打った。
「入学式の日に気がついたんだ。教室に入った途端の空気が気持ち悪くて、肩に何か重いものが急に乗っかってきたみたいな感じがして……。何だろうって思った時、視界には兄ちゃんそっくりの人がぼうっと立っていた。他人の空似かもって思ったけど、そうじゃなかった。兄ちゃんはずっと俺をじっと見ていた。だって、おかしいだろ?入学式で、しかも教室で知り合いに会ったらお前みたいに普通は声かけてくるもんだし……でも兄ちゃんはただ、教室の後方で俺をじっと見ているだけだった」
真純は額に手を当てた。おかしな話をしている自分を認めなくない様子が見えて、俺は黙って話の続きを聞いた。
「その日から、毎日毎日……教室が地獄だった。怖かった。やっぱり恨まれているんじゃないかって、ずっと考えてた。俺が人生を奪った原因だし……何より兄ちゃんは入学式以降、高校生活を送ったことがない。俺ばっかりが人生を進められていることに、不満があっても仕方ないだろ……?だから何かされる前に逃げたかった。でも、せっかく父さんがまた皆んなで暮らしたいって言ってくれて、母さんにも余裕が少しずつ見えてきた時だったから……俺の中に学校に行かない選択肢はなかった」
その話を聞いて、俺は納得した。毎時間、授業が終わると教室から逃げるように出ていくのは、そのせいだったのかと。芦沢神社を避ける理由も、やっと理解できた。
「……話してくれても良かったのに」
その一言に、真純は顔を上げた。
「話したとして、信じたか?」
「……それは」
本心で言ったつもりだったが、信じられたかと聞かれれば、絶対ノーだろう。地方で何かあって、そのショックでおかしくなったと思っても仕方ない。そもそも兄がいたことすら把握していなかったのだ。事情を聞いてもそれをすぐ信じることはできなかったと思う。
「……だから言わなかった」
「だよな……悪い」
真純は首を振る。
「でも、そうは言っていられなくなった。神社に寄り道を誘われた時、俺断っただろ……」
俺は黙って頷いた。あの後、一人で神社へ行き、可純と出会ったのだ。
「あの時、ちゃんと言えば良かったって後悔してる……。理由話して、恵大も遠回りさせて帰れば良かったって」
申し訳なさそうに、真純は言った。
「あの時も……神社の石階段から兄ちゃんが立っているのが視えていたんだ……」
あぁ、だから……。真純の不審な行動理由の意味が分かり、気になっていた靄がまた一つ晴れる。
「本当に……ごめん」
「いや、別に謝ることなんてないだろ……」
たぶん。そう、別に悪いことをしたようには思えない。確かに、真純には可純が視えていたかもしれないが、あの時言われたって全部飲み込めていないだろう。それでも、真純はやはり強く「そんなことない」と言った。
「あの次の日から、教室に現れる兄ちゃんは俺だけじゃなくて、恵大も見ていることが多くてなっていったんだ……」
段々と尻切れになる真純はそのまま項垂れる。俺は奥歯を噛み締めた。驚きと戸惑いで心臓が再びうるさく鳴り始める。ただ、今朝まで感じていたはずの恐怖心が段々と薄れている気がした。
「……可純が、俺を……」
口にすると心臓がドクンと高鳴った。不思議な感覚だった。そしてふと、思い立ち、俺は出された麦茶を一気に飲み干して椅子から立ち上がった。
「恵大……?」
「……話してくる」
「……え?待てよ、もしかして今の話聞いて神社に行くのか?」
真純が俺の手を掴んだ。
「駄目だ、絶対に駄目だっ!お前、俺を見てただろ……?体調だっておかしくなって、何も食べられないぐらいに咳が出て、立つことだってやっとになって……身体に影響が出たんだぞ?絶対駄目だ、然るべきところに相談した方が絶対に良いに決まってる!」
真純の掴む力が強く、俺の顔が歪む。
「そりゃ言ってることはわかるけど」
「なら!」
「でも、もうお前ピンピンしてんだろ。あんなに酷かった咳一つしてないじゃねぇか」
「それは……!」
一瞬、真純が怯み、腕の力が弱まった。その隙に真純の手を振り切ると、体幹まで弱った真純は簡単によろけてその場に倒れ込む。罰の悪そうなその表情に、まだ何かを隠していることを感じ、俺は眉を顰めた。
「……まだ、何か俺に黙ってることあるんだろ」
沈黙は肯定と同じだ。真純は視線を逸らしたまま、小さな声で「行かなきゃ良い……」と呟いた。
「何を隠してる」
「……行かなければ済むことだから」
頑なに何も言わない真純に腹が立った。
「お前さ、俺の身なんて別に案じてないだろ」
しゃがみ込んで、真純の顔を覗き込む。
「そんなこと!」
「なら言えって」
真純は泣きそうな顔で首を再び振った。埒が開かない。俺はむしゃくしゃして髪を掻きむしった。すると、俺の苛立ちに真純は根負けしたのか、奥歯を噛み締め、泣くのを堪えているような情けない顔で口を開いた。
「昨日の、晩だよ……兄ちゃんがこの部屋に来て言ったんだ。『大事な人ができたから、全部返す。その代わり、欲しい物はもらっていくね』って」
可純はそう告げると、部屋から消えて真純の原因不明の咳も発熱も全てぴたりと消えたと言った。
「だから、恵大は行っちゃ駄目なんだ……兄ちゃんの次のターゲットはもう、お前しかいないんだよ!」
俺は絶句したまま唇を噛み締めた。そして、わざとらしく大きく深い溜息を吐く。
「別に良いよ」
「……は?」
真純は目を丸くした。すると、立ち上がって話を聞いていたかと捲し立てるように大きな声で騒ぎ出した。
「聞いてたし、お前の気持ちも十分わかった」
「じゃあ、なんで!」
「可純も俺の友達だから」
真純は目を丸くする。幽霊を友達と言い切ったのはなんだか気恥ずかしいが、間違えたことは言っていない。
「だからまず、その友達の話を聞いてやることにした。お前にしたように」
「……聞いて、どうにかなったらどうすんだ」
「そん時は……。そうだなぁ、めちゃくちゃ有名なお祓い師探して来てよ」
「……ふざけんな」
真純は納得していないようだったが、それ以上俺を止めるようなことは言わなかった。
俺は真純の家を出ると、その足で芦沢神社へと向かった。太陽は少しだけ翳り、さっきまでの刺さるような暑さが緩和されているような気がした。



